第25話 「酒造りの神様」と呼ばれる伝説の杜氏(とうじ)【石川県】

文字数 3,499文字

農口尚彦(のぐち・なおひこ、1932-)

 石川県南部の小松市に「酒造りの神様」と呼ばれる人物がいます。2006年に厚生労働省が選ぶ「現代の名工」に選ばれたほか、2008年には黄綬褒章、2023年には文化庁長官表彰を受賞。日本酒製造の技術力を競う「全国新酒鑑評会」では、12年連続を含む通算27回の金賞を受賞しています。
 流派としては、日本三大杜氏の一つに数えられる丹波杜氏に属し、「山廃(やまはい)仕込み」の伝統技術を継承する一方、平成以降の日本酒ブームのきっかけとなった「吟醸造り」にいちはやく取り組んだ先駆者としても知られています。
 メディアへの出演も多いのですが、本稿では主に、77歳当時の農口を捉えた映像と、約10年後、88歳当時の農口の映像資料を中心に、その技法や酒造りの哲学を検証します。

能登半島の酒造り集団の村に生まれる

 1932年に石川県能登半島にある現在の能登町で生まれた農口の実家は、父も杜氏、祖父も杜氏という杜氏一家でした。周囲を見回しても、村全体が酒造り集団の村となっていて、わずか20軒の集落のなかに7人もの杜氏がいたといわれています。
 農口が本格的な修行を開始するのは1949年、16歳の時でした。故郷の石川県を離れ、最初の修行の場に選んだのは静岡県の伝統ある酒蔵でした。

25歳で「頭(かしら)」に抜擢されたある事件

 修行開始から8年が経過し、3軒目の造り酒屋で働いていた時、ちょっとした事件をきっかけに農口は思いがけない出世の道を歩むことになります。その造り酒屋で当時、杜氏を任されていた人物は、酒を製造する上での「経過表」もつけず、いわば勘だけでモノづくりを進めるタイプの職人でした。
 ある年、酒造りの基盤ともいうべき「酛(もと)」の製造が十分ではなく、結局失敗するのをみた農口は、「このやり方は間違っている」と感じ、酒屋の経営者である蔵元(くらもと)に意見を述べます。年功による上下関係が全てを支配していた時代です。蔵元は最初、「若造が何を言うか」と激怒しますが、なぜかその意見が頭から離れませんでした。
 後日、蔵元が鑑定の専門家に尋ねたところ、「その若者の言う通りだ」という思いがけない返答が返ってきました。愕然とした蔵元は、その年の酒造りの最終日、皆を前に、来年は農口に現場リーダーである「頭」を務めさせることを告げます。

27歳の若さで杜氏になるも第1号酒は客に酷評

 さらに2年後、すでに10年以上修行を重ねていたとはいえ、まだ27歳という若さだった農口に、郷里・石川県の蔵元から「杜氏にならないか」という声がかかりました。通常はありえない異例の抜擢でした。
 意気揚々と、自信を持って郷里に戻った農口は、修行先で学んだ東海風の上品な香りの酒を石川県に持ち込み、皆を驚かそうと、青年ならではの野心を持って、気合を入れ酒造りに取り組み、「きれいで華やかな香りのする酒」を完成させました。
 ところが、この杜氏第1号の酒は、一部の鑑定士からは「北陸にない綺麗な酒を造ってくれた」と評価が高かったものの、地元の客からは「水を入れたような薄い酒」と酷評され、全く受け容れてもらえませんでした。
 原因は、地元の客の多くは林業に携わる職人たちで、一日中汗水たらし、日が暮れるまで働くため、仕事のあとの憩いの時間には「濃い酒」を欲しがることにありました。この時より農口は、自分の考え方で酒を造るのではなく、「吞む人に合わせるのが杜氏の酒造り」という考え方に180度の転換を果たします。そして、10年の試行錯誤を経て完成した「華やかな品のいい香りがありつつも味の濃い酒」は、その後増産を重ね、従来と比べ20倍もの販売増を蔵元にもたらしたのでした。

ロマネ・コンティに匹敵する最高の日本酒へ挑戦

 時代は下り、50代後半頃の話です。農口はある知人から、ワインの最高峰といわれるロマネ・コンティをごちそうになります。ロマネ・コンティは、1本数百万円したり、ものによっては3億円の価格で取引されたこともあるという高額な酒です。
 滅多に飲むことのできない酒を口にした農口は、初めて味わうその味に驚きます。舌を刺激する「刺すような酸の強み」が、このワインの特徴でした。「日本酒の感覚とは全然違う」という感想を抱いたのと同時に、「この酒と、自分が造る酒とでは何が違うのだろう?」と考えました。
 国内ではすでに、さまざまな称号と名誉を手にしていた農口でしたが、この頃はまだ海外では日本酒がほとんど知られていなかった状況を踏まえ、「海外の人にも日本酒を楽しんでもらえたら」、「世界の人たちの価値観が変わるような日本酒を造りたい」という新たな目標ができました。
 それを実際に実行に移したのが、「あと何年酒造りができるか分からない」と考えるようになった88歳の年の酒造りでした。淡麗できりっとした味わいとなる「大吟醸」の技術と、豊潤でパンチのあある「山廃」の技術を融合させた「20BY山廃純米大吟醸」を完成させる工程が、『NOGUCHI -酒造りの神様-』ではメインテーマとして描かれています。

写真の印象とは違い、穏やかな好人物

 農口を最初、映像資料を見る前に、写真だけで見た感想は、いかにも気難しそうな職人に見えました。弟子を怒鳴ったりして、さぞかしおっかない人物に違いない、と勝手な想像をしながら見始めたのですが、その予想は完全に外れました。
 農口はむしろ、穏やかな好人物でした。厳しいのはもっぱら、自分の酒造りの姿勢に向けられていて、かつその手法は、極めて合理的な考えを反映したものでした。高年齢なので、パソコンこそ使わないものの、電卓片手に製造の管理表に記入する内容は、全部で30項目近くにもおよび、「温度管理」や「米の吸水率」など項目によっては小数点以下2ケタの細かな数値がびっしり記入されていることに驚かされました。

ゴールを見据えた臨機応変な対応力

 さらに驚くのは、状況に応じ臨機応変に対応する判断力です。その真骨頂は、精米された原料の米を水にひたし、給水させる「浸漬(しんせき)」と呼ばれる工程や、蒸米を台に敷き詰め、麹菌をふりかけ繁殖させる「米麹(こめこうじ)」の製造工程で発揮されていました。
 「浸漬(しんせき)」の工程で見せる農口の精緻な製造技法は、77歳の酒造りの時も、88歳の酒造りの時も同じく見られました。
 高額な値段で仕入れる大吟醸用の米ですが、天候次第で、必ずしもその年の米の出来が良いとは限りません。硬くて水を思うように吸わないなど、原料米の状態が良くないときは、1~2℃の単位で水の温度を上下させたり、洗米の時間を10秒ほどの単位で微調整しながら酒造りを進める姿には、まだ麹や酵母が登場する前の、素人目にはそれほど神経を使う場面ではなさそうにみえる工程だけに、驚きの念を感じざるを得ませんでした。

経験主義とは真逆の、合理的で精緻な酒造り哲学

 「米麹(こめこうじ)」の製造工程で驚いたのは、77歳の時の酒造りです。吟醸造りでは、通常使われる「床(とこ)」と呼ばれるの大型の容器ではなく、「蓋(ふた)」という名称の小型の容器を使い、細かな作業を行うのが基本です。
 いったん、専用容器を用意し準備に入った農口でしたが、最終的に何とその「吟醸造り専用器具」の使用を取りやめ、通常の大型容器での米麹造りを決断したのでした。その年の米が硬く、小型の容器を使った場合、米の芯にまで麹菌が根を張る理想の「突きハゼ」の形状が完成できないと判断したからです。
 これを見て驚いた筆者は、「この名工は、過程や様式にとらわれず、常にゴールを見据えている人なのだ」という印象を強く持ちました。
 すでに90歳を超えた高齢の杜氏ですが、その中身は、経験主義にとらわれない、むしろそれとは真逆の、合理的な酒造り哲学と精緻な手法に支えられた、まぎれもない「現代の名工」だということがいえるでしょう。(第25話了)


(主な参考資料)
・山中有監督(2023)『NOGUCHI -酒造りの神様-』動画配信(Amazon prime video)(視聴日:2024年9月6日)
・『プロフェッショナル 仕事の流儀 杜氏(とうじ) 農口尚彦の仕事 魂の酒 秘伝の技』(DVD)、NHKエンタープライズ(2010年3月9日放送)
・堀江修二(2020)『日本酒の製造技術Q&A 「日本酒の来た道」・技術編』今井印刷
・武田憲人編(2023.1.6)『散歩の達人×唎酒師 日本酒こだわり基礎講座』(Mook)、交通新聞社
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