第1話 フィールドワーク

文字数 3,076文字

 常巖大学二年の後期試験が終わった後、高井戸香は社会事象学の研究室に顔を出した。彼女の専攻である社会事象学の道成教授に呼ばれたのだ。
 道成教授は社会事象学を提唱する異端の学者だ。香がこの学科を選んだのは、単純に偏差値だった。試験でミスして留年かと心配になったが、さにあらず道成教授から春休みにフィールドワークに参加するようにと言われた。二年で一般教養を終え、三年生から専門コースに入るに際し、実習を兼ねての参加要請だった。
 香も、道成教授とは一般教養の社会学の授業で顔を会わせていたので、知らない間柄ではなかった。これから学ぶ専門コースのフィールドワークであり、断る理由はなかった。
 ただ「参加費は無料ですね」とお願いした。
「普通は宿泊料の一部を負担してもらっている」
「お金、無いんですよ」
 香のお願いに、道成は顔をしかめながらも、口元で笑みを浮かべ、「いいよ」と答えた。
「ありがとうございます」
 道成教授のフィールドワークは、その地域の古老から昔話を丹念に聞き取ったり、学校の図書館や役場の文書室に籠って、古文書を写真に撮ったり、手書きで記録したりといった作業が中心で、人手がかかる。
 ただ、何度か行ったことのあるところらしく、宿はもう決まっていた。民宿だ。オーナーと顔見知りなので、融通が利くのだと道成教授は自慢していた。
「何回も行かれているのであれば、もう調べることもないんじゃないですか」
と、香は物おじせずに聞いた。君たちの勉強の為だとか答えるのかと思うと、
「行くたびに違うことが起こる。それが何を意味しているのかを、君たちと一緒に確認したいのだよ」
「教授がよく仰っている異常事象ですか」
「そう。それが面白い。今回は今までにない異常事象が起こっている。里人たちも不安になっている」
「何が起きているんですか」
「今までにないことで、集落の長老も驚いて連絡してきた」
 香が電話をかける振りをすると、
「違うよ。手紙だ。あの人たちは文明の利器は持ってない」
「へえ」
 香は思わずそう口に出た。
「伝承の中にしかなかった異変が起きているそうだ」
「なんか楽しそうですね」
「分かる?」
 道成教授は嬉しそうに言うと「同級生の二人も誘っておいたよ」と付け加えた。
 二人というのは、田端早芽と六処武明のことだった。実は、社会事象学は人気がなく、社会事象学を専攻に選んだのは、香を含めこの三人だった。教養課程では、あまり顔を会わせなかったから、香もよく知らない。今回のフィールドワークで初めて話をすることになりそうだった。
 そのことを知ってか知らずか、道成教授は「もう顔見知りだよね」と、呑気なことを言っていた。
「先輩方は誰も参加されないんですか」
「ああ・・・奴らはそれぞれ単独行動で、自分のテーマに従ってやってもらう。卒論もあるしね」
 卒論と言われて、香も納得した。
「車を手配しているから、大学出発だ」と、道成教授は言って立ち去ろうとした。
「結局、どこに行くんですか」と香は聞いた。
「埼玉の外れの富山というところだ」
「田舎ですね」
「いいところだよ。空気は綺麗だし、水も美味しい」
 道成は、そう言いつつ立ち去ろうとしたが、またすぐに戻ってきて、
「出発は、明後日。午後からオリエンテーションをここでやるから、来てね」
と付け加えた。
 香は時間ないじゃないと思った。しかも、場所をネットの地図で見ると、埼玉の西の端の山あいの村落だった。鉄道からも遠く、車で行かないと無理だと香は思った。
 行くはいいが、まずは準備だ。ちょうど同じ埼玉に里帰りするつもりだったので、着替えの準備はできている。他には何を持って行けばいいのだろう。よく分からないので、誰かに聞こうと社会事象学の研究室で待った。
 しばらくして二人来た。
「こんにちは」
 香は相手が誰か確信がなかったので、型通りの挨拶をした。片方の女性は小さな声で「どうも」と返事をし、もう一人の男性は「ちわっ」と応えた。
「今度三年生になる高井戸です」
 香は自分から先に名乗った。
「田端・・・早芽です。高井戸さんと同じ三年生になります」
「同じく、六処武明」
「あなた達も、フィールドワークに行くんでしょ」
「はい」と早芽。
「オリエンテーションがあるって聞いたから、来たんだけど」
「で、今度のフィールドワーク、どんな準備をしてる?」
 早芽と六処は互いに目を見合わせた。お互いに譲りあってる。結局、六処が答えた。
「僕たちも困ってるんだ。何しろ初めてだし」
「なあんだ、一緒か。安心した」
「高井戸さんは、教授から何か指示を受けたの」と早芽が聞いてきた。
「香でいいよ。・・・何も聞いてない」
 六処が研究室の棚を指差して、「フィールドワークのお出かけセットなら、そこにいくつかある」
「それって、私たちが使っていいの? 先輩方は?」と香。
「そうよね」と早芽が同調する。
「早い者勝ちさ」と六処は平気。
「行くところについて何か、知ってる?」
「わたしは、実家が神社だから、ちょっと聞きかじることがあるんだけど、富山ってところは違うんだって」
「何が」
「住んでる人たち」
「俺も聞いた」と六処が言う。
「あなたも神社なの」と香。
「違うけど・・・俺ん家は、山伏の家系だから、そっちの話をよく聞くんだ。富山の集落には、少なくとも俺ん家の系統の山伏は足を踏み入れないしきたりになっているそうだ」
「不思議ね。何で、教授は入れるのかしら」
と香が言うと、三人は顔を見合わせた。
「私たち三人も入れるってことよね」
 早芽がちょっと不安そうに呟いた。
 そこに、道成教授がもう一人連れて現れた。
「お待たせ」と言うと、持ってきたペーパーを三人に一枚ずつ手渡した。
「大まかなスケジュールだ」
 ペーパーには、フィールドワーク予定として箇条書きにしてあった。
 3/15 常巖大学第8校舎前に朝8時集合。車二台で、埼玉の冨山に向かう。宿泊;民宿「八重洲」
 3/16 猿蔵屋敷。聞き取り調査。多越山(たごえやま)現地調査。
 3/17 深山神社と吐馬遺跡現地調査。
 3/18 村の教育委員会書庫にて文献調査。
 3/19 最終日。常巖大学にて解散。
 非常にアバウトに書いてある。
「この現地調査って何ですか」と六処が聞いた。
 道成教授は大きく息を吸って、「この二、三年特に異常な現象が起こっていると聞いているのでね、こっちの兼枝助教授と君でやってもらう」
「兼枝助教授は社会事象学じゃないですよね」
「そうだね。所属は工学部だ」
「兼枝さんには手伝ってもらっているんだ。異常現象の起こるところでは、恐らく異常な波動が起きている」
「波動・・ですか?」と六処。
「僕は、昔、タイムスリップ現象を見た」
「時間を超えたんですか」と早芽。
「僕じゃない。タイムスリップしてきた人に会ったんだ。若い頃に一度、そして二度目は十七年前だった」
「その人はどうなったんですか」
「それから会えてないんだ。僕はその現象を時空並列と呼んだらしいんだけど、まださっぱりわからない。ただ、彼に会っている時、何か違うものを感じていた。言葉には出来ないけど、何かを感じていたんだ」
「それも社会事象なんですね」と早芽が感心する。
「その通り。今起こっていることは、もっと大きな変化の兆しなのかもしれないよ」
「波動を捉える実験をするんですか」
と六処が確認した。兼枝が大きく頷き、「そうだよ」と答えた。
 香にとっては、意味不明な会話だったが、何かすごいことが起きそうな予感はした。面白いことになりそうだった。
 香にとっては、この時はお客さん気分だったのは確かだ。
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