第34話 シーボルトと涙の再会

文字数 2,648文字

 シーボルトが再来日する情報は瓦版により、市中にもすぐに広まった。

前夜、滝が慶賀に会いに来た。もちろん、いねも一緒だ。

「慶賀おじさん、お久しぶりです」

 いねは1度、岡山で所帯を持ったが、いろいろあって離縁した。

今では、長崎市内の診療所に住み込みで働いている。

「いねちゃん。べっぴんさんになって。

おじさんが最後に会ったのは、小さいころだから、

今、町ですれ違っても気がつかないな」

 慶賀が目を細めると言った。

「廬谷さんは、お元気ですか? 」

 いねが訊ねた。

「元気だよ。今では、所帯を持ってこどももいる。

いねちゃんは、離縁したと聞いたけど、こどもはいるのかい? 」

 慶賀が穏やかに言った。

「娘がいます。なれど、今は、前の旦那様の家に預けています」

 いねが決まり悪そうに言った。

 気まずい雰囲気が流れる中、

お安がタイミング良く、お茶と茶菓子を運んで来た。

慶賀の好きな月餅だ。

若いころは、カステラのような洋菓子を好んで食べていたが、

年を取ってからは、唐菓子や和菓子がお茶の友だ。

「慶賀さん、シーボルト様の話だけど‥‥ 」

 滝が、お茶を一口飲むと話を切り出した。

「決心は着いたかい? 」

 慶賀がそう言うとお茶をすすった。

「歓迎パーティの前に、シーボルト様と会えないかしら? 

気兼ねなく、会って話がしたいの」

 滝が身を乗り出すと言った。

「お母さん」

 いねが、滝の洋服を引っ張った。

「いねは赤子の時に別れたから覚えてないと思うけど、

あんたの父様は、立派なお医者様で、

日本研究をなさるために長崎の出島に住んでいたの」

 滝が、いねにシーボルトのことを伝えた。
 
「お母さんが、お父さんの話をするのはたぶん、初めてよね? 

聞いても教えてくれなかったもの」

 いねが涙ぐんだ。

慶賀も思わず涙腺がゆるんだ。

「わかった。おじさんが何とかしてやる。

明日、商館長に会って来るからさ」

 慶賀が、いねに言った。

「よろしくお願いします」

 滝といねが揃って頭を下げた。

「お安い御用だ」

 慶賀が胸をたたくと言った。

 実は、すでに、慶賀は、

商館長のドンケルとの面会を済ませて、

滝といねが、シーボルトに面会出来るよう頼んでいたのだった。

シーボルト本人の希望もあり、

滝といね親子は、特別待遇で迎えられる事になった。

 歓迎パーティは、旧荒木邸で開かれた。

荒木如元亡き後、その屋敷は、長崎市の公共の場に利用されている。

1階の広間は、大変広くて天井も高い。

奉行所の要人や出島の関係者、シーボルトに縁のある医者、

学者・シーボルトのかつての門人たちが、

シーボルトの再来日の知らせを聞いて駆けつけた。

 滝といね親子は、慶賀に付き添われて、旧荒木邸の一室に入った。

シーボルトがあとからおくれて部屋を訪れた。

滝といね親子は、シーボルトと会った途端、感動のあまり号泣した。

シーボルトは、2人を抱きしめるとオランダ語で何か告げた。

「あなたが、我が娘のいねですか? 」

 シーボルトが、いねの顔をのぞき込むと訊ねた。

「さようです。父様」

 いねが答えた。

 シーボルトは、いねの手を取ると言葉を詰まらせた。

シーボルトの大きな青い瞳には、大粒の涙があふれた。

「あなた。滝もいますよ」

 滝が、シーボルトに近づいた。

「滝? 滝なのか!? 」
 
 シーボルトは興奮しながら、滝の名をさけんだ。

「シーボルト。あまり時間がない! 」

 慶賀は、オランダ政府から時間を決められていたため、

ひとりであせっていた。

「慶賀か。相変わらず、せっかちだな」

 シーボルトが苦笑いして言った。

「違う。オレのせいじゃない。

おまえさんが、有名人過ぎるからだろ」

 慶賀がいたずらっぽく言った。

 2人は、若いころに返り憎まれ口をたたき合った。

「シーボルト様。喜んでくだされ。いねは、あなたと同じ医師になりました。

結婚もして、こどもが1人おります」

 滝がありったけの笑顔で告げた。

「さようか。我が娘も、同じ医師の道に進んだか‥‥ 」

 シーボルトはそう言うと、鞄の中を探った。

そして、革の小物を取り出した。

「いね。これをあげるよ。

私が、若いころに使っていた医療道具だ。おまえにあげるよ」

 シーボルトが、革の小物をいねに手渡すと言った。

いねは、シーボルトから革の小物を受け取ると中を開いた。

中には、ピンセットやメスが入っていた。

使い込まれているが、手入れしてあるのでまだ十分使える。

「ありがとうございます」
 
 いねがお礼を告げると、驚くことに、シーボルトの頬に接吻した。

シーボルトも、いねの頬に接吻で答えた。

「時間だ! 」

 町年寄がつかつかと、部屋に入って来た。

ドアの向こうでは、次の面会者が、今か今かと待ちわびている。

慶賀は、滝親子に時間になったと知らせた。

滝は悲しい顔で、慶賀を見返した。

一方、いねは、シーボルトの手を握ったまま

別れがたそうに立っている。

シーボルトも、いねの手をしっかり握っていた。

慶賀は、今、この3人を引き離すのは出来そうにないと思った。

「シーボルト! 」

 町年寄が、シーボルトに交代を促した。

 滝は、いねの手をシーボルトから離すと、

いねのからだを抱えるようにして部屋を出て行った。

シーボルトは、2人を無言で見送ると、次の面会を待って欲しいと訴えた。

「すぐに、済むからさ」

 慶賀は、町年寄を強引に外に押し出すとドアを閉めた。

「慶賀。ありがとう。

このまま、次の客に会ったら、醜態を見せそうだった」

 シーボルトがその場にあった椅子に倒れ込むと言った。

「無理もないさ。長い間、離れ離れだった

妻子との再会の後なんだから‥‥ 」

 慶賀がため息交じりに告げた。

「慶賀。おまえもだいぶ、年を取ったなあ」
 
 シーボルトが、慶賀に微笑みかけると言った。

「お互い様だろ」

 慶賀が微笑み返すと言った。

 ドアの向こうで、町年寄の怒鳴り声が聞こえたため、

慶賀は渋々ドアを開けた。

「慶賀! 」

 慶賀が部屋から出ようとした時、シーボルトが呼び止めた。

慶賀がふり返ると、シーボルトがポケットから、

昔、慶賀が、シーボルトに贈った滝といねの顔を描いた

煙草入れを取り出して、慶賀に見せた。

慶賀は黙ってうなづいてみせると、静かに、ドアを閉めた。

ドアが閉まる間際、肩を落とすシーボルトの姿が見えた。

慶賀と入れ替わりに、次の面会者が部屋に通された。

慶賀は、どうにも離れがたくて、ドアの前に立ち尽くした。

「お父さん! 面会は終わりましたか? 」

 廬谷が、慶賀を呼びに来た。

「ああ。行こう」

 慶賀は、廬谷と共に皆が待つ会場に向かった。

THE END


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