第8話 もし明日までしか生きられないとしたら

文字数 2,159文字

そんなこんなで雑談で時間を消費しているとあっという間に19時過ぎだ。
千尋とアタシは夜ご飯を食堂で食べに、夜空の下、外を歩く。

ここは山奥だからか、暗い夜空に各々の星が思い思いに自己主張をしているのが分かる。
白く強い光を放つ星、集団で黄色の斑点を描く星等々。

食堂に入ると、
アタシは、ひじきとオクラのお吸い物と白いご飯と高菜を選択して自分の席に着いた。
千尋は、キュウリとわかめの酢の物、切り干し大根、白いご飯に、
株の味噌汁、ハタハタの唐揚げ、リンゴという組み合わせだ。

アタシたちは向かい合って食事をするが、食事中はお互いに話をすることはない。
千尋は株の味噌汁を冷ますために、か細い口で「ふぅ、ふぅ」としていた。
ふっくらした健康的な唇が和食のテイストの中では一層映えている。
箸で一口大に切られた株を口の中に入れる。
千尋の喉仏が口に含んだ食物を体内に押しやるべく、ゴクンと動く。

アタシはそれから、箸を持つ千尋の手に目をやる。
ガラス細工のように繊細な指。
お茶碗に手を添えたときに、人差し指から小指までが揃った姿が妙に色っぽく見える。

食事をする千尋の姿は、絵画のモデルのようだった。
食事という動作の一つをとって仔細に眺めると、
一つ一つのパーツが繊細に、精巧にできているのが分かる。
食事をするときに、人間に隙ができるというのは分かる気がする。

いま、目の前で自然体の千尋の姿を目にしているのだ。
そこには、作り笑顔も、異性のために振りまく愛嬌も特別な感情も介在しない。
ただ、目の前にある食べ物を口にするという、瞬間・現在が点としてあるだけだ。
暗い過去も分かりもしない未来もそこに見いだすことはできない。
運命、いや抗えない何かの延長線から自由になった風景を切り取ることができるのである。

アタシたちは、食事が終わるとそのまままっすぐマンションの部屋に戻る。
先にアタシが風呂に入る。
シャワーヘッドを一番高い位置まで持って行き、カランをひねる。
冷たい水から温かいお湯になるまで、水の温度を確かめながら、シャワーの水を出す。
シャワーが39度付近になったことを確認し、アタシはウルフカットの髪をお湯で濡らした。
1分間ほど、シャワーのお湯に当たり続け、髪をお湯で注ぐ。
振り返って、髪が乱れたアタシは鏡で見ても昼間のアタシとはとても見えない。
アタシからはシャープな感じが消えて、失恋して雨に濡れた不幸な女に様変わりする。
アタシはシャンプーとコンディショナーで髪を洗い、ボディタオルで泡を立て、身体を洗う。
アタシの身体は細い。
フェミニンな感じが一切しない少年のような身体だ。
胸はサラシを巻いたように膨らんでいないし、お尻も走り高跳びの選手のように締まっている。
この身体のおかげで、アタシは変な男に言い寄られることに頭を悩ませずに済んでいる。
同い年の女の子からもラブレターをもらったことがある。
「カエデのような人に守ってほしい」って。

アタシは湯船につかって、特に何を考えるでもなく、
3分ほど経った後、脱衣所で寝間着に着替え、ドライヤーを強にして、自分の頭を乾かした。
アタシの場合、朝起きると、どう手を施しても寝癖が爆発するのだ。
さらに始末が悪いことに、髪の毛1本が太い剛毛だから、
寝癖も普通のヘアスタイリング剤では直らない。
だから悪あがきはやめて、適当にドライヤーの風を当てて、リビングに戻るのである。

アタシのあとは千尋がお風呂に入る。
千尋もアタシと同様、お風呂の時間は短い。
千尋も美容に気を遣わないタイプなので、
髪と身体を洗って、お風呂を掃除し終わったらリビングに戻ってくる。

アタシたちのルーティーンは、お風呂上がりにアイスを食べることだ。
マンションの冷蔵庫にはパルムや白熊アイスが入っている。
アタシは、家族と暮らしていたときからお風呂上がりにアイスを食べるのが日課になっている。千尋との同居時も、そのナイト・ルーティーンを続けていたところ、
千尋が「カエデだけズルい」と言ったので、
二人がお風呂に上がったタイミングで、アイスを食べることにしている。

テレビはつけない。
テレビで映し出される世界はアタシたちのような人間とは隔たりが大きすぎるからである。

アイスを食べながら千尋は言う。
「カエデはもし自分が明日までしか生きられないと知ったら、どうする?」
カエデはよく宇宙開闢のような質問をアタシに向かってする。
アタシは「映画館で映画を見て、高級料理店で一番高いものを注文し、家に帰って動画を見ていたら知らぬ間に死んでいたというのがベストかな」と答えた。
「カエデらしいね」千尋はそう答えたあとに、アタシに対してこう言った。
「私はこのまま自分だけが死んで、私を苦しめた人間が生を全うするのが悔しいの。復習したいわね。呪いをかけるとかね。私は傷を受けたまま、このまま何も抵抗することができない自分が恥ずかしくて、思い出すだけで胸の中をドロドロした感情があふれ出てくるの。私って多分醜い人間なのよ。私がこの世にいなくなったら・・・。うん・・・。アタシを苦しめた人間を・・・。その人間が罪ある人間だと証明する人がいなくなるのよ・・・」

ワッと千尋は泣き出して嗚咽を漏らしていた。
アタシは食べていたアイスを小皿の上に載せ、
泣いて肩をひくつかせる千尋の身体をそっと抱きしめていた。
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