第14話 コテの超絶技巧で躍動する龍を描いた左官の名工【静岡県】

文字数 3,671文字

入江長八(いりえ・ちょうはち、1815-1889)

 江戸末期から明治初期にかけて、「鏝絵(こてえ)」という特殊な分野で名をとどろかせた希代の名人です。後年つけられた、またの呼び名を「伊豆の長八」といいます。
 筆者はそもそも、「鏝」という漢字が最初読めませんでした。「鰻(うなぎ)みたいな漢字で、よくみると偏(へん)のところが金偏(かねへん)になっているなあ……」と気付く程度でした。しかし、読めたところで「コテを使ってどんな絵を描くのだろう?」と、さっぱりイメージは湧きません。
 本稿執筆にあたって、入門者が分かりやすい鏝絵の説明語句を探したところ、「漆喰(しっくい)レリーフ」もしくは「漆喰彫刻」あたりがもっともピッタリな感じがしました。レリーフとは「浮き彫り技法」ということですね。鏝絵は、漆喰をキャンバスおよび下地にした、日本独自の浮き彫り画法で、その担い手が左官ということになります。

伊豆半島南西部の松崎に生まれる

 入江長八は、江戸時代末期の文化12(1815)年、現在の静岡県賀茂郡松崎町に生まれました。7歳の頃、近所の寺子屋であった浄感寺塾に入り、住職などに可愛がられたといいます。12歳を迎えた頃、地元の左官職人に最初の弟子入りをし、以降、左官が長八の本来の生業(なりわい)になりました。
 しかし、長八はこのまま地元で左官を続けるだけの人物ではありませんでした。19歳になった頃、江戸へ出て、日本橋の左官の棟梁に弟子入りします。そして22歳の頃、狩野派の一派である江戸の画家・喜多武清(きた・ぶせい)の下で本格的な絵画修行も始めるのでした。

名声を高めた2つの契機

 長八の生涯において、その名声を高めた大きな機会は二度ほどありました。
 ひとつ目は、天保4(1841)年、27歳になる年に手がけた、日本橋茅場町の薬師堂の柱に描いた「昇り龍・下り龍」の漆喰装飾です。その見事な出来栄えは江戸の評判になりました。
 二度目は、文明開化後の明治10(1877)年、63歳の年に東京上野で開かれた「第一回内国勧業博覧会」への出品です。長八はここで富士山をテーマとした作品など7点を出品し、花紋賞牌を受賞します。その様子が新聞にも取り上げられ、鏝絵と長八双方の知名度が全国に広まるきっかけになりました。
 しかし、残念なことにこれら江戸・東京での作品の多くは、その後、火災などで消失してしまい、現在は見ることができないようです。

まずは長八を知る“龍ツアー”から

 それではいよいよ、郷里をはじめ地方に残された作品を中心に、長八作品のいくつかをみていきましょう。
 まずは、得意の画題であった「龍」です。郷里の松崎町に所在する浄感寺の公式ホームページ(*文末の「主な参考資料」にURLを記載)のトップページを開くと、扉が開いて、本堂の天井に描かれた「雲龍」が現れます。これは漆喰彫刻ではなく、紙本墨画で、32歳の時の作品になります。
 江戸の薬師堂で名人の地位を確立した後、幼少時に世話になった郷里の浄感寺のために手がけています。
 どうでしょう? ものすごい画力ですね。専門家の調査によると、本堂建造に際し、長八の名は「彩色」の担当者として残っていて、それとは別に「左官」として2名の別人の名が記載されているところから、「長八はこのとき、画家として採用されたのではないか」と推測されています。
 単なる左官ではない、「ただ者ではない人物」という印象が、時代を隔てた今も伝わる感じがします。
 次に見ていただきたい作品は、本業の漆喰彫刻として、62歳の時に制作された「龍」(伊豆の長八美術館保管)です。
 長八のまとまった作品は、生誕200年を記念して発行された『伊豆の長八 幕末・明治の空前絶後の鏝絵師』(平凡社。2015年)でみることができます。お住まいの都道府県の図書館を探せばみつかると思います。
 こちらの龍は、雲海に溶け込むように静かに躍動する神秘的な姿を表現しています。漆喰に施された淡い着色も絶妙です。

春を喜ぶ女性と花びらの美しさに見とれる

 龍の次に筆者が魅せられたのが、旧岩科村役場の壁に描かれていたという「春暁(しゅんぎょう)の図」(松崎町蔵)です。
 清少納言の『枕草子』に出てくる「春はあけぼの……」を画題とした作品で、平安時代(と思われる)の女性が両手で簾(すだれ)を開けると、桜の花びらがひらひら舞っている様子が描かれています。
 女性が袖を口にくわえているので、最初、口から花びらを吹き上げているのかと見まごう作品でした。ほとんど、筆を使った秀逸な日本画といってよい出来栄えで、とてもコテを使った漆喰装飾とは思えません。

狐を描かせても天下一品

 立体的な塑像(そぞう)として制作された「白狐(びゃっこ)」(伊豆の長八美術館保管)や、親子の狐の姿を描いた「親子狐図」(東京・橋戸稲荷神社蔵)の本殿扉絵も見事です。
 白狐はユーモラスな情感がよく出ていて、親子狐は母狐に甘える子狐の姿がほほえましいです。

ピアノ曲のエチュードのような精緻なコテさばき

 最後に筆者が「ほう!」と感心したのが、一見、何も描かれていないようにみえる「漣(さざなみ)の屏風(びょうぶ)」(三島・歓喜寺蔵)でした。
 前述の『伊豆の長八 幕末・明治の空前絶後の鏝絵師』には、屏風の全体写真とともに、細部を拡大した写真が掲載されています。
 するとそこには、現代人なら「3D CADで描いたのですか?」と思わず質問してしまいそうな、長八の整然かつ淡々としたコテの基本技術の連続的な軌跡がみられるのでした。
 筆者が好きなピアノ曲のクラシック分野の作品形態のひとつに「エチュード(練習曲)」というものがあります。鍵盤を演奏するピアノのさまざまな基本的技法の習得を目的とすると同時に、作曲家がその枠内でいかに芸術性を発揮するかにも注目が集まります。
 有名な演奏会用作品としては、ショパンやドビュッシーのピアノ練習曲集があります。長八の「漣の屏風」の拡大写真をみていると、思わず、ピアノ練習曲のなかの「無窮動(むきゅうどう)曲」を思い起こしてしまいました。
 同じ旋律が無限と思われる時間続く無窮動曲を聞いた時の独特の感動が、長八名人のコテさばきの軌跡からも伝わってくるのでした。

弟子がみた超絶スピードの制作時間

 長八の実際の作品制作の様子がどうだったかも気になります。資料を確認すると、弟子が、長八の驚くべき制作時間の早さを語っていました。
 例えば、壁に千羽鶴を描く場合、大鶴から次第にサイズを小さく見えるようにする構図などは、1時間くらいで仕上げてしまったといいます。
 観音開きの扉に仁王様を描くのは30分くらい。最も時間がかかる大師像などを木彫や漆喰で作る場合も、3日程度で完成したといいます。

技法を継承した高弟も多く、全国に影響力を発揮

 左官を生業としながらも、本格的な絵画の素養もあり、鏝絵という漆喰装飾を芸術の域まで昇華させた先駆者として評価される長八には、弟子も数多くいました。
 吉田亀五郎は弟子のなかで「四天王の一人」といわれた人物で、長八亡きあとの東京でのその活躍ぶりを、富山の名工たちが上京した際にみて、大きな刺激を受けたとされています。
 また、鏝絵の密集度が日本一高いことで知られる大分県でも、技術の源流をたどると、日出藩のお抱え左官だった青柳鯉市という人物が、修行のため江戸へ出て、入江長八の技法をみて、帰国後にそれを広めたという説も伝えられています。

時代を超え、どんな名工をも上回る無二の存在

 鏝絵は、長八のように芸術性が強調された制作姿勢のほかに、素朴さやおおらかさ、ユーモラスな造形を良しとする評価の在り方も存在します。
 写真家で、全国の鏝絵をみてまわった藤田洋三(ふじた・ようぞう)の著書を読んでいると、全国の名工たちの作品を比較しながら鑑賞する結果にもなりました。
 そこで得た、あくまで入門者としての感想ですが、鏝絵の始祖である長八の作品は、長八以降のどんな弟子や名工と比較しても、一目で違いが分かる気がします。
 コテを駆使する技巧もダントツなうえ、それ以上に絵描きとしてのセンスがまるで違います。前述した、芸術性をとるか、素朴さをとるかという異なる評価の在り方を考慮したとしても、「比較される方が気の毒」という感想さえ抱いてしまう希代の名人だという気がします。
 今の言葉でいうと「レべチ」な漆喰芸術家というのが、今回、長八に触れて得た感想です。(第14話了)


(主な参考資料)
・伊豆の長八生誕200年祭実行委員会編、日比野秀男監修(2015)『伊豆の長八 幕末・明治の空前絶後の鏝絵師』平凡社
・長八記念館 浄感寺公式ホームページhttps://chouhachi-mh.izu-westwind.net/index.html(閲覧日:2024年6月22日)
・藤田洋三(2001)『鏝絵放浪記』石風社
・藤田洋三(1996)『消えゆく左官職人の技 鏝絵』小学館
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