第8話

文字数 1,904文字

       8

 安酒は悪酔いのもと。だれがいったかいわないか。わかってはいるがやめられない。人間の業とまではいうつもりはないが、悪癖であることは間違いない。
 そんなこんなで、ふらつく足で狭い階段を上がって二階の事務所までたどり着いたのが午前十一時。なぜか息切れがした。呼吸を整えてドアの前まできたとき、背中がザワザワとした。
 ソファーにワッフルが座っていた。手には、普段は使わないでしまってあるとっておきのコーヒーカップを持っていた。
「鍵もかけないで外出?」
「え? 鍵は開いていた?」
「そうよ」
 どうやらきのう事務所を出るときに鍵をかけ忘れたようだ。
「不用心ね。もっとも取られるものなんてないか」
「まあね」
「ちょっと待って。なんだか酒くさいわね。もしかしていま出勤?」
「そんなわけないだろう」
「まあいいわ。コーヒーでも飲んだら。勝手に淹れさせてもらったわよ」
「そうだな」
 サイフォンに残っているコーヒーを大振りのマグカップに移し、香りを楽しみながらひとくち飲んだ。胃の底にどんよりと残っていたアルコールが飛んだ気がした。
「ところで今日はなんだ?」
 ワッフルは黒のパンツスーツで決めていた。まるで経営戦略セミナーの講師のようだった。
「その後どうなったかと思って」
「というと行方不明の多田美保のことか?」
「そうよ」
 自分と似ている女の失踪は気になるようだ。私はデスクの上にマグカップを置き、椅子に座った。
「詳しく聞きたい?」
「そうね。お願い」
「わかった。多田美保が失踪して三十八日ほどになるが、いまだ行方はわからない。それで彼女の素性だが、年齢は二十八。ちなみに宇津木三郎の年齢は三十。ふたりは来年の春ごろに結婚する予定だった。彼女の出身は都内の小岩。両親は健在。兄弟姉妹はいない。住まいは小岩のマンションでひとり住まい。両親は小田原にいる。勤務先は都内の大手食品メーカー。経理部。ついでに、彼女の性格だが、正義感が強くて思い込みが激しいほうらしい。私が感じたところでは、媚びない、きまじめ、潔癖だが寛容、そして行動力があって少し頑固。こんなところかな」
「多田美保の両親には会ったの?」
「小田原まで行って会った。心あたりはないそうだ」
「失踪した日はわかっているの?」
「ああ。宇津木三郎がいうには多田美保からの連絡が途絶えたのが四月九日の土曜日。ちなみに、宇津木はそのときアメリカに出張していた。もっとも、周囲にわかったのが、四月十一日の月曜日。無断欠勤だ。それからずっと無断欠勤が続いている。それから、彼女の住まいだが、部屋のなかに宇津木と一緒に私も入ってみた。荒らされた形跡はなかった。ただ、財布、スマートフォン、家の鍵、タブレット端末がなかった」
「持って出たということね」
「宇津木の話だと、普段よく着ていたカーキ色のジャケットと黒のチノパンがないそうだ。あと普段使っているバッグもないから、それらを持って休みの日に外出したまま行方知らずになったとみるべきだろうな」
「電話はつながらないんでしょう?」
「スマートフォンにかけているようだが、ずっと電源オフ状態らしい」
「依頼人の宇津木三郎はいまどうしているのかしら」
「毎日夜になると電話をかけてくる」
「心配なのよ。気持ちはわかるわ」
「いい報告ができないのがつらいけどな」
「すると、いまは手詰まり状態ってこと?」
「関係あるかどうかわからないが、中学と高校で同級生だった彼女の親友が最近自死していて、彼女はそのことについて調べているようなんだ。そのことは両親にも同僚にも話している。それが気になる」
「それって探偵の勘?」
「まあそうだ」
 ワッフルは、空になったコーヒーカップをテーブルの上に置いて足を組み替えた。
「それで、あなたの考えを聞かせて」
「あんたに頼みがある」
「なに?」
「多田美保に話を聞けないかな」
「それがあなたの考え?」
「残念だがそう考えるのが自然だ」
「無理ね。干し草の中から針を探す。このことわざどおり無理よ。私が担当したのならいざ知らず、だれが担当したのかわからない以上無理よ」
「そうか。そうだろうな。忘れてくれ」
「それよりも、次の一手はなに?」
「多田美保が親友の死についてなにを調べていたのか、それを調べることかな。それにはその親友をよく知っている者をさがして話を聞きたいと思う。いまはそれしか策がない」
「あてはあるの?」
「多田美保の両親に聞いてみるよ。共通の友達を知っているかも知れない」
「わかった。なにかわかれば教えてね。コーヒーをありがとう」
 ワッフルはそういうと颯爽と事務所を出て行った。いつものようにさわやかな果実のような香りが残っていた。
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