第1話 日曜日/朝、金曜日/夕刻
文字数 2,178文字
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
それは日曜日のことだった。いつもの日曜のように、ひげも剃らずにのんびり浜辺を散歩して過ごそうと思っていた滝 の朝は突然消えた。
滝はささやかな自家菜園から収穫したシーズン最後のトマトを三個手にして、居間の真ん中でテレビに見入った。一歩踏み出した姿勢のままで。テレビの前で飼い猫のカイトが前足を大きく伸ばしてあくびをした。
キャスターは一言いい終わった後は放送事故か、と思うほど沈黙した。
軒先の片付けそびれた風鈴が海からの秋風にうら寂しい音を奏でる。カイトは前足で漆黒の顔を洗っている。
キャスターは再び口を開くと、落ち着いた口調で隕石が地球にぶつかる旨を読み上げた。破壊も回避も不可能な隕石が火星と木星のあいだから数十個、降ってくるのだという。
「世界の最終日は土曜日です」
手元の原稿から顔をあげた女性ニュースキャスターの声は、少しばかりかすれていた。
しかし次の瞬間、キャスターは座っていた椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「早朝四時から一時間ごとにみなさんへ伝えて参りました、世界の終わりについてはこれで終了です。みなさん落ち着いて。そして悔いのない終わりを」
キャスターは不思議なほど柔らかい笑みをうかべて、頭を下げた。
テレビ画面はそれきり消えた。
滝はトマトを放り出すと、テーブルの上のモバイルを掴んだ。
着信履歴を開こうとしたが、どうにも指がうまく動かない。額に汗を浮かべながらなんとかタップすると、発信音がした。繋がるまでのわずかの間が永遠に感じられた。
『はい……』
ようやくの応答は、ひどく不機嫌に聞こえた。
「あ、あの! わたしの本は」
その時、立てつけの悪い玄関の引戸を勢いよく開ける音がした。
「おい、いるかー。タキ!」
聞き覚えのある声に居間から反射的に首を出すと、断りもせず入り込んだ男が三和土に立っていた。
「久しぶりだな、タキ。いや、滝先生か? 書籍化おめでとう」
「神前 、おまえどうやってっ」
神前はコートの袖で口を押えて咳こんでから、滝の顔を帽子の鍔ごしに上目遣いににらんだ。
『滝先生、何もかもナシです。終わりです。発売予定日より先に地球はなくなっているんですから』
担当編集者の声に、そんな、という言葉が喉元までせりあがる。
「野菜運搬のトラックに乗せてもらってさ。しかし、よくも、しゃあしゃあとやってくれたな」
神前は靴を脱ぎ散らかしてあがってきた。カイトが警戒して隣の部屋へと襖の隙間をすり抜けていった。滝の視線は神前の顔と背後とを何度もさ迷う。
『早朝から同じことを飽きるほど言いましたよ。本はでません、未払いの原稿料はなしです。どのみち、みんな無くなりますから』
お構いなしに居間にどかりと座った神前は、ディパックからレジ袋を取り出した。
滝は耳からモバイルを離した。既に通信が切れていた。
「盗作でデビューかよ。あきれるぜ。ピーマン、もらったからなんか作れ。話はそれからだ」
金曜日、夕刻。
滝は浜辺で煙草に火をつけた。
秋の短い日は終わりを告げようとしていた。海岸沿いの道路には車が並ぶ。
人は乗っていたりいなかったり。もっとも、乗っている人が生きてるとは限らない。
深く煙を吸い込む。煙草なんて学生以来、十年ぶりくらいだった。
紫煙は風にまぎれ、かき消される。煙が目に沁みて、滝は目じりに浮かんだ涙を親指でこすった。肩につくくらいまで伸びた髪が潮風に弄ばれる。
滝は膝をかかえ、丸めたノートを握って茜雲を眺めている。
ノートは滝が学生のときに使い残したものだ。ページの端は赤黒いしみがついている。
波打ち際に、打ち上げられる人形のようなもの。それはあちらに一つ、こちらに二つと見える範囲にいくつもころがっている。
人は死に場所に海を選ぶらしい。
「溺死にロマンがあるのかよ」
少しも絵にならない風景を前に滝が長く煙を吐くと、少女がおぼつかない足取りで視界を横切っていく。
よそゆきらしいワンピースを着た女の子は十にもならないくらいだ。
長い髪は顔にはりつき、ごわごわと背中を這う。少女が歩くと、水の滴りで砂浜に細く線が引かれていく。
「そこのきみ」
滝は煙草を消して立ち上がり少女に声をかけた。虚ろな瞳が振り返る。
「うち、すぐそこだけど、こない? 猫がいるよ」
女の子は少しばかり目を見開くと、滝をじっと見つめ、それから小さくうなずいた。
「じゃあ、おいで。素麺くらいなら、ごちそうできるから。それから、あー……ピーマンは食べられる?」
「たべれるよ」
かすかな返事が返ってきた。滝は胸をなでおろした。歩み寄ると、女の子は滝の胸くらいまでしかなかった。
「よかった。たくさんあるんだ。炒めものにしようかな。ついでに聞くけど、本は好き?」
滝はふれた女の子の手首に、こすれたような赤い傷をみとめ眉を寄せた。女の子はぼんやりとうなずいた。
「じゃあ、寝る前におはなしを読んであげよう」
滝は女の子の手をしっかりと握ってから、首を左右にふって言い直した。
「聞いてください」
くたびれたコートで女の子を包む。
赤いハザードランプがいくつも瞬く海岸沿いの道路を、滝は少女を抱いて横切り高台にある瓦屋根の家へと戻って行った。
それは日曜日のことだった。いつもの日曜のように、ひげも剃らずにのんびり浜辺を散歩して過ごそうと思っていた
滝はささやかな自家菜園から収穫したシーズン最後のトマトを三個手にして、居間の真ん中でテレビに見入った。一歩踏み出した姿勢のままで。テレビの前で飼い猫のカイトが前足を大きく伸ばしてあくびをした。
キャスターは一言いい終わった後は放送事故か、と思うほど沈黙した。
軒先の片付けそびれた風鈴が海からの秋風にうら寂しい音を奏でる。カイトは前足で漆黒の顔を洗っている。
キャスターは再び口を開くと、落ち着いた口調で隕石が地球にぶつかる旨を読み上げた。破壊も回避も不可能な隕石が火星と木星のあいだから数十個、降ってくるのだという。
「世界の最終日は土曜日です」
手元の原稿から顔をあげた女性ニュースキャスターの声は、少しばかりかすれていた。
しかし次の瞬間、キャスターは座っていた椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「早朝四時から一時間ごとにみなさんへ伝えて参りました、世界の終わりについてはこれで終了です。みなさん落ち着いて。そして悔いのない終わりを」
キャスターは不思議なほど柔らかい笑みをうかべて、頭を下げた。
テレビ画面はそれきり消えた。
滝はトマトを放り出すと、テーブルの上のモバイルを掴んだ。
着信履歴を開こうとしたが、どうにも指がうまく動かない。額に汗を浮かべながらなんとかタップすると、発信音がした。繋がるまでのわずかの間が永遠に感じられた。
『はい……』
ようやくの応答は、ひどく不機嫌に聞こえた。
「あ、あの! わたしの本は」
その時、立てつけの悪い玄関の引戸を勢いよく開ける音がした。
「おい、いるかー。タキ!」
聞き覚えのある声に居間から反射的に首を出すと、断りもせず入り込んだ男が三和土に立っていた。
「久しぶりだな、タキ。いや、滝先生か? 書籍化おめでとう」
「
神前はコートの袖で口を押えて咳こんでから、滝の顔を帽子の鍔ごしに上目遣いににらんだ。
『滝先生、何もかもナシです。終わりです。発売予定日より先に地球はなくなっているんですから』
担当編集者の声に、そんな、という言葉が喉元までせりあがる。
「野菜運搬のトラックに乗せてもらってさ。しかし、よくも、しゃあしゃあとやってくれたな」
神前は靴を脱ぎ散らかしてあがってきた。カイトが警戒して隣の部屋へと襖の隙間をすり抜けていった。滝の視線は神前の顔と背後とを何度もさ迷う。
『早朝から同じことを飽きるほど言いましたよ。本はでません、未払いの原稿料はなしです。どのみち、みんな無くなりますから』
お構いなしに居間にどかりと座った神前は、ディパックからレジ袋を取り出した。
滝は耳からモバイルを離した。既に通信が切れていた。
「盗作でデビューかよ。あきれるぜ。ピーマン、もらったからなんか作れ。話はそれからだ」
金曜日、夕刻。
滝は浜辺で煙草に火をつけた。
秋の短い日は終わりを告げようとしていた。海岸沿いの道路には車が並ぶ。
人は乗っていたりいなかったり。もっとも、乗っている人が生きてるとは限らない。
深く煙を吸い込む。煙草なんて学生以来、十年ぶりくらいだった。
紫煙は風にまぎれ、かき消される。煙が目に沁みて、滝は目じりに浮かんだ涙を親指でこすった。肩につくくらいまで伸びた髪が潮風に弄ばれる。
滝は膝をかかえ、丸めたノートを握って茜雲を眺めている。
ノートは滝が学生のときに使い残したものだ。ページの端は赤黒いしみがついている。
波打ち際に、打ち上げられる人形のようなもの。それはあちらに一つ、こちらに二つと見える範囲にいくつもころがっている。
人は死に場所に海を選ぶらしい。
「溺死にロマンがあるのかよ」
少しも絵にならない風景を前に滝が長く煙を吐くと、少女がおぼつかない足取りで視界を横切っていく。
よそゆきらしいワンピースを着た女の子は十にもならないくらいだ。
長い髪は顔にはりつき、ごわごわと背中を這う。少女が歩くと、水の滴りで砂浜に細く線が引かれていく。
「そこのきみ」
滝は煙草を消して立ち上がり少女に声をかけた。虚ろな瞳が振り返る。
「うち、すぐそこだけど、こない? 猫がいるよ」
女の子は少しばかり目を見開くと、滝をじっと見つめ、それから小さくうなずいた。
「じゃあ、おいで。素麺くらいなら、ごちそうできるから。それから、あー……ピーマンは食べられる?」
「たべれるよ」
かすかな返事が返ってきた。滝は胸をなでおろした。歩み寄ると、女の子は滝の胸くらいまでしかなかった。
「よかった。たくさんあるんだ。炒めものにしようかな。ついでに聞くけど、本は好き?」
滝はふれた女の子の手首に、こすれたような赤い傷をみとめ眉を寄せた。女の子はぼんやりとうなずいた。
「じゃあ、寝る前におはなしを読んであげよう」
滝は女の子の手をしっかりと握ってから、首を左右にふって言い直した。
「聞いてください」
くたびれたコートで女の子を包む。
赤いハザードランプがいくつも瞬く海岸沿いの道路を、滝は少女を抱いて横切り高台にある瓦屋根の家へと戻って行った。