第6話     私の未来を決めた出会い

文字数 3,192文字

 翌年2009年、姉が男の子を出産した。
その年、母の勧めてきた見合いをしようと思ったのも、家族が増えて幸せそうな姉家族を身近に感じたせいもあった。十分好きな事もしたし、流れでどうにかなればいいと思っていた。自分がその気になりかけた時、二人目の見合いの相手からすっぱり断られた。見合いは建前としてしたけど、それ以前から働いていた事務センターにシステムエンジニアとして出入りしていた男性に一目ぼれしていた。彼の住まいは大阪である事は知っていたし、外見が気に入っていただけで、ただ遠くから眺めているだけで十分だった。ちょうど縁談がだめになった時期に、その男性が携わっていた仕事の区切りがつき、大阪に引き上げるらしいと知った。仲の良かった同僚が背中を押してくれ、彼に連絡先を手渡すことができた。その後、めでたくメッセージのやりとりが始まり、もう何年も忘れていた 『恋愛感情』というものに浸ることができた。一度だけ久々に下関に戻る機会があるという事で彼の同僚、私の同僚と少人数で食事会をした。その時は有頂天だったけど、その後もメッセー交換のみのやりとりで、それ以上の進展はなかった。物腰の優しい関西弁で、仕事をしている姿も凛々しく感じていた。ただ脈がないなと感じだしてからは、割とすぐに気持ちが覚めていった。数か月、彼に気の利いたメッセージをと書いたり消したり、無駄に時間を費やしたようにも思えた。そんなイライラした気持ちを払拭するため、何か集中できることが必要だなと考えた時、『イタリア』以外思い浮かぶものはなかった。2010年が始まって少したった頃だった。

 それでは次の3級の試験に挑もう!
ただ検定3級の試験の準備をし始めた時、一緒に勉強できる相手がいたらいいなあと漠然と思った。ヴェネツィア旅行で、想像以上にイタリア人と会話できたことで、一歩前に踏み出す勇気を得たと思う。その上、3級の試験では、イタリア語で作文を書く必要もあったし、それまでの勉強の仕方だけでは十分ではないことは承知していた。英語の家庭教師をしていた同僚が、自分の書いた文章をその言語を母国語とする人が添削してくれるという、とても興味深いサイトを教えてくれた。投稿し始めてしばらくたった頃、いつも私が書いたイタリア語の作文に、とても丁寧に添削してくれていたイタリア人にSkypeでの会話を申し込んだ。私のアプローチを快諾してくれ、すぐにSkypeでのやりとりが始まった。彼はイタリアの高校で非常勤の体育教師として働きながら日本語を勉強していた。イタリア語の文法について、とてもわかりやすく説明してくれ、勉強以外にもよくお互いの生活環境についても話をした。臨時講師の身であったので割と自由な時間のある人で、日本とイタリアの時差がありながらも、3、4か月途切れることなく一緒に勉強できた。彼の生活環境が変わり連絡が途切れてから、さらに思いついたのは、イタリア人のペンフレンドを持つこと。

 ある日、ドイツ人、フランス人、スペイン人、イタリア人・・・英語圏以外の日本が好きな外国人とやりとりができるというサイトを見つけ、早速イタリア人向けのページに自己紹介の文章を書いた。先の体育教師の男性のように日本語を勉強中で、できれば年齢の近い人が希望だった。すぐに10人近くのイタリア人からメールを受け取った。後に夫となるフィレンツエに住んでいたダリオも、その中の一人だった。ダリオから最初のメッセージを受け取ったとき、ローマの旅で出会ったウエイターの『ダリオ』と同じ名前だと懐かしく思った。とりあえず全員に返事を書いたと記憶しているけど、それっきり返事がなかった人、明らかに好みや趣味がかけ離れている人とはそこで終了。結局、ダリオを含め3人と同時進行でメールのやりとりを始めた。ローマのミケーレは、すでに10回も日本を訪れたといっていた。日本の習慣、公共サービスの良さを熟知していて、又日本人女性と交際していた経験から、日本人の思考も割と理解していた。ヴェネツィアのヤコポは、日本に興味があるという感じではなく、日本人女性と付き合ってみたいというのが見え見えだった。頼んでもないのに、自身の写真を送ってきたり、長年付き合っていた彼女と別れたばかりだともアピールしていた。嫌気がさしながらもメールのやりとりを続けていたのは、わかりやすい言葉の表現が気に入っていたからだと思う。日本人でも人それぞれ使う言葉や表現が違う様に、彼らのメールを読解することで沢山の言葉の習得につながった。そしてなにより、イタリア人とつながりを持つことは、イタリア語を独学する上での励みとなっていた。

 当初ダリオは、理想の文通相手ではないと思っていた。年齢は11歳上、日本へはまだ行ったことがなく日本語の勉強をしているという感じでもなかった。その上、仕事や趣味からも共通点を見いだせなかった。それでも何度かメールのやりとりをした後、当時の未熟な読解力でもダリオの書くイタリア語の文章は正確で丁寧だということを感じ取った。なおかつ他の2名とは違い、定期的に返事を書いてくれていた事、思いやりのある言葉で始まり終わる彼の文章から、誠実さが伝わっていた。気が付けば、お互いの趣味や思考を語り合う少し長いメールを交わすようになっていた。文法も間違いだらけ、表現不足な文章にもかかわらず、ダリオの返事から、私が言いたかった事がとてもよく理解されているのが見受けられた。私のイタリア語のレベルに合わせて、なるべく難しい言葉を使わないようにメールを書いてくれていたけど、それでも読解するには辞書は必須だった。返事を書くにも、まずは日本語で文章を考え、イタリア語で書いていくことも、伝えたい内容に伝えたい想いが増してくると、かなり骨の折れる作業になった。幼い頃から、日本の映画やオーデイオへの関心が高かったダリオは、日本へ旅行しようと考えはじめた時、ガイドブックからは知り得ない様な習慣や文化について共有できたらと、それに相応しい日本人を探していた。それについて、ダリオの誠意ある質問に答えることを、私はとても光栄に感じていた。

 メールのやり取りをはじめてからおよそ2か月経った頃、週末の出来事として父の墓参りについて書いた。「父が亡くなってもう30年近く、年に何回か母とお参りをします」、付け加えて「行く道中大雨だったけど、墓に着くとすっかり雨が止んで、いつもの様に父が歓迎してくれているようでした。」と。
その時まで、お互いの家族構成など何も知らなかった。何の意図もなく、何十年と私の習慣の一部となっていた墓参りについて書いたこの何行かの文章に対して、ダリオが書いてくれたメールの返事を読みながら涙がこぼれた。 今思えば、私達の物語はここから始まったのだと思う。

……e tu eri ancora una bambina

直訳すれば『まだ君は幼い子供だっただよね・・・。』特にこのシンプルな言葉の中に、ダリオの深い理解のようなものを感じ、この言葉に強く抱きしめられた。当然それまでも、父が幼い時に他界したと誰かに話すと、「大変だったね・・」とか「お母さん二人のお子さん抱えて苦労されたでしょうねえ・・」と慰めの言葉を受けてきた。ダリオの言葉に涙したのは、簡素なしかも故意に父の死について語ろうともしていない文章の中に、父の死に直面した私の姿の想像し、又長年私の心の中にある父への想いを一瞬にして感じ取ってくれたような気がしたからだと思う。そんなダリオの言葉へ対する感謝の気持ちと共に、父がどうして亡くなったのか、彼の率直な質問に答えるべき、すぐに返事を書いた。顔も声も知らない外国人、メールのやり取りをしていただけの関係ではありながら、自然と気持ちが通い合った大切な一行だった。
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