第1話

文字数 2,214文字

 屋外は30度を軽く超える真夏日。日本に住む限り、夏の暑さは受け入れるしかないと頭では理解しても、こう連日猛暑が続くと心が折れそうになります。

 とはいっても、空調された室内は快適な気温と湿度に保たれ、屋外に出ない限り、暑い思いをすることもないのですが、つい口癖で『暑い』を連発してしまうのが人間の(さが)なのでしょう。

 気持ちよさそうにソファーで微睡む猫たちにつられ、私もウトウトしかかったとき、不意に鳴った電話の着信音で現実に引き戻されました。



 私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。



 電話の相手は、ご近所に住む穂高静花さん。彼女は、かつて私が勤めていた会社の先輩で、他の同僚たちも交え、退職した後も親しく交流が続いています。

 我が家がこの新興住宅地にマイホームを建築していた同じ頃、わずか2ブロック離れた場所に彼女もマイホームを建築していて、『転居のお知らせ』に記載された住所を見て驚いた静花さんが、直接その足で我が家を訪問し、たまたま玄関先にいた私と遭遇、そこでご近所さんになっていたことを知った次第です。

 私や同僚たちが結婚や転職で退職する中、現在も同じ部署で勤務している静花さん。当時まだ浸透していなかった産休・育休を取得したパイオニアでもあり、その後、彼女に続いた女子社員は数知れず。今ではその実力と資格を認められ、主任に昇格。

 ですが、一般職の彼女が育児をしながらここまで来るには、並大抵のことではなかったのも事実です。




 静花さんからの電話の用件は、明日から3日間、家族で毎年恒例の北海道旅行に出掛ける旨の連絡でした。


「留守中、何かあったら宜しくね!」

「了解~! 安心して、楽しんで来てね」


 特に決まりというわけではないのですが、泊りがけでお出かけする際、住民の皆さんの間で、隣近所や仲の良いお宅に一声掛ける習慣がありました。

 その理由の一つは、緊急の回覧板がストップする可能性への配慮と、もう一つは、防犯という観点から。

 例えば、偶発的に開いてしまった門扉や、お庭の中で倒れたものが何日も放置されていると、留守と分かって空き巣に狙われる可能性が高くなるため、それに気付いたご近所さんが直しておくだけでも防犯に繋がるのです。

 我が家から静花さん宅までは、徒歩で1分も掛からない距離ですが、彼女があえて電話で連絡してきたのには、猛暑以外にも理由がありました。その原因は、やはりご近所に住む葛岡さんのおばあちゃんでした。

 以前、お向かいの萩澤さんが旅行でお留守だったときのこと。私に声を掛けて来たおばあちゃんが、ご近所中に響き渡るような大きな声で、


「あ、松武さ~ん! うちの嫁さんから聞いたんだけど、萩澤さんとこ、一昨日から旅行に行かれてるんだってぇ~? 4泊5日だから、帰ってくるのは明後日かねぇ~?」


 ひえぇぇぇぇぇぇ~~~!!!!

 慌てておばあちゃんを庭の端っこへと引っ張り込み、小さな声で、かつ、きつい口調で注意しました。


「そんな大きな声で、誰かに聞かれたらどうするんですかっ!」

「何でぇ~? 萩澤さんのことは、ご近所の皆さん知ってるでしょ~?」

「ご近所の皆さんは良いんですっ! 問題は、もし物陰に潜んだ泥棒さんに聞かれたらってこと!」


 そこで、ようやく事の重大さが理解出来たおばあちゃん。慌てて両手で口を押さえても、後の祭りです。幸い、お留守の間何事もありませんでしたが、萩澤さんが戻られるまでハラハラしました。

 他にも、誰かに尋ねられれば、住所や電話番号、家族構成、お勤め先といった個人情報を、本人の許可なく勝手に教えてしまう癖があるおばあちゃん。

 本人にとっては、純粋に親切心からしていることで、悪気はないものの、年代的に、個人情報を漏洩することの危険性が理解出来ないため、周囲のほうが悶々とするのです。


「ですからね、いつも町内のことをとても気にかけてくださっている葛岡さんに知っておいて頂くのは、皆さんも心強いと思うんです。ただ、世の中には悪い人もいますから、話す時は気を付けないと」


 もっと強く言いたい気持ちを抑え、おばあちゃんのプライドを傷つけないよう、言葉を選びながら忠告しました。

 すると、それに気を良くし、嬉しそうな顔で、


「ああ、そうだねぇ~! 私は耳が遠いから、どうしても声が大きくなってしまって、気を付けないとねぇ~!」


 問題の本質がそこではないことに気が付かないのか、あるいは気付かないふりをしているのかは分かりませんが、耳が遠いといいながら、余計なことだけはすべて聞き通せる地獄耳の持ち主。

 その上、真偽を確かめず、吹聴するという悪い癖があることも周知の事実。よって、彼女に情報が渡ることは、スピーカーの前で内緒話をするのも同然でした。

 そういう理由で、この町内では、重要な連絡事項はすべて電話やメールで済まされるようになった次第です。




 数日後、留守中の御礼にと、限定品の特産物やスイーツなど、たくさんのお土産を持って遊びに来てくれた静花さん。

 彼女とは、新入社員研修を終えた私が、彼女が所属する不動産事業部に配属になって以来、かれこれ14年のお付き合いになりますが、静花さんご夫妻と、私たちかつての同僚は、ある大きな秘密を共有していたのです。

 それはまだ、長女の莉帆ちゃんが生まれる前のこと。彼女の出生に関して、出来れば彼女には知られたくない事実でもありました。



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