第12話  ありがとう、さようなら。

文字数 2,880文字

 ダリオは、真っ先に二人の新居となる部屋探しをはじめた。ダリオの住んでいた部屋は、周りの環境もよく、部屋も広々としていたけど、二人で住むには適していなかった。私はまず、職場の上司に報告をし、マンションの部屋や車を手放すための手続きに取り掛かった。そして、イタリアでの結婚手続きを少しでもスムーズに行えるように、ローマの日本大使館とのやり取りもし始めた。12月の初旬にイタリア行のチケットを購入してからは、日本を離れる日を目安に、生まれて初めて買った手帳に、やるべき事を詳細に書き出した。ダリオとは、今まで通りメールのやりとりは続いていたけれど、急ぎの要件などある時は、SKYPEで連絡もとっていた。結婚式には、是非着物を着てほしいとのダリオの申し出に、着付けの練習も再開した。「二人にとって一生で一度の大事な日に、君が日本人であるという事をより自覚したいから。」という言葉は、とても光栄だった。着付けの師範をしていた母の友人に、より丁寧な着付けを享受してもらった。

 10年間の思い出が詰まった部屋。 そこは、初めて手にした特別な空間で、誰からも干渉される事なく、ゆっくり自分自身と向き合える場所だった。関門海峡を見渡すことができ、波の音をながら感じながら、料理をしたり、本を読んだり、ワインを飲んだり。料理やイタリア語の勉強に集中できたのも、あの大好きな空間があったからだと思う。マンションの管理を請け負っていたご老人とは、以前水漏れのトラブルがあった際、色々と相談に乗ってもらって以来、その後も会えばおしゃべりをするような良い関係だった。娘さんが昔アイルランドに住んでいた事があったそうで、私のイタリアに対する情熱をよく理解してくれていた。彼自身、長年ホテルのマネージャーとして働いていた経験からか、ダリオに対しても、気さくに接してくれていた。イタリアへ嫁ぐ事を報告した後、京子さんも一緒に、近所のレストランで食事会をしてくださった。その上、家財の処分は業者に頼むと高くつくからといって、退去の日には、知り合いの方を呼んで手伝ってくださったりと、最後までとても親切にしてもらった。ダリオのもとに行けるのが待ち遠しくしてたまらなかったのに、作業を終え何もなくなった部屋で、たとえようのない寂しさがこみ上げた。そして、自分の決断した事の大きさをあらためて自覚した。京子さんが丁寧に掃除機をかけてくれたいた。いつもは、二人で顔を合わせると、おしゃべりが止まらないほどなのに、私は何か言葉にすると泣いてしまうのをわかっていたので黙っていた。彼女も同じだったと思う。二人で部屋を後にし、マンションの近くで軽い昼食をとった。出発の前日に再び会う約束をしたのに、別れ際やはり二人とも涙をこらえることができずにいた。

 それから出発までの約2週間は実家で過ごした。大切な友人や知人には、その時期に連絡をとって別れの挨拶をした。出発約一週間前には、当時三重県に住んでいた姉家族を訪ねた。ちょうど、姪の7歳の誕生日に重なり、一緒に祝うことができた。同じ日本に住んでいても、一年の内一度か2度しか合えない状況ではあったけれど、何日か彼らと過ごしながら、姪や甥の成長を身近に感じられなくなることが本当に心残りだった。義兄とは、子供達がまだいなかった時期は、よく一緒にお酒を飲んだ。近くに住んでいない分、定期的に会うわけではなかったけど、誕生日が一緒という事もあって、何か共感できる部分も多かった。別れの時、姉が泣きだしてから、私も涙をこらえることができなかった。私がずっと独身だっただけ、特に派遣契約で働いていた時期は、身軽に彼女の元を訪ねる事ができた。姉妹でゆっくりと語り合えた貴重な時間でもあった。イタリアへ嫁いでいってしまう私にみせた、嬉しくも悲しい姉の涙はぐっと胸に突き刺さった。

 出発前日。市役所で転出届の手続きを済ませると、携帯電話の解約、車の引き渡しをし、やるべき事を終えた。それまでの所有していたものが、手元からなくなり、何か自分自身をリセットされたような感覚だった。朝出かけ際に、「今日の晩ご飯、食べたいもの買っておいで。」と母から言われていた。少し早い時間に、買ってきたお寿司を二人で食べた。最後の食事といっても、特に変わった雰囲気もない、いつも通りの食卓だった。
 
 翌朝、母は私より早く目を覚ましていたみたいだった。台所で「おはよう。」と声をかけた時、母の様子が前日とは明らかに違うのを感じた。スーツケースの中身を確認し、身支度を済ませた後、一人仏壇の前にすわった。亡くなった父への強い思いがそうさせたのか、私は若い時からずっと、年の離れた男性にしか恋愛感情が持てず、それでも付き合う相手の内面は、理想とかけ離れていていた。社会人として仕事は順風満帆でありながらも、間違った恋愛ばかりして傷つき、自暴自棄になっていた時期もあった。30歳で一人暮らしをはじめてから、自然とそんな迷いから解放され、負の部分が徐々に削ぎ落とされたように思う。実際、ダリオに出会うまで4.5年は、深い付き合いの男性は居なかった。一人でいた期間は、自分の見つめなおす大切な時間だったと思う。『お父さん、ごめんね。今まで、私の事が心配で仕方なかったよね。これからはダリオがずっと私のそばにいてくれるから、安心してね。』と、感謝の想いを伝えた。父がなくなった年齢40歳を目前に、イタリアでスタートする第2の人生、それは父からの尊い贈り物のような気がしてならなかった。

 ふと母の存在を背中に感じた。あらためて、母へも感謝の言葉を口にした。10年間、近い距離とはいえ離れて暮らしていたから、いわゆる普通の出立ちとは違ったけど、ずっと遠くには行かないだろうと思っていた娘が外国、それもかなり遠い地へ行ってしまうという事を、本心では納得していなかったと思う。それでも母は泣きながら、旅立つ私に温かい言葉をかけてくれた。何十年ぶりに見た、私への涙だった。予約していたタクシーが早く到着した為、二人で急いで30キロもあろうかというほどのスーツケースを家の外まで運びだした。雨が降っていたので急いでタクシーに乗り込もうとした時、母から封筒を渡された。車の中から手を振り、母は玄関先で静かに見送ってくれていた。まだ肌寒い早春の早朝、母をひとり残し旅立つ時、やはり胸が痛んだ。
 駅のホームで新幹線を待っていた時、母がくれた封筒をあけた。私宛とダリオ宛、2通の手紙が入っていた。『結婚おめでとう。』と始まり、イタリアでの新生活を心配しながらも頑張ってほしいという励まし。初めて文章で受け取る母の言葉は、とても穏やかで心に沁みた。しばらくして、新幹線が駅から遠ざかりながら、少し揺らいだ気持ちから、再び力が沸いてくるのを感じた。福岡空港。出発ロビーの公衆電話から母に電話をかけ、出国手続きが無事に終わったと告げた。やがて搭乗案内のアナウンスが流れた。私の半生の幕はゆっくりと下り、ダリオの待つイタリアへ旅立った。
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