第11話 木曜日/夜、金曜日/夜、土曜日 (2)

文字数 6,505文字

 金曜日、夜。

「つづき、読んで」
 無垢な瞳で見つめられると、滝は背中が暑くなった。
 読んでいいのか、これを。
 額がじわりと汗ばむ。滝は手の甲で額をこすった。このまま蝋燭が消えてしまえば、読まずに済むだろう。しかし、蝋燭はまだ半分ほど残っている。
「おにいちゃん、ホノにいったじゃない。聞いてくださいって。さいご、どうなるの? ジョバンニとカムパネルラはケンカしたまま?」
 ホノ、というのは女の子の名前だろうか。いまさら、名前も聞かずに女の子を家にあげていたことに滝は気づいた。
 たぶん、滝は必死だったのだ。海で冷え切った女の子を温めるために風呂に入れたり、食事をさせたりするのに。女の子に声をかけたとき、滝はたしかに思っていた。書き上げた物語を聞いてほしいと。
 けれど、神前が書いた物語を読んで聞かせているうちに、迷いが生じてきた。自分が書いた続きなど、読んでいいものかどうか。
「読んでよ。もう、土ようびになるもん」
 ホノは胸の前でかきあわせた毛布に顔をうずめた。
「日ようびは、たのしかった。みんなでスーパーへおかいものに行ったんだ。すごくこんでて、あんまり買えなかったけど。月ようびになってもパパはしごとに行かなかった。いつも朝はやくでかけて夜おそくにしか帰ってこなかったら、パパがいてくれて楽しかった」
 世界が終わると発表があった日曜日から、一家の最後の一週間をホノはぽつりぽつりと語った。
「火ようびはお外でゴハンして、キャンプみたいで楽しかった。電気がつかなくなったから、ボードゲームしたりトランプしたりした。水ようびくらいから、ゴハンが少しずつへっていって、おみせに買い物に出かけたパパはケガして帰ってきて、ママが泣いてホノもゆめちゃんも泣いて、木ようびは朝だけで、きょうは……」
 一日三食で一週間で二十一食、家族が四人なら八十四食という会話を神前としたことを滝は思い出した。早めに終わらせる奴らもいるだろう、と滝は無責任に答えたことを今さら恥じた。
「ゆめちゃん、まだ四つだからおなかへったって泣いて、そしたらパパが人魚を見に行こうって。海には人魚がいるんだよって。せっかくあいにいくんだから、はずかしくないようにってママがいって。それでみんなでいちばんお気に入りの服をきて車にのって海にきたの」
 ホノは毛布から両手を出した。左手首は擦りむいて赤くなっている。
「人魚なんていなかった」
 家族をつないだロープは、ホノの手首に傷を残してほどけた。
 滝は思った。きっと今も人魚を探しに海へ入る者がいるだろうと。カーテン越しに、海岸沿いのテールランプの列の瞬きを感じた。
「おにいちゃんは、こわくないの。あしたは土ようびだよ」
 滝の体が、一瞬ゆれた。怖くないはずがない。あと何時間生きられるかわからない。もう隕石が各地に落ちはじめているかも知れない。もう終わりなのだ。
 滝は自分の心残りを数えた。
 コンテストの賞金をすべてつぎ込んでも病気の母を救えず、書籍化の夢は目前で消えた。
 一緒にいたい人はいない。ただ隣の部屋には先に逝った神前が眠っているだけだ。
 何も持たない滝の中にある願いはただひとつ。
 書き上げた物語を読んでくれる存在、聞いてくれる最後の「読者」だ。
 滝はホノを見つめた。カイトを膝に抱いた小さな女の子。神前が最後に選んだジャンルが童話だったことに意味はなかったのかも知れないが、ホノが今ここにいるのは、巡り合わせのように感じた。
「……じゃあ、読むね」
 滝はノートのページを繰った。


 お母さんのお葬式が終わり、お父さんが旅立ったあと、ジョバンニはようやく学校へ来ました。もうジョバンニへ声をかける者はいませんでした。
 ジョバンニは「カタクリの花を独り占めした」と決めつけられてしまったのです。
 ジョバンニは授業で手をあげなくなりました。図工の時間がきてただ椅子に座っているだけでした。
 学校が終わると、町の印刷所へ仕事をもらいに駆けて行きました。
 カムパネルラのお父さんが教員仲間に声をかけ、ジョバンニが中等学校を卒業するまで生活をみることになりました。
 町外れの小さな家でジョバンニは一人で暮らしました。
 最初こそ、またジョバンニを雇った印刷所でしたが、カタクリの花の噂を所長が耳にするまで時間はかかりませんでした。
 印刷所を辞めさせられたジョバンニは、農作業の手伝いへ出かけるようになりました。
 嵐のせいで、沼畑のオリザは倒れて泥だらけです。畑の野菜は流され、泥をかぶり腐り始めています。
 ジョバンニはまるで体をいじめるようにして、放課後から夜目が効かなくなるまで働きます。そのうち、学校へ顔を見せずに朝から手伝いへ行くようになってしまいました。
 カムパネルラは毎日毎日ジョバンニのところへ食事を持っていきました。けれど、たいていジョバンニは留守でした。
 鍵のかからない小屋のようなジョバンニの住まいには、ベッド以外の家具らしい家具もなく、古いテーブルと傾いた椅子があるばかりでした。学校の道具は部屋の隅に置かれたまま、埃をかぶっています。ジョバンニは、もう学校へ通う気持ちはないのでしょうか。
 住まいを後にしようとしたカムパネルラは、裏手の窓の下に捨てられたスケッチブックを見つけました。雨にあたったのか、紙はよれてゴワゴワになっています。開くと、鉛筆でただバツ印がたくさん書かれていました。カムパネルラはスケッチブックを抱きしめました。
 季節は秋から冬へと移っていきました。ジョバンニは秋の間、働きづめでした。学校へはずっと来ていません。学級のみんなも、ジョバンニのことは誰も口にしません。お祭りの前までは、あれほどジョバンニを取り巻いていた級友がいたことが嘘だったように感じられます。

 ジョバンニが倒れました。働きすぎて体が疲れ果ててしまったのです。
 カムパネルラのお父さんがお医者様を呼んで診察してもらいました。しばらくはしっかりと休ませるようにと言われたました。カムパネルラのお母さんが、ジョバンニに家で休んでと言いましたが、ジョバンニはかたくなに首を横に振るばかりでした。風に吹き飛ばされそうな粗末な小屋からジョバンニは動かず、じっとベッドに体を横たえているのです。
 カムパネルラはお母さんが作った、栄養のある食事をもっていきます。肉の入ったシチューや、温野菜のサラダ、パンに牛乳、チーズに果物。毎日毎日運びました。ジョバンニはあまり食べませんでした。
 日の出が遅くなり、日の入りが早くなってきました。吐く息が昼間でも白くなり、外に置き忘れたバケツの水が凍るようになりました。
 カムパネルラは、道の水たまりに張った薄い氷を踏み割りながらジョバンニの家に向かいました。いつもなら、競うようにして二人で氷を見つけては割ったものです。ジョバンニの心も凍っているのかも知れないとカムパネルラは思いました。
 ジョバンニはカムパネルラが食事を届けても、振り向かないか毛布をかぶったまま顔を見せなくなりました。今日もジョバンニはカムパネルラを知らんふりするでしょうか。それを考えただけで、カムパネルラは鼻の奥がつんと痛くなるのでした。
 町外れのジョバンニの家まで来ると、玄関の扉が開いたままでした。
「ジョバンニ?」
 カムパネルラは扉に駆け寄りました。家の中にジョバンニがいません。カムパネルラは、食事の入ったバスケットをテーブルにおくと、また外へ飛び出しました。
 ごうっという強い風とともに、粉雪がカムパネルラの頬を打ちました。みあげると、西の空から灰色の雪雲が白い幕を引いてきます。
 カムパネルラは雪が吹きつける中、ジョバンニを探しました。家並みがとぎれる雑木林のさきまで行きました。冷たい風に耳がちぎれそうに痛くなりました。こごえる指先に息を吹きかけ、丘をかけくだりました。
 日暮れが近くなってきました。あたりが暗くなるころ、カムパネルラは川辺にたたずむ人影を見つけました。
「ジョバンニ!」
 カムパネルラの声に、人影は振り返りました。強い風に髪をかき乱され、シャツの裾がはためいています。薄着で立ち尽くしているのは、ジョバンニでした。
 カムパネルラはジョバンニに駆け寄ると、迷わずマフラーを外してジョバンニの首にかけました。
「風邪ひいちゃうよ!」
 ジョバンニがカムパネルラにうつろな目を向けました。
「帰ろう、雪がひどくなる前に」
 カムパネルラは冷たくなったジョバンニの手を引きました。
「雪嵐がきたら、またぼくのせいだって言われるのかな」
 うつむいたジョバンニがぽつりとつぶやきました。
 カムパネルラが握るジョバンニの手首はひどく細く、ふるえています。
「そんな、そんなこと」
「……カムパネルラだって、うたぐっているんだろう? ぼくがカタクリの花をひとりじめしたって」
 カムパネルラは首を左右にふりましたが、まるでゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいに、ぎこちない動きでした。
「ぼくはちょっとだけ、願っただけだよ。絵がうまくなりたい……って」
「……っ、ジョバンニ!」
「だって、顔も知らない町中の人の幸せなんて願えるわけない、ぼくの家がいちばん貧乏なのに!」
 ジョバンニはカムパネルラの手をふりはらって叫びました。
「父さんは帰ってこないし、母さんは病気だし」
 堰を切ったようにジョバンニはカムパネルラに向かって、叫びました。
「きみだって、ぼくのことをかわいそうだって思っていたんだろう! お父さんがいなくてかわいそう、お母さんが病気でかわいそう、絵具も買えなくてかわいそう」
 カムパネルラは、ジョバンニの言葉に射られたように胸をおさえました。
「だから、少しくらい願ったっていいじゃないか」
 ジョバンニはひときわ大きく叫んだあと、そのままうずくまりました。小さく丸まった体がふるえていました。
「ジョバンニ……」
 カムパネルラはジョバンニのかたわらに膝をつきました。ジョバンニは泣きじゃくっていました。
「でも、でも、そのせいで母さんが死んだ。絵なんかどうでもよかったのに」
 川の水が流れ込んで崩れかけた家の中へ、ジョバンニのお母さんは絵を取に戻ってそのまま濁流に飲まれて亡くなったのです。
 カムパネルラは、春先に御庭へ行った時のことを思い出していました。探しても探しても白いカタクリの花は見つからず、したかなく帰るしかなかったことを。帰りの時のジョバンニは、行きのときのおびえた様子は消え、むしろどこか自信をもっているように感じました。
 あの時にはもう、ジョバンニはカタクリの花に願っていたのでしょう。そして願いが叶うことを信じて、帰ってから絵を描いたのでしょう。
 ジョバンニが描いた絵が入賞したのは、カタクリの花のおかげだったのでしょうか。そのあと、お父さんが帰ってきたことも、お母さんの病気がよくなったことも、花のおかげでしょうか。
 けれども幸運は続かず、一気に暗転しました。
 幸運と不運は両天秤で釣り合いがとれるようになっているのでしょうか。
 カムパネルラはジョバンニの肩に手を置きました。
「帰ろう。帰ってごはんを食べてそれから、いっしょに絵を描こうよ」
「もう描けないよ、それともまた『絵具を貸してあげる』ってきみは言うのかい」
 カムパネルラは唇をきゅっとかみしめ、まゆを歪めました。
「ぼくは、きみとなら絵が描けると思うんだ。春からずっと描けなくなっていたけど」
 春から、というのは絵画コンテストの結果が出てからだとジョバンニにも分かったようです。
「また描こうよ。ぼくはきみの絵が好きだよ。白と黒の中にも色が見える。きみが描く絵が見たいよ」
 ジョバンニは涙でくしゃくしゃになった顔をあげました。ジョバンニはマフラーを巻きなおしてあげました。
「帰ろう」
 涙をぬぐって、ジョバンニは立ち上がりました。カムパネルラはジョバンニと手をつなぎました。
 日が暮れ、雪と風は止みました。空にのぼった三日月だけが二人を見ていました。
 積もった雪の上に二対の足跡がジョバンニの家まで続いていました。
 手をつなぐ、カムパネルラとジョバンニは親友でした。


 パチパチと小さな拍手が読み終わった滝の耳に聞こえた。
「よかった、ふたりはなかなおりできたんだね」
 ホノは安心したように微笑んでいました。滝はノートをそっと閉じました。
 滝が書いた続きは、自分の願望が詰まっていた。もしかしたら、神前のプロットには二人の決裂があったのかもしれない。ジョバンニがカムパネルラを拒否する結末だったとしてもおかしくない。
「おにいちゃん、ありがとう。お話を聞かせてくれて」
「……ありがとうは、ぼくのほうだよ」
 神前と滝、二人でつづった物語は最後の読者へ伝えられた。たぶん、神前と滝以外には何の意味もないことだ。世界の終わりに、素人二人がつづった物語にどんな価値があるだろう。
 書籍化するという夢はついに叶わなかった。けれどそれもまた、他者には無価値なことだろう。
「ホノちゃん、これ飲めるかな」
 手のひらに渡されたカプセルをホノはしばらく見つめた。
「眠っているうちに、みんなのところへ行けるお薬なんだ」
 うん、とホノはうなずいてマグカップに残った練乳のミルクでカプセルを飲み込んだ。
「おにいちゃん、おやすみなさい」
 ホノはあくびをすると、じき小さな寝息を立てた。薬を飲まなくても、疲れ切った一日だったろう。滝はホノの毛布をなおして寒くないようにした。
 カイトにも薬入りの餌を食べさせていた。ふだん獣医から処方された薬入りの餌など絶対食べないカイトは、滝の気持ちを読んだように大人しく平らげてしまった。滝はカイトの柔らかい毛を何度も撫でて、ホノの横に寝かせた。
 滝は薬を多めに飲むと、居間と自室の仕切りである襖を開けた。
 そちらには神前が安らかに目を閉じていた。
「あれでよかったのか」
 滝と神前は、ジョバンニとカムパネルラのような親友になれなかったのだという悔いが残る。少しばかりいい話を書いて、気持ちを楽にしているだけだ。
 座布団を枕代わりにして、滝はカイトをはさんでホノと並ぶようにして体を横たえた。神前が亡くなってから眠らずに、一晩中書いていた。
 神前には、書かないといっていたが正確には、滝は書けなくなっていた。ゲラの修正はなんとかこなせたが、書いてほしいと言われた続編はプロットさえまったく書けていなかったのだ。
 滝は神前の後をついで書くことができた。自分にはやはり才能はなかったのだと感じた。
 和解を描いたのは滝のエゴだろうか。願望だろうか。それとも正解だったのだろうか。
 それでも、滝は神前が残したいくつもの(ヒント)を思い返した。
 仏壇に不器用に飾られたコスモスの花。
 ゲラの謝辞につけられた赤丸……謝辞には原案者である神前の名前を滝は書いておいた。
 それから、神前が脱ごうとしなかったコートのポケットに古い年賀状が入っていた。一家離散後に神前が就職した会社の寮へ出した滝の年賀状だった。「いつでも連絡してくれ」という自筆の文字と住所と電話番号が書かれてあった。
 実の家族の連絡先さえ知らないのに、ただ一回出した年賀状を何年も持っていたことに滝は目を見張った。半面、神前が入院して以来、ろくに連絡をしなかったことも思い出された。
 けれど今、最後の最後に二人はひとつ屋根の下にいる。
 滝は深い眠りへ導かれていった。


 土曜日。
 朝を迎える前に、地球に隕石が降り注いだ。太陽からは無音で砕け散る青い星が見えただろう。


 ――滝、いつか合作を書こうぜ。
 夜のシフト上がりの滝に神前は缶コーヒーを渡した。
「やらないよ。自分ので手いっぱいなのに。書きたいのがあるんなら、自分で書けよ」
 自販機横のベンチに二人で腰かけると、そこはまるで夜汽車の座席だった。
「つれないなあ。おまえとなら、きっといいものが書けると思うんだよ」
 そうだな、たとえば……と神前はつづけた。

 イーハトーヴのとある町に二人の男の子が住んでいました。

 砕けた星は漆黒の(そら)に静かに輝いていた。

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