第12話 誰もが自らの生き方を見つめ直したボランティアの“神”【大分県】

文字数 5,457文字

尾畠春夫(おばた・はるお、1939-)

 長年のボランティア活動に加え、日本縦断3250.5km、本州一周4100km、四国八十八箇所巡礼などをすべて徒歩で完遂。
 もともとの職業は地元で人気だった魚屋さんで、29歳で開業するまでの道のりは、少年期に奉公に出された際の苦労、全国各地に及んだ魚屋修行、開業資金を得るための東京での鳶(とび)職の経験など、人生経験に満ちあふれています。
「もし本にしたら、3冊くらいには軽く達するのでは?」と思ってしまう魅力ある人物の足跡を追ってみましょう。

まるで“男性版おしん”のような少年期の苦労

 尾畠春夫は昭和14(1939)年、大分県の国東半島南東部にある国東市安岐町に誕生しました。父は下駄職人でしたが、仕事は下降気味で、大酒飲みかつ愚痴が絶えない人物でした。代わりに極貧の一家を支えたのが母で、一言の文句もいわず黙々と7人の子供たちを育てました。しかし、尾畠が小学校4年生のとき41歳の若さで母はこの世を去りました。
 その半年後、小学校5年生のときに尾畠は父から「お前が家族で一番飯食う。農家の奉公へ行け」と命じられ、集落で一番大きかった農家へ向かうことになりました。
 それからは、朝4時に起床し、まず馬や牛の世話をし、続いて田畑の手入れや、奉公先の家の手伝いなど、夜就寝するまで絶え間ない労働が続きました。学校へもほとんど行かせてもらえない日々が続きました。

別府、下関、神戸におよんだ魚屋修行

 義務教育を終える昭30(1955)年、16歳の年に、まだ進路が決まっていなかった尾畠は、当時、別府の魚屋で女中を務めていた一番上の姉から「魚屋で働かないか」と声をかけられ、そのアドバイスに従うことにしました。
 国東半島を出て、日本有数の温泉街である別府に降り立つと、そこは出身地の田舎とは全く違う、豊かな大都会でした。さらに驚いたのは奉公先の魚屋で出だされる賄(まかな)いでした。夢にまで見た白米と、魚の煮付けやみそ汁に腰を抜かしそうになりました。
 そうして別府での修業が3年を過ぎた頃、店の主人が「将来、魚屋するんやったら、フグの勉強したほうがええ」と山口県下関にある唐戸市場の魚屋を次の修行の場に選んでくれました。
 下関の地で6年の修行を積み、次の修行の場に選んだのが関西の大都会・神戸の魚屋でした。すでにひととおりの技術はあったものの、田舎出身であるがための口下手を直し、将来の接客技術を学ぶための最後の仕上げの4年間でもありました。

開業資金を得るため東京で鳶(とび)職となる

 郷里の大分を出て10年が経過し、魚屋としての修行は十分に積んだものの、給与がそれほど高くなかったことや、青年期ならではの浪費もあり、開業資金を貯めるまでには至りませんでした。
 そうした時、今度は一番上の兄から「金を貯めるなら東京で鳶(とび)職をやるのが手っ取り早い」と、蒲田にある会社を紹介してもらいました。時代は東京オリンピックが開かれた昭和39(1964)年。建設関係の仕事はいくらでもありました。
 仕事を始めるにあたって尾畠は、勤め先の社長に「魚屋の開業資金を貯めたいから3年やらせて欲しい」と正直に話し、頭を下げました。
 こうして、魚屋とは全く違う鳶(とび)職の仕事についた尾畠でしたが、どんどん仕事を覚え、現場のリーダーを任されるほどになりました。
 この時、「仕事は段取りが7割、実働が3割」ということを覚えたことと、建設現場で学んださまざまなノウハウが、後年、ボランティア活動をするうえで大いに役に立ちました。
 やがて約束の3年が近づきます。雇い主の鳶(とび)頭は、尾畠を惜しみ、江戸の鳶(とび)職人が代々伝えてきた「木遣唄(きやりうた)」を覚えるよう勧めたり、最後は「半纏(はんてん)」まで与えて、その技量を惜しみました。

29歳で開業し、65歳で魚屋を閉める

 東京での資金作りを終え、28歳になっていた尾畠は別府に戻り、結婚した後、1年後の29歳、昭和43(1968)年に念願の魚屋を開業します。店の名前の「魚春」は義父がつけてくれました。
 研究熱心な尾畠は、他の同業者に負けまいと、市場でさまざまな魚を買っては、深夜遅くまでさばき方の練習に明け暮れ、そのかいあって「魚春」の評判はどんどん上がり人気店になりました。
 こうして一国一城の魚屋の主として、家族の柱となった尾畠は、子供を大学へ進学させ、やがて年金を得られる65歳を迎えます。
 かねてより「65歳になったら、魚屋を閉めてボランティアに専念する」と計画していた人生プランを実行に移すのでした。

新潟での被災地支援の翌々年、日本縦断を完遂

 ボランティア自体は、現役時代の50代から、地元の由布岳の整備に従事していた尾畠でしたが、引退後はいよいよ全国を視野にその活動を拡充する決意をしました。平成16(2004)年10月12日の誕生日がスタートの日でした。
 すると、そのわずか11日後の同年10月23日に新潟県中越地震が起きました。食糧とテントを積んだホンダのカブに乗り、尾畠は大分から新潟県柏崎市まで1100kmを走り、約20時間かけて現地入りし、被災地の家屋の片付けなどの支援にあたりました。
 新潟から大分に戻ると、今度は、50歳の頃から地図をみて計画を立ててきた日本縦断3250.5kmの徒歩の旅への挑戦を開始しました。鹿児島県の佐多岬を出発し、平成18(2006)年7月12日、92日間をかけて北海道の宗谷岬に到達。岬の直前では、駆けつけた夫人や孫とともにゴールを果たしました。

東日本大震災では、不眠不休の運転で恩人と再会

 その5年後の平成23(2011)年3月11日、未曽有の災害が日本を襲います。東北地方を中心に太平洋沿岸部を巨大な津波が襲い、12都道府県で約2万2千人の死者と行方不明者が発生した東日本大震災。
 尾畠には、5年前の日本縦断の旅の際、宮城県の南三陸町で大雨に会い、洗濯しているとき、60代くらいの左半身が不自由な地元の女性から、「これ食べて元気、出してな」と両手で抱えるほどの量のおこわをもらった忘れられない思い出がありました。
 その女性が心配になり、当時教えてもらった連絡先に電話しましたが、何度かけても全くつながりません。居ても立ってもいられなくなった尾畠は、食糧を積み、車で大分を出発。南三陸までの1700kmをほとんど寝ることなく走り続けました。
 現地の道路はズタズタで、橋が流された箇所を迂回するなど苦労の果てにやっと、女性と出会った場所にたどりつきましたが、一帯はぐちゃぐちゃの状態でした。いよいよ心配が募りますが、現地の人に確かめると、女性の家は高台にあり、そこまでは津波は来なかったということでした。
 そうこうするうちに、大分から駆けつけた尾畠のうわさを聞いた女性のお兄さんが現れ、家まで連れて行ってくれました。再会した二人は子供のように泣き、無事を喜び、尾畠はワゴンに積んできた日持ちのする玄米60kgを手渡したのでした。

震災の記憶の風化を危惧し本州一周の旅に出発

 その後も、大分との行き来を繰り返しながら、南三陸町で行なった支援は合計500日間にも及びました。
 現地では震災後も余震が続き、瓦礫が倒壊する恐れがあることから、一般のボランティアの活動には制限がありました。一方で瓦礫や泥の中には被災者の大事な思い出が詰まったさまざまな品があふれていました。そこで、当時の南三陸町の佐藤町長は、瓦礫から被災者の写真を探し出し、持ち主に届ける「思い出探し隊」という活動を思いつきます。その隊長に選ばれたのが尾畠でした。
 さて、その後、3年ほど経過すると、被災地の道路も徐々に整備され、家屋の建築がはじまるなど復興への動きが本格化していきました。同時に、震災の記憶が風化していく懸念を尾畠は持ち始めました。
 「いつ日本のどこでまた大地震が起こるか分からない」という教訓を伝えるため、当時74歳だった尾畠が次にとった行動が「本州一周4100kmの旅」でした。8年前の日本縦断のときより850kmも長い距離を徒歩でたどる旅です。
 平成26(2014)年4月1日に出発した尾畠は、「東日本大震災の復興を願う旅」という旗をリュックに掲げ、139日間をかけこの旅を完遂しています。

山口の2歳児発見で一躍“時の人”に

 こうして65歳以降、全国の被災地支援に尽力してきた尾畠でしたが、その知名度を一気に上げたのは、何といっても2018年の山口県の2歳児発見のニュースでした。
 同年8月12日、山口県の屋代島で2歳の男児ヨシキ君が行方不明となり、警察や消防が3日間におよび150人体制で探すも見つからず、生存のリミットといわれる72時間が刻一刻と迫るなか、大分から駆けつけた尾畠が、捜索開始からわずか20分で発見した快挙がそれです。
 捜索隊の多くが、2歳児はそう遠くへは行かないだろうとの判断で下の畑の周辺ばかりを捜していたのに対し、尾畠は過去の経験から「小さいっ子どもちゅうのは下に下がらんで、上に上がりたがるもの」との確信があったため、坂道をのぼり、山道に続く沢まで探したことが発見につながったのでした。
 事前にヨシキ君の家族に会い、「もし発見したら、どんなことがあっても手渡しします」と約束をしていた尾畠は、ヨシキ君をタオルにくるみ抱きかかえながら、お母さんに渡しました。

過度な評価をいやがる謙虚な精神

 ヨシキ君発見の際、家族に引き渡した後、感謝したヨシキ君の祖父が「せめて、うちでお風呂入って。ご飯も食べてって」と引き止めるのに対し、「ボランティアは自己完結で、決して対価はいただかない」が信条の尾畠が、丁重に辞退する姿にも世間の人々は驚かされました。
 自営業を営んできた尾畠の引退後の収入は、約5万5千円の年金だけ。貯金もほとんどありません。それをさらに切り詰め、被災地や支援場所へのガソリン代を捻出し、ボランティア活動を続けているのです。
 愚痴や不平を一言もいわず、あるのは夢や計画とその実行のみ。そして、もうひとつの特徴が過度の評価をいやがる謙虚な姿勢です。2018新語・流行語大賞に選ばれた、尾畠を表す「スーパーボランティア」の受賞と表彰式を辞退した一件にも、その心根が現れています。
 ボランティアの現場に尾畠がいると雰囲気が明るくなり、来る人を拒ばないその人柄に、人生相談を持ちかけられることも多いといいます。そのような姿を評して、尾畠をボランティアの“神”と表現する人もいます。

右眼の視力を失うもボランティア精神は今も健在

 本稿執筆時点で84歳になる尾畠春夫は、現在どうしているのかが気になりWeb検索していると、2024年1月取材のNEWSポストセブンの記事が見つかりました。サブタイトルに「能登半島の被災地へ向かわなかった意外な理由」という気になる文言があります。まずは記事の内容を確認する前に、掲載されたたくさんの写真から、彼の今の姿を確認することができました。
 記事の方ですが、ご承知のように、2024年はその初日から、能登半島で大きな地震がありました。従来ならば、このような災害が起きると、真っ先に被災地に駆けつけていた尾畠の姿が今回ないことについて、その理由を取材した記事でした。
 結論からいうと理由は二つ。直接的な理由は、2023年12月に、自宅近くで事故を起こし、車の前面がぺちゃんこになり、修理に出していたため、現地へ行くことができなかったことです。
 しかし、もうひとつの要因として、心配な情報が記されていました。2023年5月に、白内障か緑内障かは判然としないが、右眼の視力を失ったと本人が述べています。
 さらに、この際に全身の検査をしたところ、胃と食道の接合部にガンが発見され、闘病生活を送っていたことが明かされます。幸いに、ガンは内視鏡で切除できて、その後は食欲も旺盛だと本人は続けます。
 現在も、日課として別府湾の海岸に打ち上げられたペットボトルなどの清掃ボランティアを続けているほか、2023年には、隣県・熊本の益城町の土砂災害の現場に現地入りして活動を行っているとのこと。
 車の免許更新の方は、大型一種は更新できなかったものの、普通免許は無事更新できたそうです。
 「体調はもう大丈夫ですよ! 事故で故障した車は修理に1ヵ月かかるみたいで、車が戻ってきたらすぐにとはいかないけど、体と相談して、現地に向かうつもりでいます」とその記事の締めくくりで述べる彼の精神力には、改めて日本人全員が敬服するものがあるといえるでしょう。(第12話了)


(主な参考資料)
・白石あづさ(2021)『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』文藝春秋
・情熱大陸 #1020「ボランティア・尾畠春夫」“神”と呼ばれるスーパーボランティア尾畠さんが被災地に行く理由。秘めた想い初告白。2018年09月23日(日)放送分、MBS動画イズム(視聴日:2024年6月8日)
・《スーパーボランティアの尾畠春夫さん激白》「国は何をしているんだ」能登半島の被災地へ向かわなかった意外な理由(2024.01.30)、NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20240130_1938047.html?DETAIl (閲覧日:2024年6月9日)
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