第22話 6歳から天才歌人の片りんをみせた「明治の紫式部」【京都府】

文字数 4,453文字

税所敦子(さいしょ・あつこ、1825-1900)

 明治期の歌人で、「明治六歌仙」の一人に数え上げられた和歌の名手です。後年、「明治の紫式部」と称されるようになった要因は、晩年に明治天皇と皇后に仕える「女官」でもあった点に尽きます。
 決して「源氏物語」のような長編小説を残したわけではなく、実績は、生涯に4万首詠んだといわれる歌から精選された「歌集」と、「日記」類に限られます。
 紫式部とのもう一つの大きな違いは、第2次世界大戦の終結まで続いた旧教育制度のなかで、「修身」の教科書に取り上げられた「婦徳の鑑(かがみ)」の主人公としての逸話、およびその全国的な知名度にあります。
 幼少期からのいくつかのエピソードの検証とともに、現代人にはなかなか想像のつかない明治期の女性の生き様について触れたいと思います。

6歳のとき、歌会で詠んだ歌が周囲を驚かせる

 敦子は、1825年(文政8)、京都岡崎村(通称:錦織の里。現在の京都市左京区岡崎)にて、代々宮家付きの武士を務める林家の長女として誕生します。
 父の林篤国(はやし・あつくに)は文化への造詣が深く、ある日、自宅へ、京都詰めだった鳥取藩士や薩摩藩士の友人とともに、歌の師である浄土宗の修行僧・福田行誡(ふくだ・ぎょうかい)を招き、歌会を開きます。
 篤国が6歳の敦子を連れていたため、行誡が余興のつもりで敦子に「そなたも一つ歌を詠んでみよ」と勧めたところ、敦子は臆することもなく次のような歌を詠んだといいます。

  

 



 居合わせた一同は皆驚き、一様に「6歳にしては歌才がある」と称賛しました。

古今の書に親しみ、外部の歌会へも積極的に参加

 篤国はその後、行誡に敦子の訓導を願い出ました。行誡は敦子に、『四書五経』の素読や、『万葉集』、『古今集』、『源氏物語』の講義を行い、さらには、敦子の和歌の才能を伸ばすため、大徳寺や天龍寺で開催される歌会へも積極的に連れて行きました。
 敦子の歌人としての才能開花は、こうして育まれていきました。

京都詰めだった薩摩出身の夫との結婚と死別

 20歳を目前に控える時期になった敦子は、歌壇の重鎮・香川景樹(かがわ・かげき)の高弟・千草有功(ちぐさ・ありこと)の門下生となっていました。
 そして、桂園派とよばれる香川の門下に、将来の夫となる薩摩藩士の税所篤之(さいしょ・あつゆき)がいたのです。篤之は絵をたしなみ、四条派の門下生で号を文豹(ぶんぴょう)と称しました。敦子はやがて、16歳年上の篤之から絵を習うようになります。
 篤之は、郷里薩摩で過去に結婚・離別歴があり、二人の娘を郷里に残していましたが、敦子と接近するなか、1844年に二人は結婚します。5年後の1849年には長女・徳子が生まれましたが、その3年後の1852年に夫・篤之は肺結核のため死去してしまいます。悪いことはさらに続き、既に身ごもっていた長男を夫が亡くなった年の秋、出産しますが、出生わずか10日あまりで亡くなります。
 このような過程を経て、敦子は一つの決心をします。「篤之の妻として薩摩へ行き、姑に仕え、子供たちの面倒をみよう」という決断がそれでした。周囲の心配を得ながらも、その後、長女徳子ともども、京都を出発し、約40日間をかけ、薩摩(鹿児島)に到着したのでした。

“鬼婆”を詠んだ歌で敦子は何を伝えたのか?

 先妻の子供2人とも無事面会を果たした敦子でしたが、問題は、近所から“鬼婆”と評されていた強烈な性格の姑でした。ある日、敦子は姑から皮肉をいわれます。

 「よそもんのおまはんさあには、あたいは鬼ばばあのようにごわんどか」

 これに対し、敦子は即座の歌でやさしくこう答えたのでした。

  

 


  (仏にも近いありがたいお心とも知らないで 鬼婆と人はうわさをするのでしょう)

 思いがけない返答に姑は涙ぐみ、堅い心をその後開いていったとされています。
 この話は、戦前の「修身」の教科書に掲載されたため、全国の子女に「婦徳の鑑(かがみ)」として敦子の名は広く知れ渡り、その影響は第2次世界大戦が終結する1945年まで続きます。

修身教育の廃止とともに薄らぐ敦子の知名度

 敦子が亡くなったのは1900年(明治33)ですから、第2次世界大戦が終結する1945年には、既に没後45年もの月日が流れています。にもかかわらず、この間、戦前の修身教育を受けた生徒たちの心には、エピソードの中身とともに、税所敦子の名が刻まれ続けていたことになります。
 しかしこれら旧時代の教育制度は、戦後、軍国主義の温床としてGHQにまず否定され、数年後に開かれた国内の文教審議会でも「修身教育をわざわざ復活させる必要はないだろう」との認識で否定されました。
 修身の教科書の廃止とともに、歌人である以上に知られていた「婦徳の鑑(かがみ)」としての敦子の名は、戦後の新教育制度の開始と、人々の価値観の変化のなかで次第に色あせ、知名度を失っていったと考えられます。

上京後、皇居で「女官」として過ごした晩年の人生

 存命中に話を戻すと、鹿児島での生活が10年を超え、すでに姑も死去していた敦子は、1863年に、薩摩藩主・島津久光より、彼の養女で、近く京都の近衛忠房に嫁ぐことが決まっていた17歳の貞姫の教育係に取り立てられます。敦子は、13歳になっていた娘の徳子ともども久しぶりに京都に戻り、郷里での再生活をスタートさせます。ところが、その9年後の1872年に、貞姫の夫・近衛忠房が死去。未亡人となった貞姫が、出家し東京へ移住することを決めたのに従い、敦子も行動をともにします。
 さらに3年後の1875年、今度は敦子自身が宮中への出仕の要請を受けます。推薦者は、元薩摩藩士で、その頃、宮中の侍従番長を務めていた高崎正風でした。薩摩時代に、敦子が島津家家中の婦女子に書道や和歌を教えていた頃の教え子の一人です。
 しかし、それ以上に大きかったのが明治天皇の皇后のたっての願いでした。実はこの皇后、敦子が京都で貞姫に和歌や古典文学を教えていた頃、一緒に参加していた公家の姫の一人だったのです。

影響を受けた大物教育者や大物文化人

 現代の私たちの感覚では、窮屈で耐えるばかりの地味な一生にみえる敦子の生涯ですが、同時代の人たちにとっては、決して人の悪口をいわない、乗らない、そして自身の信ずる信条に従い、生真面目に行動する敦子の姿は、ひたすら尊敬の対象であり、ときに憧れでもあったといえます。

(教育者・下田歌子の場合)

 下田歌子(しもだ・うたこ、1854-1936)は、今日でも実践女子学園の創立者として知られますが、明治時代に、当初は皇女教育のため、その後一般の女子教育にも範囲を拡げ、足掛け3年にも及ぶ欧米教育視察の華々しい成果をひっさげ、男勝りの情熱をもって女子教育の先駆者となっていった人物です。
 実は、敦子に比べ短い期間ではありましたが宮中で「女官」を務め、同じように歌人として和歌を教え、同僚だった時期があります。仕事仲間とはいえ、敦子とは29歳という親子に等しい年齢差があり、初期には敦子が歌子に歌を教えていた関係でもありました。
 その後、歌子も才能を開花させ、勝気な性格もあって、一時、敦子をライバル視していたこともありました。しかし折に触れ、敦子の人格や考え方、行動を尊敬するようになり、まるで姉妹のように親しくなったと伝えられています。
 下田が夫を病気で亡くし、悲嘆にくれていた時、敦子は過去に同じように夫を亡くした経験があることを歌に託して伝え、歌子を励ましました。

  

 



 この歌の存在は、二人の関係性を表すエピソードの一つです。

(日本画家・上村松園の場合)

 上村松園(うえむら・しょうえん、1875-1949)は、いわずとしれた美人画の日本画家です。重要文化財に指定されている『序の舞』の気品あふれる着物姿の美人画をはじめ、明治から昭和に至る長期間、創作活動を続けた芸術家です。女性初の文化勲章の受章者でもあります。
 敦子とは50歳の年齢差があり、直接の交流はありませんでしたが、まるで松園からの一方的な尊敬という視線でつづられた文章が残っています。絵画以外の上村の代表的な著書『青眉抄(せいびしょう)』の一部として書かれた「税所敦子孝養図(さいしょあつこ こうようず)」がそれです。
 子息が通っていた小学校の校長から「学校の講堂に飾る、児童たちの教訓になるような絵」を頼まれ、資料調査を進めている際、敦子の次の歌に出会います。

  

 



 遠く薩摩の地で姑や先妻の子の面倒をみながら、ときに辛さを感じることがあっても、それは、み仏から「本当の人間になりなさい」と投げかけられた恵みなのだ、という内容を歌ったこの歌に深く感銘を受けた上村は、絵の創作とは別に随筆にその心情をしたためました。
 随筆のなかで上村は、「わたくしは、税所敦子女子の、この至高至純の美しい心根を画布に写しながら、いく度ひとしれず泪をもよおしたか判らなかった」と述べています。

 最後に、筆者自身が「意外だなあ!」と感銘を受けたエピソードを一つ紹介し、締めくくりとします。晩年の女官時代の宮中での話です。周囲は、武家出身の敦子より身分の高い、公家出身者ばかりです。明治時代の宮中という特殊な環境下、皇后からちょう愛されていた高齢の敦子を、嫉妬心からよく思わない人物も多くいました。
 同じ武家出身者だった下田歌子の場合、負けず嫌いの性格もあって、理不尽ないじめに遭うと、敢然とそれに立ち向かい、たびたび騒動を起こすわけですが、敦子はすべての事象を受け流していました。
 ところが、いじめは女官のみならず、その侍女たちである古参の針女にまで及んでいきました。この場合、直接の犠牲者は敦子ではなく、敦子の若い侍女たちがターゲットにされました。陰湿ないじめが自分の侍女たちにまで及んでいることを知った敦子は、行動を起こします。
 古参の針女たちを自室に呼び、決して糾弾するのではなく、人の道を諄々(じゅんじゅん)と諭します。その結果、古参の針女たちは徐々に敦子を尊敬するようになったと伝えられています。
 ただ耐え忍ぶのではなく、その心根には、静かながらも厳とした行動理念があることをかいま見るようなエピソードが、深く心に残りました。(第22話了)


(主な参考資料)
・扇子 忠(2014)『明治の宮廷と女官』雄山閣
・阿井景子(1990)『明治を彩った妻たち』新人物往来社
・楠戸義昭(1992)『維新の女』毎日新聞社
・古屋照子(1983)『女人まんだら』叢文社
・上村松園(底本1976)「税所敦子孝養図(電子版)」青空文庫(閲覧日:2024年8月17日)
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