第2話 民宿「八重洲」

文字数 3,169文字

 香は8時10分前に8号館5階の社会事象学研究室に出向いた。道成教授がテーブルの上に持っていくものを並べている。
「おはようございます」と香が挨拶すると、道成は「おはよう」と返した。
 机の上には、大きなバッグがいくつも載っている。その中には、六処がフィールドワークセットと言っていたものも含まれていた。
 8時過ぎには早芽と六処も現れたので、みんなで荷物を担いで、1階に降りた。8号館の前に停めてあったバンに詰め込んだ。そこにはもう一台、ランドクルーザーが停まっており、荷物の確認をしている人がいた。工学部の兼枝助教授だ
「よろしくお願いします」
 香は型通り頭を下げた。六処と早芽もぺこりと頭を下げる。
 兼枝はちょっと照れたようにニッコリとして片手をあげた。
 道成は香にバンに乗るよう指示し、六処と早芽にはランドクルーザーを指差した。
 香はバンに乗り込んで驚いた。バンには最初から荷物が詰め込まれていて、運転席と助手席しか空いてなかったのだ。
「半分以上は積んだまま・・・ですか」
 香が聞くと、道成は「いつでも飛び出せるようにしてるんだ」と弁解した。
 車は春日通から川越街道を抜け埼玉にはいると、脇道に逸れ、離合の難しそうな道をくねくねと登って行くと、次第に鬱蒼とした森に覆われ、日差しが遮られて暗くなった。そこで、香は不思議なものを見た。
 ボロをまとった子供が一人、山道をトボトボと歩きながら、何かを拾って口に運んでいる。身を乗り出して見ると、どうやら砂や土を食べているように見えた。
「何かあった?」と道成が聞いてきた。
「この辺りは貧しいのでしょうか。子供が土を食べてました」
 道成は、その香の言葉を否定せず、真顔で「そうか」と答えると、何事か考えている様子だった。
 車は脇道に入り、山あいの平地に建つ古風な農家にやって来た。
 家の前の空き地に車を停めると、家の中からがっしりとした体躯の中年男が出てきた。
 道成は「久しぶり」と気さくに声をかけた。男はニコニコしているが、口数は少ないようだ。すぐに後部座席の道成教授の荷物を担いで宿の中に持って行く。よく知っている感じだ。そして、香たちも自分の荷物を宿に持ち込んだ。
 部屋割りはもう決まっていて、さっきの主人よりはテキパキしている女将が案内してくれた。
「多江って呼んでいいわよ」と気さくな感じだった。
 香も自分のバッグを抱えて部屋に入ると、寮の部屋よりはやや広い小部屋に布団とちゃぶ台があった。窓を開けると、まだ雪の残った山が見えた。
 民宿でうどんに稲荷寿しの軽い昼食を用意してくれていたので、それをみんなでいただいた。
 午後には、車に積んだ荷物の整理を手伝うことになった。
 しかし、あまりやることもなさそうだった。というのも、ほとんどの機材は車に積んだままでよかったからだ。六処は兼枝と一緒にランドクルーザーに載せてある機材の確認をしていた。道成はというと、バンに載せた取材道具のチェックと予定の確認のための電話で忙しくしている。
「何か手伝いましょうか?」
と香が尋ねると、早芽が「こっちこっち」と手招きする。ランドクルーザーの後部扉の側にいる。「どうしたの」と香が側に行くと、早芽はランドクルーザーの中を指差した。
 そこには、地震計やモニターなど何に使うのかも分からない機器が詰まっていた。
「すごい。けど、これ何?」
 ランドクルーザーの中から顔を出した六処が「何やってるの」と聞いてきた。
「これって明日から使うの」
「俺は、兼枝さんと多越山に行くことになっているらしい」
「それ、どこ」
「この山の向こう」
 六処は香の前で、民宿の裏山の方を指差した。
「簡単な地下探査をするような話をしてたよ」
 そして、奥の木箱を指差して、「これが振動発生機だ。回転式じゃなくて、ピストン式だと兼枝助教授が自慢してた」
「よくわかんない」と早芽。
 それを無視して、六処は興奮したように続ける。
「これが新発明品だってさ」
 それも木枠があってどんな機械なのかはよくわからない。
「三次元センサーボックスと呼んでいた。中には磁石が入っているそうだけど、まだ試作段階らしい」
「何を調べる装置なの」と香。
「空間の波動と言ってた。風とか電磁波じゃないそうだ」
 早芽にとっても、香にとっても、意味不明な機械だった。そこで、香が聞いた。
「私たちは、何をするの」
「恐らく教授と一緒だと思うよ。地元の人へのヒアリングじゃないかな」
 六処もそれ以上は知らないようだった。
 作業を終えたのは、もう夕方だった。
 民宿の台所からお腹に染みるいい匂いが漂ってきていた。
 晩飯は、台所脇の小広間にテーブルがあり、それを囲んで食べることになった。民宿の料理に対して、香はあまり期待していなかったが、意外なほど立派なものだった。お酒も出て、皆で乾杯すると、道成教授は早いペースで日本酒の杯を空け、いい加減に酔いが回ってきている様子になった。
「美味しいですね」と香がいうと、
「ここの親父は、八重洲で高級料理店の板前をやってたんだ」と道成が答えた。
 宿の主人は、「昔の話ですよ」と言って、また料理を取りに台所に消えた。
 酔っ払っているのか、道成はこう付け加えた。「三橋良介っていやあ、あの界隈では顔だったんだ」
「冗談ですよ」
 料理を手に戻ってきた三橋は、さらりと否定した。
 道成は手酌でグイグイ呑んでいる。頃合いを見て、香は道成に酌をしに行った。
「どうぞ」
「おお、サンキュー」
 真っ赤な顔で道成が喜ぶ。
「そんなに酔っ払って、明日は大丈夫ですか」
 と香が聞くと、そばにいた兼枝が、「明日になったら、ケロッとしているよ」と言った。
「お強いんですね」
「でも、今はもうダメだろう。相当回っている」
「そんなことはない」と道成は否定した。
 香には、ちょっとろれつが回っていない感じがした。
「明日は別行動ですか」
 香は兼枝に聞いた。
「そうだね、君たちは教授と一緒だ。僕は、六処くんを借りるよ」
「たごえやま、ですか」
「そう。吐馬古墳のあるところだ」
「古墳の調査ですか?」
「いや、それは専門外だ。僕は工学部だからね。うまく言えないけど、道成教授に頼まれたことをやる」
「謎っぽいです」
「うまくいくかどうか分からないけどね。車に積んできたものをいろいろ使うよ」
「それの何が社会事象学なんでしょう」
「道成教授が若い頃から探求してきたテーマだと聞いているよ」
「うまくいったら、教えてください」
「道成教授が自分から話すんじゃないかな、嬉しいと何でも喋るからね」
「黙っていたら、失敗ですね」
 その「失敗」という言葉に、道成が反応した。
「失敗はない。きっとうまくいく。そもそも、知ってるかね、あの吐馬古墳には言い伝えがある」
「何です」と香。
 早芽と六処も近づいてきて、身を乗り出した。
「日本武尊の頃だが・・・」
「古事記や日本書記の頃ですね」と早め。
「尊がこの地に遣わされた時、吐馬古墳の前で炎を吐く馬に出会われたんだ。尊は草薙剣で一閃馬を薙ぎ払われた。すると、馬は跡形もなくなり、墳丘の周りで飛び交っていた邪神も消え失せたという伝説がある」
「日本武尊は、有名ですね」と六処も感心した。
「でも、その伝説は初めて聞きました」と早芽も言った。
「我々は考古学ではないから、古墳の調査は行わない」
「じゃあ、何を調べるんですか」と六処。
「古墳で起きている現象の方が大切だ」
 そこまで言うと、道成も流石に酔いが回ってきて、何を言っているのか、言葉が不明になった。そこで、兼枝が口を挟んだ。
「そうなるね。明日は早いし、君たちは歩きだろうから、この辺でお開きにしよう」
「教授は?」
と、香りが聞くと、
「大将が面倒を見る。それも毎度のことだ」
 兼枝は三橋に合図して、立ち上がった。香も、早芽に声をかけて後を追った。
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