第2話 打ち首?覚悟で禁制のふぐ料理を出した女将【山口県】

文字数 3,846文字

藤野みち(ふじの・みち、出生年不明-1921)

 山口県西部、関門海峡に面する港湾都市・下関市。その名物といえば、真っ先に挙げられるのが全国からの一大集積地となっている「フグ(現地ではフク)」です。今回取り上げるのは、下関でフグ料理を提供する代表的な割烹旅館「春帆楼(しゅんぱんろう)」の創業者である女将・藤野みちに関する興味深いエピソードです。なお、公式ホームページをはじめ、他の文献でも「みち」が「ミチ」と記載されていたり、両者が混在する例が認められ、現状どちらが正しいのか判断がつかないため、ここでは便宜上「みち」で統一させていただきます。

歴史上たびたび禁じられてきたフグ食

 さて、ご承知のようにフグの多くの種類にはテトロドトキシンという猛毒があり、歴史上大勢の人間が命を落としてきました。古くは縄文時代の遺跡に、フグにあたって突然死したような5人の人骨の痕跡がみとめられたとする説もあります。
 豊臣秀吉は朝鮮出兵の文禄・慶長の役 (1592~1598)の頃、武士の間でフグ中毒者が続出したためフグ食禁止令を出しています。江戸時代に入ってからも、毛利藩のように「フグを食べた者は家禄の没収や家名断絶」という厳しい措置を定めたケースもあります。本来、主君に捧げるべき命を、自らの食い意地で落とすなどもってのほか、ということですね。
 藤野みちが夫の死後、未亡人になって春帆楼を創業した明治期時点では、明治15年(1882)に明治政府が発令した「河豚食う者は拘置科料に処する」という決まりが厳としてありました。一方で、フグはやはり美味しいので、下関はおろか、江戸の庶民の間でも、川柳や俳句にフグという言葉が頻繁に現れるほど、フグ食は普及していたそうです。

明治時代に「打ち首」は可能なのか?

 さて、くだんのエピソードに話を戻すと、春帆楼の公式ホームページで熱く語られている藤野みちによるフグ料理提供は、明治20年(1887)の暮れに行われたようです。相手は時の内閣総理大臣・伊藤博文。この日はあいにくの大時化(おおしけ)でまったく魚がなかったなか、伊藤が「魚を食したい」と所望するのにみちが命がけで応えたエピソードとして紹介されています。
 これを読んで筆者の頭にまず浮かんだのは「ん? 明治時代に打ち首?」という疑問でした。しかし、「打ち首問題」の検証に入る前に整理しておかなければならないのは伊藤博文と春帆楼との関係です。
 まず、伊藤博文の出身県は山口県です。つまり地元ということ。一方、みちの夫であった藤野玄洋はもともと下関出身ではなく、九州の豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医でした。しかし、自由な研究を求めてその職を辞し、次の居住地を捜していたときに、この地へ招いたのが隣接する本陣・伊藤家だったと書かれています。こちらの伊藤家というのは、下関の豪商を指しているようで、博文の伊藤家とどういう関係なのかが今回よく分かりませんでした。しかし、いずれにせよ、その新天地で玄洋はまず、お医者さんですから開業医として医院を開くわけです。やがて彼は死去。みちが未亡人として残されます。

「春帆楼」の名付け親は伊藤博文

 そして、明治14~15年頃(1881~1882)、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたとなっています。何か急に「割烹業」が出てきたみたいですが、この点は不自然ではなさそうです。というのは、玄洋が営んでいた医院の頃から、眼科の診療行為だけでなく、長期療養患者のための薬湯風呂や娯楽休憩棟があったり、希望する患者には、この頃から妻・みちが手料理を提供していたとされているからです。つまり、割烹旅館に改装される前から、「料理」も「旅館」もいずれもその素地があったことになります。
 次に、伊藤博文が春帆楼と切っても切れない関係だと思うのは、「春帆楼」という屋号がそもそも伊藤の命名なのです。「春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様」を表したそうです。さらに付け加えると、そもそも地元民の伊藤はフグ食に慣れていて「好物」だったらしいのです。
 以上の関係性からみて、仮に明治期が今と違い、いかに為政者と一般人との距離が離れていたと考えたにせよ、この状況で「打ち首」はそもそもないんじゃないか?とまず思いました。
 いずれにせよ、喜んでフグを食した伊藤はこのあと、翌明治21年(1888)に当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号となりました。

何と明治14年まで「打ち首」は残っていた!

 フグ好きの狸おやじ?の伊藤博文は放っておいて、今度は制度上「打ち首」が可能だったのかを検証しました。
 何と、第2次大戦前まで続いた「旧刑法」が制定されたのは明治15年(1882)なので、それまでは可能だったようです。そして実際の処刑例が明治14年(1881)に確認できました。合法的な事例としては、これがいわゆる「最後の打ち首」ということになります(官憲による非合法事例はその後もあった模様)。
 藤野みちによるフグ料理提供は明治20年(1887)ですから、すでに旧刑法施行から5年もの歳月が経過しています。もし仮に、彼女が世情にものすごく疎い仕事一筋の人だったとしても、一国の極刑の「打ち首」が無くなったらしいことくらいは認識していたんじゃないかと思います。
 念のため付け加えますが、前述の「最後の打ち首」の罪状は「強盗殺人」で、「フグ料理提供」程度の事件ではありません。

アイドル番組のアポなし訪問にも柔軟に対応

 ここまで書いてきて、読んでいる方に誤解を与えるといけないので、最後に春帆楼が掲げる「おもてなしの心」を彷彿とさせるエピソードをひとつ紹介し、締めくくりとします。
 実は筆者は春帆楼に、以前から好感を抱いてきた経緯があります。しかし、自身は下関へはだいぶ以前に訪れた記憶はあるものの、大してお金もない若い頃の話で、高級なフグ料理など食べていないし、ましてや春帆楼のような高級店を訪れていないことだけは確かです。
 ですが、春帆楼本店の外観や内観の一部、そして提供されるフグ刺しを、映像でですが、みたことがあります。2018年に放映された「AKB48チーム8のあんた、ロケロケ!」という番組がそれです。春帆楼に関する放送内容はざっと次のとおりでした。
 まず、下関駅前に当時15~17歳だった若い4人のメンバーが集まるところから番組はスタート。下関で何がしたいか意見を募り「まずはフグが食べたい」ということで、早速一般人に情報を聞いて回ります。すると、年齢の若い人からは「唐戸市場」周辺にある手頃な店を紹介されたり、勤め人らしき大人の男性からは「春帆楼なら間違いはないでしょう」などの情報を得ます。そして最終的に多数決で「春帆楼」に行くことを決めます。
 しかし本番組のロケはアポなし訪問が基本。そして現地に到着したメンバーは、高台にデンと構え威容を漂わせる春帆楼のたたずまいに驚愕し「これは無理なんじゃないか」とビビります。それもそのはず、春帆楼といえば日清戦争後の講和条約の会場になったり、昭和天皇・皇后両夫妻以降、皇族方が何度も宿泊するなど、通称「下関の迎賓館」と呼ばれる高級料亭で、とにかく「デカい・高そう」だからです。
 やがて勇気を出して、チーム8山口県代表の下尾みう(したお・みう、2001-)が一人で自撮りをしながら撮影交渉に向かいます。そして20分が経過。誰もが諦めていると、「満席で本来ならば事前アポが必要だがフグ刺しだけなら」と特別許可をもらい無事撮影がスタートします。そして大皿に盛られた立派なフグ刺しをメンバーが食します。20分の間に、春帆楼内で関係者のやりとりが何度もあっていた様子が下尾メンバーから明かされます。
 見ていて「由緒ある高級料亭であることにあぐらをかかない立派な対応ぶりだな」と感心し、以来、好感を持った次第です。

藤野みちの波乱に満ちた人生のドラマ化を期待!

 アイドルというサブカルチャー情報が出たところで、当時ペーペーだったメンバーが現在どうなっているかに言及すると、山口県代表だった下尾みうはその後、日韓合同のオーディション参加を機に海外人気が高まり、2018年には「アジアで最も美しい顔100」にノミネートされています。もう一人、熊本県代表だった倉野尾成美(くらのう・なるみ、2000-)は現在、AKB48全体の「4代目総監督」に就任し、メンバーを引っ張っています。
 2人とも過去に映画主演の経験もあるので、いつかはこの、眼科医夫人から、夫との死別を経て有名料亭の女将へと転じていく藤野みちの波乱に満ちた人生を、彼女らが演じる役でみてみたいものです。(第2話了)


(主な参考資料)
・春帆楼公式ホームページ(閲覧日:2024年4月23日)*URL掲載略
・日本水産資源保護協会(平成14年3月製作)「わが国の水産業 ふぐ」https://www.fish-jfrca.jp/02/pdf/pamphlet/074.pdf
・Dailymotion「AKB48チーム8のあんた、ロケロケ! #30 山口県(前編)下尾みう 倉野尾成美 横山結衣 吉田華恋」https://www.dailymotion.com/video/x7sv5nz (元動画はテレ朝チャンネル1、2018年3月9日オンエア )
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