第七話 貧民街

文字数 3,356文字

 
 マリアは三人目の被害者、エリザベス・ストライドが殺されたホワイト・チャペルの現場にいた。

 辺り一帯にはゴミが散らかっていた。壁際にはリンゴでも入れていたような木箱などが適当に積み上げられており、隅の方では動物のものか人のものかも判らぬ糞尿の悪臭が漂っている。

 事件は二日前の出来事なので現場検証等はとっくに終わっており、今は付近に人影はない。マリアはじっくりと辺りを見回した。洗い流されているが、マリアの眼には石畳に流血の後を見て取れた。

 この件では犯人が目撃されたというが、遠くからの目撃であり、詳細は分かっていない。

 この日の二件を含めて、〝切り裂きジャック〟の犯行と見られているのが四人、その他にも同様の被害者――〝切り裂きジャック〟の仕業に思わせようとした便乗犯であろう――が多数出ていたのは確かだ。
 なのに、この事件だけ――、

「なぜ見られた?」

と、マリアはそう呟いた。

 あり得そうな理由は二つ。
 一つは、単純に時間がなかったケース。人目を避けた心算だったのに、予定外の通行人の登場に、慌てて逃げ出した――というもの。
 もう一つは、犯行に飽きてきたケースだ。これまでの犯行が上手く行き過ぎてしまい、つまらなくなった可能性がある。つまり、スリルを求めて、ワザと見つかったというパターンだ。
 マリアの勘では後者だった。 

 しばし顎に手をやり、考えに耽っていたマリアだが、もう少し詳しく調べなおそうと付近を見回した時に、背後からの視線を感じた。
 振り向いたマリアの前に、男が一人現れた。薄汚れた服装に埃塗れの髭面。暴力を肯定する野卑な笑いを顔に張り付けた男であった。
 マリアは動じず、

「何か御用?」

と、静かに問うた。

(ナイフ……)

 マリアは男が持っているナイフを見た。刃渡り二十センチメートルほどの無骨なナイフだった。男はそれを強調するように見せびらかし、

「ひひ……、堪んねえ。いい女だ……。俺は〝切り裂きジャック〟だぁ。大人しくしねえと死ぬことになるぜぇ?」

 マリアは男の脅し文句を聞きながら、ロンドンへ来る前に読んだ報告書の内容を思い出していた。検死報告では、犯行に用いられ、遺体を切り裂き臓器を取り出したのは鋭利な刃物――例えば、メスのような物――であると記されていた。
 男が持っているナイフでは、刃が厚過ぎる。切れ味も悪そうだ。
 
 恐らく〝切り裂きジャック〟に便乗して、特に女性を狙って強盗を働いているのだろう。
 この男はこれまで何件の強盗を働いたのか――。
 
 マリアは問うた。
 
「一つ聞きたいのですけれど……」
「ああ?」
 
 恐れを見せないマリアに、男は苛立った声を上げた。それを知ってか知らずか、マリアは淡々とした口調で、
 
「一昨日、ここで殺人があって、犯行を目撃した者がいたらしいのですけれど……あなた、知りません?」

と、聞いた。男は口を歪め、

「てめぇ、これが目に入らねえのか? 俺が〝切り裂きジャック〟だ……っつってんだろ!」

と、唾を飛ばす勢いで怒鳴り、斬りかかってきた。

 大きく振りかぶった相手の肘部分をマリアは右手で受け、左手でナイフを握る掌の手首近くを掴み、身体の内側に大きく捻った。体勢を崩した男をさらに組み伏せ、倒れた男の背を膝で圧迫した。

「ぐえっ……!」
「このまま、〝切り裂きジャック〟としてスコットランドヤードに突き出してもいいのですけれどね。質問に答えなさい」
「は、放しやがれっ……! 俺は〝ジャック〟じゃねえっ!」
「こうやって、何人も襲っていたのね?」
「あ、ああ……」
「女性も襲った?」
「ああ。ヒヒ……、助けてくれって、何人も泣いて頼んでたぜ。ヒヒ……。だから、助けてやる代わりに、たっぷり楽しませてもらったぜ。ヒヒヒ」

 その言葉を聞いたマリアの眼が、すうっ、と細まった。それから、抑えつけていた男の捻っていた右腕の人差し指を軽く摘まんだ。何の心算かと男が訝しんだ途端、

「ぎゃあ……!!

 男の悲鳴が上がり、

「い、痛え! 指が、指がぁ……!」

と、痛みに呻く声が零れた。
 男の人差し指はあらぬ方向を指差していた。マリアがへし折ったのだ。男の悲鳴にも顔色一つ変えず、また一本、今度は中指を摘まんだ。そしてまた、ぽきり、とまるで木の小枝のように他愛なく、へし折った。
 痛さのあまり、どっと汗を浮かべる男に顔を寄せ、改めて聞いた。その声音はとても優しい天使のような響きを持っていた。

「もう一度、聞きますけど……。あなたは〝切り裂きジャック〟を見ていないのですね?」

 聞きながら、今度はそっと小指を摘まんだ。
 薬指を飛ばしたところが()()だ。人の手というものは、力を入れたり、物を握ったりするときには、薬指よりも小指の方が重要だからだ。

「み、見てねえ! 本当だ」
「目撃者も知らない?」
「あ、ああ……、知らねえ」

 嘘を()けば、どれほどの痛い目に遭わされるか知れたものではない――と男は思ったらしい。意外なほど正直に、男は答えた。マリアは男の耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。

「今度、こういうことをしているのを見つけたら――、私が殺しますよ」
 
 嘘ではない――。

 男はマリアが本気だと、理性でなく本能で理解した。この女は有言実行。やると言えば、やるだろう。
 男は汗が急速に引いていくのを感じた。生きた心地がしない。大慌てで何度も頷き、乾いた声を絞り出して答えた。

「あ、ああ……、わ、分かった……。もうしねえ……。約束する」
「そう。いい子ですね」

 小さな子供に言い聞かせるように優しい、聖母の如き慈愛に満ちた言葉だった。
 マリアに解放された男は、指を折られた右手を庇いながら、路地の奥へと逃げ去った。

 因みに――。

 心底、肝を冷やしたこの男はこの後、ヨークシャーの故郷へと帰り、村の寂れたパブで働いた。儲からぬ店を閉めるという店主から格安で店を引き継ぎ、懸命に働いた。
 やがて店は繁盛し、嫁を貰い、子供を三人儲けた。五人目の孫が出来た頃、病で余命一年と宣告された。幸い、それを知れば悲嘆に暮れたであろう優しい妻は二年前に他界していた。

 昔から一度行ってみたかったローマを訪れた折、男は人混みに中で修道女姿のマリアを見かけた。以前と変わらず、輝くような美しさのマリアに男はすぐに気付いた。見つめていると、マリアが一瞬、こちらを見た気がした。

 あれから、ずいぶんと月日が経っている。老いた自分に気付くはずもない――と男は思ったが、こちらを向いたマリアの口元に微笑が浮かぶのを男は見た。瞬きをするほどの間であったから気のせいかも知れなかったが、男は心が満たされた気持ちになった。
 それだけでローマを訪れた価値があった――と男は思った。

 天寿を全うする際、男は子供たちや孫に、若いころに出会った女性――マリアのお蔭で自分は真っ当な生き方が出来たのだ、と語った。彼女は自分にとっては正に、天使か聖母だった、と言って息を引き取った。
 その死に顔はとても穏やかだったという。

 話が逸れた。
 それはともかく――。

 男が姿を消してから、マリアは付近を詳細に調べ直してみるつもりだったが、そろそろ六時になると体内時計が告げていた。パトリックに夕食を頂くと言った手前、無下にも出来ない。

 そろそろ引き上げ時だった。
 マリアは教会へと踵を返した。自分を観察し続けている視線を感じながら。

 さっきの男とは比べるべくもないほどの殺気と冷酷さだった。
 この視線の主が事件の犯人か――。

 だが、あえて、マリアは捨て置くことにした。自分を囮にしようと思ったのだ。そうと決めたので、とっとと教会に戻ることにした。

 それにパトリックは夕食時に、派遣された他の()()に引き合わせるとも言っていた。
 これまでマリアは、どちらかと言えば、単独で案件に当たることの方が多かった。もちろん、偶々であったこともあるし、故意にそうしていたことも多分にあった。
 それは過去にあった出来事に由来していたが、マリアは多言しない性質だったので、身近な者でも知らない者がほとんどだった。

 しかし、今回の相手の能力や人柄によっては手を組んで協力するに値するかも知れない。枢機卿からも『任せる』との言質も貰っている。
 結局のところ、すべては会ってみてからだった。


 
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