哨戒行動の最初の日
文字数 6,422文字
一方、冬の最低気温は5度くらいで、冬の平均気温は13度程度。
6月中旬から9月中旬まで夏の間は雨がほとんど降らないため、長い間晴天が続く。その代わり夏ではなく冬に雨が降る。
夜になると一気に気温が下がり、日中の湿った空気が露となって地に染みていく。雨の少ないこの地の動植物にとっては、貴重な水源の一つだ。
2月から6月にかけての春の時期、ハムシンと呼ばれる乾燥した高温の砂塵嵐がアラビア砂漠の方から強烈に吹きつけてくる。
いわゆる地方風というやつだ。この間の季節外れの強烈な砂嵐も、こうした地方風の類だろう。ハムシンの風速は時には時速140kmにも達するため、防護するものがないと皮膚はやすりでザラザラに削られたようになってしまう。
このように農地に向いているとは言えない気候風土にもかかわらず、
小麦、大麦、ざくろ、ぶどう、いちじく、ナツメヤシの実の蜜、オリーブを育てて生活する。少なくとも聖書にはそう書かれてある。
こんな場所が神が備えたもうたシャレム(安らいだ)の土地なのだろうか。
少なくとも今の僕にはこんな場所は遠慮したい。ミッションが終わればすぐにも立ち去りたいところだ。
そして夏や冬の時期の風は北西からの風が特に強い。これは狙撃にとって忘れてはいけない重要な点だ。
乾燥した高温風でハムシン以外で他にも有名なのは、アフリカ北部で吹きつけるサハラ砂漠からの熱く乾いた風、シロッコだ。
アフリカの地元では、ギブリと言って、スタジオジブリの名前の由来になったそう……いや、トップクラフトだっけな?
「そんなわけありません。ジブリであってます」
「え⁉ なんだいきなり!」
私服から、作戦行動のための戦闘服に着替えたネフシュが、すでにボーの傍らに立っていた。
「どうぞ、モノローグを続けてください」
「お前さん、すごいな。僕が何を考えているのか分かるのか?」
「ご主人様が、頭の中で独り言を言っているときのわずかな唇の動きを、失礼ながら読み取らせていただきました」
「読唇術みたいなものか。映画「2001年宇宙の旅」に登場するコンピュータHALみたいだ。もうネフシュたんの前では、うかつなことは言ったり考えたりできないな」
「ご主人様の心身の健康状態をモニタリングするのも私の務めです。申し訳ありませんが、これはオーナータスクであるため、ご主人様の拒否によってキャンセルはできません」
「わかっているさ。まあ、何も邪なことは考えちゃいないから頭の中を全部映像にしたっていいよ」
「脳の微弱な電位差を思考波としてとらえ、映像化する技術は実験段階ならば成功しています。お試しになりますか?」
「半分冗談で言ったつもりなんだが......お前さんたちの技術力はすごいな」
「私たちの技術が優れているのは、私たちが優れているからではありません。そのような技術が有効性をもって作用するこの世界そのものをお創りになった創造主である神が、すべてにおいて優越しているからです」
ボーは、このネフシュたんのこの力強い意志力のある言葉の響きにかつての日曜学校を日々をふと思い出した。
教会の世話役の男性が、いつもお菓子をくれる前によく言っていた『創造主である神』という言葉が、言葉の浮力を得て、記憶の底からボーの意識の水面にまた現われてきたのだった。
二人はトラクターカーゴから降車して哨戒行動の準備を始めた。
「ご主人様、今日の予定は哨戒行動です。作戦地域周辺の偵察や警戒を行います」
「つまりいよいよ実戦に入るってことだな」
「そうです。ですから入念な準備が必要です。まず、携行する武器ですが、狙撃銃の場合、視界が狭く取り回しがきかないだけでなく、そもそも重量が40㎏以上あるので人間一人だけで持つことはできません。
なので哨戒行動における護身用武器としては、この銃を携行してください」
「これは?」
「FG42自動小銃です」
「ナチス・ドイツのパラシュート部隊に配備されていた銃だな」
「さすがよくご存じですね。ラインメタル・ボルジク社が設計製造したガスオペレーション方式のライフルです。トリガーは二段式になっていて、一段目でセミ、二段目でフルの切り替えができます」
「それは便利だな」
「マガジンを横から装填する珍しい形なので伏臥射撃に有利です。ただし残弾数によって重心が徐々にずれるので気を付けてください」
「この銃を使う状況だともはや精密さは必要ないかもな。むしろ、近接攻撃用に銃剣をつけれるほうがありがたい」
「分かりました。バヨネットのマウンタを取り付けて改造しておきます。それと、装填弾丸数の多い拡張マガジンをお渡ししておきます」
「拡張マガジンがいるのか?」
「もし魔物やそれに類する敵に遭遇して交戦状態になったら再装填の時間はほぼありません。継戦能力を維持するために装填弾丸数の多い拡張マガジンをポーチに入れておきます。ポーチはスリングの斜め上に装着していますから、下方向に向けてマガジンを抜き出してください」
「確かに拡張マガジンは便利だが、そんなに再装填に時間がかかるものなのか?」
「シューティングゲーマーのご主人様ならそうお考えになるのはごもっともです。それに実際、再装填時間自体は慣れた者なら数秒で終わります」
「だろ?」
「しかし、実践経験の少ない者が敵に制圧されている状態で冷静に確実にマガジン交換を行うのは、思っている以上にかなり難しいことなのです。映画やゲームのように簡単にはいかないのです。
焦ってマガジンを落としでもしたら、その時点でもう敵の標的です」
「わかった。確かに。それにこのFG42、ただでさえ弾数少ないしな」
「では次に戦闘服です。哨戒行動においては、偽装する必要はないので、戦闘服はギリースーツではなく防塵性能を高めた拡張戦闘服を着衣してください。
そしてアタッチメントを体の部位に装着し、H型サスペンダーに水筒などの装備品を懸架してください」
「結構、数が多くて重いな」
「次はブーツです。このブーツはジャングル用とデザート用の兼用ブーツです
砂漠移動時はソールの土踏まず部分の水抜き用の穴をキャップしてください。でないとそこから砂埃が大量に入ってたまります。もちろん渡河の場合などにはキャップを外しておいてください」
「ズボンの裾は、ブーツの中に入れる?それとも出す?」
「今は裾をブーツの外に出しておいてください」
「わかった。よく映画なんかで見る海兵隊員は裾を出しているしな」
「これらの軍装品は、軽量かつ透湿通気性のある超撥水生地で作られています。
とても高性能ですが、遮熱性能はあまり高くないので、この遮熱板シートを体に巻くように下に入れてください」
「お、確かに熱が遮られている感じがするぞ」
「次に金属部分がすべて反射防止塗料が塗布されているか確認してください。人工物のないこの時代、金属の反射光はかなり目立ちます」
「確かにな。それに視界が広いから遠くからでもわかってしまう」
「夜はとても冷え込みますので、夜間行動の際は戦闘服の上から防寒着を適宜レイヤーしてください」
「レイヤー?コスプレでもするのか?」
「すみません。重ね着という意味です」
「僕も銃器関係にはある程度ゲーム知識があるが、こういった実際の戦闘に関わる知識はほとんどないんだ。所詮、バーチャル民てことだな」
「帽子はニット帽をお渡ししておきます。体温の半分以上は頭部から失われていきますから。ただニット帽だけだと日中は暑いので、普段は通気性のよい遮熱素材で作られた、このクラッシュキャップ野戦帽をお被りください」
「FG42抱えて、だぼだぼの迷彩ズボンにタイトな上着、それでもってクラッシュキャップって出で立ちは、シルエット的にはナチス・ドイツの下士官兵みたいだな。いいのかこれ?」
「今の状況と、この時代に、そういう政治的なイデオロギーは全く無関係です。
ナチス・ドイツのシンボルを身に着けているわけでもないし、ましてやそんな政治信条を持っているわけではありません。気にしないでください」
「時代が2000年くらい違うとはいえ、一応ここはユダヤの地だからな。現代日本人の僕でもなんか気になるな……」
ゲームだと全く気にならない歴史的背景やタブーの類も、さすがに現実世界の一部になると、さすがのボーも平然と無視はできなかった。しかし、そこには何も政治的な意図はなく、機能としてたまたま似ているだけのことであるのもまた事実なので、ボーはそのまま意識を次に向けた。
「ところで、ネフシュたんはずいぶん軽装だな。屋外を行動する時の戦闘服すら、ブルマみたいなショーパンにノースリーブって、まるで春のピクニックだ」
「人間と構造が違いますから」
「露出が多いほうがいいんだろ。僕もネフシュたんのように肌を出したいよ。
こっちは、もう汗で下着がべちゃべちゃになりそうだ」
「むしろその方が、適切な体温と湿度を保てるので我慢してください
人間がこの地で肌を露出させると体温以外に紫外線や砂塵による皮膚への影響もありますから」
「それはまあ仕方ないか」
「他にもいろいろ留意点がありますが、とりあえず出発してからその都度説明します」
「分かった。とりあえずまだ気温が低いうちに出よう。で、移動は徒歩か?」
「いえ、さすがに炎天下での長距離移動なのでレギオンに跨乗しての移動になります。とりあえず二体呼び出してください」
「わかった、それなら5番機のエプシロンと、6番機のゼータに随伴してもらおう。おーい、聞こえているか」
「聞こえてイマス。了解しまシタ」
二体のレギオンがメンテナンスドッグからトラクターカーゴの出入り口に即座に移動し、彼らの前に整列した。
「残りは留守番よろしくな。今日はとりあえず一時間程度で帰ってくる。もし、時間内に戻ってこなかったり、連絡が途絶したらすぐにリバイアさんに報告して指示を仰ぐんだ」
「了解しまシタ」
5番機のエプシロンにボーが、6番機のゼータにネフシュがそれぞれ跨乗した。
ボーは、手すりをつたって背中の部分にある簡易シートに着座し、固定ベルトを装着した。手元には簡易的なモニタパネルが装備されており、ログインを行った。
すると、レギオンは特に指示を受けるわけでもなく、迅速に隠密行動姿勢に移行した。
ひじの部分が地面に接地し、脚部は折れ曲がった。ひじと脚部の下面には、ホイールが埋め込まれており、匍匐前進のようなスタイルでスムーズに進行した。
静かな音をたてながら地面を上を滑るように前進する感覚は、ボーにとっては、乗ったこともない新しい乗り心地だった。
もしここがテーマパークで、今は誰かとデートしながら人気アトラクションに乗っているのだったならと、ある種の妄想ともいえる願望が、閃光のように一瞬だけボーの頭によぎった。
その次の瞬間、ネフシュと目が合った。ネフシュはこちらの気持ちを察したように、すかさずウインクをしてきた。
「また読唇でもされたかな……」
ボーは、野戦帽をまっすぐに整えた後、わざと愛想の悪い表情をして前方を見つめなおした。
ネフシュもまた、笑みで返事をした後、前方を注意深く警戒した。
二機のレギオンが、大地の稜線に沿って迅速かつ軽快に移動する。
ボーは、双眼鏡とレギオンの遠距離センサーを使って、目視で周囲の状況確認を続けた。
障害物がほとんどない荒野ではあるものの、いつどこで何に遭遇するかわからない。
そもそも、すでに魔物からこちらの動向を一方的に把握されている可能性すらないではないのだ。そのような状況下で行動するため、高まる緊張感によって普段以上にのどが渇いてくる。
ボーは、1クオート入り、つまり約1リットル容量の水筒を三つ持ってきたのだが、そのうち一つはもうほとんど空になってしまった。
人間は一日のうち、皮膚および呼気から1リットル、排泄でさらに1リットル程度の水分を喪失している。よって飲料水を摂取してこれを補わねばならない。
よって、一日通常2リットル程度の水を必要とし、こうした状況では、さらに4リットルから5リットルの水を消費することになる。
「ご主人様、飲みたい気持ちはわかりますが、少しペースを抑え気味にしてください」
「わかっているさ、貴重品なんだろ」
出てくる汗は、生理作用としての発汗だけでなく、その半分は緊張による心理的な汗なのかもしれない。
汗ばんだ首元に、砂塵が入り込み、ザラザラと不快な感触が広がっていくのを感じながら、なおも双眼鏡をのぞき込む。
変哲のない風景が続く中、5㎞程移動したあたりで、ボーは気が付いた。
体の水分は減っていくのに、尿意だけはなくなることはない。
ボーは、さっきからなんとなく感じていた気配を、ついにごまかしきれなくなってきた。そして比較的静寂なレギオンからの振動も、尿意にさらに揺さぶりをかけてきた。
「ご主人様、トラクターカーゴの現在位置から、周囲10㎞以内には何も脅威となる存在はないようですね。とりあえず予定時間になりましたので帰投しますか?」
「ネフシュたん、あのな」
「どうかしましたか?」
お互いのレギオンの距離が離れていて、しかも風切り音がしているにも関わらず、ネフシュは、脱力しつつあるボーの声をきちんと聴きとれていた。
ボーの口の形を読み取って、聴覚情報を補正しながら、ボーの声を判断しているのだ。
「あれだよ。あれ。漏れそうなんだが……」
「あ、あれですね。わかりました。とりあえずレギオンを停止させてください」
「ふう、やっと出せる」
「ちょっと待ってください」
「え、何?なんか手順とか、注意事項があるの?」
「おしっこの臭いは、ここでは命取りになります」
「え?」
「野生動物や家畜は、慣れない臭いを敏感に嗅ぎつけます」
「それで?」
「臭いは風に乗りますので、臭源がかなり遠い距離であっても広範囲に拡散します」
「ひろがるよな」
「慣れていない違和感のある臭いを感じると、微弱であっても動物たちはすぐに騒ぎ出します」
「うるさくなるよ」
「すると、私たちの存在が、近隣住民や駐屯ローマ兵、場合によっては魔物に暴露されることになります」
「わ、わかった、気を付けるから、チャック開けていい?」
「地面の上に直接してはいけませんよ!」
「わかってるって。ネフシュたんはAIアンドロイドと言っても一応レディだ。見えないようにあっち向いてやるよ」
「そういうことではありません!」
「も、漏れそうなんだけど……」
「空になった水筒の中に出してください」
「水筒に?」
「一滴どころか、少しの臭いも外に出さないように、水筒の口にしっかり根本まで入れてから排尿してください」
「え……根本まで入れるの?」
「ご主人様くらいのでしたら問題なく入るかと思いますが」
「く……下ネタに突っ込んだりする余裕なんか、ねー!」
「入りましたか?」
「余裕で入った」
「それではどうぞ」
ジョゴジョゴと大きな音が、晴れ渡る古代パレスチナの荒野に響き渡る。
1クオート入りの水筒の半分くらいが、一気に満たされ、ボーは、その意外な量の多さに驚き、水の重要性を再認識した。
「ふぅ……」
こうして彼らの最初の哨戒行動は無事に終了した。