第7話

文字数 3,817文字

       7

 約束は午後六時だった。仕事帰りに会ってくれることになった。
 松木優香に電話をしたのはきのうだった。宇津木三郎が事前に事情を説明してくれたおかげで、不審電話と間違えられることもなく、会話がスムーズに進んだ。
 松木優香が指定した待ち合わせ場所は、JR御茶ノ水駅聖橋口を出てすぐの喫茶店だった。
 店内に入ったのは十分前だった。落ち着いた感じの老舗喫茶店だった。店内を見回すと、客は三人だった。年配の男がひとりと、若いカップルだった。窓側のボックス席が空いていたのでそこに座り、目印の雑誌の〈アエラ〉をテーブルの上に置いた。座った席からは入口がよくみえた。
 五分前に若い女性がひとりで入ってきた。店内をゆっくりと見回し、目印に眼をとめると、私の前にきて立ち止まった。
「影浦さんですか?」
「そうです。松木優香さんですね?」
「はい」
 ショートヘアで丸眼鏡の松木優香が前の席に座り、トートバッグを横の席に置いた。
「お忙しいところすみません。仕事帰りですか?」
「はい」
 彼女はベージュのワンピースにデニムジャケットというスタイルだった。
「お待ちになったようですね」
 私のコーヒーカップをみてそういった。
「私が早くきただけです。あなたは遅れてはいない」
 初老の店主が注文を聞きにきた。彼女はコーヒーを頼んだ。
「宇津木さんから事情は聞きました」
「縁があって調査をすることになりました。ご協力ください」
 私は名刺入れから一枚抜き、松木優香に渡した。
「はい。もちろんです。彼女をさがしてください。お願いします」
 私はうなずき、手帳を手に取った。
「では、さっそくですが、いくつか質問します。どんな些細なことでも参考になりますので教えてください」
 松木優香がうなずいた。
「最初にお聞きしたいのは、彼女の失踪についてですが、なにか心あたりはありませんか?」
「それがないんです」
「まったく?」
「はい」
「なにか気になる兆候はありませんでしたか? 少しさかのぼってもかまいませんが」
「彼女がいなくなってから思い返してみたんです。でも、思いつかないんです。本当に……彼女、どうしたんでしょう」
「心配ですね」
「とても心配です。自分の意思とはとても思えません。だから余計に心配なんです。影浦さん、彼女を必ずみつけてください。お願いします」
 松木優香が頭を下げた。
「最善を尽くします。それで、悩みとか、困っていることとか、愚痴でもいいんですが、最近お聞きになったことは?」
「……特に、これといってありません……つまり、失踪するほどのという意味です」
「深刻なものはないということですね?」
「そうです。もちろん、なにげない会話のなかで出る悩みとか愚痴はあります。物価が上がって困るとか、お給料が上がらないとか」
「なるほどね。雑談での軽い愚痴のたぐいということですね」
「そうです」
 店主がコーヒーを運んできた。店主が離れるまで会話が中断した。松木優香はやや俯き加減で表情がまだ硬い。緊張しているようだ。コーヒーカップに手を伸ばそうとしない。私はゆっくりとコーヒーカップに手を伸ばし、ひとくち飲んだ。つられて松木優香がコーヒーカップを手に取った。
「多田美保さんは経理部だそうですね。あなたも?」
「はい。私も同じところです」
「彼女と知り合ったのは会社で?」
「はい。同期入社で年齢も一緒だったので仲よくなりました」
「会社以外での付き合いは?」
「仕事が終わったあとに、たまに食事に行ったりしてます」
「飲みにも?」
「それはほとんどありません。彼女、飲めないので」
「ああ、そうでしたね」
 硬さが取れてきたようだ。肩の力が抜けたのがわかる。
「休みの日などで一緒にどこかに行くようなことは?」
「以前はたまにありました。おもに洋服などの買い物です。でも最近はありません。彼女、婚約したので」
「そうですか。彼女はフランクに話をするほうですか?」
「話をしてくれるほうだと思います」
 松木優香がコーヒーカップに手を伸ばした。私も同じようにした。松木優香がコーヒーをひとくち飲んだあと、カップを手に持ったまま、いったいなにがあったんでしょう、と小さな声で呟いた。そのあとしばらくカップを手に持ったままぼんやりしていた。
「では、四月十一日の前後のことをお聞きしますが、いいですか」
「あ、はい」
 松木優香がカップをテーブルに戻した。
「四月十一日の月曜日に無断欠勤していますね。以前にも無断欠勤をしたというようなことは?」
「私の知る限りないです。上司の課長もはじめてだと話をしていました」
「その日は連絡を取ってみましたか?」
「はい。課長と私で何回も連絡をしました。でも電源が入っていないというアナウンスが流れてつながりませんでした」
「前の週の金曜日はいつもどおりでした?」
「はい」
「変わったことは?」
「特にはなかったです」
「次の日の土曜か日曜はお会いしましたか?」
「会っていません」
「すると、最後に顔をみたのは四月八日ということになりますね」
「はい」
「無断欠勤した月曜の夜に彼女のマンションに様子をみに行ったのはあなたですか?」
「私です」
「そのときの部屋の様子は?」
「鍵がかかっていました。共用廊下側の窓は暗くて室内に明かりはついていませんでした。ドアを何回も叩いたんですが反応はありませんでした」
「そのときどう思いました?」
「もしかして、急病かなにかで部屋のなかで倒れているのでは、と思いました。そこで課長に連絡を取りました。すぐに課長がきてくれました。課長が管理人を呼び、鍵を開けてもらって部屋のなかに課長と入りました。彼女はいませんでした。ほっとしたのを覚えています。いないのを確認してその日は引き上げました」
「そのあとも無断欠勤が続いた……」
「そうです。そこではじめてこれはただごとではないと思いました」
「あなたは彼女の実家にときどき連絡をしているようですね。ご両親から聞きました」
「はい。もしかしてご両親に連絡がいっているかも知れないと思いまして」
「連絡はないようです」
「そうですか」
「たとえば、仕事上での問題などはなかったですか?」
「仕事上の問題ですか?……」
「たとえば、ミスをして激しく叱責されたとか、会社内でセクハラやパワハラに遭っていたとか」
「ないと思います。あれば私に相談すると思います」
「金銭的なトラブルをお聞きになったことは?」
「聞いたことはないですね」
「人間関係ではどうです? トラブルとか悩みですが」
「さあ……聞いたことはないですね」
「ストーカー被害に遭っている、といった話をお聞きになったことは?」
「ないですね」
「なるほど。ところで、宇津木三郎さんとはうまくいっていたんだろうか?」
「それはどういう意味ですか?」
「たとえばの話です。そのつもりで聞いてください。多田美保さんに宇津木三郎さん以外に好きな男性がいて、その男性と一緒にいるというケースです」
「ああ、そういうことですか。それはないと思います。少なくとも、彼女にそんな男性がいることは知りませんし、聞いたこともありません」
「それはあり得ないと?」
「ないと思います。私の知る限り、ふたりの仲はよかったと思います。来年の春ごろに結婚を考えていると嬉しそうに話してくれました」
「そうですか。わかりました。ときに、話は変わりますが、多田美保さんは正義感が強いと聞いていますが、そうなんですか?」
「彼女の性格ですか?」
「そうです」
「そういわれてみればそうかも知れません。彼女は平たくいうと曲がったことが嫌いなんです。偏屈という意味ではないですよ」
「わかります。言葉を変えると、思い込みが激しい」
「いい意味でそうです。報道なんかで、弱者の被害を知ると自分のことのように怒り、悲しんでいます。特に、それが女性の場合は顕著です。彼女は、女性を支援するNPOの活動に興味を示していました。将来はそういう活動をしたいと話していました。でも、こんなことをいうと、ユーモアを解さない、とっつきにくい女という印象を持たれるかも知れませんけど、決してそんなことはありません。彼女、美人でしょう。だから、男性社員からいろいろと声がかかるんです。それを相手に不快な思いをさせずに軽く受け流す柔軟さもありました」
 多田美保という人物の輪郭が少しみえてきた。
 媚びない、きまじめ、行動力があり潔癖であるが寛容でもある。そして少しの頑固。
「そういえば……」
「なんです?」
「いまのお話で思い出したことがあります」
「ほう。どんな?」
「たいしたことではないんですけど……」
「かまいません。話してください」
「ちょっと前ですけど、元気がなかったので、どうしたのって聞いたんです。そうしたら、友達が亡くなったというんです」
「中学と高校で同級だった山田紀子さんのことですね」
「ご存知なんですか?」
「ご両親に聞きました。彼女は詳しく話してくれましたか?」
「いいえ、詳しいことはなにも。私も詳しくは聞きませんでした」
「それはいつごろ?」
「三月の連休の前あたりでした」
「というと、三月十八日あたり?」
「そのぐらいでした」
 母親が電話でそのことを聞いたのは三月の二十日すぎの土曜日。つまり、三月の二十六日。辻褄は合う。
 なんとなく気になる。関係ないのかも知れないが、調べてみてもよさそうだ。
 このあとすぐに店を出た。御茶ノ水駅まで一緒に行き、改札口で松木優香を見送った。
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