金持ちだったかつての青年
文字数 7,603文字
ボーとネフシュは今日も哨戒行動に出発した。今回は、これまで数回行った哨戒行動とは違ってツロの港がある北西の方角を目標に定め、レギオンの3番機のガンマと4番機のデルタに跨乗して移動した。
ミッション開始とは言っても、ばったばった颯爽と敵をやっつける、というわけにはいかない。基本的には地味な作業の連続だ。
武器の保守点検、照準調整、レギオンの教育、周辺の監視、天候予想、記録管理、掃除洗濯……
オンラインシューティングゲームでは、プレイとそれ以外の作業の割合は8:2くらいだ。娯楽なのだから当然と言えば当然だが、やはり現実は違う。1:9くらいの割合か、それ以下だ。ボーは改めて、そのことを心に思い知った。
レギオン小隊は、さらに遠距離を走破した。しかし、行けども行けどもやはり変哲のない風景が続く。ただ、心地のよい風が地中海のある西の方角から時折吹いてくる。
その風に癒されたのか、突如として空腹感を感じたボーは小休止をとった。
「ネフシュたん、ちょっと休もう」
「了解しました」
「僕らが休んでいる間、UAVを北の方に飛ばしてくれ」
「3機を30度間隔、計90度の範囲でよろしいでしょうか」
「ああ、それで構わない」
「ガンマ、デルタ。君らは近距離センサーで周囲を警戒していてくれ」
「了解しマシタ」
「ネフシュたん、おやつ頼む」
「かしこまりました」
食事は匂いが出るものは厳禁だ。そのため口の中に含んで食べられる高カロリーの糧食に限られる。ボー達はそれをおやつと呼んでいた。
ボーは、ネフシュから出された謎肉キューブを丁寧に開封し、すぐに口の中に入れた後、奥歯でかみ砕き、塩気の強い風味を味わいながら、スポーツドリンクでそれを流し込んだ。
謎肉キューブの添加物たっぷりのアーティフィシャルなフレーバーはドクペを好むボーの口にとても合っていた。
ボーは、さらに数個の謎肉キューブを追加で頬張り、さらにフルーツキャンディーを数個、味のアクセントとして舌の上に乗せた。
「お味の方はいかがでしょうか?」
「塩分補給のためだから仕方ないが、ちょっと塩気が強いな。僕は好みだが、普通の人だと喉が渇くだろう。すると無駄に水分を消費しそうだ」
「わかりました。そのように行動日誌に記録して報告いたします」
「そういえば、聖書のどこかに、『塩に塩気がなくなれば、何によって、その塩に塩味をつければよいのだ』という記述があったのをふと思い出したが、それなら、この謎肉キューブがあれば問題解決だな」
「わかりました。それも記録して報告いたします」
「おいおい、今のは冗談だ。ジョウダン」
「あ、失礼しました」
「次から勘違いしないようにディープなラーニングしておいてくれよ」
「承知しました」
「味よりも臭いが出てないか心配だ」
「今現在、周囲3㎞範囲には生体反応はありませんので、その点は大丈夫です」
「それじゃ、今のうちについでに用も足しておくかな」
「ご主人様、この前と同じように、ちゃんと空になった水筒に入れておいてください。おしっこはすべて高性能濾過器で濾して再利用しますので」
「おい、まさか」
「飲用以外の用途なのでご安心ください。ただし緊急時にはその限りではありませんが」
「まあ、自分のだったらなんとか我慢できるがな……」
小休止をして少し腹が満たされたボーは何気なく双眼鏡を手にして数km先をのぞき込んでみたものの、やはり何も見えない。
安堵の気持ちが食後の眠気を誘引したのか、双眼鏡を持ったまま、うたた寝を始めそうになったボーだが、突如、重たい警報音が最小ボリュームでけたたましくブンブンと鳴り始めた。
ボーは慌てて飛び起きて叫んだ。
「ネフシュたん‼」
「わかっております!北東の方角です。2番UAVが見つけました」
「リアルタイムで画像をこっちのモニタに転送できるか」
「今、転送中です」
「解析結果はどうだ?」
「生体反応があります。しかし、魔物のような異界の生き物ではありません」
「ただの野生動物か?」
「人のようです」
「人……商隊か?それとも軍隊か?」
「いえ、人数は一人だけのようです」
「すると旅人か何かか」
「その可能性が高いです」
「まさか、ヘブル人への手紙を携えた使者とか」
「その可能性は否定はできませんが、それなら魔物も周辺域に潜んでいるはずです。ですが、そうした反応や形跡は一切ありません」
「それなら、無視しておくか。余計な接触で無駄にリスクを高めたくない」
「そういう判断もありかと思いますが、足元がふらふらしています。どうやら、怪我をしているようです」
「怪我?」
「荷物もほとんど携行していません。多分、水も食料もわずかでしょう」
「どういうことだ?もし仮にこのまま無視すると彼はどうなる」
「多分、体力を消耗して、この先30㎞圏内で行倒れることになると予想されます」
「見捨てるか、助けるべきか……」
「助ける義務は私たちには、ありませんが、ご主人様は『善きサマリア人のたとえ』をご存知でしょうか」
「なんかそういうのが新約聖書のエピソードにあったな。けれども、聖書が手元にないんで具体的にどんな話で、どの箇所にあったのかなんてわからないけどな」
「ルカによる福音書10章25節の箇所です」
ネフシュたんは、幼馴染の聖書を開き、その個所がボーに見えるように差し出した。
ボーは、ネフシュたんの言わんとするところを理解しつつ、じっとその個所をしばらくの間、見つめていた。
そしてボーは、こう心に思い浮かべた。
もし幼馴染が一緒だったら、彼女はこの場で何と言うだろうか、何をするだろうかと。
頭の中で判断を迷う中、催促するネフシュの声が聞こえた。
「ご判断はご主人様にお任せいたします。どちらも見なかったことにしますか?
いずれにせよUAVを同じところに長時間滞空させるわけにはいきません」
「今のところ短期記憶力をステ振りしているから、嫌な出来事はすぐに忘れらそうだが……」
「あっ!ご主人様、ついにうつ伏せに倒れてしまいました!」
ボーは、一刻を争う事態であることを認識し、本心に従って即時決断を行った。
「……わかった。ここで行倒れかけている人を見て見ぬふりはできない。救助しよう!」
「私らの存在が他の人間に知れることになりますが」
「誰かに言いふらしてしまうだろうな」
「助けた後で口止めしますか」
「ネフシュたん、現地人が着ている服はあるか?」
「似たようなものならあります」
「とりあえず現地人のふりをして二人で接近してみよう。介抱してから次を考える」
「了解しました」
ボーは念のためにFG42を隠し持ち、チャンバーに初弾装填を行ったあと、即座に安全装置を解除した。ボーは個人属性値最適強化拡張処理の効果によって、こうした動作と判断を的確にこなせるようになっていた。
そしてネフシュと共に、戦闘服の上から亜麻布の上着をレイヤリングして、徒歩で倒れた旅人に接近していった。
二人が目視できる距離にまで目標に接近すると、確かに人が倒れていた。倒れていたその旅人は白髪の老人だった。
「かなりの高齢のようですね」
「こんな老人が一人で何も持たずにこんなところを徒歩で通り抜けようとするとはな」
ネフシュは、まずは老人の外傷の処置を行った。
止血剤が浸み込んだコンバットガーゼをポーチから取り出し、手際よく老人の傷口に当てた。
「まるでベテランの衛生兵みたいだな」
ボーはその慣れた手つきに感心した。
そして、ネフシュはすぐさま救命用バンドを取り出し、伸縮包帯のように老人の腕に巻き付けた。その直後、バンドは青白い光を放ちはじめた。
青白い光は、老人の体全体を包み込むように、同心円状に放射すると、老人は徐々に意識を取り戻し、しわで覆われた目をゆっくりと開けた。
意識を取り戻した老人は、何かを語りだしたが、当然ボーにはその老人の言葉を解すことはできなかった。
「ネフシュたん、何と言っているんだ?」
「古代のアラム語のようです。私ができる限り通訳します」
老人の話す言葉はネフシュたんを介することによってボーに伝わった。
「私は、クリスティアノス教会の世話人の者だ。まずは礼を言う。シドンとツロの地で皆から集めた献金をエルサレムに運ぶ途中で、盗賊に襲われてしまった。献金だけは何とか無事に守りきれたが、ロバと荷物を奪われ、わし自身も深手を負ってしまった」
ネフシュたんは、老人に謎肉キューブを数個分半切りにして、そっと手渡した。
老人はそれをひとつずつつまんで口に含みながら、話を続けた。
「あなたたちにお礼をしたいところだが、ここにある金品は、エルサレムの教会のために皆から集めた貴重な捧げもの。私のものではないので、この中から謝礼を渡すことは申し訳ないが、出来ぬ」
「そんな、謝礼など必要ありません。その献金を大事になさってください」
「おお、娘さんの胸元にもクルスの飾りが……あなた方もキリスト者か?見たところ、色白の異邦人のようだが」
ボーは、ネフシュたんの胸元を確認した。すると確かに青色の十字架の飾りがそこにはあった。ボーはその飾りに今更ながら気が付いたのだ。
「キリスト者なら、私の昔話を聞いてくれるかの」
少し元気を取り戻した老人は、さらに会話を続けようとした。
「どうぞお話しください」
ネフシュたんは優しく老人に応えた。
「ありがとう、少し長くなるがぜひとも聞いてもらいたい話なのだ」
ボーは、二機のレギオンが待機する丘の方向に視線を送った後、老人の話を聞き始めた。
「私の父はサンヘドリンの一員、つまりユダヤ自治組織の議員だった。私は父から財産と地位を受け継いだ。
若い頃の私は、とても裕福で、土地も家畜も使用人も両手両足では足りないくらいたくさんいた。財産目録を管理するための専用の部屋もあったくらいだった。
そして、私は他人に誇れるくらいに、モーセの律法を守って戒律通りの敬虔な生活を続けていた。
聖書の教えに忠実な生き方は、私にさらに多くの財産や地位や名誉をもたらした。こうした恵みは、神への信仰心への見返りだと、若い私はそのときは思っていた。
さらに財産が増えて全てが順風満帆だったとき、私は、数々の奇跡を行いながら神の国を語るという評判の若いラビの噂を聞いた。
その若いラビは、かつて聞いたこともない説教をしていたのだ。
『心の貧しい者は、幸いです。天の御国はその人たちのものだからです』と。
私は、この説教の意味に疑念を抱きつつも、少なくともこれまでのラビとは違う考え方をしていることを確信した。
私はかねてより一つの疑問と願いを持っていた。それは永遠の命についてだった。
財産も信仰心も溢れるほど手の内にあるが、ただ一つ得ていないもの。それは永遠の命だと私は常々感じていた。
聖書の創世記には、人間が再び神から離反し、永遠に生きる者とならないように神がエデンの園から人間を追い出したと書かれてある。
であるならば、人間にとって最高の宝であり良きものは、永遠の命であるはずだ。
だが、永遠の命というものは、そもそもその存在すら律法の中に詳しくは書かれていない。とは言え、聖書の中に書かれていないことを周りにいる祭司や律法学者らに私の立場から尋ね聞くわけにはいかぬ。
そこで私は、この若いラビなら、永遠の命について答えることができるのではないかと期待し、ガリラヤからユダヤ地方にやってきたということを伝え聞きて早速出向いたのだ。
そして、自分の身分を隠してこのように若いラビに尋ねた。
「永遠の命を得るには、どんな良いことをすればよいのしょうか」と。
すると、その若いラビは、
「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うならを戒めを守りなさい」
と私に言った。そこで私は
「どの戒めですか」
と再び尋ねた。すると若いラビは、
「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と私に言ったのだ。
そこで私はすかさず
「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」とさらに尋ね返した。すると若いラビは再びこのように答えられた。
「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」と。
そのとき私は、悲しみと途方に暮れてその場から立ち去った。
私が期待していた答えではなかったうえに、築き上げた財産を全て売り払い、何の関係もない罪深い貧民に施しをするなどとてもできなかったからだ。
その若いラビは私が立ち去った後に自分の弟子たちにこう言ったのだそうだ。
「金持ちが神の国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい」と。
その若いラビは私の正体がいったい何者なのか、すでに見抜いていたようだ。
そして、その言葉は、やがて私の耳にも入ったが、私はそれを聞いて否定しなかった。
確かにその通りだと思ったからだ。私は永遠の命を欲しながらも、財産を処分することなく、それまでと同じように自分が良いと思う生き方を続けた。
それから、しばらくして後、私はその若いラビが、贖罪のためにメシアとしてゴルゴダの丘で磔刑になったことをサンヘドリンの議員から聞いた。
そのとき、私は若いラビの言わんとすることをようやく悟ったのだ。
良く生きるのは、永遠に生きるためである。永遠に生き得ないものは、良く生きても、何の意味があろうか、と。
彼は善良だが非業の死を遂げた悲劇のラビなどではない。彼こそが、イザヤ書の中で予言されたメシアであり、私たちは、その十字架の死と復活を信じることをもって罪の中から救われ、神の民となり、永遠の命にあずかるのだと。
そこで私は、周囲の反対を押切り、全ての財産を処分し、金に換え、家族のために必要な生活費だけを余分に残して全てを献金した。かつて私が彼から言われた通りに。
それ以来、名誉などとも無縁な貧しい生活を人生の半分以上続けてきたが、幸いにして家族の生活と健康にはどうにか恵まれて今日までこうして生きながらえることができた。私の人生が神にあってどれだけお役に立ったのかはわからないが、今まで祈り続けてやってきた人生にとても満足している。
私がクリスティアノスの教会で世話人をしているとき、彼の弟子だったという人物からメシアが再びこの世に訪れ、我々のうえに最後の審判を下されると聞いた。
今、ユダヤの地では、反ローマの動きが高まっていて、各地で暴動などが起き始めている。そればかりか、ネロ帝はエルサレム神殿の宝物庫にある金品を奪うため、ウェスパシアヌス将軍の軍団を送り込もうとしているという噂も聞こえてきている。
もしかすると、近いうちにユダヤとローマの間で、大規模な戦争が始まるかもしれない。
これらの話を聞いた私は、かつて彼がカペナウムの地で説教していたときの言葉を思い出したのだ。
『平和をつくる者は、幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです。』と。
お二人方、お気をつけなされ。世の終わりと審判の日は近い。だが永遠の命にあずかる者に恐れることは何もない」
一通り話を終えた老人は、ゆっくりと腰を上げ立ち上がった。
「ネフシュたん、途中までUAVに護衛させるか」
「老人の歩調に合わせて低空低速で長時間飛ばすのは、暴露の危険性があります」
「さすがにそれはリスクが高いか。わかった。仕方がない。それはやめておこう。その代わり余分に水を持たせよう」
「ご主人様の予備の備蓄分が減ってしまいますがよろしいのですか?」
「なに、このミッションを予定より少しだけ早く終わらせればいいことだ」
「それにしても水筒のまま渡すのはまずいです。この革袋に入れて渡してあげてください」
「わかった。あ、一応聞いておくが、この水は、アレを濾過器で濾したやつじゃないよな?」
「さすがにそれはありません。人にあげるものですから」
「だよな」
ボーは、たっぷりの水と謎肉キューブのパック、戦闘糧食3ケース分の中身を、老人の小物入れにぎゅうぎゅうに詰め込んだ。
老人は深々と感謝した後、別れ際に二人に言った。
「これが私の最後の御勤めだ。私は、もしかするともうこの道を戻ってくることはないかもしれない。だから、若いお二人にお願いがあるのだが」
「どんな願いでしょうか?」
「私の生きがいは、若いラビ、いや、主イエス・キリスト様と再びお会いできる日が来ることだが、私の肉の寿命はもう長くはない。
主イエス・キリスト様が再び地上においでになった時、もしあなた方が会うことがあったなら、こう伝え尋ねてもらいたい。
『ラクダは針の穴を通れましたでしょうか』と」
「わかりました」
「見知らぬ老人の願いを聞き入れてくれてありがたい。お互い主にあって、この先の事柄が導き守られ成就しますように」
そう言い終えると、静かに老人は歩き始めた。最初はよろよろとしておぼつかない足取りだったが、徐々にしっかりとした足取りになり、曲がっていた背筋もまるで若返ったかのように真っすぐにぴんと張ってエルサレムのある南の方角へと意気揚々と歩みだした。
二人はそれを見届けて安心したが、その刹那、突然砂嵐が湧きおこり、辺り一面を砂埃が覆い始めた。
幸いにも、すぐに砂嵐は収まり、何事もなく平常に戻ったが、霞が晴れたときには、稜線の向こう側までに達したのだろうか、すでに二人の視界から老人の姿は消えていた。
ボーとネフシュたんは、見えなくなった老人の姿を見守るかようにしばらくの間、その場に立ち竦み続けた。
そして、ボーは一言だけつぶやいた。
「永遠の命……か」
時はすでに夕刻前に近づき、地平線の向こうには、差し込んだ太陽の光線が、霞の中で拡散し、放射状に広がりながら幾筋もの柔らかい光の柱となって雲間から立ち現れた。まるで金持ちだったかつての青年の在りかを祝福する光かのように。