第5話 金曜日/夜、木曜日/朝 1

文字数 2,770文字

 金曜日、夜。

 滝は読みつづけていた。
「白いカタクリの花は、森の奥深くの【御庭(おにわ)】に毎年一輪だけ咲きます。御庭は神様が遊ぶところです。木々に覆われた深い森の中で、そこだけぽっかりと開けているのです。御庭に足を踏み入れることをゆるされているのは子どもだけでした。大人は欲深く嘘をつくからです。みんなのことよりも自分の願いをかなえようとする大人は、御庭には入れないのです。その年、春の使者に選ばれたのはジョバンニとカムパネルラでした」
 髪が乾いた女の子は、毛布にくるまり滝の声に耳を傾けた。カイトが女の子の膝に乗り、体を丸めている。

ーーふたりは白い着物に白い袴、白い足袋に草履をはいて、町の人に見送られて森の中へ入っていきました。
 ふだん、人が立ち入るのを禁じられている森には、細い獣道がかろうじてあるくらいです。道はとぎれとぎれで雪解けでぬかるんでいます。真っ白い足袋や草履は泥で汚れました。行く手を遮る倒木や蔦をよけて、ふたりはようやく森の奥にある【御庭】までやってきました。
 込み入った木々が突然なくなり、ぽかんと青空が見えます。そして目の前にはカタクリの花のじゅうたんが広がっています。
「わあ」
 ふたりの口からため息がもれました。可憐な紫の花が下向きに咲いています。まるで、恥ずかしがってうつむいているようにも見えます。
 紫の花の中にあるはずの白い花を二人は探しました。ふたりは手分けして取りかかりました。端から端まで、何往復もしました。お昼前に始めのに、ふたりのおなかが鳴るくらいまで探しても白い花は見つかりません。
「みつからないね」
 とカムパネルラがジョバンニに声をかけました。
「そうだね、今年は咲かなかったのかな」
 とジョバンニが答えました。
 そんなはずはありません。春の神様が毎年必ず一輪だけ咲かせるからです。そして春の使者は毎年祈るのです。イーハトーヴの町に大雨や大風がふきませんようにと。悪い病気がやってきませんようにと。白いカタクリの花が見つけられなければ、一大事なのです。
 しばらく二人は探し回りました。きづけば日の光がわずかずつ黄金色になってきました。見上げると雲の端はだいだい色に染まってきています。
「このままじゃ、日が暮れるよ。みんなのところへ戻るには時間がかかるから、森の中で真っ暗になったら大変だよ。帰ろう、カムパネルラ」
 ジョバンニは、暗くなった足下をそれでも一心に探すカムパネルラに言いました。
 赤く染まり始めた空に、心もとなくなったカムパネルラはジョバンニの言葉に従いました。
「見つけられなくて、みんなに叱られるかな」
 カムパネルラはつぶやきました。白いカタクリを見つけられなかった、お祈りもできなかった。そのせいで大雨が降ったらどうしよう。日照りになったら? 大きな嵐が来たら?
 カムパネルラはどんどん心配になってきて、足もとがおぼつかないように感じます。
「なかったって、言うしかないよ」
 ジョバンニは前をまっすぐに見たままで答えました。
「大人たちが考えるよ、きっと。ぼくらは子どもだもん。何かできることなんかないよ」
 言われてみればそのとおりだと、カムパネルラも思い始めました。そしていつもと違うジョバンニに少し驚いていました。
 ふだんのジョバンニは授業で手をあげたりしません。歌ったり踊ったりしません。いつも教室の窓際の席で静かに本を読んだり絵を描いたりしています。カムパネルラと話すときの声は小さく、ゆっくりとしています。今、隣を歩くのは物静かなジョバンニではなく、大人びたジョバンニです。カムパネルラは違和感を覚えました。
 でも、もしかしたらそれは無理のないことかも知れないと、カムパネルラは思いなおしました。
 二人はよく似ていましたが、家の様子はまるで違っていました。
 カムパネルラのお父さんは、大学の先生でした。お母さんはピアノの先生でした。たくさんの使用人がいて、なに不足なく暮らしていました。
 いっぽうジョバンニのお父さんは、北の海へ仕事に出かけたきりでした。お母さんは留守を守るために一生懸命働いていましたが、働き過ぎで倒れてしまいました。そのため、ジョバンニは学校が終わると印刷所の手伝いをしてお金を稼いでいました。
 家に帰ればごはんが用意され、暖かい部屋で寝起きし、勉強もできるし、大好きな絵も描ける。カムパネルラは自分の幼さが恥ずかしくなりました。
「ジョバンニ、町の絵画コンテストに出す絵は描いた?」
「まだだよ。でも、必ず描いて出す」
 いつになく、はっきりとした口調でジョバンニは答えました。
「もしも、絵の具が足りなかったら言ってね。いつでも貸せるから」
 カムパネルラの申し出にジョバンニはうなずきました。
 森の出口が見えてきました。泥だらけの二人を大人たちは責めませんでした。
 カムパネルラが心配したような強風は吹きません。大雨は降りません。
 日々は過ぎて、夏近くに絵画コンテストの結果が発表されました。
 一等は、ジョバンニでした。


 木曜日、朝。

 居間で寝ていた滝がカイトに起こされて、部屋の薄暗さに電灯をつけようとスイッチの紐を引っ張った。伸びをして目を開くと、室内は暗いままだった。時計は午前四時少し前をさしていた。
「あ、電気切れたぞ」
 襖を開けて、神前が顔を出した。
「三時くらいかな。書いてたら、いきなり電気が消えてさ。月明りで書いてたんだけど、暗くて」
 神前はまだ滝の部屋に居座っていた。ずっと執筆を続けていたらしい。目蓋が重たげで、体がゆらゆら揺れている。
「少しは寝ろよ」
「寝てられるか。世界が終わるってのに書きあがらん」
 両腕をあげて途中まで伸びをした神前は、しかし顎がはずれるようなあくびをした。
「寝てろ。電気が来なくなったら、冷凍庫はパーになるから、あわびを解凍して炊き込みご飯作ってやる」
「え、まじ? やったー」
 神前は手をひらひらさせてよろめくように踊ってみせた。
「滝、未練は? やり残したことはないのか? もう書かないのか? 時間がないんだぞ」
 矢継ぎ早の質問に滝は顎を引いた。腹をすかせたカイトがご飯の催促のためか、滝のすねに体をこすりつける。
「書かないよ。書くものなんてないし。未練とか、そういうのもない」
「さびしいこと言うなよなあ」
 神前が不服そうに、こけた頬をふくらませた。滝はカーテンをよけて居間の掃き出し窓を少し開けた。外には燃えた臭いが漂っていて、滝は鼻にしわを寄せた。坂下の海岸を見ると、赤いテールランプを明滅させた車が数台とまっている。日の出前の薄明りの中、海辺に人影が見えた。一人、二人、三人……あとは数えず、滝は窓を閉めた。
「タキ、ろうそくある?」
「あるけど、寝ろ」
 滝は神前に強めに言うと、カイトの先導で台所へと向かった。
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