第6話 ファのシャープ

文字数 1,999文字

千尋とタナカさんが窯の前まで来たが、特にアタシは話すことはない。
アタシは、窯の中で焼けるタイル生地を眺めているだけだ。
特段、2人と話さない理由はない。
だが、2人もアタシの方へ話しかけず、2人の雑談も終わる。
各々が自分の時間を窯を待つ間刻んでいた。

タイルはアタシのその時々の火の扱いによって、その性質や表情を変えている。
今日は、何だか恥ずかしがっているように見えた。
さっきまでは、明るく赤っぽさの残る表情であったのに対し、
温度が1,200℃近くまで上がると、より土っぽさのある落ち着いた色合いに変化していく。
濃い暗めの色。
そして、アタシが絵を入れた部分が、ほんのり紅潮しているようにも見えた。

アタシのタイル生地がとりあえず焼き終わった。
ここから一度、放熱を行い、数時間から2日間ほどをかけて焼成と放熱を繰り返す。
そのサイクルを決定する基準は、人間の皮膚の感覚・経験だ。
今は恥ずかしがった表情をしているが、少しドジを踏むと阿修羅顔になるかも知れない。

また、タイルは気まぐれで高飛車な高嶺の花のようだ。
ちょっと、機嫌を損ねると、挽回が難しい。
タイルもやっぱり「生きている」んだ。
まあ、土という有機物だから化学的に当たり前なんだけど。
ただ、いわゆる学問的な理解ではなく、肌感覚で思い知らされたのが、
のぎわ荘での窯焼きのこの2年だった。
アタシが終わった後、今度はタナカさんが、タイル記事を窯に焼べていた。

お昼はのぎわ荘の食堂で取る。
40人ほど座ることのできる椅子が並ぶ。
のぎわ荘の従業員は20人弱のため、食堂が満席になることはない。
アタシは食堂のサラダバーとガレットを取ってきて隅っこの席で1人食べていた。

向かいのテーブルには、千尋がいる。
千尋も1人でお昼を食べている。
でも、私たちは昼食は一緒に食べることはない。
別に昼を照らす太陽の下で、アタシと千尋の間で斥力が働いている訳ではない。
そうする必要がないだけなのだ。
それは、高校で女友達がいつものメンバー机を囲んで弁当を食べる光景とは対照的である。

アタシと千尋は、昼の間は、自分の部屋に戻るまでは、普通の女性として時間を過ごしている。
陽の昇る時間は、お互いにお互いの時間だった。
アタシは水菜と金時豆のサラダと卯の花の煎り煮を口に入れ、ボウッと考えていた。
昼からの時間は、原料の調合だ。
工房や窯とはまた別の、建物に原料の粘土の貯蔵庫がある。
原料の粘土に20%程度の水分を加え、その粘土を捏ねて型に押し込み、タイルの形に整える。
そして乾燥させて、水分をとばす。
午前中とは、違う人と作業することになる。

食べ終わった食器を返却しに、食堂の食器回収口に並ぶ。
アタシの後ろに、千尋が並んでいたらしい。
ちょうど後ろから、いたずらっ子ぽい声で名前を呼ばれた。
「カエデ、おつかれ。相変わらず食欲ないの?」
アタシの食べ終わった食器を見て、千尋はそう言ったようだ。
「ううん。ココのご飯は美味しいし、別に体調が悪いという訳じゃないの。ただ今日は食が進まないだけ」そう、アタシが返事をすると、千尋は、
「もしかして恋わずらい?」なんていじわるっぽく言う。どこでそんな言葉覚えたんだが。
「今のところ、ちーやん意外に気になる子はいないよ。アタシたくさんの人に目配せできるほど器用じゃないから」と言うと、千尋は、
「そっか。まあカエデはモテるし、変な虫がよってこないか心配なだけ」と返事をした。

アタシと千尋の関係は、少なくとも一般的な人間の活動時間帯における範囲内では、
何の変哲もない女性2人が会話しているだけという時間だった。
そこには、ロマンスも偶然も熱情も痴情もない。
ただ、風に乗ったこと言葉が、お互いの口から発せられ、
音の振動を伝って届く声を耳という器官が受け取るだけのことだった。

昼はアタシは、粘土の貯蔵庫で、水分を加える作業をやっていた。
同じ作業場にはアタシ以外の女性が3人いる。
全員、アタシより年上だ。
でも、アタシたちはお互いに言葉を交わし合うことはない。
アタシが向き合っているのは、粘土をこねる手の感触だけだ。
冷たい。質量を感じる。手を嗅ぐと手洗い石けんのような匂いがほんのり香る。
粘土を捏ねて型に押し込み、タイルの形に整える。
この作業を繰り返し、アタシは今日の1日の作業を終える。
タイムカードを記入し、作業服を着替え、私服になり、アタシはマンションの一室に戻った。

「ただいま」少し遅れて千尋がルームシェアの一室に帰ってきた。
アタシはその最中、室内に干してあった下着を畳んでいるところだった。
「カエデ、おつかれっ」千尋の仕事上がりの調子はト音記号のファのシャープのようだ。
つまり、アタシはこの感覚をいまいち掴めていないのである。

アタシの家族以外で、一つ屋根の下で「おつかれ」と言ってくれる存在が。
同棲して2年が過ぎるというのに、千尋の呼びかけにはいつまでもこそばゆさを感じていた。
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