第十九話 運命の夜

文字数 3,879文字

 
 夜中に目を覚ました。

 寝床があまりに寒くて、目が覚めてしまったのだ。当て布だらけの粗末な冷たい布団の中で、身じろいだ。もう一度眠ろうとしたけれど、寒くて寝付けなかった。

 今晩は特に冷える。
 そう言えば昨日、午後の温かな日差しの中、隣のジュゼッペお爺さんが空を見上げて、

「今夜は雪になるよ」

と言っていたのを思い出した。こんなに暖かいのに?――と思ったのに、本当に冷えてきた。外を見れば、雪が舞ってるかも知れない。

「晴れた日のほうが、冷えるんだよ」

 ジュゼッペお爺さんはそう言って、頭を撫でて、笑ってた。

 もっとも、この家は建てつけが悪く、冬になるといつも冷たい隙間風が流れているような、そんな家――(あば)ら屋だったから。
 家は貧しかった。元々ここは貧しい村だったけど、その中でも特に貧しかった。暖炉にくべる薪にすら困って、森まで行って手頃な太さの枯れ枝を集めてくるのが日課だった。農家の両親と三人が何とか食べていける。そんな程度の暮らしだった。

 でも、そのことを不幸だと思ったことはなかった。両親は優しかったし、両親のことが大好きだった。
 それで十分だと思っていた。

 何度、寝返りを打っても、冷え切った布団では一向に眠れなかった。空腹だったこともある。昨晩に食べた食事はほんの僅かだったから、今年で九つになった成長期の身体にはとても足りる量ではなかった。空腹を紛らわせるために、いつも通り、早く眠りに就いた。
 けれど、一度目が覚めると、今度は空腹が気になって眠れなくなってしまった。

 何度も寝返りを打っているうちに、咽喉が渇いてきた。水は、台所に汲み置きがある。薄い寝巻で布団から出ることには覚悟が要ったが、どうせ、このままでは眠れない。
 諦めて、ベッドから出た。木の床は冷え切っていて、立つだけで、はっきりと目が覚めてしまった。さっさと水を飲んで戻るしかない――と部屋の扉に手をかけた。戸の隙間から、僅かに暖炉の火の明かりが漏れていた。
 両親はまだ起きているのだろうか。

 目覚めたはしたものの、頭はまだぼんやりとしたままで、扉を開けた。
 扉の向こうを遮るように、お父さんが立ち塞がっていた。こんなに近くにいるとは思わなかったから、少しびっくりした。
 その向こうに見える暖炉の火もかなり小さくなってる。この寒い部屋に、薄い服と中綿入りのベストだけではお父さんも寒いだろうに、こちらに向かって仁王立ちのまま、じっとしていた。

「お父さん?」

 問いかけても、お父さんは答えなかった。ただ黙って、こちらに腕を伸ばしてきた。そして、私の肩を掴んだ。肩に載せられた手の冷たさにぞくりとして、つい、身を固くした。まるで氷のような冷たさだったから。

「お父さん……?」

 戸惑いを隠せない私の声にも無言で、お父さんは掴む手の力を強めた。

「痛っ……! 痛いよ、お父さんっ!」

 痛みに顔を歪めて訴えても、お父さんは放してくれなかった。それどころか、もう片方の肩も掴まれた。さらに、そのまま私は宙に持ち上げられた。逃れようと身を捩っても、お父さんの手は頑として外れなかった。

 そうこうするうちに、お父さんの顔が迫ってきた。
 半開きのお父さんの口元には乱杭歯が覗いてたけど、その時は、状況が掴めないままパニックに陥って、私はそのことに気付かなかった。

「お父さん、どうしたのっ!? お母さんっ!!

 部屋の奥にいるはずのお母さんに呼びかけたけど、返事はなかった。
 どうすればいいのか――と戸惑うばかりで、足をバタバタとするばかりだった。動かせるところが足だけだったからだ。

 でも、不意に支え――といっても、私を拘束するお父さんの腕だったけれど――を失い、落下する感覚に見舞われた。
 だけど、次の瞬間には、私はしっかりと誰かに抱き止められていた。

 見れば、この村の人じゃない見知らぬ男の人だった。
 見た目は二十代半ばくらい。革製のジャケットを羽織って、黒い髪に黒い瞳をした男の人だった。
 その人を見つめて呆然とする私は、未だ、肩が冷たいことに気が付いた。眼をやれば、お父さんの手がまだくっ付いている。お父さんの手は、手首と肘のちょうど真ん中で断ち切れていた。零れる血は思ったよりも少なかった。

 お父さんに眼を移せば、左脇の半ばから心の臓、そして右腕の下までを剣が突き抜けていた。緩く反った刀身の、見たこともない剣だった。それは正しく日本刀だったけど、当時の私がそんなことを知る由もなく、ただ、刀身に美しい刃紋を持つその日本刀に、私は束の間見惚れた。
 お父さんを貫くその刀の柄を、今しがた助けてくれた見知らぬ人が、しっかと握っていたというのに――。

 男の人は刀を引き抜くと、その柄頭でお父さんの手を払い落とした。あれほど力強く肩を掴んでいた両手は呆気ないほど、ぽとりと落ちた。床に倒れたお父さんを、何も言わずに静かに見つめた。
 酷く現実味に乏しかったからだろうか。不思議と涙は零れなかった。

「大丈夫そうだな」

 男の人が独り言のように呟いた。私の無事を確認しただけなのだろう。確かに、この国の言葉だった。でも、私には少し訛って聞こえた。本当のところは、この村の方が田舎だからだった。そのことは、(のち)に知った。
 実際には、私たちの方が訛っていたのだ。

「お父さん……。殺したの?」
「……。ああ……。もう、元には()()()()とこまで、進んでたからな」
「お母さんは?」

 倒れたお父さんとその人の後ろに、これも倒れ伏したお母さんの姿を認め、私は彼に問いかけた。

「お母さんも……?」
「そうだ」

 彼も静かに答えた。その行為はとても酷いことなのに、何故だか、それが正しいことに思えた。
 だというのに、私の口を吐いて出たのは、非難の言葉――。

「人殺し」
「ああ、そうだ。憎んでも、怨んでくれても構わんよ」

 彼は否定も言い訳もせずに、静かに肯定した。
 そう告げる顔はただ、とても悲しそうで――。

 その表情が意味するものを、私が理解出来るようになるのは、もっと後になってから。

 彼は刀を鞘に納め、辺りを確認するように見回して、私に言った。

「とにかく、怨みつらみを聞くのもここを無事に出てからだ。俺を怨むなら、その後にしろ」
「ここを出る?」
「村を見て回ったが、無事なのはお前さんだけだ」

 彼が告げたその言葉を、私は聞き咎めた。

「あたしだけ? じゃあ、村のみんなも……」
「他の連中は手遅れだった」
「……殺したのね」
「外は寒い。これを着てろ。行くぞ」

 彼はそう言って、上着を投げて寄こした。そして、上着を着渋る私を肩に担ぐや、家を出た。家の外は身を切るような寒さで、雪が舞っていた。ジュゼッペお爺さんが言っていた通りだった。
 街道に出るには、村を突っ切らなければ行けない。彼は駆け出した。足は滅法速かった。

 彼の肩に担がれた私が目にしたものは、燃え盛り、あるいは燃え尽き崩れ落ちる家々と、道に累々と倒れた村人の死体だった。中には、隣のジュゼッペお爺さんやガキ大将のルイージ、同い年のフランチェスカとアンナの顔もあった。
 私を『お姉ちゃん』と慕ってくれた、まだ三つのテレーザの顔も。

 街道に出て、坂道を少し登ったところにある丘に出た。
 そこまで来て、ようやく彼は私を肩から降ろした。私は村を見た。天を焦がして、村が燃えていた。
 私の村は死んだのだ。
 その様子を黙って見ていた彼が、声をかけた。

「行く当て……は、なさそうだな。お前さんが良ければ、安全なところに連れていくが」

 彼の言葉に振り返った私は、何も言わなかった。何も言えなかったのかも知れない。頷きもしなかった。
 ただ、村の住人を殺した彼を見ていた。睨むでもなかった。

「とりあえず、知り合いのところに行く。気に入らなければ、無理に居ることはない。出て行けばいいだけだ」

 彼は背を向けて歩き出した。少し離れて、私は彼の後をついて歩き出した。もとより、行く当てなどない。
 ふと、彼が思い出したように足を止め、振り返って私を見た。

「俺はミケーレだ。お前さんは?」

 吹き抜けた風に金色の髪を揺らせて、私は、しばらく彼を見つめた後で、ぽつりと言った。

「マリア」

 ミケーレと名乗った彼は一瞬、キョトンとし、マリアと名乗った私を見た。それから、

「マリア?」

と、聞き返した。その声には懐かしいものに出会ったような響きがあった。

「そう。マリアよ。おかしい?」
「いや? そうか、マリアか。いい名だな」

 ミケーレは私にそう言った。素直に発せられた言葉だった。不意打ちで名前を褒められた私は何も言えなくなって、そっぽを向いた。照れ隠しだった。

 それきり、私たちは黙って歩き出した。


 そこで、マリアは目を覚ました。窓から漏れる月明かりが、マリアの肩までかかる金色の髪を輝かせていた。
 珍しく、夢を見た。ずっと昔の夢。ミケーレと出会った時の、とても懐かしい夢だった。懐かしいけれど、その日から、天涯孤独の身の上になったのだ。
 でも、マリアはそのことを悲しいと思ったことはない。

 ふと、頬に手をやると、濡れた。

 涙――?

 いつの間にか、泣いていたようだ。泣いたのは、いつ振りだろうか?
 両親の死にも、大切な友人を見送った時にも、涙は零れなかったのに――。

 ベッドの傍のサイドテーブルに置いていた短刀を、マリアは手に取った。その昔、ミケーレに贈られた短刀だ。
 マリアは短刀を愛おしそうに胸に抱き、ベッドに横になった。
 偶には、無性に人恋しくなることもある。

 やがて――。マリアはまた、静かな寝息を立て始めた。


 
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