第九話 夜街奇行

文字数 4,742文字

 
 先ほど歩いた夕暮れのロンドンとは違い、夜のロンドンはまた違った雰囲気を漂わせていた。夕暮れ時は曲り(なり)にも、寂寥感とともに美しさも秘めていた。

 だが、夜の街――とりわけ、このイーストエンドはスラム街。繁栄を誇る大都会ロンドンの悪い面ばかりを一手に集め、曝け出していた。
 酔いどれどもの喧騒と、貧困のために街角に立つ娼婦たちとそれに絡む男たちとその嬌声が溢れ、酒と汚物の悪臭、薄暗いガス灯と、灯りの届かぬ薄闇に潜む、貧富の格差が生み出す怒りや恨みを含んだ悪意の眼差し――。
 
 その街を飛び切りの美女が闊歩していた。マリアである。
 衣装は黒一色で固めているとはいえ、肩口で揃えた金色の髪を靡かせ、颯爽と歩く様は人目を引いた。特に男の目を――。

 歩いているのはホワイト・チャペル地区。数日前に〝切り裂きジャック〟事件があったばかりのところを、ことさら目立つように歩く。
 マリアはもう一度、()()と踏んだのか。

 わざと肩で風を切るように歩いていると、背後に気配が湧いた。角を曲がる時にさり気なく垣間見たが、()ける者は誰もいない。

(いない? ――ということは、やはり……か)

と内心で呟いた。
 動物か――とも思って注意してみたが、猫が四、五匹うろついているだけだった。しばらく歩くと、犬が追って来る。野良犬のようだ。さらに進むと犬は増え、六匹以上になっていた。

 どうやら、()()らしい。

 路地奥で振り向くと、犬も止まった。低く唸り声を上げる犬たち。
 いざ、襲撃――というところで、犬たちがビクリ、と体を震わせ硬直した。身じろぎ一つ出来ないでいるのが分かった。
 そしてそのまま、声を上げることも出来ずに野良犬たちは姿を消した。
 
 犬たちがいた背後、十五メートルほど遠くにエリスがいた。犬たちの消滅を確認すると、マリアのところまでやって来た。
 
「どう? 役に立った?」
「ええ。助かりました」

 豊かな胸をそびやかし、どうだと言わんばかりのエリスに、マリアは大人の対応として礼を返す。あれくらい、マリアなら歯牙にも掛けない相手ではあったが、ここはエリスを立てておいた方が円滑に進むだろう。

「〝使い魔〟の類だったようね」
「そのようですね。ところで、エリスさんはどうしてここへ?」
「一応、見回り――ってところだったのよ。他の四人もどこかをうろついてるんでしょ」

と、エリスは肩を竦めて見せながら、状況を簡単に説明した。あとの四人もどこかへ出たらしい。

「ん……と。ちょっと聞いてもいいかな?」
「何ですか?」
「その……ね。マリアなら、異端審問会じゃなく、〝()〟の教会でもやってけそうだけど。何で〝異端審問会〟なの?」
「何故、〝()〟の世界なのか――と?」
「そう」

 エリスはマリアに興味を持ったらしく、色々と問い掛けてくる。マリアも特に伏せることなく、秘す必要のない質問には答えた。

「私は孤児となったときに、ヴァチカンに預けられました。その後、〝()()()〟向きであると判断されたようです」
「指示に従ったということ?」
「いえ、選んだのは私です。恩人が〝裏〟の世界の人だったので――何となく……」
「何となくで?」
「〝縁〟を残したかったのかも知れませんね」
「ふうん?」

 エリスは機微を計りかねるように、首を捻った。今度はマリアが問うた。

「エリスさんはどうして、この世界へ?」
「あたし?」
「ええ。危険な世界です。失礼ながら、向いている――いえ、有利な能力とは思えません」
「端的に言えば、お金かな。危険な分、報酬がいいじゃない? 母親がいるからね」
「お母さん……」
「たった一人の身内だからさ。楽させてあげたいな――って」
「そうですか。お優しいのですね」
「やめてよ。恥ずかしいじゃない」

 エリスは顔を赤らめて、照れた。そんな顔をすると目元も柔らかく見えた。根は素直でお人好しらしい。
 そんな会話をしつつ、路地奥から肩を並べながらマリアとエリスが出てくると、二つ向こうの路地が騒がしい。野次馬たちが群がり、そこに駆けて行く男たちの一人が、

「酔っ払いどもと大男が喧嘩だってよ!」

と、見物に誘っているのか、マリアたちにも声を掛けて走っていく。

「大男……」
「あたし、何となく嫌な予感がするんだけど……。ああ、ごめん。訂正するわ。()()()()()()()()()んだけど」

 二人は顔を見合わせた。現場へ行ってみると案の定、ウィリアムが暴れていた。エリスは頭が痛い、とばかりにこめかみに手を当てて言った。

「やっぱり……」

 見ればリックもいるが、彼は離れたところから、見物を決め込んだらしい。両腕を組んだまま見入っていたが、マリアたちを認め、片手を上げて挨拶をしてきた。
 見つかると面倒なので二人は野次馬たちの後ろで遠巻きに状況を見ていたが、どうやら、相手が酔っ払いたちというのは誤りで、ごろつき・悪漢たちというのがより近い風体だ。周りから聞こえてくる話し声から判断すると、そもそも喧嘩を吹っかけてきたのは、その悪漢たちの方らしかった。
 悪漢たちは六人だったが、すでに三人が寝っ転がっていた。ウィリアムに殴られでもしたのか、気絶しているらしい。

 半数に減った悪漢の一人がナイフを出してきた。
 だが、元々ウィリアムの得物は、刃に鞘を被せて覆ってあるようだが、長さ三メートル近い槍だ。刃渡りが二十センチメートルほどしかないナイフなど、彼には子供のおもちゃ程度にしか見えないのだろう。まったく意にも介さず、槍を肩に(もた)せ掛けるようにしたままで、その悪漢を横目で睨めつけているだけである。

 しかし、ウィリアムの携えた槍は少々変わった槍であった。
 ()()()が尖っているのは刺突にも使用するためで、通常は石突きだけが鉄製だ。だが、この槍は、柄までが六角の鉄製の棒で出来ていた。丸棒ほどには(しな)りが少ない代わりに、角がある分、丈夫ではある。
 だが鉄製の槍はその重量故に大変な膂力を要し、汗で滑るなどして扱い難いため、あまり使用されない。だから普通は、手に馴染み易いように――と布や革を巻いたりするのだが、それもしていないとは珍しい。
 
 ナイフで突っ掛かって来る男を鉄槍の一振りで吹っ飛ばすと、二度と起き上がっては来なかった。失神したようだ。威嚇するようにウィリアムが大袈裟に槍を一振りすると、残った二人が及び腰になった。
 確かにあんな鉄棒のような槍で頭部を叩かれれば頭蓋はひしゃげ、胴を薙がれれば、肋骨ごと内臓破裂にもなりかねない。
 
「とっとと、そいつら連れて失せな」
 
 絡まれたことにも何ら固執せず、行って良いというウィリアムの言葉に、残った悪漢たちは伸びた仲間を担ぎ、去って行った。
 見物(みもの)がなくなった周囲の野次馬たちが立ち去り出すと、遠巻きに見ていたマリアとエリスに、ウィリアムは気が付いた。
 
「何だ。見てたのか?」
 
 よっ、と手を挙げるウィリアムに、二人は対照的な表情を浮かべた。
 襲い掛かって来た男たちだけを倒し、あとは見逃してやった――と見たマリアは僅かな微笑を浮かべて頷き、エリスは露骨に呆れた顔で、

「また喧嘩?」

と、聞いたのだ。

「おいおい、見てなかったのか? 因縁付けられたから相手をしただけだぜ。俺はよ」

と、ウィリアムは大袈裟に肩を竦めて見せた。迷惑を被ったのは自分だと、アピールしている。それを見てもエリスは態度を変えず、さらに指摘する。

「ワザと受けたんでしょ? 退屈凌ぎに」

 ウィリアムが、にたりと笑ったところを見ると図星らしい。

「そのうちに、痛い目に遭うわよ」

と、エリスは意外とお節介なことを言う。先ほどもマリアを助けたあたり、やはり根はお人好しなのだろう。エリスはリックの姿を認めつつ、周りを見て、ウィリアムに問うた。

「ランドとトーマスは一緒じゃないの?」
「冗談じゃない。何で俺があんな奴らと一緒じゃなきゃならん」

 憤慨しながらウィリアムが言う。彼はランドたちとは馬が合わないようだ。リックも同様のようだ。
 逆に、その口ぶりから(はか)ると、昨日が初対面だということだが、リックとは余程、気が合うらしい。

「ところで……。こんなに派手な立ち回りを演じたら〝切り裂きジャック〟も出て来ないわ。こっちを避けちゃうじゃないの」
「付近にいたとしたら、顔も見られたでしょうしね」
「うっ……」
「まあ、そんな得物を持ってうろうろしているんだもの。とっくにバレてるか」
「バレてましたね」
「ああ、そのようだな」
「へっ……」

 先ほどまでいた人の気配が無くなっていた。
 野次馬たちはとっくに立ち去っていたが、それでも辺りに人はいたのだ。人っ子一人――どころか、生物そのものの気配がなくなっていた。

 どう出てくるかと構えていれば、ぞろぞろと人が現れた。その数は二十人を超えている。

「人……じゃねえようだな」
「そのようね」
「……」

 周囲を取り囲むように現れた人々の眼に意思は感じられなかった。それだけでなく、不自然にぎこちない動きで、生きているのかも怪しかった。
 寄って来る一人の男の胸元を槍の石突きで止めながら、ウィリアムが言った。

「……死んでるよな?」
「恐らくね」
「まあ、死んでるだろ」
 
 尖った石突きで抑えられているにも拘らず、歩みを止めようとしない男を眺めて、エリスとリックが答えた。
 
「じゃあ、構わんよな?」
「そうね。どうせ、それしかないわけだし」
「仕方ありません」
「だな。ところでエリスさん。アンタの結界って、音も防ぐのかい?」
「ええ、出来るわよ」
「なら、結構」
 
 リックのその声を合図にウィリアムが止めていた男の胸を石突きで貫通し、マリアが人垣に疾り、手にした剣で瞬時に二人の首を刎ねた。
 エリスが自分の周囲に護りの結界を張ってから、さらに大きな結界を辺りに張った。音漏れ、目撃を防ぐためである。それを確認してから、リックが五人の頭部を早撃ちで撃ち抜いた。シリンダー分を一瞬で撃ったのである。
 ウィリアムが槍を大きく振り回し、人垣を薙いだ。崩れた包囲を埋めるように集まる人々の心臓を狙って、的確に穂先を突き込んでいく。

 死人の包囲はものの数分で崩壊した。
 立っているのはマリアたち四人だけである。ここで四人を倒したい――ということが相手の目論みだったとすれば、期待外れもいい所である。

「さすがにこのままだと、俺たちは殺人犯になっちまうぜ?」
「死体が崩壊しませんね。死人(しびと)となって、それほど間がないのでしょう」

 こんなことは日常茶飯事だろうに、今さらに狼狽える振りをするウィリアムに、死体を観察していたマリアが答えた。ただ一人、リックはその手のことに興味がないのか、あらぬ方向を向いている。
 それらを受けてエリスが言う。

「あと数分は結界が持つから、今のうちに消えましょう。やっぱり事件にはなるけど。明日の新聞の一面はこれかしらね」

 四人はその場を離れた。このままだと大量殺人の犯人になってしまう。幸い、エリスの結界で目撃者を出さないようにしていたから、その隙に消えることにしたのだ。

「今日はもう、動きはねえかな?」
「相手がいねえと、つまんねえな」
「どうかしら」
「それは分かりませんが、私たちの方が動き(にく)くなりました」

 あれだけのことを仕出かしたのだ。それでなくともウィリアムは大喧嘩を繰り広げていて、そちらは目撃者が多数いる。大っぴらに行動し難くなったことは確かだろう。

「分かったよ。もう喧嘩はしねえ」
「信じろってか?」
「今さら、そう言われてもね」
「だから、謝ってんじゃねえか」
「では、私はこれで」
「えっ?」
「うん?」
「はっ?」

 前を行くウィリアムとリック、エリスの言い争いを無視していたマリアが、ここで別れる――と突然言った。

 三人が振り返った時にはもう、マリアの姿はなかった。


 
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