第2話 好きな世界を知る

文字数 2,778文字

そんな殺伐とした精神を持ちながらも、10歳で始めた茶道のお稽古は、私にとって癒しの空間そのものだった。それよりも前から習い始めていた書道やエレクトーンも、真面目に取り組んではいたけれど、茶道を習う事だけは自分の意志だっただけに、とても意欲的だった。父方の叔母の一人が自宅で茶道教室をしていて、小さい頃から何度かお抹茶というものに触れる機会があったことから、自然に好奇心が生まれた。父が亡くなってからも、母は父方の親戚と縁を切ることなく付き合いを続けていた。何度かどこの親戚関係にもある様な、ちょっとした不和が生じた時期もあったけれど、なんだかんだ丸く収まって父の4人の姉妹とはつかず離れずの関係を保っていた。そのお茶を教えていた叔母は遠方に住んでいた為、その一つ下の叔母から親しくしていたある先生を紹介してもらった。『せめて3か月は辞めずに行きなさいよ。』と始めは半信半疑だった母の心配をよそに、高校入試に差し掛かる手前までの約6年間、休まず通い続けた。まだ幼かった私に貴重なお道具や重たい陶器を扱わせるのに初めは不安だったと、だいぶたって先生から聞いた。とはいえ、私の熱心さをすぐに理解してくれ、他の大人の生徒と分け隔てなく、沢山の知識を伝授して下さった。お茶の先生というと、高い着物を着て、気取ったタイプのご婦人というイメージを今でも持っているけど、幸運にも、私は全く別のタイプの先生に恵まれた。お点前だけでなく、掛け軸、焼き物、季節の花、先生が教えてくださる一つ一つをノートにメモをしていた。亭主としてのお点前、客人としての作法。まだ幼かった私は、沢山の手順をその情熱をもって、軽やかに覚えることができていた。先生の指導に従順にお点前をしていた私を、とても誇らしげに見てくれていた。母も初めの内は付き添いで送り迎えもしてくれていたけど、他の習い事もそうだった様に、後々一人でバスで通っていた。母には全く興味の無い世界で3、4時間に渡るお稽古に付き合う義務はなかっただろう。それでもたまに付き添ってくれた時は、先生の誘いで私のお点前の見学していた。学校生活で悶々とすることがあっても、すでに自分の世界を持てていた事は、あの当時のとても大きな支えだった。『好きこそ物の上手なれ』一緒にお稽古に通っていた大人の仲間が私の熱意をこう表現してくれていた。

 十分な生活とはいえ、私達が成長する段階で出費は増え、年金生活ゆえ臨時収入などないわけで。母は愛情のある言葉をかけてくれるタイプでは全く無かったけど、習い事や塾通いなでは、本人の意向を重視してくれていた。父が亡くなってからは車がない生活だった為、不便な事も沢山あったけど、新幹線や飛行機は早々に経験した。本来旅が好きで、行動派な母は、年に一度は必ず旅行のプランを立てていた。大都市の大きなホテルに泊まったり、子供には少し敷居の高いレストランに行ったり。母にとっても、何日間か別の場所に身を置くことで、なにかしら気晴らしになっていたのだろう。そんな母に対して、学校生活で嫌な思いをすることがあっても、打ち明けることはしなかった。母はその対象ではないと、幼いながら感じていたからだと思う。4歳の時、親戚からプレゼントしてもらった犬のぬいぐるみ、父が亡くなる前からすでに特別な存在で、その当時の複雑な心境をぶつけられる唯一の対象になっていた。精神的に頼れる存在が無かった私は、そのせいか長年沢山のぬいぐるみに囲まれて生きてきた。癒されながら、抱えていた悩みに自問自答していたのだと思う。逆に母がもし、愛情に溢れた内面を持ち合わせていたら、私は違う生き方をしていたかもしれない。父が亡くなってから、周りの助けもあったおかげとは思うけれど、母は決して内にこもるタイプではなかった。もともと洋裁が好きだったことから、パッチワークの講座に通い始めてから、付き合いの幅が広がったようだった。その仲間たちと出かけたり、家に呼んだりと、夫がいないことを僻むのではなく、その自分に与えられた自由な環境を楽しんでさえいたと思う。旅行以外でも、週末には、私達を連れよくデパートに出かけ、外食することも多かった。姉が大阪の看護学校に入学し母と二人暮らしになってからは、よく二人で福岡に足をのばした。母が趣味のパッチワークに必要な材料を買う為だったけど、用事を済ませた後は、当時流行っていたカフェやレストランに行ったりした。福岡には、すでにヨーロッパスタイルの洒落た店が増え始めていた。私が料理をすることにずっと情熱を持ち続けているのも、こうした流れで、長い間母と食べ歩きをする機会に恵まれた事も関係していると思う。欧米式の食事にも早いうちから興味をもった。母は料理することに関しては全く意欲的ではなかったので、私が料理し始めたのはまだ小学生低学年だった。食器棚で陽の目をみなかったお皿に、見様見真似で作ったものを盛り付けて楽しんでもいた。

 「美和ちゃん、大きくなったらこの上にある高校にいくんよ。」と、車でそばを通る時、幼稚園生だった私の耳元で囁いていた父。それは、父が私達姉妹を是非とも入学させたいと望んでいた進学校だった。そう優しい眼差しで幾度となく父に言われる度、父から期待されていることに優越感さえ感じていた。 その一方で「父親がおらんのやけ、勉強していい大学に入らんと、まともに就職できんよ。」と日常的だった母の言葉。それは、父が言っていた高校に入学し、さらにレベルの高い大学に行かないと、母子家庭で育った私達の将来なんて無いに等しいといわんばかりだった。その母の言葉に苛立ちを感じながらも熱心に受験勉強に励んだのは、せめてその父の願いに答えたいという気持ちが大きかったから。そして無事その高校に合格できて嬉しかったものの、これと言って心に残る思い出もないような学生生活だった。大学に進学するにしても、具体的な目標もなかった私は就職する道をえらんだ。冬休みに郵便局の小包の受け渡し窓口でアルバイトをした事も、その選択をする要因だった。割とすぐに与えらてた仕事を覚える事ができ、たとえ些細でも達成感を得られた。また、どちらかというと大人と接することのほうが、自分に向いているんだと自覚する機会でもあった。進学校だったゆえ、就職希望者はごくわずで、担任の先生の勧めで地元銀行の試験を受けた。1992年、私が入行してから、日本はバブル景気崩壊のあおりを受けて不景気が続き、就職氷河期を迎えた。母が目論んでいたような大学に入った同級生達はそのかいもなく、大学卒業後は希望通りの就職ができない状況だった。そうした状況を知りつつすでに社会人としての充実していた私は、その時はじめて、それまで抱えていた劣等感から解放されたような気がした。
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