第4話

文字数 5,301文字

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 約束は午後六時だった。その十分前に電話がきて、少し遅れるといった。だが、七時までには必ず行きますとつけ加えた。
 宇津木三郎に電話をしたのはワッフルが帰ってすぐだった。依頼を承諾するというと、宇津木三郎は感謝の言葉を何度も繰り返し、明日、つまり今日の午後六時の約束となった。
 宇津木三郎は約束どおり午後七時に事務所にきた。約束の時間に遅れたことを謝ったあと、走ってきました、といってハンカチで額の汗をふいた。そのあと、私の言葉に従い、ソファーに座ると、スーツの上着を脱ぎ、ビジネスバッグを足元に置いた。私は広げていた新聞を畳み、デスクの上に置いた。
「仕事帰り?」
「そうです。会議が入って遅れました」
「忙しそうだな」
「ええ」
「暇よりはいい」
「はあ」
「コーヒーはどうだ?」
「結構です」
 残念ながら宇津木三郎はコーヒーが嫌いらしい。私は三杯目を飲んでいた。
「では、本題に入ろう。電話でも話したが、事情が変わって依頼を受けることにした」
「どんな事情です?」
「まあ、いろいろと……それから費用はいらない」
「え?」
「つまりはタダ働きだ」
「いいんですか?」
「ああ、いい。いろいろと事情があってな」
「どんな事情です?」
「まあ、いろいろと……それよりも、あらためて確認する。失踪調査の依頼だが、その決心は変わらないか?」
「変わりません」
「どんな結果になっても受け入れる覚悟はあるんだな?」
「あります。でも正直不安です。だけど、このままだともっと不安になります」
「わかった。では話を進めよう」
 私はデスクの上に手帳を広げた。
「もう一度聞くが、多田美保さんの失踪について心あたりは?」
「ありません」
 嘘をついているようにはみえない。
「彼女には肉体的な悩み、あるいは精神的な悩み、などはなかっただろうか? 身体疾患や精神疾患も含めて」
「特には……心あたりはありません」
 だいたいはそう答える。そう思いたいという願望がブロックしている場合もある。その場合は聞き出すことはむずかしい。失踪するほどの悩みがあるのかないのか、これからの調査であきらかになっていくだろう。
「それはそうと、彼女の写真があればみたいのだが」
 宇津木三郎は立ち上がり、デスクの前までくると、スマートフォンに保存されている写真をみせてくれた。
 多田美保はにっこりと微笑んでいる。手前にコーヒーカップが写っている。どこかのコーヒーショップだろう。
 たしかにワッフルに似ている。そっくりといっていいだろう。これではだれだって間違える。ただ、よくみると、多田美保のほうが若干若い感じがする。ワッフルにはいえないが。
「ありがとう」
 スマートフォンを宇津木三郎に返した。宇津木三郎はスマートフォンを手にソファーに戻った。
「たしかに綾瀬はるかに似ている」
「そうでしょう。でも……」
「でもなんだ?」
「あれからよく考えたんですが、やはりちょっと雰囲気が違うような気がします。言葉ではうまくいえないんですが」
「それはわかる。私もそれは感じた」
「影浦さんもわかりますか?」
「ああ、なんとなくだがね」
 宇津木三郎がワッフルを別人とはっきり認識したことは悪いことではない。
「君は綾瀬はるかを別人と認識した。今後は綾瀬はるかに近づかないことだな」
「わかっています。ストーカーに間違えられるのはこりごりです」
 宇津木三郎が苦笑いを浮かべた。
「話が脱線した。本題に戻そう。彼女の年齢は?」
「二十八です」
「ちなみに、君の年齢は?」
「三十です」
「彼女の出身は?」
「都内です。小岩です」
「身内は?」
「ご両親がいます。兄弟姉妹はいません」
「出身が小岩ということは、現在もそこに住んでいる?」
「はい。彼女は小岩のマンションでひとり住まいです。ご両親は小田原です」
「うん?」
「彼女が大学を卒業するときに、ご両親は仕事の関係で小田原に引っ越しました。もともと父親の出身が小田原らしいです。彼女は就職が決まった会社の都合を考えて小岩に残り、マンションに引っ越しをしました」
「なるほど。ちなみに、君の住まいは?」
「西船橋です」
「西船橋? 小岩駅を利用しているのでは?」
「通勤利用駅は西船橋駅なんですが、朝はいったん小岩駅で降りて彼女をさがしていたんです。もしかしたらと思って……」
「そういうことか……彼女の職業は?」
「食品メーカーに勤めています」
 会社名を聞いた。大手の食品メーカーだった。
「彼女は経理部にいます」
「会社は彼女の扱いをどうしているんだろう?」
「たぶん、いまは有給扱いか休職扱いではないでしょうか。彼女の両親のもとに会社から定期的に消息を尋ねる連絡があるようです」
「なるほど。わかった。それで、君たちふたりにトラブルなどはなかったか?」
「トラブル?」
「痴話喧嘩などではなく、もっと深刻なトラブルなんだがね」
「そんなものはありません」
「では、交際は順調?」
「はい。それは間違いないです」
「付き合って何年?」
「知り合ったのはお互いが大学のときです。結婚を意識するようになったのは三年ほど前です」
「意外と長いんだな……とすると、ないか」
「うん? なんです?」
「自分の意思で行方をくらます場合、むかしの男がからむケースがある。でも彼女の場合はどうやら違うようだ。ただの勘だがね」
「あり得ませんよ」
 宇津木三郎の声がやや尖った。
「気分を害したのなら謝るよ」
「平気です」
「では話題を変えよう。会社でのトラブルはどうだ?」
「ないと思いますけど」
「両親とのトラブルは?」
「聞いていません」
「わかった。では、彼女の性格は?」
「性格ですか……そうですね……ひとことでいうと、正義感が強いです」
「それは悪いことではないが、時としてマイナスに働くことがある。あくまでも一般論だがね」
「はあ……どちらかというと思い込みが激しいほうです。でも堅物ではありません。よく笑い、優しいところがいっぱいあります」
 宇津木三郎が声を詰まらせた。
「結婚の約束をしていると聞いたが、予定はいつ?」
「来年の春ごろには、と考えていました」
「彼女の両親に会ったことは?」
「もちろんあります。僕の両親にも彼女は会っています」
「では、一番重要な質問だ。行方がわからなくなった前後の出来事を詳しく話してくれ」
「わかりました」
 そういうと、宇津木三郎はビジネスバッグから手帳を出した。
「彼女からの連絡が途絶えたのは四月九日の土曜日からです。実は三月一日から四月十四日まで僕は日本にいなかったんです」
「出張?」
「はい。場所はニューヨークです」
「日にちをいうときは現地ではなく日本にしてくれ」
「そのつもりで話しています」
「わかった。それで、連絡が途絶えたとわかったのは、たとえば電話に出ないとか?」
「それもあります。普段は時差があるので、やり取りはもっぱらSNSでした。その返事が四月九日から途絶えました。メッセージを読んだかどうかの既読マークもつかなくなりました。SNSの返事が途絶えてからは何回も電話もしました。電源オフになっていました。そんな状態が四月十三日まで続きました」
「十三日というと水曜日?」
「そうです。その間、なんで手を打たなかったのか、と思われるかも知れませんが、実は、連絡が途絶える前日にちょっとした喧嘩をしたんです。さきほど影浦さんがおっしゃった痴話喧嘩のたぐいです。そのせいで無視をしているんだろうと思っていました。でも、四月十四日に彼女の父親から連絡がありました。彼女の行方がわからなくなったという連絡です」
「ちょっと待ってくれ。連絡が途絶えたのが、四月九日の土曜日で、父親から君に連絡があったのが、四月十四日の木曜日。とすると、その間の出来事だが、わかっていることはあるか?」
「あります。帰国してから聞いた話です」
 そういうと宇津木三郎は手帳を広げた。
「周囲にわかったのは、四月十一日の月曜日です。無断欠勤です。真面目な彼女が無断欠勤したので、驚いた彼女の上司は、何回も彼女に連絡を取ろうとしたらしいです。でも連絡がつかなかったので、夜に同僚を彼女のマンションまで様子をみに行かせたそうです。そのときの部屋の状態は、施錠がしてあって室内の明かりもついていなかったそうです。部屋のなかで倒れているのでは、と心配した上司と同僚は管理人に連絡をして、そのあと部屋のなかに入ったんですが、だれもいないので引き上げたそうです。そして、次の日の火曜日、水曜日とやはり無断欠勤が続いたので、これはただごとではないと思った上司が、実家に連絡を取ったということです」
「すると、会社が実家に連絡したのは水曜日?」
「そうです。ご両親は次の日に彼女のマンションに行ったそうです。管理人に鍵を開けてもらって部屋のなかに入ったらしいですが、荒らされた形跡はなく、財布、スマートフォン、家の鍵はなかったとのことです」
「君に父親から連絡が入ったのはそのあと?」
「そうです」
「君が帰国したのは、たしか……」
「次の日です」
「帰国してから君はどうした?」
「帰国したのが金曜日で、次の日の土曜日に彼女のマンションに行きました。合鍵を使って入りました。ご両親が話したとおり、部屋は荒らされた形跡はなく、財布、スマートフォン、家の鍵はなかったです。それから普段使っているバッグもありませんでした」
「書き置きのたぐいは?」
「なかったです。そのあと、詳しい状況を聞くために実家のご両親に連絡を取りました」
「実家の両親も心あたりはないと?」
「ないとのことでした。おふたりとも非常に混乱されていました。そのあと、ご両親から彼女の同僚の電話番号を聞いて電話をしました」
「同僚はだれ?」
「松木優香さんといいます。彼女の友人です。でも松木さんも戸惑い、混乱していました」
「ちなみに、君は彼女が親しくしている友達を何人知っている?」
「ひとりだけです。いま話した松木優香さんです。一度だけ彼女に紹介され会ったことがあるんです。それから、行方不明者届ですが、ご両親と相談して四月十七日に小岩署に提出しました」
「それは君が彼女のマンションに行った次の日だね」
「そうです。ご両親が小田原から上京して僕も同行しました」
「その後、警察からなにか連絡は?」
「ないようです」
「しかたがないな。行方不明者数は年間八万人以上だ。行方不明者を発見した場合は情報を提供してくれるが、特に事件性がない場合は、警察は動いてくれない」
「それは知っています」
 手帳がだいぶ埋まった。いま知るべき情報はこんなところか。第一歩としては悪くない。ただ、ひとつ気になることがある。どうでもいいことかも知れないが……。
「さきほど君は、連絡が途絶える前日に、痴話喧嘩をしたといったね。差し支えなければその喧嘩の内容を話してくれないか」
「え? 喧嘩の内容ですか?」
「そうだ」
「たいしたことではないですよ」
「ああ、かまわない。それとも話しづらいことか?」
「そんなことはないです。本当にたいしたことではないんですけどね……」
「もしかしたらヒントになるかも知れない」
「そうですかね……でも、ヒントになるのでしたら話します……前日、つまり四月八日ですが、電話をしたんです。彼女、二週間ほどSNSの返事が遅れ気味でとても忙しそうだったんです。そのわけを聞こうと思ったんです。でも、そのわけというのは曖昧で、要領を得ないものでした。なんでも、友達のことで心配ごとがあって調べている、といったんです。それ以上詳しいことは聞いてもいいませんでした。そこで僕が大人げないことをいってしまったんです。それでちょっと喧嘩になって……」
「なにをいったんだね」
「恥ずかしいんですが……僕と友達とどっちが大事なんだ、みたいなことです。返事が遅れ気味でちょっとイライラしていたのと、仕事の段取りがうまくいかないのがあって、それで八つ当たりをしてしまったんです。バカなことをいいました……まさかこれが原因でしょうか?」
「それはないだろう。でも彼女は根に持つタイプなのか?」
「違います。この程度の喧嘩ならたまにあったけど、すぐに仲直りをしました」
「なるほど。それで、その友達というのはだれ?」
「わかりません。聞いてもいいませんでした」
「だれだか見当はつかない?」
「ええ」
「彼女の同僚の松木優香さんかな?」
「違いますね。実はそうではないかと思って確かめたんですが、違うといわれました。それだけははっきりいいました」
「わかった。ありがとう。ではさっそく明日から動くよ」
「どこから手をつけるんですか?」
「彼女の両親に会う。調査をする以上、両親の承諾を得る必要があるんでね。依頼者が君であっても」
「わかりました。ご両親に会うときは僕も同行します」
「わかった」
「では、これから帰って連絡を取ってみます」
 宇津木三郎は、スーツの上着とビジネスバッグを手に取ると、足早に事務所を出て行った。
 二時間後、宇津木三郎から私の携帯に電話があった。両親に会うのは明日になった。土曜日なので父親の都合がいいらしい。午後一時に小田原の駅で宇津木三郎と待ち合わせることになった。
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