第20話 フォトジェニックな女踊りを確立した阿波踊り界のレジェンド【徳島県】

文字数 3,555文字

四宮賀代(しのみや・かよ、1961-)

 最近の阿波踊りの映像をみていると、「何だかすごいことになっているなあ!」と感じるのは筆者だけでしょうか? 観ている者の目にまず飛び込む、演者たちの衣装の色彩やデザインがとにかく美しい。大人数の集団でフォーメーションを組み、ダイナミックに踊る姿が圧巻。海外へもどんどん遠征し、国際的な人気も高まっている様子です。
 踊り方をよく観ると、従来のように腰を低くせず、真っすぐ立って、手を高く掲げ、足元はかかとを上げ、蹴り込んでテンポよくリズミカルに前進する踊り方があります。とくに「女踊り」でそれが顕著なのですが、現代風のスタイリッシュなこの踊り方や、フォーメーションを採り入れた演出法を最初に確立したのが、阿波踊り界の「革命者」、「レジェンド」と称される四宮です。
 徳島空港(愛称:徳島阿波おどり空港)の正面玄関に配置された「阿波踊り銅像」のうち、女踊り像のモデルになった人物でもあります。

物心つく前から踊っていた地元写真館の娘

 四宮の生家の家業は、亡き父君が地元で営んでいた写真館です。現在もこの写真館は健在で、「町の写真館で構成されたプロ写真家の全国団体」である協同組合日本写真館協会の徳島県加盟店リストをみると、上板町に所在する「四宮写真館」の名が、会員名・四宮賀代とともに確認することができます。
 つまり、四宮の本来の職業は、父の家業を引き継いだ写真家であるわけです。そして、後述する理由から、この「2代にわたる写真家としての感性や視点」が、阿波踊りの変革へとつながっていったのではないか、と筆者は推察します。
 四宮が、父に連れられて初めて阿波踊りをみたのは、まだ物心もつかない2歳のときでした。父は、有名連(*「連(れん)」とは阿波踊りのグループのこと。筆者注)に所属し、笛を担当していたほか、その他の楽器も勉強し、踊りもできる人物でした。
 すると2歳の四宮は、その場で突然踊り出し、父を驚かせます。このことがきっかけで、四宮は2歳年上の兄とともに、地元の豆狸連に入会し、踊り子としてのキャリアをスタートさせたのでした。
 後年、阿波踊り女踊りの第一人者となる四宮が、幼少期からいわば「踊りの申し子」であったことを、しみじみと感じさせるエピソードです。

有名連の女性部門リーダーとして踊りを改革

 四宮は、「阿波踊りのほとんどのことは父から教わりました」と語っています。その父の指導法は、褒めながら成長を促すやり方でした。
 ある時、四宮が踊る姿を撮影したカメラマンがいて、その写真をみた父がこう言いました。「ええ格好の踊りやなあ。こんな綺麗な踊りができたらええな」との褒め言葉でした。
 以来、四宮は「カメラマンにいつ撮られてもいいように、シャッターチャンスが多い踊りを意識するようになりました」と述べています。本稿のタイトルで、筆者が「フォトジェニック(写真写りのよい)」という言葉を使った理由がここにあります。
 こうして踊りの技能を磨いていった四宮は、弱冠20歳の頃、所属していた有名連「阿呆連」の女性部門のリーダーを任されることになりました。
 すると、四宮がまず取り組んだのは、女踊りをどの角度から見ても美しくなるよう徹底するための「独自のマニュアルづくり」でした。手探りで試行錯誤を繰り返しながらも、カリキュラムに沿って踊り子を育成する方法を次第に確立していきました。

フォーメーションを採り入れた舞台構成を考案

 続いて四宮は、それまで男性ばかりが手がけていた「舞台構成」にも一石を投じようと意欲をみせます。
 最初にヒントを得たのが、マーチングバンドのフォーメーションでした。研究を進めるうちに、マーチングバンドの場合、楽譜の小節小節でメンバーが移動していることが分かりました。
 これを阿波踊りに活かすにはどうしたらよいか? 四宮が見つけだした答えは、「歩数」でした。こうして、踊りの歩数を数えながら、全体の隊形をどんどん変えるという、従来には考えられなかった新しい演出法による阿波踊りが完成していきました。

他連にも次々と模倣され、あっという間に普及

 四宮が新たに創り出した、今まで見たことのない阿波踊りの衝撃度は、想像以上でした。舞台をみた聴衆からはざわめきが起き、他の連からの見学者からは、「え? 何であいつが動きよんや?」、「え? 合図もせんのにどんどん動きが変わりよるぞ!」など驚きの言葉が次々に発せられました。
 阿波踊り関係者や聴衆の驚きはやがて、「四宮の踊りはすごい!」、「四宮の舞台はすごい!」という評価に変わっていきます。
 しばらくすると、四宮が考案した新しい女踊りのやり方が、まるで常識であるかのように流行し、他の連にも一斉に普及していきました。1983年、四宮が22歳の頃の話です。

「阿波おどりグループ虹」としての後半の活動

 こうして、阿波踊り女踊りのトップスターとして一世をふうびした四宮に、次の転機が訪れたのは1989年、28歳のときでした。父の友人で、民謡界の研究を行っていた人物から、「阿波踊りの研究チームを作らないか?」と声を掛けられたのがきっかけでした。
 こうして誕生した「阿波おどりグループ虹」の最初のメンバー構成は、踊り子が四宮1人で、鳴り物(* 鉦(かね)、笛、太鼓、三味線など伴奏の楽器のこと。筆者注)が6人の計7名。メンバーそれぞれが七色の色を持ち合って、一つのものを表現し、観る人・聴く人との間に虹の架け橋をかけよう、というのがグループ当初の理念でした。
 四宮は、「ここから私の第二の阿波おどり人生が続いています」と振り返ります。

関西圏や、遠く埼玉県でも阿波踊りを指導

 阿波おどりグループ虹の代表となってからの四宮の活動は、演者と指導者の2つの側面を持つようになりました。まず、演者としての活動は、8月に開催される埼玉県・南越谷阿波踊りの「舞台」への出演と、お盆の時期に地元徳島で行なっている伝統的な「一丁回り」の2回のみ。四宮のファンは全国にいるので、本当に希少価値の公演として知られています。
 一方、指導者としては、関西圏に阿波踊り教室を持つほか、遠くは埼玉県南越谷においても、生前の父と一緒に阿波踊りの指導を依頼された時代から、長く交流を続けています。

「四宮賀代」イコール「阿波踊り」と語る人生観

 阿波踊り関係者やファンの御用達とでもいうべき、専門ムック本『阿波楽』の2022年号 通巻10号内のインタビューを読むと、四宮の阿波踊りに対する思い入れや、意外な心情に触れることができます。
 筆者が「意外な心情」と感じた理由を先に述べると、四宮が「阿波踊りは仕事でもないし、趣味でもない」と語っている点でした。
 実は、「阿波踊り」は戦前まで「阿波盆踊り」と呼称されていました。つまり本来は、夏のお盆の時期に、全国どこでも開催されるあの「盆踊り」なわけです。普通考えてみて、いくら名人や指導者であっても、「盆踊り」の演者の多くは(わずかなプロを除き)、1年を通してそれで生活しているわけではありません。
 加えて、四宮ほど全エネルギーを阿波踊りへ注いでしまうと、通常の意味での「趣味」の域はとうに超えています。そういった背景を含めての心情の吐露だと思います。
 そのうえで四宮は、改めて阿波踊りへの深い思い入れを語り、インタビューを締めくくります。
 「私にとって阿波踊りは何かというと、「四宮賀代」という人間の根源なのです。だから、私から阿波踊りを取ると何も残らない。「四宮賀代」イコール「阿波踊り」です。」

 伝統ある地域文化の継承者であり、希代の変革者でもある“伝説の踊り子”が語るこの発言は、これまでの四宮の活動を考えると、奥が深く中身の濃い話です。この言葉に触れた人たちは、筆者同様に「感動」を覚えると同時に、「敬意」という言葉が真っ先に頭に浮かぶのではないでしょうか。(第20話了)

【表記の全体注釈】*本稿では「阿波踊り」と「阿波おどり」を混在させています。話の内容がおおむね徳島に限定される場合は、徳島県などが実施している統一表記法にならい「阿波おどり」を、視点が全国や世界に及ぶか一般論である場合は「阿波踊り」を使用。引用文は、原文の表記に従っています。


(主な参考資料)
・阿波踊り情報誌「あわだま」編集部編(2015)『阿波踊り本。Ⅱ』猿楽社
・『阿波楽』2022年号 通巻10号、2023年号 通巻11号(猿楽社)
・『AWA 2008 Vol.15 特集号』AWAおんなあきんど塾・徳島市編集・発行
・阿波踊りシンポジウム企画委員会編(2007)『阿波踊り――歴史・文化・伝統』第22回国民文化祭徳島市実行委員会事務局
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