第9話 木曜日/夕刻、金曜日/夜

文字数 1,927文字

 木曜日、夕刻。

 滝は自室の布団に寝かせた神前の枕元に座っていた。
 カイトにせかされて神前のもとへかけつけたとき、神前の体はまだぬくもりが残っていた。
 広げられたノートにはひしゃげた文字が踊っていた。亡くなる前に吐いたのだろう、ノートとコートには血が染みついていた。
 汚れたコートは脱がせ、ハンガーで鴨居につるした。いま、亡骸は胸の前で手を組み布団に横たわっていた。体はすでに冷たく硬くなっている。布団に寝かせるときに分かった。神前はとても痩せていた。
 だぶだぶのコートとパンツでかくされ、どれほどの体型になっているか知らずにいたのだ。
 医師に命の期限を切られたのは一年前。余命半年といわれてから更に半年先、一年を生きてきた。肉体をすり減らし、命の火をともし続けたのだ。
「けんか別れでお終いかよ」
 滝は血をふき取った神前の顔を見つめた。髪の毛も眉毛も失い、やせこけた神前は、それでもどこか安らかに眠っているように見えた。
 神前は世界の終わりまで存在しなかった。
「結局、一人っきりか」
 窓から外を眺めると、夕陽が岬の向こうに落ちていくところだった。滝は神前のコートのポケットから取り出したタバコに火をつけた。吸っていたように見えて、なくなっていたのは数本だけだった。
 タバコを吸うと、火口(ほくち)の赤さがやけに目に沁みた。
 出版されるはずだったゲラの束には、神前の文字が残されていた。
 ――これは、滝の作品だ――


 金曜日、夜。
 滝は女の子に二杯目のミルクを作った。冷蔵庫に残っていたチューブ入りのコンデスミルクをお湯で溶かしたものだ。いつの間にか、カイトは女の子の膝の上で眠っている。
「続きも聞いてくれるかな」
 うん、と女の子はカップを受け取りうなずいた。
 滝は神前の癖のある字を目で追う。ところどころ読みにくい文字や、明らかな誤記・誤用は滝が赤ペンで訂正していた。


 お祭りの日が近づいてきました。町は準備に大忙しです。食べ物の屋台を出すお店では、毎晩遅くまで仕込みをしています。通りに飾られる花は手入れされ、どこを歩いても香りのよい花々がバスケットに寄せ植えされ吊るされています。
 三日間のお祭りの間、町を練り歩く花車(はなぐるま)も完成間近で各々の詰め所では、出資者たち自ら最後の仕上げに余念がありません。
 カムパネルラのお父さんも、花車を作る作業へ仕事が終わってから出かけていきます。カムパネルラも一緒について行って、紙で作られた大きな花や星を飾る手伝いをしました。そうして体を動かしていると、ジョバンニとあまり話せないことも、遊べないことも忘れていられるのです。
 ジョバンニは、毎日クラスメイトたちとジョバンニのお父さんが作ってもらっている花車を見に行っているようです。いつも放課後に、級友たちを引き連れて教室を出ていきます。
 今日の放課後には、明日はお祭りの前夜祭なので、カラスウリを採りに行くのだとジョバンニが言っていました。誘わなくても、みなジョバンニについていきます。
 去年までは、カムパネルラと二人で丘の方へカラスウリを採りに行っていたのです。カムパネルラもジョバンニたちと一緒に遊んでもいいのです。けれど、どこかジョバンニに避けられているように感じて、今はあまり話しかけないようにしています。
 ジョバンニからも積極的に声をかけてくることもないので、それでいいと授業が終わるとカムパネルラは鞄の留め金をかけるのでした。

 いよいよ明日はお祭りという夕方、花車の仕上げを手伝っていたカムパネルラのひたいに雨粒がひとつぶつかりました。
「お父さん、雨だよ」
 作業していたみんなが見あげるそばから、雨はだんだんと強く降り始めました。お父さんたちは花車を天幕の中へとしまいました。地面は雨粒が激しくぶつかり、水煙があがりました。幾筋も水の流れが側溝へと殺到し、飲み込めずに側溝から溢れました。
「明日のお祭り、だいじょうぶかな」
「夜通し降っても、朝には止んでくれるといいが。しかし、祭りの日に雨なんて聞いたことが……」
 カムパネルラの頭をタオルで拭いていたお父さんは、不意に口を閉ざしました。
 祭りに雨が降るなんて、少なくともカムパネルラには初めてでした。毎年、三日間は気持ちのよい青空が広がるのがあたりまえでした。
 今年は、何かが違うのでしょうか。もしかして、それは……。
「お父さん」
 カムパネルラの冷たい頬に、お父さんはそっと手を触れて首を横に振りました。カムパネルラは口を閉ざすと、お父さんに抱きつきました。
 雨は夜通し降り続き、その次の日も止みませんせんでした。
 やっと雨が上がった朝、カムパネルラは川べりのジョバンニの家が流されたことを知ったのです。

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