第1話 『私』のはじまり

文字数 3,723文字

3歳になったばかりの頃のエピソード。洋裁教室に出かけた母の元へ、一人で辿り着こうと奮闘した。約2㎞の道のり、それまで何度か母と通った道だったから、不安など感じていなかった。その日は、姉と隣に住んでいた従弟と留守番をしていた。子供同士のいつものけんかがはじまり、仲間外れになった私は、母に会いに行こうと決め家を出た。お気に入りの長靴をはき、記憶の糸をたどりながら、黙々と歩いた。目的地まで後わずかというところで、パトロール中の警官の目に留まり、パトカーで家へ送り届けられ、小さな冒険は失敗に終わった。

 私は第二次ベビーブーム世代。幼稚園へ入るには、当たれば2年、外れれば1年通えるというシステムだったらしい。残念ながら1年しか通えなかったうえ、3学期のほとんどを病欠したのもあり、私にとっての幼稚園生活はごくわずかだった。それでも自分の力を思う存分発揮できたという達成感が大人になっても残っているほど、毎日が充実していた。いわゆる、『褒められて育つ』タイプの私は、字を書いたり、絵を描いたりして先生から評価されることで満足感いっぱいだった。母は専業主婦だったけど、本を読んでくれたり、絵を書いてくれたりという感じのタイプではなかったので、幼稚園は私にとって、本当に楽しい場所だった。なにより、その後の人生に比べ『普通の家庭の女の子』でいられた、ごくあたりまえの幸せがあった。

 父は40歳までに家を持ちたいと願っていたそうで、実際私が幼稚園に通いだす少し前、私達家族は新しい家に移り住んだ。今となっては築40年で、増改築を何度となくしているので多少雰囲気は変わっているものの、父が私たちに残してくれた大事な家。その念願だった新居にて、父が息子同然に可愛がっていた秋田犬の為に庭の敷地いっぱい檻を作り、仕事から帰るとそれは愛情をこめてあれこれと世話をしていたのをよく覚えている。ある時期、父が仕事の研修で3か月広島で生活をしなければならなくなり、苦渋の選択で、その犬を手放すことになった。その別れの日、餌をやる事だけを担当していた母も、まだ小さかった私も姉もとても暗い一日を過ごした記憶がある。その後しばらくして、私達家族は想像もできない別れに直面することになる。

 3歳違いの姉は、どの家庭でもあるように、長女として両親の注目や期待は大きかった。
子煩悩でありながらも、しつけにはとても厳しかった父に、姉妹を代表してよく叱られていた姉。私は要領の良い妹で、父の怒った顔や声の記憶がほとんどないほど。何十年たって初めて父への思いを姉と話した時、姉の事を少し羨ましく思った。悲しい思いをひどく怒られた記憶が幾分打ち消してくれたようだった。その反対に,私は年々父への思いを募らせてきた。

 小学校に入学してまもなく、私の7歳の誕生日の翌日に、父は交通事故でこの世を去った。
父もその数日前に40歳になったばかりという若さだった。郵便職員だった父。配達の勤務中、交差点で4トントラックに運転していたバイクごと巻き込まれ即死だった。事故当日、学校から帰り近所の公園で遊んでいた私の元に、すぐ隣に住んでいた友達が走って迎えに来た。父が亡くなったという事実をそこで知ったかどうか覚えていない。ただ母親がすぐに家に帰ってくるように言っていると伝えてくれた。急いで家に帰るとすでに母の姿はなく、私と姉は隣の家の奥さんに連れられて父の遺体が収容されていた警察に向かった。私達はすでに白い着物をまとって棺に眠っていた父と対面した。母が棺桶にしがみついて泣いている姿をみて、起こった事実をやっと理解した。とたんに私の目からも大量の涙があふれてきた。まだ小さかった私にとって、父が死んだという事実より、今までみた事のない絶望しきった母を見た事の方が、悲しくショックだった。

 父の念願だった新居は2年と少しで葬儀の会場となり、32歳だった母は何の前触れもなく突然未亡人になった。葬式は親戚や知人はもとより、父の同僚、郵政関係者の弔問で、家は沢山の人で溢れかえった。母と姉と3人で弔問者に挨拶しながら涙が止まることはなかった。そんな私達を残して逝かなければならなかった父の無念さは計り知れない。

 しばらくして再び登校し始めたものの、何か言いようのない違和感を感じていた。まだ入学したてで、クラスの仲間の顔と名前も一致してない状態でしばらく学校に行けず、そんな状況でみんなの輪に入れず、何か取り残されたような気分でいっぱいだった。それでも授業の遅れは取り戻そうと自分なりに頑張っていた。残念な事に、それから再び長期で学校を休まざるをえなかった。高熱が続き入院をすることになったから。急に押し付けられた「父の死」という現実を受け止めるのに、まだ幼かった私は大きなストレスを感じていたと思う。何日も点滴をする日が続き、それでも微熱が治まらず念のためにということで、骨髄検査をされた時は、我慢強かった私もあまりの痛みに泣いた。
 私が回復した後は、母が倒れた。母は小さい頃から鼻血をよく出していたけれど、倒れた時の出血量は生死をさまようほどで、大量の輸血が必要だった。母にとっても全てが予期せぬ事で、葬儀やその後の手続き等で慌ただしかった上、私の入院も重なり心身共に疲労困憊だったと思う。母が入院してしまうと、私と姉は母方の叔母や祖父母の所に預けられた。その時期の事を思いだすと、今でもなんともいえない嫌悪感を覚える。子供二人の面倒を引き受ける事は、たとえ身内といってもそう簡単な事ではないはず。ただ、幼い私達にも日が経つにつれ、歓迎されていないというのは理解できた。大きな紙袋にお互いの名前を書き、必要なものを詰め込み姉と二人でどちらかの家に出発するとき、何とも言い難い惨めな気持ちになった。父が亡くなった後、憂鬱な精神状態だった上、身近な人から慰めてもらったのではなく、肩身の狭い思いで面倒をみてもらったという記憶しかない。その一方で、その当時独身だった叔母、母の妹は、二つの仕事を掛け持ちしていながらも、私達に寄り添ってくれていた。母の退院後は特に、空いた時間があると顔を見せに来てくれていた。料理上手で車の運転ができる叔母。私は叔母が来てくれる日がとても待ち遠しかった。

 母が快復して、実質的な3人での生活がスタートした。まだ幼かった私達を育てる為父親の役割りもと奮闘し、再婚もせず私の知る限りでは親しい付き合いのあった男性もおらず、ある意味一人の女性という事に封印をしたような母の半生。その潔癖さに心から感謝しつつも、母性を感じることも少なかった。父親がいないという生活から、各々自我が増していき、家族3人で寄り添ってという感じではなかった。姉は中学生になると母に対しての嫌悪感が増していったように見えた。祖母はとても穏やかな性格で優しい人だった。祖父も根は真面目で懐の大きい人ではあったけど、母と同様、繊細さに欠ける部分があった。その上、小さい孫達を思いやる気持ちより、夫を亡くした娘である母親へのいたわりが強かったように感じていた。母は良い意味でも悪い意味でも、かかえこまない、かかえこめないタイプで、何かあるとすぐに両親に助けを求めていた。私にはそうして心から泣きついていける存在はいなかった。

 学校生活では父親がいないという事で、ずっと劣等感を持っていた。
今では離婚も珍しくない時代になったけれど、あの当時片親しかいないという同級生はまれだった。私達家族には、父の死と引き換えに特別遺族年金が受給されるようになり、母が働かずとも親子三人で十分生活できる環境を与えられた。経済的には恵まれていた一方、いわゆる『普通の家庭』ではないという思いに苦しむことに。その上、同級生達との家族にまつわる会話、学校で父親参加の行事、他と同じように参加できない自分をみじめに感じていた。私が通った小学校、中学校共に当時は、学年が変わる度、生徒ごと両親の名前と職業も載せられた名簿が配られた。私の欄には母親の名前だけ。父親不在、母親も無職。毎年教室で学級担任がその名簿を配り始めると、周りの反応が気になった。父が亡くなった事を知っている子も、母親が無職という状況は理解し難い事だったはず。その疑問が視線を通して伝わり、私はそれを感じるたび意味のない恥ずかしさでいっぱいだった。たとえ『年金が・・・・』と説明したとして、把握できる子がいただろうか? 実際のところ、私も全てが理解できていたわけではないから。

 小学校3年のある日のこと。入学からずっとクラスが一緒だった男子が、教室全体にいきわたるように、私が父親のいない子だという事をからかいまじりに叫んだ。とっさの事に驚き、どれだけその場から逃げたかったか・・・。負けず嫌いで気の強かった私も、その事に触れられると何も言い返すことができなかった。その理解不能な彼の言動にだけでなく、私に向けられたクラス全員からの冷ややかな目線に愕然とした。そんな事が起こりながらも、表面上は『普通の子供』を装ってはいたけれど、周りと波長があっていない自覚があった。

 
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