第3話
文字数 1,953文字
ことの始まりは、まだ静花さんと伸亮さんが出会う以前に遡ります。
当時28歳だった静花さんには、柴田直樹さんという恋人がいました。ふたりは結婚も視野に入れた真面目なお付き合いで、静花さんの妊娠を機に、直樹さんの実家へご挨拶に伺うことにしたのです。
ところが、母親の貴代さんは、初対面の静花さんに向かって、こう言いました。
「冗談じゃないわよ。我が家は由緒ある家系なのだから、それなりの方でないとね。あなた、ご実家は何を?」
幼い頃に父親を亡くした静花さん。その後、女手一つで育ててくれた母親も、彼女が社会人になった年にこの世を去りました。
母親の苦労を見てきた静花さんは、奨学金で国立大学に進学し、在学中に宅地建物取引主任者(宅地建物取引士)の資格を取得した努力家で、兄弟はおらず、親戚とも疎遠で、ほとんど天涯孤独の境遇でした。
一方、直樹さんの家系は、かつて家老も務めたという武家の家柄で、静花さん同様、父親はずっと以前に他界。違うのは、代々受け継いだ資産で何不自由なく暮らして来ました。
一人っ子の直樹さんが実家を継がなければならないことは、交際当初から承知しており、同じ一人っ子でも縛られるもののない静花さんの立場なら、結婚する上での支障はないと思っていたふたり。
しかし、静花さんの家柄や生立ちは、何よりも格式を重んじる貴代さんのお眼鏡に適わず、さらにとんでもないことを言い出したのです。
「だいたい直樹、どうしてこんな人なの? あなたなら、もっと顔もスタイルも頭も家柄も良い女性、いくらでも選べたでしょうに。それを、こんなチビでブスで、まるで豚みたいな娘をお嫁さんにしたいなんて、気は確かなの? これじゃ恥ずかしくて、表にも出せないでしょ」
あまりの暴言に、思わず言葉を失うふたり。
実物の静花さんは清楚な雰囲気の美人で、知的な人間性でしたから、貴代さんの暴言は、一人息子を盗られたことへの嫉妬から出たものでした。
とはいえ、人として許されるものではなく、怒りを露わにし、取り消して謝罪するように詰め寄る直樹さんの声にも聞く耳持たず、静花さんとは目を合わせようともしない貴代さん。
「それに、静花は妊娠しているんだ。いくら母さんが認めないって言ったって、僕たちは結婚するからね」
「堕ろしなさい。子供なんて、またいくらでも作ればいいでしょ?」
「母さん…!?」
「どうせ、財産目当てだったんでしょうけど、お生憎さま。手術の費用と手切れ金は払いますから、二度と息子の前に現れないで頂戴。さ、直樹、この人にお帰り頂いて」
それだけ言うと、貴代さんは席を立ち、部屋を出て行きました。
あまりのショックに言葉も発せず、ただ震えながら座っていた静花さん。応接間に陳列された高価な調度品が、自分との格差を突き付けられているようで、いたたまれない気持ちになります。
直樹さんは母親の非礼を何度も謝罪し、その日は静花さんをマンションまで送ると、もう一度貴代さんと話し合うといい残し、自宅へ戻りました。
数日後、直樹さんに呼び出され、待ち合わせのファミレスへ行くと、そこで静花さんを待っていたのは、直樹さんの他にもう一名、貴代さんの代理人を名乗る人でした。
彼は分厚い封筒を差し出し、その中身が貴代さんからの『堕胎費用』と『慰謝料』兼『手切れ金』であることを説明し、帯封がついたままの100万円の束を、静花さんに確認するように言いました。
それと一緒に、お腹の子供を処分することへの同意書と、今後一切、直樹さんに会わないという誓約書も提示したのです。
唖然とする静花さんの真正面で、直樹さんは黙ってうつむいているばかり。こんな重大なことをこの場で即決など出来るはずもなく、『二人だけで話がしたい』と、しばらく代理人に席を外してもらいました。
「あなたのお母さんのお考えは、よく分かった。でも、私が知りたいのは、直樹さん自身の気持ちなの」
すると、暗い顔で下を向いたまま、直樹さんは答えました。
「あれから、必死で母を説得したんだけど、どうやっても無理で。君のことは、とても愛しているけれど、僕は家の跡継ぎだし、母を一人にするわけにも行かなくて…」
「そう…」
「ごめん…」
その言葉で、静花さんの心は決まりました。むしろこうなる以前に、貴代さんと初めて会ったときから、自分が嫁として受け入れられることはないと分かっていたのです。
何より、自分の血を分けた子供より、自分を産んだ母親を選んだ直樹さんに心底幻滅し、あれほど愛していた彼に、今は一縷の未練も感じない自分が冷血にすら思えました。
再び代理人を呼び戻し、一度持ち帰ってじっくり考えたい旨を伝え、この日はお金を受け取ることはせず、書類も白紙のまま静花さんが預かる形で別れました。
当時28歳だった静花さんには、柴田直樹さんという恋人がいました。ふたりは結婚も視野に入れた真面目なお付き合いで、静花さんの妊娠を機に、直樹さんの実家へご挨拶に伺うことにしたのです。
ところが、母親の貴代さんは、初対面の静花さんに向かって、こう言いました。
「冗談じゃないわよ。我が家は由緒ある家系なのだから、それなりの方でないとね。あなた、ご実家は何を?」
幼い頃に父親を亡くした静花さん。その後、女手一つで育ててくれた母親も、彼女が社会人になった年にこの世を去りました。
母親の苦労を見てきた静花さんは、奨学金で国立大学に進学し、在学中に宅地建物取引主任者(宅地建物取引士)の資格を取得した努力家で、兄弟はおらず、親戚とも疎遠で、ほとんど天涯孤独の境遇でした。
一方、直樹さんの家系は、かつて家老も務めたという武家の家柄で、静花さん同様、父親はずっと以前に他界。違うのは、代々受け継いだ資産で何不自由なく暮らして来ました。
一人っ子の直樹さんが実家を継がなければならないことは、交際当初から承知しており、同じ一人っ子でも縛られるもののない静花さんの立場なら、結婚する上での支障はないと思っていたふたり。
しかし、静花さんの家柄や生立ちは、何よりも格式を重んじる貴代さんのお眼鏡に適わず、さらにとんでもないことを言い出したのです。
「だいたい直樹、どうしてこんな人なの? あなたなら、もっと顔もスタイルも頭も家柄も良い女性、いくらでも選べたでしょうに。それを、こんなチビでブスで、まるで豚みたいな娘をお嫁さんにしたいなんて、気は確かなの? これじゃ恥ずかしくて、表にも出せないでしょ」
あまりの暴言に、思わず言葉を失うふたり。
実物の静花さんは清楚な雰囲気の美人で、知的な人間性でしたから、貴代さんの暴言は、一人息子を盗られたことへの嫉妬から出たものでした。
とはいえ、人として許されるものではなく、怒りを露わにし、取り消して謝罪するように詰め寄る直樹さんの声にも聞く耳持たず、静花さんとは目を合わせようともしない貴代さん。
「それに、静花は妊娠しているんだ。いくら母さんが認めないって言ったって、僕たちは結婚するからね」
「堕ろしなさい。子供なんて、またいくらでも作ればいいでしょ?」
「母さん…!?」
「どうせ、財産目当てだったんでしょうけど、お生憎さま。手術の費用と手切れ金は払いますから、二度と息子の前に現れないで頂戴。さ、直樹、この人にお帰り頂いて」
それだけ言うと、貴代さんは席を立ち、部屋を出て行きました。
あまりのショックに言葉も発せず、ただ震えながら座っていた静花さん。応接間に陳列された高価な調度品が、自分との格差を突き付けられているようで、いたたまれない気持ちになります。
直樹さんは母親の非礼を何度も謝罪し、その日は静花さんをマンションまで送ると、もう一度貴代さんと話し合うといい残し、自宅へ戻りました。
数日後、直樹さんに呼び出され、待ち合わせのファミレスへ行くと、そこで静花さんを待っていたのは、直樹さんの他にもう一名、貴代さんの代理人を名乗る人でした。
彼は分厚い封筒を差し出し、その中身が貴代さんからの『堕胎費用』と『慰謝料』兼『手切れ金』であることを説明し、帯封がついたままの100万円の束を、静花さんに確認するように言いました。
それと一緒に、お腹の子供を処分することへの同意書と、今後一切、直樹さんに会わないという誓約書も提示したのです。
唖然とする静花さんの真正面で、直樹さんは黙ってうつむいているばかり。こんな重大なことをこの場で即決など出来るはずもなく、『二人だけで話がしたい』と、しばらく代理人に席を外してもらいました。
「あなたのお母さんのお考えは、よく分かった。でも、私が知りたいのは、直樹さん自身の気持ちなの」
すると、暗い顔で下を向いたまま、直樹さんは答えました。
「あれから、必死で母を説得したんだけど、どうやっても無理で。君のことは、とても愛しているけれど、僕は家の跡継ぎだし、母を一人にするわけにも行かなくて…」
「そう…」
「ごめん…」
その言葉で、静花さんの心は決まりました。むしろこうなる以前に、貴代さんと初めて会ったときから、自分が嫁として受け入れられることはないと分かっていたのです。
何より、自分の血を分けた子供より、自分を産んだ母親を選んだ直樹さんに心底幻滅し、あれほど愛していた彼に、今は一縷の未練も感じない自分が冷血にすら思えました。
再び代理人を呼び戻し、一度持ち帰ってじっくり考えたい旨を伝え、この日はお金を受け取ることはせず、書類も白紙のまま静花さんが預かる形で別れました。