その2 見晴らしのいい東出くん

文字数 4,199文字

午後の授業が始まっても、しばらく僕の心臓はバスドラムの代用になる程度にはドコドコしていた。
もちろん、授業の内容など全く頭に入ってこない。
頭の中はメタルバンドが演奏後にドラムセットを破壊するが如く混沌としていたので、僕は冷静さを取り戻すため、先日、菫屋に絡まれたときのことを思い出してみることにした。



高校生として2回目の新学期が始まって、1週間が過ぎたころ。

東京に生まれ、転勤の多い父さんと一緒に何度か引っ越しを繰り返して、高校進学と同時に東京に戻ってきた。
両親は僕が小学生の頃に離婚していて、今は父さんの実家で婆ちゃんと2人暮らしだ。
何やら金融関係の仕事をしている父さんは都心に仕事場を借りていて、実家に顔を出すのは月に1度くらいだ。

中学の知り合いが全くいない高校だから、今までとは違う学校生活をほんの少しだけ期待していた。
傷が隠れる程度に右側だけ前髪を伸ばし、入学初日に変な悪評が立たないよう、慎重に慎重を重ねた。

結果、何もなかった。
僕も、何もしなかった。
どうやら、悪評が立たなくても、何もしなければ僕は怖がられるらしい。
同中の奴が誰もいないから情報もなく、前髪の下に傷が見え隠れする奴がいたら、確かに気味が悪いかもしれない。
僕は高校デビューに失敗したらしい。
いや、デビューしようともしてないか。

何か大事件でも起きていれば、逆にイジってもらえたかもしれないなあ、などと自分のキャラの中途半端さを呪いもした。
変にイジメや嫌がらせに発展するよりはマシかもしれない。
けれど、おバカじゃ入れない程度には偏差値の高い公立校の北坂(きたさか)高校の校風は穏やかで、今の所イジメなんて空気は感じない。
むしろ、多くの生徒は僕に対して「なんであんなのがウチに……」と思っていることだろう。

見慣れた光景。
僕は菫屋(すみれや)に絡まれるのが嫌で、昼休みは校内の人気のない場所に退避して、外の景色を眺めている。
「君臨している」とか言われてるみたいだけど、もう慣れた。高いところに居ればそういった声も届かない。
別に菫屋のことが嫌いなわけじゃないけど、一緒に居ると嫌でも周囲の視線を集めてしまう。
だからこうして高いところからひっそりと遠くを眺めている。この、大劇場の2階席から舞台を見ているような距離感が、意外と好きだったりする。

持っていたペットボトルの水を開けようとしたとき、中庭の方から声がして、その手を止めた。
見てみると、今日も学校の人気者がわらわらとやってきて、青春を謳歌している様を見せつけてくれる。
こういった風景を遠巻きに見ても僕は「いいなあ……」とは思わなくなってしまった。今の状況に心地よさすら感じてしまう僕は、おそらくどこかおかしい。
「爆発しろ!」と思う人の方が、むしろ健全な気がする。

「こぉら! やめろよ、優くん!」

そんな菫屋の声が僕の居る4階まで聞こえてきた。
見ると、野球部のエース、暮内優(くれうち ゆう)くんが、その太くたくましい腕を菫屋の首にからめてじゃれ合っている。

「いいなあ……」

はっ!?
青春を謳歌している様に対して「いいなあ……」とは思わなくなってしまったって、ついさっき考えたばかりだろ。
いや違うんだ。
今のは「男っぽいとはいえ、女の子の菫屋に対して、あんな風にスキンシップができる暮内君は」いいなあ……と思ったのだ。
僕は性欲の鎌足(かまたり)――間違えた、性欲の(かたまり)なのだ。

「………………」

僕は何を自分で自分に言い訳しているのか。
一人で居すぎて精神が分裂しかかっているのだろうか。
快適とは言え、あまり一人で居るのも考えものだな……と思ったとき、中庭でじゃれている菫屋と目が合った。

悪寒が走った。

戦闘機乗りがロックオンされた感覚ってこんな感じかな、などとどうでもいいことを考えながら、菫屋が来る前に移動することにした。

遅かった。
というより、菫屋が速すぎる。
4階から3階に降りる階段の踊り場でもう遭遇してしまった。

「はあ、はあ……み、見つけたぞ、見晴らしの……」

ちなみに「見晴らしの」とは僕のことだ。
菫屋が勝手に「見晴らしのいい東出」という二つ名? をつけてくれた。
見晴らしのいい場所に居るから、らしい。
ちょっとこの子のセンスどうかしてると思う。

「お前、はあ、はあ……お前、オレにガンとばしてただろゲフンゲフン……」

菫屋は僕に対してガンを飛ばそうと顔を近づけた直後にむせ返った。
僕は美女の飛沫と吐息を顔面で受け止め昇天しそう――ではなく、ちょっと慌てながら菫屋をぐいっと押し返した。

「ちょっと落ち着いたら?」
「あっ、お前、そのペットボトルの水、一口くれよ」
「やだよ、女の子と間接キスになるでしょうよ」
「くぅー!」

菫屋は自分で自分を抱きしめるようにして身をよじっている。
何そのリアクション。怒ってるの?

「あ、まだ開けてなかったから間接キスじゃないや。あげるよ」
「…………チッ」

今度のはあからさまだった。
これは怒ってる。なんで?

「……っぷはー! ありがとよ! ほら、返すぜ」

一口って言ったのに、投げてよこしたペットボトルは中身が半分くらい減っていた。

「おぉっと! オレが飲んだペットボトルで、間接キスだからって、変なことに使うなよ!」

菫屋がドヤ顔で僕を指差してくる。
なんかむかついた。

「変なことって?」

そう問うと、菫は「はひっ!?」と言って固まった。可愛いなあ。
もちろんわざとだ。僕だって男の子だ。それくらい察しはつく。

「変なことってなに?」
「ばっ、おまっ、バカヤロ! 変なことって言ったら……ほら……変なことに決まってるだろうがよ!」
「具体的に教えて欲しいんだ。もしかしたら知らないうちに変なことをしてしまうかかもしれないから」
「だっ、だからほら……ペットボトルの、オレが口をつけた部分を舐め回しながら……ってバカヤロ! 何言わせんだよ、この唐変木!」

唐変木って言う人始めて見た。

「じゃあこのペットボトルで変なことしてみるよ」
「くぅー! 覚えてろよー!」

なんか、また怒ってるのかよくわからないリアクションをして、菫屋は行ってしまった。
まあ、僕の水を半分も飲んだんだから、これくらいは許されるだろう。

「何だったんだ……うぉっ!?」

菫屋が去っていった階段を見ると、死屍累々といった様子で、菫屋ハーレムの面々が倒れていた。

「ひぃ……か、奏音様を辱めて……ひぃ……ゆるしませんわ……」

どうやら菫屋の全力疾走についていけなかった菫屋ハーレムの面々が、今追いついたらしい。

「ほら、大丈夫?」

菫屋ハーレムの人に手を伸ばそうとすると、4階から声がした。

「東出が女子をヒィヒィ言わせている現場を見てしまった。これは教師として見過ごすわけにはいかんな」

見上げると、まずシンプルなヒールが目に入る。
次にストッキングに包まれた細く長い足。
タイトスカートに、刺繍の入ったオシャレなブラウスを経て、吊り目美人の威厳のある顔があった。
生徒指導担当の戸喜連乙華(ときれ おとか)先生だ。

「僕がヒィヒィ言わせたわけじゃないですよ?」
「そうか、では次は先生が東出にヒィヒィ言わされるのかな?」

何言ってんだこの人。
まあ平常運転なわけだが。

「また東出と菫屋がやりあってる声がしたと思ったら……菫屋は見当たらないようだが?」
「菫屋はどっかに行っちゃいましたよ」
「ヒィヒィは言わせたんだな?」

なぜそこにこだわるのだろうか。

「まあ、あんまり騒ぎを起こすなよ。東出は悪目立ちしすぎる。私のように理解のある人間ばかりじゃないんだからな?」
「……はい」

僕の悪目立ちより、あんたのその言動の方がよっぽど問題だろうと思ったけれど、黙っていた。
一人で居る僕に真っ先に声をかけてきてくれたのはこの人だったから。
見た目は怖くて言動はアレだけど、生徒思いのいい先生だ。

「ま、菫屋を経由してでも、東出が他の生徒と交流するのはいいことだと思うぞ。少しずつでいいからな。そう、先っちょ。先っちょだけでいいからな」

間違えた。
生徒思いの先生だけど、見た目が怖いし言動がアレだ。



……あれ。
菫屋とのことを思い返して分析するつもりが、乙華先生の登場で思考がぐちゃぐちゃになってしまった。
気づけば既に授業は終わり、放課後。

記憶の回想の中でまで、乙華先生は好き放題やってくれるなあ……などと考えているうちに、僕の心は平静を取り戻していたので、まあいいか。
と思った直後のことだった。

「ちょっと来て」

聞き覚えのある声とともに腕をぐいっと引っ張られた。

「す、菫屋……さん?」

いつの間にか僕のクラスにやって来ていた菫屋が、とてつもなく切羽詰まった顔で僕の腕を引っ張っている。切羽詰まった顔もまた、可愛かった。

「な、何か用ですか……」

と、言いつつも、思い当たる節しかないので敬語になってしまっている。

「いいから来て」

本当は男なんじゃないかと思うくらい恐るべき力で僕はぐいぐいと腕を引かれ、菫屋に連行された。

ああ……僕はきっと、着替えを覗いたことを追求されるのだろう。
「イヤラシイ気持ちはなかったんです!」と主張したところで、何の言い訳にもなるまい。
彼女の着替えを見てしまったことは事実なのだから。

終わった……何もかも。
僕は「諸悪の根元」ではなく「性欲の権化」とか、「大魔王」ではなく「電マ王」とか呼ばれ、北坂高校の恥部として語り継がれることだろう。
「電マは関係ないだろ! 語呂が似てるからって!」と主張したところで聞き入れられることはあるまい。

さようなら、僕の青春。
いや、「こんにちは」すらもしてなかったかな。

菫屋は脇の下に抱えるようにして僕の腕を引っ張っている。そのせいか、腕に何やら柔らかいものが当たっていた。

そう、スラックスを着用していても菫屋は女の子だ。
理由はどうあれ、僕はその子の着替えを見てしまったのだ。

今はとりあえず、その柔らかい感触に集中することにした。
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