第15話 海外からも尊敬を集める里山料理の料理マスターズ【長野県】

文字数 5,437文字

北沢正和(きたざわ・まさかず、1949-)

 長野県の東部、佐久地方の八ヶ岳北嶺で、「職人館」という名の農家レストランを営む人物が今回の主役です。
 農林水産省の料理人顕彰制度である「料理マスターズ」の第1回(平成22(2010)年度)受賞者の一人で、第7回(平成28(2016)年度)にも受賞しています。専門は蕎麦(そば)と創作料理。といって彼は、いわゆる「どこどこの老舗蕎麦店の技を継承する」とか、「パリの3つ星レストランで何年修業した」といった料理人とはタイプが全く異なります。
 近隣の里山にある地場産素材や自然志向の食材を使い、むしろ余計なものを削ぎ落した、「食の原点」に立ち還る姿勢が特徴の「料理人 兼 食と地域の研究家」というのが北沢の本当の姿といえるでしょう。
 「食」や「食文化」をめぐる彼の言動は、なぜ人を引き付けるのか? その理由を追ってみました。

縄文時代の再評価で浮かび上がる「食」の原点とは?

 まずは、北沢が最近、講演などでもっとも強調している「縄文時代の食」に注目してみましょう。
 近年の発掘調査から、今から約1万2000年前~紀元前10世紀頃まで続いた縄文時代は、次に稲作が始まる弥生時代(紀元前5世紀~3世紀半ば)以降に比べ遅れていた文明ではなく、1万年もの長い期間続いた、かなり豊かな生活であったことが分かり、再評価がなされつつあります。
 北沢は、地元の関係者とともに、縄文式土器のレプリカを使って、実際に「縄文時代の食」を再現する試みを行いました。
 縄文時代の調理法は、土に穴を掘って土器を入れ「煮炊き」を行うやり方と、同じく穴を掘り、1時間ほど焚火をして加熱した石の上に、朴葉(ほうば)などに包んだ食材を乗せる「蒸し焼き」の2種類だけ。ただし、縄文後期には、塩づくりがすでに始まっていたので、味付けには塩のみを使います。
 食材は、いつも北沢が地元の山で採取する山菜や野菜に、肉や魚を加えただけの、いたってシンプルな内容です。しかし、これがものすごく美味いのだそうです。
 現代人も、その良さをもっと知るべきではないかというのが、現在の北沢の、日本の食文化に対する主な意見です。

町役場に勤務しながら職人を精力的に取材

 1949年、当時の長野県北佐久郡望月町に生まれた北沢は、地元でそのまま望月町役場の職員となります。一方で、かなりの読書好きだったようで、民芸運動の提唱者として知られる美術評論家、宗教哲学者の柳宗悦(やなぎ・むねよし、1889-1961)などの著書から強い影響を受けます。民芸運動というのは、無名の職人による民衆的美術工芸のなかに美を見い出し、世に紹介することを良しとする運動のことで、スタートは1926(大正15)年とされています。
 以上を念頭に置くと、北沢の最初の著書で代表作である『生業再考(*なりわいさいこう。筆者注)』(1984)の持つ意味がよく分かります。同著は、北沢が30代半ばだった頃に月刊誌に15回にわたり掲載された、地域に住む様々な職人たちの聞き書きをまとめたものです。
 この頃はまだ、料理人を目指す前なのですが、カウントすると、15人の職人のうち7人すなわち半数が「食」関連の職人の話で占められていました。そのなかには、後年取り組むことになる「そば職人」の聞き書きも確認できました(その他は、豆腐、天然酵母のパン、川魚料理、玄米採食、饅頭、鯉料理)。

作家志望の片鱗がみられる初期の著書

 『生業再考』に続いて刊行されたのが、3年後に出版された『聞き書き 信州の手作り職人』(1987。郷土出版社)です。あとがきで本人が述べているように、『生業再考』の姉妹編に位置づけられる著書で、12人の地元の職人から聞き取りを行っています。こちらは、4人が「食」に関連した職人でした(鰻職人、味噌・醤油、旅館料理人、ワイン)。
 同著が刊行された時点では、北沢はまだ役場の職員でしたが、前著では書かれていた役場の経歴が、同著では外されていました。また、プロフィールのなかに、「1985年、第3回佐久文化賞受賞」と書かれているので、おそらく前著の功績が認められての受賞だったと推察します。
 また、2冊目の同著では、後年、滋賀大学学長なども務めた財政学、環境経済学、地域経済学の経済学者・宮本憲一(みやもと・けんいち、1930-)が「推薦のことば」(当時、大阪市立大学教授)を寄せているところをみると、専門家筋においても、地域経済振興の観点からみた北沢の活動が認められていたことが分かります。

“山猿”表現は「能ある鷹(たか)は爪を隠す」タイプの照れ?

 共著になる『なぜ私はこの仕事を選んだのか』(2001)は、これから進路を決める若者向けに、第一線で活躍するさまざまな職業人がアドバイスを送るものです。そのなかで北沢は、かつての自分の心情について、「手仕事による物の美しさと健康の関係や、自分の内面にあるものを具体的なものに創造する仕事を考えていたんだ。それで、陶芸家か童話作家になりたった」と述懐しています。
 余談ですが、北沢は、講演や著書のなかで、自分のことを「山猿」と表現して聴衆者や読者を笑わせることが多いです。とくに若者向けのこの本の前半部分は「山猿ぶり」の語り口調が徹底していて、筆者は思わず「あなたはもっとインテリでしょう!」とツッコミを入れたくなりました。
 しかし、何度か読み返してみると、これは「北沢による執筆作品」でもあることに気付き、その文章力・表現力に改めて驚かされるのでした。

職人の魂が乗り移り? 40歳で役場を退職

 町役場に勤務して20余年が経過した40歳の年、北沢は思い切って職場に辞表を提出します。かつて取材した職人たちにならい、自身も職人を目指す決意をしたのでした。
 妻に打ち明けたとき、北沢自身の心に迷いはありませんでしたが、妻から返ってきたのは「あんた、そんなにいやな仕事だったら辞めてもいいけど、新年の1月からどうやって生活するの? うちに貯金なんて全然ないわよ」ということばでした。
 若い頃から趣味の古本、骨董、飲み屋めぐりを続けていた自身の生活を振り返ると、確かに納得がいきました。「金はなし、腕はなしで、オレの40年間は何だったのか? と、つくづく自分の無力、無資力を思い知らされたよ」と愕然としたことを打ち明けています。
 しかし同時に、「よし、ここから何がなんでも自立した職人になる」と沸き立つような意欲も感じるのでした。
 人づてに、いくつかの割烹店や蕎麦屋を紹介してもらい、一日300~400人分の蕎麦打ち修業を始めたのでした。

「古民家」再生型飲食店の草分け

 2年余りの修業期間を経て、郷里に戻った北沢は、もともと祖父の隠居場だったという民家を改装し「職人館」を立ち上げます。
 驚くのはその年代です。何と、1992年。バブル経済真っ盛りの頃で、日本人は当時、まとまった休みがとれると、海外旅行などは当たり前。ときには欧州にまで足を延ばすような時代でした。当然、食事も贅沢で、「少し高くてもいいから高級な料理を」という感覚で、高級フレンチ店や高級料亭を人々が手軽に利用する時代でした。そうした時代の趨勢とは真逆の道を行く「職人館」の立ち上げに驚かされます。
 筆者は個人的に、「古民家を再生した飲食店」というと真っ先に思い浮かべるのが、東京杉並区西荻窪にある古民家カフェ『Re:gendo(りげんどう)』(注。現在はカフェ部門は終了)です。かなり以前から営業していた印象があったので、今回調べてみると、それでも、前身のカフェ業態での創業時期は2011年のようでした。
 復古調の良さ、シンプルな生活が認められたこの時期と、1992年ではまるで人々の価値観が違います。それだけ、「職人館」は先進的(早すぎる?)取り組みだったといえます。

「蕎麦と料理が美味い」と各界著名人にうわさが拡がる

 「職人館」の蕎麦のうまさを最初に発見した著名人は、アコーディオン演奏家で、長野市松代町出身のcoba(コバ、本名・小林靖宏(こばやし・やすひろ)、1959-)だと考えられます。cobaは常連となり、北沢を「キタさん」と呼ぶようになりました。
 cobaがイタリアのコンサートから帰国したある日のこと。いつものように土産に良質のオリーブ油を持ってきて「キタさん、これで何かつくってよ」と頼むと、北沢はそのオリーブ油と、銀座のシェフからプレゼントされていた塩田のいい塩を蕎麦に和え、アクセントに山ぐるみとハーブを散らした大皿の一品を出しました。食したcobaは、「こりゃ脳天かち割られたように、すげえ。蕎麦の食い方の歴史変えるような味だよ!」と感激したといいます。
 cobaが次にうわさを拡げた相手は、音楽プロデューサーの武満真樹(たけみつ・まき。1961-)でした。著名な現代音楽家、武満徹(たけみつ・とおる、1930-1996)の愛娘として知られる人物です。武満徹が仕事場にしていた山荘は、西軽井沢と呼ばれる御代田町(みよたまち)にありました。
 クルマで1時間ほどの距離にある軽井沢もまた、同じ佐久地方に属する“ご近所”でした。

音楽関係者、詩人から歌舞伎役者までが来館

 実際にcobaに連れて行ってもらい、食した武満真樹は、さらに「大袈裟じゃなくて本当においしいの、もちろんお蕎麦がおいしんだけど、その前に色々と出てくる料理がまたいいのよ」と自分の感想を加え、「コムロサン、蕎麦好きだったよね、近所においしいお蕎麦屋見つけたから」と、フォークシンガーで、フォーライフ・レコード初代社長の小室等(こむろ・ひとし、1943-)へうわさを拡げました。
 武満徹の山荘へは、小室等のほか、詩人で翻訳家、脚本家としても著名な谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう、1931-)もよく遊びに行っていたため、2000年に武満母娘が2人を職人館へ連れて行ったそうです。
 音楽関係者を中心としたこれら著名人との交流は、単なる料理提供者と利用客という関係にとどまらず、「職人館調理場談義シリーズ」として何冊もの本にまとめられました。
 以上のような地元連鎖的な交流とは別に、蕎麦通で知られた先代(12代目)市川團十郎(いちかわ・だんじゅうろう、1946-2013)は、北沢が蕎麦をゆで上げる隣りに立ち、水に入れ冷やした蕎麦をつかんで口にしては「これが最高だ」と述べたという逸話も残っています。

雑誌の長野特集では別格のレジェンド料理人の扱い

 初代編集長を詩人で小説家の国木田独歩が務め、日本最古参の女性誌として知られる『婦人画報』(ハースト婦人画報社)は、2023年10月号の第一特集で「日本最強のテロワール 実りの王国、秋の信州へ」と題する長野特集を行いました。
 耳慣れないテロワールという言葉は、フランス語で「風土の、土地の個性の」という意味。ここでは、この言葉がよく使われるワイン業界をはじめ、この県特有の豊かな食材を産み出す母体としての長野の「自然環境=風土」を指すようです。
 本特集では、冒頭で今もっとも旬な長野のシェフ7人が紹介されています。ほとんどがイタリアンかフレンチ、残りは和食のシェフでした。そして、彼らとは別枠で、いわばレジェンドとして単独で取り上げられていたのが北沢でした。

「食の原点」の話を求め、海外のシェフも多く来訪

 その記事のなかで、とくに筆者が注目したのは、「日本各地の市町村の活性化事業に携わりつつ、生産者を訪ねて地方を飛び回った北沢さん。その経験を踏まえて発酵食や野菜、山の恵みを自給でき、自立して高品質なものを作る職人がいれば、人々が地域で共存しながら豊かに暮らせると実感したといいます」と書いてあるその次の箇所でした。
 「そんな北沢さんを慕って、この店を訪れるシェフがあとを絶ちません」という説明とともに、掲載されている写真は、すべて海外出身のシェフたちの姿でした。
 北沢自身は、来訪者が多い理由を、「シェフたちはいま、里のものより山のものを求め、縄文に近づいた食に興味があるように思う」と、冒頭で触れた講演と同じ内容を述べていました。
 野に生き、やがては野に還ることを前提に、「自分」と「相手(人)」もしくは「物(自然)」との“境”が、現代人の感覚とはまるで違い、ときに同化したり、一体化していたかもしれない縄文の世界。物事の本質に触れる、このような話に、積極的に耳を傾ける海外の料理のプロの姿をみていると、やはり「原点」とは強いものだと感じました。
 最後に、筆者のボヤキに少しだけお付き合いください。「あぁ~! 十割蕎麦と、縄文時代の蒸し焼き料理が食いてぇ~」。(第15話了)


(主な参考資料)
・北沢正和(1984)『生業再考』地湧社
・谷川俊太郎、小室等、北沢正和ほか(2001)『畑で野菜をつまみ食い』ふきのとう書房
・岩波書店編集部編(2001)『なぜ私はこの仕事を選んだのか』岩波書店
・伝説の職人ここにあり。長野・佐久「職人館」に国内外のシェフが集う理由(公開日:2023/09/27)、婦人画報公式ホームページ https://www.fujingaho.jp/travel/a45017743/shokuninkan-230927/ ハースト婦人画報社(閲覧日:2024年6月29日)
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