第7話 木曜日/昼

文字数 2,822文字

 木曜日、昼。

「磯の香りがする……」
 目を覚ました神前が襖をあけ、顔をあげ鼻をうごめかすと這うようにして居間に出てきた。
 滝は土鍋で炊いたアワビご飯を茶碗に盛りつけ、テーブルに置いた。湯気の立つアワビご飯を前に神前の喉が大きく上下する。
「寝るときくらい、コートを脱げよ」
 どうかすると、神前はすぐにコートを羽織る。おかげでコートは余計に、よれよれになっている。
「寒いなら、俺の服を貸すから」
「このクタクタ感が好きなんだよ。いいじゃん、あと三日四日だ」
 いただきます、と神前は手を合わせるとアワビご飯が盛られた茶碗に手を添えた。すぐ箸をつけず、鼻のところまで持ち上げ、しばし香りを楽しんでいる。
「味は保証しないからな」
 滝の言葉に、神前はようやくひとくち分を箸でつまんで口に入れた。
「ん」
 一言つぶやくと、何度もうなずいてみせる。
「前と同じだ」
「そりゃよかった」
 滝は応えると、神前が食べる様子を見ていた。ゆっくりだか、箸を休めずに食べている。
「なあ。俺のこと、どこで知ったんだ?」
 スマホを持たない神前が、大賞が書籍化とはいえ新聞やテレビで発表されないコンテストの結果をどうやって知ったのか、滝にはずっと疑問だった。
等々力(とどろき)。知ってる? あいつの勤め先が製薬会社でさ。仕事で病院に来たとき、どきどき見舞いに来てくれてた。そんで、奴から聞いた」
 滝は、等々力の面長な顔立ちを思い出した。等々力は神前と滝を結び付けた張本人だが、入賞のことも教えたのか。毎日本屋へ来るような読書好きの等々力は、ふたりの創作活動を知っていた。滝と神前が、小説を書いていることを知る唯一の存在だったといってもいい。
「……書かないのか、滝は」
「書いても無駄だろう。もう三日で終わるってのに」
「まだ、三日もあるじゃねえか。じゃあオレに頭をさげるか? 盗作したこと」
 しつこく食い下がる神前に、滝は無言で箸を置いた。
「あのさ」
「な、なんだよ」
「俺は、お前の()()()から、何て言われていたか知っている」
 神前の箸が止まり、頬が強ばった。
「『王子と乞食』って言われていたよな」
 背格好も顔つきもよく似ていた滝と神前。裕福な家庭の子弟が通う私立大の学生の神前と、奨学金をもらいながら国立に通っていた滝と。
 滝と神前は、分かりやすい対比だった。
「神前、おまえは高級車乗り回して、三ツ星レストランで食事して、夏は海の別荘で冬は山の別荘、羽振りがよくていつでも取り巻きがいて、みんなの真ん中にいたよな。でも、王子じゃなくなったとき、誰が残った?」
 青白い神前の顔がさらに白くなる。
「滝、言っていいことと、悪いことくらい……」
「悪いことじゃないさ、事実を話しただけだ」
 正座した膝に手を乗せて滝は神前を見つめた。神前は大きく口を開けてアワビご飯をほおばると、ろくにかまずに飲み込んだ。
「おまえには、さんざんおごってやったよな。最高級のレストランのフルコース。別荘にだって一緒に行ったじゃねえかよ」
「場馴れしてない俺を笑い者にするためにな」
 神前は、一度開いた口を閉ざした。滝は自分のあか抜けない服装や、気遅れてしてぎこちない動きを笑われたことを思い出すと、今も皮膚がチリチリと痛む。
「俺は謝らない。俺のおかげで小説は出来上がったんだ。本にはなり損ねたけど。今はいきなり転がり込んだおまえを追い出さずにいる。前のときと同じくな。感謝して欲しいくらいだ。違うか?」
 神前の唇がわななく。滝の鼓動は胸を突き破りそうだ。けれど長年心の中に降り積もった澱(おり)を吐き出さずにはいられなかった。
「おまえは、俺を見くびっていた。書きかけの小説を「好きにすればいい」なんて言ったのだって、俺に続きが書けるわけがないと思っていたからだろう」
 入賞するのは、いつも神前。ネットにアップした小説は、どれも滝とはけた違いの閲覧数と評価点。流行りから外れたマイナーな小説を書き続ける滝を、神前は自分より才能がないと見下しているのを肌で感じていた。
 おまえも頑張れよ、次こそ、いいものを書けよ、と神前は滝をいつも励ましたが、それは自分の優位さを前提にしてのことではないか。
「それでも、おまえの家が破産した時、おれは家に来たおまえを追い返さなかった。そして今もだ」
「おれを追い返さないのは、滝のなかに罪悪感があるからじゃないのか。だからオレを」
「うぬぼれも大概にしろよ、あと三日程度でも、おまえに飯を食わせて、雨風しのげる場所を与えてやってるのは、俺だ」
 滝は言葉を切り、ただ黙々と食事を終えると、茶碗を片付けて居間を後にした。廊下を横切り、玄関横の客間へと閉じこもる。
 襖の向こうから食器がぶつかる音がする。神前が片付けているのだろう。台所の流しを使う水音。食器を洗っているらしい。たち働く神前の足音は客間には向かわなかった。滝は客間に畳まれた布団に背をおあずけて聞いていた。
 やがて、襖を開け閉めする音がして静かになった。また滝の部屋へと神前は移動したのだろう。まだ少し動悸がする。滝は手足を投げ出し、寝転がった。
 ずっと胸にわだかまる神前への怒りにも似た感情は、嫉妬とも言えるのかも知れない。
 神前は経済的に恵まれ、才能がある。
 自分には無いもの、喉から手が出るほど欲しいものを最初から持ち合わせていた。
 滝の瞼が重くなる。神前が来てから、気持ちが落ち着かずに熟睡できなかったからだ。青いカーテンを閉め切った客間は日を遮り、海の底にいるように感じた。そのまま滝は眠りに落ちた。
 
ーー滝の書く小説は、優しいな。オレん家(ち)さ、商売がうまくいかなくてオレが中学くらいまで貧乏で、図書室から借りてきた本を読むくらいしか楽しみがなかったんだ。
 仲良くなった司書の先生から、最初に新刊貸してもらって読んでた。
 金のかかる運動部なんて無理でさ、美術部の幽霊部員。夕焼けのグラウンド、図書館から見下ろしてた。そんときの気持ちを思い出すんだ、滝の小説読むと。

 書店でバイトする滝の後ろをついて歩いて、神前が話したことを覚えている。取り巻きのいない神前は、本が好きな普通の大学生だった。バイト上がりに、自販機横のベンチに座って二人でいつまでも最近読んだ本や書いている小説の話をした。何時間でも、飽きることなく。

 頬に小さな冷たさを感じた。
 目を開けると、カイトの顔が間近にあった。襖をあけて入ってきたらしい。
「どうした?」
 カイトの緑の瞳がひたと滝を見つめた。やにわに起き上がると、滝は客間から出た。整えられた居間を通って、自室の襖に手をかけると一気に開く。
 夕焼けに赤く染まる空間、窓際の机に神前が突っ伏していた。
「おい、かんざき!」
 滝が肩をゆすっても、神前は動かなかった。倒れ伏したノートは血を吸っていた。押し入れにしまっていた滝の原稿が敷きっぱなしの布団の上に置かれてあった。
「神前……」
 カイトが神前の背中に頭を寄せた。

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