8 さよならベイクドポテト

文字数 1,893文字

 俺が住む建物の一階で、ヒリニィはバーを営んでいる。一応こちらが本業らしいが、客の入り様はまばらだ。おそらく主な収入源は副業の黒いお仕事だろう。
 仕事について誤魔化すために、俺はヒリニィのバーに足を踏み入れた。雰囲気づくりのためか、店内の照明は薄暗い。テーブル席によく見かける客が数人、酒を飲んで騒いでいる。ヒリニィはカウンターでコップを拭いていた。
「おかえり、ユリンくん。おつかいはこなしてくれたかな?」
 俺に気づくと、ヒリニィは自分の目の前にある席へ手招いた。俺が腰を下ろすと、彼はテーブルにベイクドポテトを皿にのせてふるまった。仕事を終えると、彼はいつもこの一品をご馳走してくれる。
 薄く切れ込みの入ったじゃが芋に、塩と黒胡椒がたっぷりと振りかけてある。湯気と共に立ち昇る胡椒の香りが、俺の鼻腔をくすぐって食欲を刺激した。
 ヒリニィに返事もせず、ベイクドポテトにかじりつく。熱い果肉が口内の粘膜を焼くが、噛めばほろりと崩れてほのかな甘みが広がった。続いて塩気と胡椒のスパイシーな風味が舌を喜ばせる。
 じゃが芋といえば揚げたりふかしたりが多いが、やはり俺は焼きあげるのが一番だと思う。手間はかかるものの、パリッとした皮と柔らかな果肉は焼かなければ味わえない。これに塩と胡椒があるだけで、俺の胃袋はすっかり満足してしまう。
「ユリンくんがベイクドポテト好きなのは知ってるよ? でも無視は酷いんじゃないかな」
「すまん。腹が減っていたから、先に食っておこうと思ってな」
 仕事を失敗したと話せば、ヒリニィがじゃが芋を焼いてくれるとは思えない。とりあえず食べておかなければ損である。
 俺の言葉に、ヒリニィは怪訝そうな表情を作った。俺の態度に不自然なものはないはずだが、なにを疑われているのだろう。
「……あのさ、おつかい失敗した?」
「まさか! ちゃんと言われた物を買って部屋に置いてきた」
 言って、そういえば頼まれたことはしていたのだと思い出した。俺はあくまで、買った物を部屋に置いてくるよう頼まれただけである。つまり仕事を失敗していないのだ。よかったよかった。
 図らずとも言い訳を済ませたことで、安心して俺はじゃが芋を食べ続けた。果肉をすべて飲み込み、手についた塩と胡椒も舐めとる。
「なるほど……じゃあ、余計なこともしてないよね?」
「例えば?」
「部屋にあった大きい袋、あれの中身を触ったりとか」
 言い訳は通用していなかったようで、思いっきり疑われている。ここで何もしていないと言い張っても、すぐに空のズタ袋が見つかってしまうだろう。ここは袋の中身がなくなってもおかしくない嘘を話すべきだ。
「ヒリニィ、実は俺が行ったときには袋が空だったんだ」
「それにしてはすぐに報告してくれなかったね」
 まずい、つく嘘を間違えた。ヒリニィが疑っている根拠は、時間がかかり過ぎていることだ。とっさに上手い返事が思いつかず、俺は黙り込んでしまう。
 ヒリニィが溜め息を吐き、片腕を静かに上げた。店内の喧噪がぴたりと止み、酔っ払いたちの視線が俺に向く。彼らの目は酒気をおびたそれではなく、明らかに殺気がこもっている。
「残念だよ。僕、ユリンくんのことは好きだったんだけどなぁ」
「あー……ヒリニィ、俺もお前に感謝してる。安く部屋を貸してくれたし、ベイクドポテトも奢ってくれた」
「仕事をこなしていれば、これからもそうしてあげたよ」
「なら今回は見逃してくれ。これからも家賃は払うし、仕事も受ける。俺が暴れたら、ただじゃ済まないのもわかるだろ?」
 武力をちらつかせるのは好きじゃない。確実に関係が悪化するからだ。それでも今は己の腕っぷしにしか交渉材料が見つからなかった。
 俺が亜竜狩りをしているのはヒリニィも知っている。さすがに今すぐ、周りの悪漢共をけしかけることはしないだろう。そう高をくくっていた。
「ユリンくん……君は確か、武器をコートに仕舞っているよね?」
 ヒリニィが俺の上半身に目を向ける。――そうだった! 今の俺はコートをハマリに渡してしまっている。元々武装はしていなかったものの、これではブラフにもなっていない。刀があれば余裕だが、無手だと狭い屋内で複数人に囲まれれば多勢に無勢だ。
 俺は椅子を持ち上げると、勢いよく振り回した。ヒリニィと周りにいた悪漢たちが怯んだ隙に、玄関に向かって駆け出す。自室に戻っている暇はない。ともかく逃げることが先決だった。
 背後から複数人の足音と怒声が聞こえてくる。俺とヒリニィの手下による、命がけの追いかけっこが始まった。
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