第3話 露落ちて花は残れり

文字数 2,004文字

更衣室に入ると、アタシと千尋は外履きを下駄箱に入れた。
更衣室の壁にはシールを貼った後や、所々に落書きや掘った後が残っている。
女子寮のような面影があった。
中は小学校の教室のような、机の木の匂いがした。
アタシと千尋は、メールボックスのようなロッカーに脱いだ服を入れていた。

奥さんは、SサイズとMサイズのブルゾンをそれぞれ持ってきて、
アタシたちに「これがのぎわ荘での作業着よ。丈が長めだからワンサイズ小さくても大丈夫よ。あ、でもお二人ともアーチが長いのでちょうどかしら」と言い、「私、今から来客の予定があるから、二人ともサイズが決まったら悪いけど、私が戻ってくるまで覚えててちょうだい。それではお暇するわね」と言い残し、奥さんは応接室に戻っていった。

アタシと千尋は二人きりになった。
改めて千尋の身体つきを見る。
下着姿の千尋は、真っ白な肌に、くびれたウエスト。
首から胸にかけては美術室で見る石膏でできた半身のミロのヴィーナス像のようだった。

それに対してアタシはシンデレラバストに、筋肉でしまったお尻。
首をかきむしった後がアザになっていて、粉吹いた肌と掻きむしった後があらわになっていた。

千尋は、奥さんからもらったブルゾンを着た後、サイズが決まったのか、
ブルゾンを脱いで、綺麗に畳み、エプロンの試着をするときだった。

下着姿の千尋は、しばらく呆然とたった後、アタシに突然に告白をした。
「あ、あの・・・カエデさん」そう話しかける千尋の声は震えていた。

「わ、私、その人と会うのが怖くなってしまったんです。私、電車の中でお尻を触られたんです。夜の7時の帰宅ラッシュだったんですけど、身動きがとれなかった。体をよじっても、手がどこまでも伸びてきた。電車が途中の駅で停車し、出発する頃には、スカートはまくり上げられて、下着をずらされて触られていた。やめて、と言わなくてはいけない、と頭の中では分かっていたんです。でも、のどでつかえて言葉が出てこなかった。次の駅に電車が到着した後に、ようやく声が出たんです。「痴漢です」って。私は、自分を触っていた男のバッグのひもをつかみました。その瞬間、男の人は逃げたの。私はバッグのひもをつかんで離さなかった。すると男の人はバッグを振り回し、私の手を振り払おうとした。そのとき、電車の中にいた人が駆けつけてくれて、その男の人を抑えてくれたの。男の人は、警察官に捕まった。その後、私は警察から事情聴取を受けたの」

千尋さんは、震える声と慟哭を抑えながら、必死に話を続けていた。
「警察の人は何て言ったと思う。「証拠」として今履いている下着を提出してほしいって。ついさっき、触られた生々しい感触が、まだ、まとわりついている。脱がなければ、と下着に手をかけるが、ぶるぶると震えて動かない。心と体が拒否していた」

「男性の警察官がいる前で行われる実況見分も辛かった。個室ではうまく撮影できないと言われて、警察署の廊下で再現させられた。「男の親指はどこにあった?」とマネキンに服を着せてその時の映像を再現させられた。体中の「汚れ」をタオルとせっけんでこそげ落としたかった。泣き出したかった。「なぜ、早く声を上げなかったのか」そう質問されるときが辛くてしょうがなかった。自己嫌悪にとらわれて、自分を強く責める毎日が続いた」

千尋の目には涙が溜まっていた。
「この日の夜から、私の生活は一変した。触られた恐怖がよみがえり、感情が爆発して泣いてしまった。目を閉じると、痴漢をされた時の場面が浮かぶ。横になって寝られないことが、何日も続いた。医師からPTSDと診断された。私は誰にも相談できなかった。世間では、「そんな服装をしているのが悪い」と言われて、私のような人間の声はかき消されるの。服装は普通の仕事着だったのにもかかわらず、ね。世間の偏見は簡単には消えない。私は一人この鉄仮面のような現実に何もできなかった。ご飯も食べることができず、外にも出られず、人と会うことすらできなかった。そんなとき、医師からのぎわ荘を紹介されたの。あそこは心の傷を抱えた人が、必死に自分を受け入れようとリハビリをする場所なんだって」

千尋はすべて話し終えると、緊張が解けたのこらえていた声を上げて泣き出していた。

私は下着姿の千尋の頭をそっとなで「千尋ちゃん、辛かったね。よく逃げなかったね」と言った。
千尋の肩を抱いてアタシも泣いていた。
千尋の体温をアタシの肌で直接感じていた。
思いっきり、通り雨に打たれて、この涙ごと流してほしかった。
アタシたちは息ができなくなるほど泣いた。
ダムが決壊したかのように、あふれ出した感情は抑えることができなかった。
アタシたちは薄暗い更衣室の中で、時間を忘れるくらい泣き、ほてった身体が冷えてしまうくらい泣いた。
千尋との初日の出会いは、現実の醜悪さに怒り、死んでしまいたいと思ってしまうほど悲しく辛い一日だった。
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