第5話 工房にて

文字数 1,890文字

中学生のときの保健の授業だったっけな。
黒板の前で先生が、「思春期というのは異性に興味を持ち始める時期です」だって。

アタシは上の空で、当時授業を聞いていたものだ。
「異性か・・・」って。

アタシ自身、女っ気が強かったわけでなく、髪もボーイッシュに、
休日の私服はダル着にジーパンというのが過ごしやすいスタイルだった。
街中にはお人形みたいな格好をしたアタシと同じ背丈くらいの女の子が、人を待ってるみたい。
彼氏かな・・・なんて想像を巡らせていたものだった。

別にアタシはアタシ自身をヘンだと思ったことはない。
アタシも、男を好きになるよりは、自分の性の方が理解しているつもりだったし、
幾分かマシだと思っていた。

「千尋はどうなんだろうな・・・」とアタシは考えながら、作業場に向かうことにした。

作業場はこぢんまりとした工房。
今日の作業は、午前中は素生地に絵付けをして、焼き物の窯で焼成するというものだ。
作業場のメンバーは、アタシと千尋とタナカさんという40代の女性と、
ハシさんという定年退職された男性だった。

作業場では、和気あいあいと作業をするという光景からはほど遠い。
みな、各自が午前の就業時間の終了まで黙々と作業をする。

話すときと言えば、絵付けをした生地を、外の窯まで持っていく道中、
または、焼き物の窯で焼成している間だけだ。

アタシが窯で焼成していると、60代前後のハシさんがやってきて、アタシに挨拶をした。
「カエデさん、おはようございます。今日は湿度が高くて蒸し暑いですね」
穏やかな紳士的な口調でハシさんは話しかけてきた。

ハシさんは4年ほどまえに、のぎわ荘で務めているらしい。
定年後の生計をここで立てているんだろうか。

アタシはハシさんの挨拶に返事を返した。
「おはおうございます。そうですね、ここら一体も雨と土の匂いが混ざった匂いがしましたもんね。でも、アタシはこの匂い好きですよ。少なくともOLとして働いていたときの、満員電車の地下鉄の中のポマードの匂い、キツいコロンの匂い、新品のスーツの臭い、男子高校生の汗の臭い、女子高生の体臭、色んなものが混じり合ったカオスな臭いと比べたら、心がリラックスしますよ」
そう言うと、ハシさんは「ははは」と笑ってくれ、
「では、カエデさんが焼き終わったら、また戻ってきます」といい、工房へ戻っていった。

アタシは厚手袋をしたまま、再び窯の前に戻った。
アタシは、この素生地が窯の中で焼かれ、その間、窯の様子を眺めているのが好きだ。
窯の火の色を見て、ガスの燃える音を聞いて、設備の振動を感じて、製品の焼け具合を見る。
徐々に温度が上がって、窯の中が赤く明るくなってくる。
火を入れるのに1時間ほど付きっきりだ。温度が安定するまで気は抜けない。

だからこそ、火入れが終わった後、こうして生地が窯の中で焼ける状態をこうして眺める時間、
アタシは安らぎと恍惚とした感情にとりつかれていた。

しばらくして、タナカさんと千尋が窯へやってきた。
何やら、2人で雑談をしているようだった。

タナカさんは、のぎわ荘に来る前は、看護師をしていたそうだ。
夜勤などもあり、ハードワークを過ごしていたそうだった。
ここまで、頑張ってきたけど、私は高卒だから、後輩の短大卒の子に昇進で抜かれ、
その子に良いように使われてきたの、とタナカさんは話していた。

子どもが、お腹の風邪や病気にかかると、あなたもまさか風邪、もらってないでしょうね、
と短大卒の後輩上司に詰め寄られたことも、精神的に来ていたらしい。
有給休暇も十分に取ることもできず、勤め先には消化済みという扱いになっている
他の病院へ転職しようとしても、あそこはココの病院の系列だから、君がココを出て行くなら、向こうでも君は採用しない、と上司から言われたそうだ。

まあ、前の勤め先は私立病院だったから仕方がなかったのよ、とタナカさんは言っていた。
タナカさんはシングルマザーで、
自分の子どもの行事も仕事で穴を開けることも多かったと言っていた。

40代後半で「なんか空気の抜けた風船みたいになっちゃった」と言っていた。
タナカさんは、心療内科で「うつ病」と診断されたようだった。

人は人生に色んなものを抱えているのだなあって思う。
アタシも、千尋も、タナカさんもこうして傷を抱えながら今を生きている。
アタシたちの感情は、お互い、当事者同士でしか分からない。
悩みを共有し合えるプライベートな関係。
そんな空間を暖かく見守ってくれるのが、こののぎわ荘の持つ魔力だと思っていた。

と、同時に一度この空間に踏み入れると、現実の世界に戻ってくることができない、
そんな感覚さえ思わせるほどに。
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