第2章 第2話
文字数 1,870文字
旅行業。
今俺が属している業界だ。東京オリンピックを控え、今最も伸びている業界であると言われているらしい。
旅行、か。俺は一人溜め息をつく。
俺自身忙しすぎて旅行なんてこの何十年殆ど行ったことがない。行ってみたいとも格別思わない。そう、俺は出不精なのである。
休日には家で寝転んでいるのがデフォルトであり、連休なぞは日頃の激務の体力回復に充てていたものだった。今思うとそんな俺を里子も葵もよくぞ我慢してくれたものだ、心の中でオイオイと泣いてみる。
そもそも、何故人は旅行に行きたがるのだろう。そんな原点回帰な気分のまま社に戻り、ネットであれこれ検索してみる。
転籍して一年、初めてこの業界に、この会社に少し興味を持てた。
気がつくと終業時刻となっている。転籍して一年、これ程時間があっという間に経ったのは初めて。大きく伸びをし、何となく周囲を眺めると、何人かの視線を感じる。
会社を出て、駅にある旅行代理店をふと覗いてみる。カウンターは満席、予想外の客の多さに目を丸くしてしまう。
店外の旅行のパンフレットを手に取り眺めてみる。旅行好きでない俺でさえ、「あ、ここちょっと行ってみたいな」なんてつい思う程の出来である。
そんな俺の横を次々と客が店内に入って行くのを見て、正直驚いてしまう。何と大勢の人が旅行を求めているのだろうか、と。
ふと思ったことがある。普段旅行なんて行くこともないだろう我が地元の庶民層は、旅行にどんな想いがあるのか聞いてみたくなり、あの居酒屋に行く事にした。
健太に連絡をすると直ぐに返信が来る。よっぽど暇なんだな。
門前仲町の駅から地上への階段を上り、夕暮れ時の街をしばし眺める。大学生までずっと過ごしてきた地元なのだが、未だに地元感が湧いてこない。どちらかというと客人の気分だ。
あの居酒屋までの道すがら、今まで気にしたことのない店をのぞいてみる。こんな店があったのかー 昔はこんな感じの店なんてなかったぞ… 新発見の連続だった。それ程、俺にとってこの街は、これまでの人生でどうでもいい街だったのだ。
俺が生まれ育ったこの街。そして51歳の俺が残りの人生を恐らく過ごすであろうこの街。もう少し俺が心を開くべきなのだろうかー
そんな自問自答をしているうちに、あの居酒屋に到着する。
「珍しいじゃんよう、お前が俺誘うなんて。奢り?」
「それはないな、社長!」
「何だよーケチだな、専務!」
そう。銀行から押し付けられた俺は、この会社の専務取締役なのだ。
「で、健太さあ、お前旅行なんて行きたいと思うのか?」
乾杯もそこそこに、よく冷えたビールを一口飲んだ後、健太に尋ねる。
「うん。ウチのババアと普通に温泉とかな」
何と… こんな健太でさえ、まるで日常生活を語るように、旅行を口にするとは。
「…… そう、なのか… シロ… 忍ちゃんは?」
忍は一瞬俺を睨みつけ、
「っち。あー、まーフツーに姐さんと温泉とか行ってますよねー、あと彼氏とも」
俺は思わず口に含んだビールを吹き出してしまった。
なん、だと……
アルプスの白豚が温泉に浸かるシーンよりも、彼女に彼氏がいたことの衝撃が凄かった。
「へ、へー。て言うか皆、温泉なの? 他には?」
「まあ若い頃はあれこれ色々行ったけど、今はやっぱ温泉っすかねー。旨いもん食いながら。旨い酒飲んで。あーー姐さん、今度いつ行きますー?」
「何だよキング。いきなり旅行話って?」
クイーンがお通しの佃煮を小皿に入れて、俺たちにポイッと渡す。
「今の会社がさ、旅行代理店だって言ったよな。これまでさ、ぼーっと一年過ごしてきたから、これからは少しは真面目に仕事に取り組まないと、ってな。それで、お前ら庶民が旅行にどんなイメージ持ってるか知りたくてな」
するとクイーンは目をキラキラさせて、
「おいおい! タダ飯! タダ風呂! いーじゃんいーじゃん! やっぱ持つべきは中学の友だねえ」
「おっ いいっすねー。頼みますよ、キングさんー アタシと姐さんに高級旅館、送迎付き、飲み放題付き、ポッキリ九八〇〇円!」
「俺も俺も! 頼むよー専務―、俺、白骨温泉がいいなあー」
「あそこいーよなー。でもあたしゃ一度登別温泉って行ってみてーわー」
「いいっすねー。東北、冬の頃行ってみたいっすねー」
北海道な。
「ま、おいしい話あったらアタシらに溢さず持ってこいやー 佃煮おかわりすっか?」
しねーよ。
それにしても、全くもって意外だった。毎日毎日をカツカツで過ごしているこんな奴らですら、こよなく旅行を、特に温泉を楽しんでいるとは。
今俺が属している業界だ。東京オリンピックを控え、今最も伸びている業界であると言われているらしい。
旅行、か。俺は一人溜め息をつく。
俺自身忙しすぎて旅行なんてこの何十年殆ど行ったことがない。行ってみたいとも格別思わない。そう、俺は出不精なのである。
休日には家で寝転んでいるのがデフォルトであり、連休なぞは日頃の激務の体力回復に充てていたものだった。今思うとそんな俺を里子も葵もよくぞ我慢してくれたものだ、心の中でオイオイと泣いてみる。
そもそも、何故人は旅行に行きたがるのだろう。そんな原点回帰な気分のまま社に戻り、ネットであれこれ検索してみる。
転籍して一年、初めてこの業界に、この会社に少し興味を持てた。
気がつくと終業時刻となっている。転籍して一年、これ程時間があっという間に経ったのは初めて。大きく伸びをし、何となく周囲を眺めると、何人かの視線を感じる。
会社を出て、駅にある旅行代理店をふと覗いてみる。カウンターは満席、予想外の客の多さに目を丸くしてしまう。
店外の旅行のパンフレットを手に取り眺めてみる。旅行好きでない俺でさえ、「あ、ここちょっと行ってみたいな」なんてつい思う程の出来である。
そんな俺の横を次々と客が店内に入って行くのを見て、正直驚いてしまう。何と大勢の人が旅行を求めているのだろうか、と。
ふと思ったことがある。普段旅行なんて行くこともないだろう我が地元の庶民層は、旅行にどんな想いがあるのか聞いてみたくなり、あの居酒屋に行く事にした。
健太に連絡をすると直ぐに返信が来る。よっぽど暇なんだな。
門前仲町の駅から地上への階段を上り、夕暮れ時の街をしばし眺める。大学生までずっと過ごしてきた地元なのだが、未だに地元感が湧いてこない。どちらかというと客人の気分だ。
あの居酒屋までの道すがら、今まで気にしたことのない店をのぞいてみる。こんな店があったのかー 昔はこんな感じの店なんてなかったぞ… 新発見の連続だった。それ程、俺にとってこの街は、これまでの人生でどうでもいい街だったのだ。
俺が生まれ育ったこの街。そして51歳の俺が残りの人生を恐らく過ごすであろうこの街。もう少し俺が心を開くべきなのだろうかー
そんな自問自答をしているうちに、あの居酒屋に到着する。
「珍しいじゃんよう、お前が俺誘うなんて。奢り?」
「それはないな、社長!」
「何だよーケチだな、専務!」
そう。銀行から押し付けられた俺は、この会社の専務取締役なのだ。
「で、健太さあ、お前旅行なんて行きたいと思うのか?」
乾杯もそこそこに、よく冷えたビールを一口飲んだ後、健太に尋ねる。
「うん。ウチのババアと普通に温泉とかな」
何と… こんな健太でさえ、まるで日常生活を語るように、旅行を口にするとは。
「…… そう、なのか… シロ… 忍ちゃんは?」
忍は一瞬俺を睨みつけ、
「っち。あー、まーフツーに姐さんと温泉とか行ってますよねー、あと彼氏とも」
俺は思わず口に含んだビールを吹き出してしまった。
なん、だと……
アルプスの白豚が温泉に浸かるシーンよりも、彼女に彼氏がいたことの衝撃が凄かった。
「へ、へー。て言うか皆、温泉なの? 他には?」
「まあ若い頃はあれこれ色々行ったけど、今はやっぱ温泉っすかねー。旨いもん食いながら。旨い酒飲んで。あーー姐さん、今度いつ行きますー?」
「何だよキング。いきなり旅行話って?」
クイーンがお通しの佃煮を小皿に入れて、俺たちにポイッと渡す。
「今の会社がさ、旅行代理店だって言ったよな。これまでさ、ぼーっと一年過ごしてきたから、これからは少しは真面目に仕事に取り組まないと、ってな。それで、お前ら庶民が旅行にどんなイメージ持ってるか知りたくてな」
するとクイーンは目をキラキラさせて、
「おいおい! タダ飯! タダ風呂! いーじゃんいーじゃん! やっぱ持つべきは中学の友だねえ」
「おっ いいっすねー。頼みますよ、キングさんー アタシと姐さんに高級旅館、送迎付き、飲み放題付き、ポッキリ九八〇〇円!」
「俺も俺も! 頼むよー専務―、俺、白骨温泉がいいなあー」
「あそこいーよなー。でもあたしゃ一度登別温泉って行ってみてーわー」
「いいっすねー。東北、冬の頃行ってみたいっすねー」
北海道な。
「ま、おいしい話あったらアタシらに溢さず持ってこいやー 佃煮おかわりすっか?」
しねーよ。
それにしても、全くもって意外だった。毎日毎日をカツカツで過ごしているこんな奴らですら、こよなく旅行を、特に温泉を楽しんでいるとは。