5.悪い予感
文字数 25,499文字
一日、大変な思いをした。それは、太一だけではなかったろう。狭山 も、水沢も、そして、太一には想像出来 ないが、生産部門もそうだったに違いない。生産が止まってしまう事は回避出来なかった。社内に残っている国内製A材の在庫を搔 き集めても、一日分の生産も維持出来ない。予定されていた国内製A材の納品日は、交渉しても来週木曜日までしか繰 り上がらなかった。C工業から購入する最後のA材だ。技術部に対する解析依頼は、結局、狭山も巻き込んで交渉を繰り返し、何とか最優先で進めてもらう了解を得た。それでも、結果が出るのは明後日になる。その日の夜、太一と狭山は部長に進捗を報告した。仏頂面 で不機嫌 にしていたが、爆発する事無く、最後まで彼等の報告を聞いていた。そうして漸 く、長い一日が終わった。太一は重い体を引き摺 って、自分の棲 み処 に逃げ帰った。ソファに体を投げ出し、白い型押し壁紙で全面覆 われた天井を見上げながらも、今日の騒動が頭から離れなかった。
新しい材料を導入するのにサンプル評価だけでなく、初回ロットで先行テストをするのが会社の仕組 みだとしたら、知らなかったとは言え、やらなかった自分の責任だ。だからそれを部長が叱 るのは当たり前だ。でも、狭山は自分の教育指導係だ。自分に教えなかったのは彼の責任じゃないのか?勝手にやらずに分からない事は訊 け?どう訊けば良かったのだろう。『すいません、自分が知らない事はありませんか?』とでも言えば良いのか。自分が知らない事を自覚していないのに、それをこっちから訊けと言うのは無理な注文 だ。『生産に使用しますよ、良いですか?』なら良かったのか?そんな事言わなくても、狭山自身、生産用に中国製A材を購入しているのを知ってたじゃないか。その時に、先行テストについて自分に教えるべきだったろう。忘れたのなら、狭山にも責任がある筈 だ。誰だって忘れる事はある。だから、忘れるなとは言わないけれど、せめて一言済まないと言ってくれても良いじゃないか。部長の尻馬 に乗って、自分を非難出来る立場 にないだろう。大体、中国製A材の話を見付けて来たのは自分なのに、如何 にも狭山自身の手柄 の様にしていたくせに、いざ問題が発生するとその責任は全部、太一のせいになっている。
考えれば考える程 、気分がもやもやしてくる。腹の中から熱い血が湧 き上がってくるのを感じる。気持ちを切り替えるつもりでスマートフォンを取り出し、予知相談の着信リストを調べていると、丁度 新規着信がくる。
〈イベントが延期になってしまって、残念です。今度は一月に実施される予定ですが、この前の予知は、それでも有効でしょうか?〉
あの『西部のたらこくちびる』からのコメントだ。
〈勝手に動画をアップしておいて、よく平然 と連絡して来れましたね。〉
太一は、怒っている今の感情に任せて、ストレートに返信する。
〈自分の日常を動画にアップしているだけです。イベントがとっても楽しみでした。事故に気を付けろと言われたので、自分だけじゃなくて、同じ様にイベントを楽しみにしている人にも注意してもらおうと思いました。〉
予 め言い訳 は考えていたのに違いない。
〈だからって、勝手に動画をあげて良い訳じゃない。訴えますよ。〉
〈すいません。それより、イベントが延期になってしまって、あなたの予知がどうなったのか心配です。延期になったら、あの予知は無効でしょうか。その場合、外 れたってことですかね?〉
〈そんな話をしていない。勝手な真似 をするなと言っているんだ。〉
〈分かりました。でも、あなたは私を助けるために予知してくれたのですよね。私だけでなく、もっと沢山 の人を助けられた方が良いじゃないですか。〉
〈勝手だ。事前に同意を取れと言っている。〉
〈それは私の落ち度でした。でも、皆さんにお知らせしてしまった以上、もし、外 れたのなら、それもお知らせしておかないといけないですよね。〉
外れた、外れたと勝手な事言いやがって。
〈まだ、イベントが開催されていないのに、勝手に外れた事にするな。〉
〈外れたのじゃないのですか?〉
〈違う。〉
〈でも、イベントは延期になってしまいました。もし、本当に予知出来るのなら、事故ではなく、延期になる事を予知出来たのでは?延期になってしまっては、事故など起きようもありません。〉
太一は頭に血を上 らせてやりとりしながらも、同時にイメージが浮かんでいる。前と変わらない、交差点の事故のイメージ。複数の損傷した車。巻き込まれたシャトルバス。信号機下に交差点の名称表示板までくっきりと見える。『H浜三丁目』と大きく書かれている。以前にも増してイメージは鮮明だ。これは間違いない。必ず起きる。
〈事故はこれから起きる。〉
〈それって、延期になっても、交通事故が起きるって意味ですか?〉
〈勝手に外れた事にしたのを謝罪しろ。〉
〈すいませんでした。私はてっきり、延期になった段階で外れたのだと思ってしまいました。凄 い。延期になる事は織 り込み済みだなんて。でも、信じて良いんですか?〉
〈あんたが予知して欲しかったんだろ。信じたくなければ、それで良い。〉
〈信じたいです。でも、シャトルバスが事故に巻き込まれるってだけじゃ、余 りに情報が少なくて。シャトルバスは沢山 走っていますから、当てずっぽうで言っても当たりそうです。時間帯とか、場所とか教えてもらえないでしょうか。〉
〈H浜三丁目って交差点で複数台の車が絡 む事故が発生する。それにバスも巻き込まれる。〉
〈そうですか。本当に未来が見えているんですね。ありがとうございます。〉
それきり、『西部のたらこくちびる』からの返信は途切 れた。
中国製A材の問題は技術部の解析 で判明した。A材の精製 段階で残った不純物が悪 さをしていた。先行サンプルは不純物が少なかったから、問題が起きなかったし、国内製A材には、そもそも中国製と同じ不純物が含まれていなかった。恐 らく、製造過程が異なるのだろうと技術部からの報告書には記載 されていた。
初回ロットとして納品された中国製A材は使い物にならない。
結論ははっきりした。来週納品される国内製A材で当面の生産を繋 げるとして、その先の対策が必要だ。今更 C工業に取引を継続してくれとは言えない。くだらないがメンツの問題だ。不純物の少ない中国製を確保出来ないか検討するのが先だ。
「樫垣 、相手はなんて言っている?」
B商社の担当者との電話を切ると、直 ぐに狭山が状況を知りたがる。太一は首を横に振る。
「春節 前の製造予定は全て決まっていて、追加生産には応じられないと中国メーカーから返事があったそうです。」
「そんなのは予想していただろ。そこで『はい、そうですか』と言って引き下がっていては、何も出来ないぞ。こっちの状況は伝えられているのか?」
狭山はあからさまに苛立 っている。
「状況は説明して、何とか配慮 してくれないか、B商社から交渉を継続してもらっています。中国メーカーには原材料の在庫も無いので、生産予定調整以前の問題だとも言われているみたいで、一体何が本当なのか、B商社の担当も把握しきれていない様です。」
「…全く。話にならんな。」
狭山は舌打ちする。
「不純物の除去の話もあります。これも、中国メーカーはどこまで除去出来るか、やってみないと分からないと言っているそうです。」
追加で作ってくれても、不純物混じりの物がまた出来たのでは意味が無い。A材の製造方法など知りもしない太一や狭山では、相手の言い分に反論する事すらままならない。
太一の言葉には返事をせずに、狭山は腕を組んで考え込む。太一には何のアイデアも無い。狭山が首をひねる様子を只 見ているだけだ。
「おい、乗り込もう。」
どこへ?
太一には、狭山の意図が理解出来ない。
「B商社の担当者に電話して、これから行くから、上司の昭島 さんを交 えて話が出来るよう、時間を作って貰 え。」
無茶な相談だ。既にB商社の担当者は、中国メーカーと交渉してくれている。自分達が乗り込んで行った所で、それ以上何か新しい対策が起こせる様には思えない。
「あの、一応、連絡してみますが、急に言っても無理かも知れません。」
太一は、B商社の担当者の迷惑そうな声が想像できる。
「馬鹿、このまま、何もせずに諦 めろと言うのか。何とか、少しでも良いから時間を作って貰 え。夜になってからでも良い。」
「はい。」
「俺は、部長の所に行って来る。上から手を回して貰 えないか相談して来る。」
言い捨てると、狭山は足早 に部屋を出て行く。狭山と入れ替えに、周囲を窺 いながら、そろそろと水沢が近づいて来て、太一の肩をつつく。振り向いた太一は相手が水沢なのを確認すると、直 ぐに前に向き直る。
「大変なのは分かってるけど、ちょっと良いかな。」
大変なのが分かっていたら、邪魔 して欲しくない。
「たいっちゃん、この前ネットに動画上げた奴 と最近やりとりした?」
「え?『西部のたらこくちびる』でしょ。しましたよ。」
「そうなんだ。あいつ、また動画アップしているよ。」
太一の動きが一瞬止まる。
「勝手にやらせておけば良いですよ。」
投げやりに返事を返す。
「そうだけどさ。良いのかな。」
水沢は、柄 にもなく心配そうだ。
「良いですよ。そんな事より、狭山さんがB商事とアポイント取れって言うんだけど、どう話したら、良いと思います?」
「ひたすら拝 んで頼むしかないんじゃない?」
もう、いつもの水沢の調子に戻っている。太一は短く溜息 をつく。
「もう散々 頼み込んでいるから、その上こんな頼みなんか切り出しにくいんですよね。…水沢さん、B商社の担当者知りませんか?頼んでみて貰 えませんか。」
兎 に角 、藁 にもすがりたい気分だ。
「こういうのは、女性がお願いしても駄目 。軽く扱 われちゃうから。太一でも男だから、相手には私よりも責任ある人に思えるものなの。頑張りなさい。」
水沢は、太一の肩をポンと叩 いて、その場を後にする。太一は、もう一度、小さな溜息 をついて電話を掛けた。
〈今度の金曜日に。〉
斎藤が集まって飲もうと言い出したのは、十二月も後半に入ってからだった。サークルの同期会の時に、また飲もうと話し合った。それを受けて、忘年会をやろうという誘いだ。九月に安藤玄 を送った時は、その場で解散してしまったから、その埋め合わせの意味もある。仕事で忙しい太一も、仕事の憂 さを晴らしたくてうずうずしていたから、直 ぐにでも大学時代の仲間と飲みたい気分になる。メンバーは浅沼、水沼、斎藤に太一と男ばかりで、有田佐和子が呼ばれていないのも太一の気を楽にした。日程はとんとん拍子 で調整が進んだ。
当日、指定の店に太一が行ってみると、三人の男以外に女性が一人座っている。斎藤の隣ですました顔をしているのは、サークル同期の一人、河原崎茜 だ。とても美人とは言えないが、コケティッシュな魅力を持っている。大学時代、サークルで顔を合わせても世間話 をしたくらいで、太一は彼女を良く知らない。斎藤と河原崎は浅沼と水沼を前にして、背筋を伸ばして妙 にかしこまっている。
「よう、遅かったな。」
太一を見付けて浅沼が声を掛け、自分の隣の席に座る様、勧 めてくれる。これじゃあ、まるで、男三人で斎藤と河原崎を面接しているみたいだ。
「こんばんは。」
座りかけた太一に、河原崎が愛想良 く挨拶 しながら頭を下げる。何だか改 まった感じで気持ちが悪い。目を大きく見せたいのか、派手なまつ毛ばかりが目立っている。
「どうも。」
つい、太一も会釈 を返す。その様子を浅沼と水沼が面白そうに眺 めている。
何だ、この何かいわくあり気 な雰囲気は。
太一が飲み物を注文して落ち着くと、それを待っていたとばかり、斎藤が口を開く。
「樫垣 、実は俺、河原崎と婚約したんだ。」
何だって?
太一は、少し照 れくさそうな斎藤の顔と、黙って俯 いている河原崎の顔を交互に見る。こういう時にどういう言葉を掛けて良いのか、咄嗟 に思いつかない。
「ほら、樫垣も驚いている。俺達はみんな騙 されていたんだ。」
水沼が面白そうにしている。
「お前等 、知っていたのか?」
太一が浅沼と水沼に問い掛ける。二人は即座 に首を振る。
「俺達も此処 に来て初めて知らされた。あれ、何で茜 ちゃんがいるの?って感じで。」
「お前達はいつから付き合っていたんだ?」太一は、漸 く事情が呑 み込めて、斎藤に問い質 す。「まさか、大学時代からか?」
「3年の夏合宿の時さ…」
いつもは饒舌 な斎藤が、ぽつりぽつりと付き合うきっかけについて話す。何だか、別人の様だ。
「そんな前から付き合っていたのか、全然知らなかったよ。どうやって隠していたんだ。」
逆に、いつもは大人しい水沼が、今日は矢鱈 と元気だ。
「それで、いつ結婚式を挙 げるんだ?」
浅沼は、冷静に摘 みを口に運びながら言葉にする。
「いやぁ、まだ式場を回っているところだ。ちょっと良いなと思う式場は、一年先まで予約が埋まっていて、どうしようかと迷っているんだ。」
酒が入るにつれて、斎藤はいつもの調子を取り戻す。最初はお淑 やかにしていた河原崎も、見知った仲間達で気が緩 んだのか、直ぐに馬脚 を現 す。
「お前の会社には迷惑をかけている。」
声高 に騒いでいる斎藤達を放っておいて、太一は浅沼に話し掛ける。
「ああ、聞いている。お前の部署と取引始めた資材が上手 くないんだってな。」
浅沼はどこまで事情を知っているのか分からないが冷静だ。この商談を取り持ってくれた事から、会社で嫌 みを言われたりしていなければ良いが。
「ああ。最初に貰 ったサンプルでは問題が無かったんだが、初回ロットでは、不純物が多くて、問題が起きた。」
「まあ、中国あるあるだな。」
浅沼は太一を見ずに苦笑 いを浮かべる。
「なんとか、再製造して貰 いたいんだが、中国メーカーと話が噛 み合わない。」
「気を付けろ、どんな要求が出て来るか分からないぞ。ま、うちのメンバーが間に入っているから、そんなのは押し返してくれると思うけど、交渉には時間がかかるだろうな。」
二年しか経っていない。それぞれ就職してまだ二年目だ。なのに、浅沼は良く分かっているような口ぶりだ。半分は張 ったりだとしても、自分にはそんな口が利 ける程 の知識もない。どうしてこんなに差が付いてしまったのだ。
「そうそう、佐和ちゃんもそうかも。」
不意 に、太一の耳に河原崎の言葉が飛び込んでくる。『佐和ちゃん』という単語に反応したのだ。
何の話だ?
斎藤達の話題が分からず、太一は彼等のやり取りを眺 める。
「そうか、そうだよな。」
水沼は明らかに太一の方に意味あり気 な視線を振ってくる。
「なんだ、女子の間でそんな話しているのか?」
斎藤が河原崎をたしなめる。
「別に、わざわざそんな話しないよ。でも、仲間だから、この前誰と会ったくらいの話はするでしょ。そうしたら、誰と誰が付き合っていそうかくらい分かるじゃん。」
河原崎は不満そうだ。どうやら、同期の仲間同士で付き合っている者が他にいるかという話題の様だ。
「だよな、だよな。それで、有田さんは誰と付き合っているって話なんだ?」
水沼は如何 にも面白そうに、その話を河原崎から聞き出そうとする。その間もちらちらと太一の表情を窺 ってくる。
「え~とね、何て言ったかな。」
河原崎は人差し指でこめかみを叩 きながら考える。
「河原崎さん、上手 いな。そんなに勿体 ぶらないでも良いのに。」
水沼は半笑 いだ。彼は恐らく、相手として、太一の名前が出て来ると決めつけている。太一は頭が真っ白になって口が出せない。酔った筈 なのに、一気 に血の気が引いていく。
「あんまり、目立たない人だから、名前思い出せないんだよね。…ほら、サークルにあんまり顔出さなかった暗い感じの人。あ、そうそう、今イギリスに居るって話だった。」
河原崎は、とっかかりを思い出して勢 い込んで話す。河原崎の表情とは対照的 に、男達は一気 に硬い表情になる。太一以外の三人とも、河原崎見つめたままで動きが止まる。
「安藤玄だね。」
太一が軽く笑 みを浮かべながら、静かに言う。
「あ、そんな名前だっけ。安藤君って言ってたかな。」
そう言われても、河原崎は今一つピンと来ない。男達は誰も、太一を見ようとしない。
「なんで、有田が安藤と付き合っているって話になったんだい?」
太一はビールのジョッキを口に運ぶ。
「あのさ、明美が佐和ちゃんとこの間会ったらしいんだけど、その時にその安藤君?って人がイギリスにいるんだけど、ちょくちょくSNSでやりとりしていて、今度ステージに立つ事になったって知らせを、凄 いよねって話したらしい。お互いに名前も覚えていないくらいに地味な人の話を、そんな力一杯 にするのって、いかにも怪 しいでしょ。」
河原崎は面白そうに、太一に話して聞かせる。
「そうだね。関心がなけりゃ、友達にそんな話、しないよね。」
太一は静かに頷 く。
「それより、結婚式には呼んでくれるんだよな。」
浅沼が、無理矢理 に口を挟 んで斎藤に迫 る。
「あ?あ、呼んで欲しいか?」
斎藤は何とか受け答える。
「呼ばなくても良いけど、その時は、お前の過去を全て河原崎に話すだけだ。」
浅沼が不敵 な笑 みを斎藤に向ける。
「いやいやいや、何を言われても困る様な過去は無いぞ。意味あり気 に言うな。まあ、それとは関係なく、呼んでやるがな。」
斎藤がこれ見よがしに胸を張る。
「スピーチを俺達でするんだろ。任せろ、取って置きの奴 をやってやる。な、水沼。」
浅沼から不意 に振られた水沼は、ドギマギしている。
「あ、勿論 。今の内に良くしておいた方が良いぞ。」
水沼は何とか合わせて、向かいの斎藤の肩をバンバンと叩 く。
みんなに気を遣 わせてしまった。
太一は、もう一度、ジョッキを口に運んだ。
何となく予感はあった。太一に恋愛の予知は出来ない。けれど予知とは違う、そこから醸 し出されるオーラの様なものだろうか。安藤が渡英したあの日、安藤と佐和子の間に交 わされていた空気の流れの様な意識の交換。太一はそれを感じ取っていた。だから、河原崎の話を聞いて、予感が確信に変わりはしても動揺など無い。何処 か達観 した様な自分を意識しただけだ。斎藤達と別れて一人家路に就 きながら、星一つ見つからない都会のうす暗い夜空を見上げる。
あの日の帰り、佐和子に振られた時に諦 めた筈 だったじゃないか。なのに、どうしてこんなに胸が締 め付けられるのだ。どうしてこんなに安藤が憎いのだ。どうしてこんな惨 めな気持ちになるのだ。今すぐ忘れたい。もう苦しみたくない。今すぐ彼女を自分のものにしたい。もう諦 めたくない。
誰もいないマンションのエレベーターの箱の中で、太一は身を捩 り続けた。
中国メーカーからは、三月に製造して供給、不純物は相変わらず製造してみないとどの程度まで減らせるか保証出来ないとの回答が来た。もし、不純物がこちらの要求以下に抑えられなければ、今回製造分は購入しない約束は飲ませたが、そうなったら太一達の会社の生産は止まってしまう。何とかして、次回製造では、不純物を減らせる見通しを得たい。何故 不純物が混じるのか、どうやって減らそうとしているのか、B商社を通してのやり取りでは、時間がかかる割に、靴の上から足を掻 く様なもどかしさがある。
遂 に部長がしびれを切らした。直接中国に乗り込んで膝詰 めで直談判 しろとの指示が出る。一方で、C工業にも暫 く供給を繋 いでくれる様、頼み込めと言い出し、最早 なり振りかまっていられない状態だ。狭山と太一、どちらかが中国に赴 き、どちらかが名古屋に行って、その任 を果 たさなければならない。どちらも困難なのは見えている。
「お前、名古屋に行け。あそこの部長、お前と馬が合ったろ。」
狭山は視線を床に落としたまま、太一に宣告する。
冗談じゃない。たとえ以前は馬が合ったとしても、後ろ脚で砂を掛けるような真似 をした者に愛想 よく応対 する訳 がない。と言って、経験の浅い太一が中国に単身乗り込んで役に立つ自信など、もっと無い。寧 ろ、まだ経験が浅い太一だから、プライドを捨ててC工業に平謝 り出来るだろうと言っているのか。『お前の様な下 っ端 が来るとは舐 められたものだ。責任者が頭を下げに来い。』と言われる可能性は十分にある。その時、太一はどう対応すればいいのだろう。すごすごと尻尾 を巻いて退散して来るしかないのか。
「…はい。」
太一は頭の中の整理がつかないまま、返事を返す。
「俺は、上海に行って来る。その間も進度報告書は、メールに添付 して送れ。」
事務的に狭山が話す。
『お前の尻拭 いを俺がさせられる。』狭山はけっしてそう言わないが、問題が発覚して以降、言外 にそれを匂 わせている。太一には、それがひしひしと感じられる。なんなんだ、はっきり言えば良いじゃないか。全部太一が悪いのか。B商社の話を持って来た時、あんなに喜び勇 んで、自分の手柄 にしたのは狭山じゃないか。太一に初回ロットの先行テストについて教え忘れた責任は感じていないのか。
太一の中で感情が高まって来る。返事を返す余裕などない。
「これから、飛行機と宿を確保だ。総務の田辺さん、その辺詳しかったよな。お前は早速 、名古屋に電話を入れて、アポを取れ。」
狭山は、そう言い残して太一の机を後にする。その後ろ姿を見た時、太一にイメージが降りて来る。
高架 の道路。その路肩 に寄せて一台の白っぽい乗用車が停まっている。ハザードランプを点滅させている。屋根に飛び出た表示灯が付いているから、タクシーなのだろう。車の前に運転手と思 しき人物が立っていて、携帯電話でどこかに電話している。表示灯に書かれた簡体字 から、場所は中国だと判 る。狭山の話で降りて来たイメージなら、狭山がこれから向かう、中国で出くわす出来事の予知に違いない。狭山が中国でトラブルに巻き込まれると言う事か?でも、タクシーは見た所、傷付いていない。エンジントラブルか、ガス欠だろうか。高架で歩道が見当たらないから、高速道路でトラブルを起こして、救援が到着するまで身動きが取れなくなっている様だ。
それらの事を太一は一瞬で理解する。狭山は総務に行くのだろう、部屋から出て行く後ろ姿が見える。
まあ、良いさ。
中国での交渉に狭山が遅れてしまったとしても、大きな問題にならないだろう。それでその日の会合が吹 っ飛んでも、必ず別の日に話し合いが持てる。客を粗末 にするような対応は、中国でもしないだろう。そうさ。狭山が行く中国メーカーは、これから取引が本格化する。自分達はこれからお客になる立場だ。生産対応させる交渉に苦労はするだろうが、土台には商売になると分かっている安心感が両者にある。一方、付き合いは長くても、C工業は、この先が無いと分かっているのに、こっちの言う事を聴く義理は無い。貧乏 くじを引かされるのは自分じゃないのか。せめて、量は減っても取引が続けられるなら話は別だ。相手も太一の言う事に耳を貸してくれるかも知れない。中国メーカーが今回、不純物を抑制出来たとしても、この先、また問題を起こさないとは限らない。だったら、二社購買にした方が良いと部長に掛け合ってみよう。狭山は中国メーカーとの課題で頭がいっぱいに違いない。国内の事は任 せて貰 って、結果が出てから報告すれば良いだろう。となれば、まず部長と相談だ。
太一は、どうやって二社購買の承諾 を得るかに頭を使いながら、一人部長室に向かった。
太一は疲れ果てていた。本当に疲れきって何も出来ないのか、それとも、気持ちを立て直す気力が湧 かないだけなのか、自分でも判別がつかない。兎 に角 、仕事と佐和子の事が、いつも頭の中をぐるぐると回って太一を苦しめている。
仕事は、解決に向けて少なくとも動き始めている。問題は佐和子の方だ。佐和子が誰と付き合おうが、振られた自分が今更 しゃしゃり出る場面は無い。それでも、それでも彼女の幸せを願う自分は、彼女の気持ちを確かめる権利がある。佐和子に会う口実 を作り、彼女が安藤をどう思っているのか確かめなければ。ただ、太一の中に恋愛感情があると分かり、かつ、それを拒絶した佐和子が、無防備 に自分と会ってくれるとは思えない。その上、安藤をどう思っているかを正直に答えてくれるなど、到底 あり得ないだろう。
太一は、日課になっている『クラントさんの予知』へのコメントを確認しながら、頭は佐和子の事でいっぱいのままだ。
浅沼や斎藤に頼んでみるのはどうだろう?彼等も佐和子と仲が良い。その上、太一の気持ちも知っている。彼等なら協力してくれるだろう。でも、それまで積極的に佐和子と関 わろうとしていなかった浅沼たちが、急に話そうと言い出したら、やっぱりおかしいだろうか。ここは、斎藤から河原崎に事情を話してもらって、河原崎から確認してもらう方が自然ではないか?でも、それでは、自分は振られたくせに、しつこく追いすがる様だし、河原崎の事だ、佐和子に安藤だけじゃなく、樫垣 をどう思っているかとか、余計 な事を言い出しかねない。そうだ、斎藤と河原崎が結婚するのだから、結婚式の準備とか、何か頼み事を佐和子にするのに、斎藤と河原崎が一緒に彼女と会って、機会を見付けて斎藤に確認してもらうのは?
スマートフォンの画面に、クラントさんへの相談内容が映 されている。〈今通っている学校に気になる男子がいるのだけれど、告白したら上手 くいくでしょうか〉と書いてある。恋愛の相談には答えられないとサイトに断 りを明記しているのに、恋愛の相談が必ずと言って良い程 紛 れ込んでいる。全く、こればかりは他人の世話をやいている場合じゃない。自分の事すらまともに出来ないのに。
太一は、そう思いながらも、丁寧 に断 りの文面を打ち込む。
次の相談は交通に関する相談だ。ちゃんと太一が出来る事を理解している。相談欄には、〈東京に住んでいるが息子夫婦は仙台に居る。まだ雪や道路の凍結が心配だが、車を運転して孫に会いに行きたいと思っている。大丈夫だろうか〉と書かれてある。文面からも、生真面目 な性格が見て取れる。ハンドルネームには本名だろうか、『磯谷』とある。
太一は、イメージを浮かべようとしてみる。仙台、磯谷、自動車…。何も浮かんでこない。直 ぐに諦 めて、返事を入力する。
〈何もイメージは浮かびませんでした。私には何のトラブルも予測出来ません。〉
やっぱり駄目だ。
太一は、思い返す。
もし、斎藤から佐和子に安藤をどう思っているか探ってもらったとしたら、何で斎藤が安藤と佐和子の間を気にするのかと疑問に思うだろう。言い訳 に斎藤は困るだろうし、佐和子は警戒して本当の気持ちを話さないに違いない。もしかすると、斎藤が太一の名前を出してしまう可能性もあるし、そうでなくても、佐和子は何となく感付 くだろう。これは自分の問題だ。他人に頼って良い筈 は無い。そうだ、斎藤と河原崎が結婚する話は、佐和子も聞いている筈だ。ならば、結婚式に向けて、何か準備の相談するという口実 で、佐和子と二人で会って、彼女の細かな反応を見れば、予想がつくかも知れない。
何となく決心が付いた。少し気分が楽になった気がする。『クラントさんの予知』のコメント返信も今日は終わりにして、ベッドに潜 り込む事にした。
〈斎藤と河原崎が結婚する話は聞いていると思う。結婚式の出し物で相談したい。時間がある日を教えて欲しい。〉
次の日、太一は早速 SNSでメッセージを佐和子に送る。感情を出さない様に文章に気を付けながら、何度も読み返してから送る。
こんな何でもないメッセージなのに、何で指先が震 える程 緊張しているのだろう。
佐和子からの返事はすぐに返って来ない。一人、名古屋に向けて新幹線に乗りながら、スマートフォンの画面ばかりチェックする。結局、名古屋に着いても佐和子からの返事は来ない。気持ちを仕事に切り替えて、C工業との交渉に臨 む。こっちは一人、相手は六人。十二の瞳で向かって来る。誰も感情的な言葉は口にしない。けれど、上から見下ろす様などこか冷たい視線ばかりが並んでいる。
「今更 ながら、何とかお願いしたく、本日は此処 に参りました。」
太一は、相手の反応の窺 いながら話し出す。自分から話を切り出さなければ物事が進まない。助け船を出してくれる狭山も居ない。
「我々にお手伝い出来る事が残っているでしょうか。」
主任技師の男は、無表情に呟 く。『何しに来た』と顔に書いてある。
部屋の暖房がやけに暑い。全身にぐっしょりと汗が噴 き出る。
「私共の見通しが甘かったです…」
完全な降伏 宣言だ。
太一は自分が何を話しているのか半分分からなくなりながらも、必死で状況を説明する。
「中国製をお使いになるのですよね。問題があったのですか?」
切り替える先が中国メーカーという事を彼等には話していない。どこからか、情報を仕入れたと言う事だ。何でもお見通しだぞと、包み隠さず話せと言っているのだ。太一は会社の現状をそのまま説明する。
「そうですか。それはお困りでしょう。簡単に作れるようで、品質を上げるのはそれなりに経験が必要ですから。」
主任技師は笑顔を見せるが、瞳 は冷たく光っている。
「我々が浅はかでした。その、誠 に勝手な申し出では…ありますが、もう一度…、わが社と取引をして貰 えないでしょうか。」
上手 く声が出ない。途中喉 を詰まらせながら、何とか声を絞り出す。
「今、『わが社』とおっしゃいましたよね?御社 にとって重大な局面を樫垣 さんお一人が任されてこちらに来られたと言う訳 ですか。」
言外 にお前のような木 っ端 社員が遣 いの様にやって来るだけとは、舐 められたものだと言っている。太一は気付かないふりをするしかない。
「まあまあ、樫垣さんが悪い訳 じゃない。」専務と呼ばれている白髪交 じりの髪を整髪料で固めた初老の男が口を挟む。「それで、我々にどうして欲しいとおっしゃるので?どうぞ、遠慮 せずに、どうして欲しいか言って下さい。」
言葉は優しい。けれど、まるで取り調べを受けている様だ。ここで怖気 付いて言いたい事が言えないと、二度とチャンスは無い。太一は細かい数量や時期に至 るまでお願いしたい事を全部吐 き出す。居並 ぶ男達は顔を見合わせて態度をはっきりさせない。
「それで、取引条件はどうされるおつもりで?」
専務がそれまで話していた主任技師に代わって話を進める。つまりは値上げを飲むのかと言っているのだ。これは想定内だ。すでに部長の内諾 を貰 っている。太一は相手の値上げを飲んだ条件を口にする。
「ご希望の量、短期のお取引では、その価格でご提供するのはなかなか難しいかと。」
専務は居並ぶ部下を見遣 りながら、済まなそうに言う。居並ぶ部下も、専務に視線を向けて頷 く。取引の継続か、十分な価格か。すっかり足元を見られている。取引の継続も部長に進言済みだ。太一は量は減らしての継続購入を提案する。男達は、互いに顔を見合わせるばかりで、はっきりとした態度を示さない。どうやら、決定権を持つ専務の言葉を待っている様だ。
その後も交渉は簡単には進まなかった。協力してくれる素振 りを見せながら、決まりかけては少しずつ要求が出て来る。太一は恥 を捨てて、判断に困れば部長に電話で相談すらした。結局、いつ、どのくらいの量から再開出来るか、社内で検討して回答を寄こすという事になり、交渉は終了した。神経も肉体もへとへとになって名古屋駅に引き返して来た時には、行きに名古屋駅を出てからたっぷり四時間経 っていた。
供給される量とタイミングで生産に支障が出る可能性も残ってはいるが、ともかく、断 られるという最悪の結論は回避できた。帰りの新幹線の席に座って、漸 く少し余裕が生まれる。脳裏 に佐和子に送ったSNSの事が蘇 って来る。仕事は頭の中から無理矢理追い出し、スマートフォンの操作に集中する。
佐和子からの返事は一時間前に届いていた。
「茜 たちの事、聞いています。今度の土曜日、十時でどうですか。」
いつもと変わらない文章なのに、どこか白々 しく思えるのは、太一の気持ちの違いのせいだろうか。会う場所を、落ち着いた席が確保出来そうなコーヒーショップに決めて返信を打った。
待ち合わせに、佐和子は時間通りにやって来た。
「まだ、式の日にちも場所も決まっていないんでしょ?今からどうするつもり。」
佐和子の目は悪戯 っぽく輝いている。何も変わらない様子の佐和子の態度に救われた気分になる。
「まあ、どういう仲間を集めて準備するのかから決めなけりゃならないだろ。」おかげで太一も落ち着いて話が出来る。「まず、その相談だよ。」
結局、サークルの同期の中から、手伝ってくれそうな人をピックアップして声を掛ける事にする。そうなるのは普通の流れだ。だから、予定していた通りに、太一は話を切り出す。
「安藤にも声を掛けようか?」
太一は、そう言いながら、佐和子の表情の微 かな変化も逃さないつもりで彼女を見つめる。
「あら、無理じゃない?安藤君、イギリスから帰って来られないでしょ。」
佐和子は少しも表情を変えずに、さらりと言ってのける。
「でも、同期仲間なんだし、声掛けないのも悪いだろ。」
「連絡は茜たちがするでしょ。結婚式の日取りが決まってから招待状を出すんじゃない?第一、出席者を選ぶのは、茜と斎藤君だから、私達は決められない。」
「そうか。出し物の準備には参加出来ないからな。声を掛けるにしても、連絡先が分からないし。」
「あら、みんなで空港まで送りに行ったのに、誰も連絡先を教えて貰 ってないの?」
「ああ、有田さんは安藤から連絡先聞いてない?」
「見送りに行った時、餞別 あげたらお礼が来た。だから、メールアドレスなら分かるわよ。」
佐和子は事も無 げに言う。
「メールの交換しているのか。仲良いんだな。」
つい、嫌 な言い方になる自分が気に入らない。
「別に」佐和子は肩をすぼめて見せる。「斎藤君や水沼君のアドレスも分かるよ。勿論 、樫垣君のものね。」
佐和子はこんな返し方をする人だったろうか。くだらない嫉妬 めいた科白 を吐 けば、何故 そんな言い方をすると怒り出すくらいじゃなかったか。
「すまない。…同期会で空港まで見送りに行こうなんて言い出したりして、何だか急に安藤と仲良くなった気がしたものだから。」
「そう?相手は遠い彼方 よ。仲良くなりようもないじゃない。でしょ?…話はこんなところかな。」
「ああ、じゃあ、浅沼達に話をしておくから。」
「私は女性メンバーに声を掛けておくね。頃合 いを見て集まりましょ。」
佐和子と店の前で別れた。太一は、家に帰る道すがら、佐和子の態度、科白 を思い返す。
安藤の名前を出した時、佐和子は平静だった。動揺する気配 すら見せなかった。太一が二人の中を疑った時も、感情的にならずに何事も無い様に振舞 っていた。佐和子はそんな女性だったろうか。下衆 の勘繰 りなど受けようものなら、あからさまに嫌 な顔を見せて反論するのじゃなかったろうか。相手が自分だからだろうか?この前振ってしまった負 い目があるから、くだらない嫉妬 だと思いながらも、冷静に応対 してくれたのか?安藤の話が出た途端 、帰ると言い出したと思うのは考え過ぎか?
電車に揺られながら、自分がどんどんつまらない人間になって行く様な気がして、太一は目を閉じた。
家に帰ると、仕事に使っているスマートフォンに電話がかかってくる。見れば、相手は水沢だ。どうせ、仕事の話ではなく、自身のサイトの件に決まっている。こっちはその話に今は関 わりたくない気分だ。
「たいっちゃん、大変だよ。」電話に出るなり、緊迫 した水沢の声が耳に飛び込んでくる。「あの『たらこ』が、また騒いでいる。」
水沢が言っているのは、『西部のたらこくちびる』というハンドルネームで活躍している男の事だ。勝手に動画の題材にした事は、この前謝 っていたのに、性懲 りもなく何かやっているのだろう。
「また、俺の事をネタにしているんですか?」
そんなもの、放っておけば良い。太一には面倒 でしかない。
「イベントが延期になった後も、たいっちゃんが、予知は有効だって言ったくせに、結局何も起きなかったって動画で拡散しているんだよ。」
「え?」
太一は、一瞬思考停止に陥 る。『西部のたらこくちびる』の所業 ではなく、予知が外 れたと言われた事が太一にショックを与える。
「私のフォロアーの一人が教えてくれたの。『クラントさん』の予知はでまかせだと騒いでいる奴 がいるって。そしたら、あいつじゃん。あいつ、やっぱり放っておけない。なんとか、仕返 ししてやろうよ。」
「水沢さん、動画確認したんですか?」
「え?見たよ。太一も見てご覧 。ほんっとに頭にくる。えっらそうに喋 ってるから、『お前、何様のつもりだよ!』って思わず叫んじゃった。」
「分かりました。俺も、まず動画見てみます。その上で、相談しましょう。」
どうして、こう面倒 な事ばかり次々と起こるのだ。腹の中からムラムラと怒りが湧 き上がって来る。スマートフォンを操作して、動画を検索 、再生する。この前の動画で見たのと同じ、パソコンの前に座った男がカメラの方を見て喋 り出す。
「さて、皆さん。先日お伝えした予知の結果発表です。え~、もうね、イベントに参加されて、結果なんか分かってるよ~って人も沢山 いるかとは思いますが、…ちゃんとね、僕としては、こうやって動画でお伝えしなければと思っております。ちょっと最初にね、予知能力者の方とのやり取りを振り返ってみましょう。早く結果を教えろよというご意見もあるかとは思いますが、暫 く、しばらくお付き合いください。」
画面はパソコンのモニターにクローズアップし、太一と『西部のたらこくちびる』がイベントの延期が決まった後、それでも予知が有効なのかとの質問から始まったやり取りが表示される。順にお互いのコメントが追加されていくが、『たらこくちびる』に都合の悪い部分は上手 く編集されている。
「と言う風にね、僕は、この方を信じていますから、そりゃもうね、数々の、数々の予知を行なって来た有名な方なんでね。この方の言う事を信じて、イベント当日、地下鉄で最寄 り駅まで行って、そこから会場まで歩いたんですよ。この動画を見てくれている方の中にも、この前配信した動画でこの予知を知って、同じ様にシャトルバスを使わなかった人は結構 いたんじゃないかな。駅から会場までの道にね、沢山 の人が、それこそ、列になって歩いていたくらいですから。」男は、ヘラヘラと笑う。「会場ではイベントに夢中になっていて、不覚 にもこの予知の事は忘れてしまっていたのですが、さあ、そろそろ帰ろうかな。じゃあ、どうやって帰ろうかって思った時に、そうです!このね、予知の事を思い出したんですよ。…そういえば、この予知のおかげで会場まで、何の支障も無く辿 り着けた。眠い目を擦 りながら、早起きをしなけりゃならなかったし、駅からの道は太っている僕には、随分 疲れたけど、それでも、それでもね、無事にイベントに参加出来たんだから。ああ、きっと、この予知を知らずにシャトルバスを利用した人は、大変だったんだろうなぁ~って思いながら、まあ、もう事故の影響はなくなっているだろう、帰りはシャトルバスで帰ろうと決めました。それでね、シャトルバス乗り場に行ったら、予想通り、バスは何の支障も無く動いておりました。ああ、良かった。と思ったんですが、そこでね、ちょっと気になったんです。ほんのちょっとね。あれ?何だか、やけに整然 と人もバスも流れているな、午前中の出来事 だとしても、事故があった後で、こんなにスムーズに流れているだろうか?って。それで、まさか、まさか、予知の事故が無いなんて事はあり得ないとは思いながらも、バス待合場所で関係者らしき人を捉 まえて訊 きました。『あの~、午前中にシャトルバスの事故があったんですよね?もう、大丈夫なんですか?』ってね。そうしたら、なんと、その関係者の人はですね。平然 と言ってのけたんですよ。『いえ、事故は起きていません。』僕はね、驚きの余り、十メートルは飛びましたよ、『えええっ~』って叫んで。だってそうじゃないですか。あの、百発百中と言われた人の予言が、まさか、まさか外 れるなんて思ってもみない。そこでね、僕は考えたんです。」男は、腕組みをする。「もしかして、事故はこれから起きるんじゃないか?行きのバスで事故が起きると思っていたのは、僕の勝手な勘違 いで。百発百中の人ですからね。言い間違えるなんて事はあり得ません。間違っているとしたら、僕が勝手に早合点 した。だとすると、ここでシャトルバスを使うと、事故に巻き込まれる危険がある。どうしよう…。ほんとにね、三十分、そこで迷いました。目の前を、予知を知らないイベント帰りの人達がどんどんバスに吸 い込まれていく。ああ、まずい、ここで忠告しなかったら、この人達は事故に巻き込まれてしまうかも知れない。でもね、僕は小心者 なので、知らない人に声を掛ける事がためらわれて、何も言えませんでした。結局三十分、三十分考え抜いた末 に、シャトルバスを諦 めて、朝来た道を辿 って地下鉄で帰りました。そして、皆さん、見て下さい。」
カメラは、再びパソコンの画面にズームする。そこには、当のイベントのホームページが映 し出されている。男がマウスを操作して、画面を切り替えると、『冬のイベントは無事に終了いたしました。ご来場いただきありがとうございました。』という文字が現れる。
「なんと、事故は起こらずにイベントは終了してましたぁ!あれ?事故、どうしちゃったんでしょう?もしかして、外 した?今度はこの結果を、予知能力者の方に突撃 インタビューしてお伝えしたいと思います!次回も楽しみに待っていて下さい。それでは、また!」
引きの画面に戻ると、男が手を振って動画は終了する。
太一には、男のふざけた態度よりも、何も起こらなかった事実の方がショックだ。なぜ事故は起こらなかった?間違いなく、自分はシャトルバスが交通事故に巻き込まれるイメージを見た。あの男とのやり取りの中で見えたそれは、イベントと繋 がっている筈 だ。それには自信がある。曖昧 な、判断がつかない様なイメージじゃなかった。あれははっきりと事故のイメージだった。なのに何故 、自分の予知が外 れたのか?
スマートフォンが着信を告げる。見れば、水沢からのメッセージだ。明日の昼休みに相談するから、面談室に来いと書いてある。太一は、返事を返す気にもなれずに、ぐるぐると考えあぐねていた。
佐和子との関係、予知のトラブル…、混迷を深めていく中で、A材の国内調達だけが好転 する兆 しを見せている。細かい詰めのやり取りは続いているが、再び国内製A材を購入出来る事は確実になった。業務をしながら、太一の頭は再び佐和子の事で占 められていく。佐和子は、自分達大学時代の仲間と、いつまでも仲良くやっていきたいと思っているのじゃなかったのか。ここで安藤玄を選べば、太一だけじゃなく、他の仲間との間にも溝 が出来ると予想出来ない様な彼女じゃない。
肩を指で突 かれる。見上げれば、水沢が背後に立っている。
「ちょっと。」
小声でそう言うと、さっさと歩いて行く。太一は黙って席を立って後を付いて行く。行先はいつものブースだ。
「いい太一、あの男から連絡があっても、出ちゃ駄目 。」
太一が席に着くなり、きつい目をして言い切る。あの男が『西部のたらこくちびる』なのは察 しがつく。
「その話は、昼休みに話すのじゃなかったですか。」
太一も機嫌 が悪い。
「良いから、話を聞いて。あの男は、太一が何を言おうが、良いように話のネタにするだけ。」
「大丈夫です。あいつが連絡してきても、もう応 えるつもりはありません。」
「太一のせいじゃない。あれはイベント主催者 が原因なの。」
水沢は、自分のスマートフォンを取り出してテーブルの上に置き、画面を操作する。
自分のせいじゃないって、何が言いたいんだ。
太一は水沢の操作する画面を覗 き込む。画面にイベントのホームページが映 し出される。『西部のたらこくちびる』が動画でパソコン画面に映していたのと同じサイトだ。そこから水沢が操作して違うページに飛ぶ。表題に『シャトルバスの運行について』と書かれてある。イベント当日のシャトルバス運行の案内のページだ。画面の下の方にまとめて書かれた注意項目の一つを拡大する。
〈【運行ルートの変更】昨今、当イベントに対して怪 しい噂 が広まっています。皆さまに安心してご参加いただけるよう、このような事態に対して真摯 に対処していく所存 です。噂 で取り上げられている交差点を避けて、シャトルバスを運行致します。少々所要時間の増加が見込まれますが、運行に支障をきたさない様、万全の準備を致しております。安心してご利用ください。〉
「太一が予知した交差点をシャトルバスは迂回 して運行していたってわけ。太一の予知がイベント主催者を動かす程 、話題になっているって事だから。このイベントがこの前延期になったのも、公式には何も出ていないけど、太一の予知が原因だったって噂 もあるくらいよ。」
なんて事だ。自分の予知が騒ぎになったために、コースを変えた?シャトルバスが交差点を通らなければ、事故に巻き込まれる訳 がない。『西部のたらこくちびる』は、動画の中でその点には触れていなかった。
「これじゃ、予知は続けられない…」
知らなかった。自分の予知がいつの間にか、世間 を動かすまでになっていたなんて。
「そうね。ちょっとお休みした方が良いかも。」
水沢は残念そうだ。自分のサイトの目玉企画をやめなければならない。
「あの、水沢さんにも迷惑かけてしまいました。」
太一は頭を下げる。自分が予知した事で、イベントの運営に支障が出て、その上、結果的に予知が外 れたのでは、非難は自分だけじゃなく、水沢にも及ぶだろう。
「ううん。こっちこそ、こんな事になるなんて、考えも無しに巻き込んじゃって御免 ね。」
いつもの水沢には似つかわしくないくらいにしおらしい。
結局、勤務時間中に話を済ませてしまったから、昼休みは空き時間になった。太一は自分のスマートフォンで『クラントさんの予知』について検索 してみる。今迄 、気にもしていなかったが、ネット上には、自分の予知の結果や、評判について凄 まじい数の書き込みがあることを思い知らされる。いつの間に自分は、こんな影響力のある立場になってしまっていたのだろう。何だか背筋が寒くなる。水沢はこの事態を知っていたのだろうか?『西部のたらこくちびる』の動画を知らせてくれたのは水沢だ。きっと、ネットの世界で自分の予知が、どう取り上げられているのか、チェックしていたのだろう。寧 ろ、それが当たり前だ。何も気にせずに、安請 け合いで予知を垂 れ流してた自分の方が能天気 なのだ。
一つの表題が目に留 まる。『信じた自分が馬鹿 でした』と書いてある。信じた?太一の予知を信じたと言う事だろう。ならば、予知通りにならなかったと言う事か?あのイベントに関係した人の書き込みか?
〈【信じた私が馬鹿でした】私は長い距離、自分で車を運転することが無かったため、事故を起こさないか心配でした。それで、当たると話題になっていた人に相談したんです。その人は、未来に起こる事故が見えるとか言う話で、見えなければ安全なんだそうです。車で長距離運転する機会が出来たので、その人に見てもらいました。その人は『何も見えない』と言ってくれました。それで、私は安心して出掛けました。ところが、赤信号を見落とした私は、小学生を轢 いてしまいました。高速道路を長時間運転した後で、一般道に降りて、暫 く走った所でした。運転に疲れていたのだと思います。言い訳 の様ですが、事故は起きないと言ってもらって、気が緩 んでいました。少しくらい無理しても、事故にならないから、早く目的地に着きたいと考えていました。自分の不注意で起こした事故です。予知してくれた人を非難出来ません。でも、自分の中の割り切れない気持ちは拭 いきれません。〉
太一から血の気が引いていく。スマートフォンの画面から視線が外 せない。
これは何だ。これも自分が犯 した過 ちなのか?予知者の名前は書かれていないが、これは自分が予知した話に違いない。自分の過去の予知を思い返してみる。いくつもそれらしいものがある様に思えてくる。
書き込みの最後にハンドルネームが書かれている。『磯谷』と読める。
ああ、あの時の依頼だ。実名 の様だとその時も思った。仙台まで車で行くと言っていた。そうか、あの人が事故を起こしてしまったのか。確かに自分が予知した案件だ。あの時、何もイメージが見えなかったのも覚えている。自分は佐和子の事で頭がいっぱいだった。もっとしっかり集中してみていれば、事故を予知出来たのだろうか。きっとこれも、イベントのシャトルバスの件も、自分が犯 した間違った予知のほんの一部に違いない。これで全てだと考える方が不自然だ。自分は予知出来るといい気になって、外れた時にどんな迷惑が相手に及ぶか考えもせずに、根拠 のない自信を振り回していただけなんだ。そもそも、自分に予知する力があると思った事自体が、とんだ思い上がりだったのだ。
「おい樫垣、聞いたか。」
不意 に声を掛けられて、太一ははっと我に返る。声の主 を見上げると、同じ課の一年先輩、多田が太一の方に向かって来る。
「その様子じゃ、まだ聞いてないだろ、狭山さん、中国で事故に遭 ったんだってよ。」
事故?ああ、そうだ。狭山が中国で事故に遭 うイメージを見ていながら、自分はそれを狭山に告 げていなかった。それは、予知通りに現実になるとは皮肉 だ。
「え、じゃあ、メーカーとの打ち合わせは出来なかったんですか。」
「ああ、相手にも連絡が行ったらしい。」
「打ち合わせの再調整が必要ですね。今日の明日と言う訳 にはいかないでしょうが。」
「お前、何言ってんだ。それどころじゃねぇぞ。狭山さん、重体で病院に運ばれたぞ。」
え?重体?
太一は、思わず椅子 から腰を浮かす。
「さっき緊急手術を受けたって言う話が入ってきたとこだ。手術の結果は、まだ分かんねぇって。家族には別に連絡が行ってると思うけど、どうすんだろな。」
そんな。自分が見たイメージは、タクシーが道路わきに停まっているイメージだった。大きな事故には思えなかった。なのに何故 ?頭の中は飽和 状態だ。
「しっかりしろよ。狭山さんの分は俺達でフォローすんだと思うから、樫垣は兎 に角 、国内品の調達、確定させろよ。良いな。」
多田は、太一の肩をポンと叩 くと、そのままその場を後にする。
狭山が事故に遭 った状況は、夕方に詳細が伝えられた。高速道路上でタクシーが故障し、路肩 に寄せて停車しているところに、後続車が突っ込んだ。車内後部座席に座っていた狭山は衝突 の衝撃 で車外に放り出された。体に数か所の骨折と打撲、なにより頭に強い衝撃 を受けている様で、未 だ意識が戻っていない。
太一がイメージしたのは、後続車が衝突 する前のタクシーの様子だったのだろう。イメージが見えた時、狭山に交通事故が起きるからタクシーに注意しろと教えていれば、この事故は防げたかも知れない。
とんでもない一日だ。仕事がまるで手に付かない。自分は、なんて事をしてしまったのだ。あの時、狭山にちゃんと話をしていれば。その時じゃなくても、狭山が中国に行くまでに、いくらでも自分の見たイメージの話をするチャンスはあった筈 だ。そうすれば、狭山はきっと、こんな事故に遭 わずに済んだ。自分は何故 その時、予知の事を狭山に告 げなかった?大した事は無いと高 を括 ったのか?どうして、自分にそんな判断が出来る?
太一の中の太一が自分を責め立てる。
…あの時、狭山さんは、総務に行こうとしていて、呼び止めて言う程 の事じゃないと…
もう一人の太一が必死で自分に言い訳 をする。
後からいくらでも言うチャンスはあった。何故 言わなかった?
…狭山さんは中国出張の準備で忙しかったんだ。急にくだらない話をする訳には…
くだらない?自分の予知は当たるんだろ?狭山がタクシーのトラブルに巻き込まれれば、打合せが流れると思っていたじゃないか。それのどこがくだらない。
…ちょっと遅れるだけだ、こんな事故になるとは思ってもいなくて。
それでいい気味だと思っていただろう?自分の手柄 を横取りした罰 だと、テストを教えなかった仕返 しだと思っていただろう?
…うるさい!狭山さんが怪我 すると予知していたら、対応は違った筈 だ。
予知出来てないじゃないか。自分の予知は完璧 だ、予知した事しか起こらないと天狗 になっていただろう?
…違う、そんなつもりは無い。
狭山の事だけじゃない。シャトルバスも、磯谷も、自分が予知すれば外れる訳がないと思っていなかったか?
…いつもと同じ感触があったんだ、起きるって感触が。磯谷さんのは、有田の事に気を取られてて…
結局、自信過剰 で胡坐 をかいていたんだ。
…違う!
みんな自分に教えを乞 うている、自分は施 してやっている。
…違う!違う!
自分は完璧 だ。
…うるさい!
自分をないがしろにした狭山には罰 が当たればいい。
…そうじゃない!
どうだ、願い通りに罰 が下ったぞ。
…そんなもの望んでいない。
天狗 になっていた報 いだ。
…うるさい!
今度は自分が苦しむ番だ。
…うるさい!うるさい!
家に帰っても、暗い自室のベットの上にうずくまって、太一はぐるぐると考え続ける。いくら考えても、いくら後悔しても、狭山の怪我 は元には戻らない。変わらない過去を弄 り回し、同じ言い訳を繰り返し考えるだけだ。ただ一つ、こんな後悔を二度と繰り返さないために心に誓 う。もう、予知するなんて馬鹿な真似 はやめる。一人の普通の人間に戻って生活するのだ。
ある日、斎藤からメッセージが来た。〈都合のいい日の会社帰り、ちょっと飲まないか〉と書かれてある。きっと結婚式の準備の相談に違いない。出来るだけ早いタイミングで会えるよう、候補日を提案する。斎藤も都合 が良かったのか、じゃあ、その日にと言う事になり、太一は当日、仕事を早めに切り上げて店に向かった。
店は斎藤の名前で予約されていて、既 に斎藤が来ている。他の仲間も呼んだのだと勝手に解釈 していたが、どうやら、斎藤と二人きりの様だ。
「なんだ、今日は、俺と二人だけか。」
特に深い意味も無く、太一は口にする。
「ああ、この前の事、謝 っておこうと思ってな。」
斎藤も素直 に気持ちを話す。
「この前の事?」
「茜 が余計 な事、口走 ったろ。なんにも知らずに口にしたんだ。許してやってくれ。」
斎藤は二人の婚約を公表した時の飲み会での会話を気にしている。
「別に、許すも許さないも無いじゃないか。河原崎は知っている事を話しただけだ。」
なんだろう、この居心地 の悪さは。
「そうだけど…。お前、有田の事どうなんだ。」
斎藤や浅沼は、大学時代の太一が佐和子に惹 かれていたのを知っている。当時、男ばかりが集まれば、誰が好みかと言う話もしたものだ。だが、今は学生じゃない。それぞれ、別の世界に生きている。何を今更 そんな事を訊 くのだ。
「何だ、急に。河原崎の話を気にしていないって言った時点で分かるだろ。」
太一の顔に笑顔が貼 り付いている。嫌 な笑顔。
「じゃあお前、諦 めたって事で良いんだな。」
『諦めた』という言葉が太一の心臓をえぐる。
こいつに嘘 はつき通せない。でも、自分が振られたいきさつはどうしても喉 から出て来ない。
「有田が安藤の事を気にしているなら、それで良いじゃないか。別に俺が口を挟む事じゃない。」
「そうか。」斎藤がテーブルに視線を落として、摘 みに箸 を運ぶ。「それなら良いんだ。この先、俺達の結婚式の準備でお前達はどうしたって顔を合わすだろ。気不味 い様なら、無理してくれなくて良いって言いたかったんだ。」
気にしてくれているのは分かる。でも、要 らぬ気遣 いだ。却 って自分が情けなくなる。
「なんだ、まるで有田と安藤の話は決まりみたいな言い方じゃないか。」
虚勢 を張ってみせるのは、せめてものプライドだ。
斎藤の持った箸 の動きが一瞬とまる。
「いや、どうも本当だ。この前、安藤が日本に戻って来ていたらしい。街で見かけた奴 がいる。」
斎藤はテーブルを見たまま話す。太一は後頭部を殴 られた様な衝撃を感じる。それでも顔に張り付いた笑顔が剝 がせない。
安藤が日本に帰って来た?イギリスで頑張るんじゃなかったのか。あんなに自慢気 に自分はお前達無能の輩 とは違うんだと見せつけていたくせに、たった半年足らずで戻って来たのか。
流石 に太一の返事まで間 が空 く。
「…そうなんだ。」
この言葉で、斎藤は太一の本心を悟 ってしまったに違いない。
「やめよう、こんな話は。大丈夫。有田と会っても、問題ないよ。」
太一は、ジョッキのビールをあおる。
「ああ、すまん。もうやめよう。」
斎藤は、ちょっと笑顔を作って見せて、自分の仕事の愚痴 を始める。出来るだけ、関係ない話が良いと思ったのだろう。
太一は、斎藤の話を聞きながら考えた。『安藤を見た奴がいる』と言った。もし、安藤一人を見ただけなら、佐和子と安藤の関係の真偽 に影響など無いに等しい。日本に帰って来る用事なら、他に幾 らでも想像できる。それなのに二人の関係が本当だと判断したのなら、斎藤は言わなかったが、一緒に佐和子も居たと言う事だろう。振られた女性にいつまでも未練 たらしくしていると知れば、斎藤には太一がきっと哀 れな道化 に見えている。
太一は、自分を曝 け出さない様に用心しながら、斎藤の話に適当に相槌 を打ち続けた。
春が来て、新入社員が入って来た。太一にも新しい後輩が出来る。厳しい季節の終焉 と共に、太一の周りの環境も好転していた。A材の調達は、国内品の購入が継続でき、中国品の追加製造も、なんとか使いこなせるレベルの物が出来た。狭山は一命をとりとめ、復帰にはまだ時間がかかるが、日本に戻ってリハビリに励 んでいる。イベントのシャトルバスの一件以来、太一は予知するのをやめた。サイトを閉鎖 し、アカウントも変更した。不思議なもので、予知する事をやめたら、イメージが段々と浮かばなくなっていった。太一は普通のサラリーマンとして、日々変化は乏 しくとも、落ち着いた生活を取り戻していた。
斎藤と河原崎の結婚式の日取りが決まった。太一たち、サークル同期の仲間は、式の準備と出し物の相談の為にコーヒーショップに集まった。男女合わせて十人程が、賑 やかに二人の門出 を祝うためのアイデアを出し合う。その中に佐和子も居る。太一が佐和子を見るのは、一月にこの二人の結婚式の事で話して以来だ。安藤玄の姿は無い。寧 ろ当たり前だ。彼の性格からして、こんな場所に姿を現 したら浮いてしまうし、本人も居た堪 れないだろう。
相談の間、太一と佐和子は離れた位置にいた。人数が多いから当然なのかもしれないが、太一には何となく、佐和子が自分を避けている様に思える。太一は、佐和子と顔を合わせても冷静でいられる自分が意外でもあった。もしかすると、結婚式の準備の相談で周囲が盛り上がっているから、紛 れているだけの可能性もある。だが、何だか吹 っ切れた様に感じる。
これならば、もう大丈夫。自分には新しい生活が始まっている。
会は、二時間ほどでお開 きになった。幹事を決め、それぞれの役割を決めて、今後は役割のグループ毎 で準備を進める。外はいつの間にか雨になっている。予知はやめると決めたのに、太一は無意識に折り畳 み傘 を持って来ていた。
「やだ、雨。」「どうしよう。」「あ、あたし傘あるから一緒に入ってこ。」女性たちは互いに声を掛け合いながら、てんでに店を出て行く。
「樫垣 君。」
太一が店の入り口の方を見ると、同期の女性の一人、柏木が佐和子の隣に立って、太一の方を振り向いている。佐和子も太一を見ている。
「傘持っているでしょ、佐和子、同じ方向だから駅まで送ってあげて。」
何か理由を考え付いたとしても、駄目 だというのはおかしい。佐和子がそれで良いのなら、太一から避ける理由は無い。
太一は頷 くと、彼女等の元に近付く。
「悪いわね。」
柏木はさして悪そうにもせずにそう言って、自分は雨の中を走り出す。歩道を少し行ったところで数人の同期仲間が柏木が来るのを待っているのが見える。
「御免 なさい。」
佐和子は済まなそうな表情をしている。
「良いさ。K坂の駅で良いか?」
太一は折り畳み傘を広げる。
「うん。」
「お前、同期の女子に避けられているのか?」
なんだろう、沈黙が怖くて、歩き出すと思わず変な科白 が口をつく。
「え?どうして?」
「他の連中はみんな、傘に入り合って、違う方に行ったじゃないか。」
「別に。私は用事があって帰るって言ったからよ。」
用事が何かは訊 かない。訊 きたくないのかも知れない。本当は用事なんて無いのかも知れない。佐和子は昔から、他人がどう思うかなど気にせずに自分がやりたい様に行動する。
「なんだか、その方が有田らしいか。」
「なに?私らしいって。それ、褒 めてるの?」
佐和子は悪戯 っぽい目で太一を見る。
「勿論 褒 めてる。有田らしいのが一番良い。」
「そ。」
佐和子はプイと正面に顔を向ける。
安藤玄は日本に戻って来ているのか?佐和子は玄と付き合っているのか?
他の話題を、と思っても、頭の中にこびりついて離れない。
「茜 達の結婚式、七月じゃまだ先ね。」
佐和子の言葉で現実に引き戻される。
「ああ、今日みたいな雨にならないと良いけど。」
なんとか、調子を合わせる。
「七月じゃ暑いわね、きっと。どんな格好 して行けば良いかな。」
「そう言うの、女の子同士で相談したりしないのか。」
「え~、どうなのかな。私は多分しない。」
「一人だけ目立つ格好 になっちゃうのは嫌だろ。」
「別に。常識的ならそんな心配ないでしょ。私なんかより、目立ちたい子もいるから。」
「ふん、なるほどね。」
もう話題が途切 れる。太一は自分の頭の中にこびりついている物に囚 われて、話題を探す事すら諦 めている。恐れていた沈黙が二人の間でわだかまる。
「あ、私、あそこで買い物して行くから、此処迄 で良い。」
佐和子は、交差点の向こう側、雑貨屋を指差す。用事があって帰るのじゃなかったのか。
「傘 良いのか?」
「うん、コンビニでビニール傘でも買うから。」
歩行者用信号が青の内に、佐和子は太一を一人、傘に残して走り出す。
そうか、それが今の佐和子の気持ちか。
その時、不意 に太一の脳裏にイメージが浮かぶ。飛行機の機内だ。いくつも席が並び、どれも乗客で埋まっている。その中の一つに淡 い黄色の夏服を着た佐和子が座っている。乱雑に見えるのは、天井から酸素マスクが垂 れ下がっているからだ。佐和子の顔が見える。恐怖で表情が固まっている。
現実の視界に戻る。小雨の中、青信号が点滅し始めた横断歩道を小走りに遠ざかる佐和子が見える。太一は、喉元 まで出かかった、彼女を呼び止める声を飲み込んだ。
新しい材料を導入するのにサンプル評価だけでなく、初回ロットで先行テストをするのが会社の
考えれば考える
〈イベントが延期になってしまって、残念です。今度は一月に実施される予定ですが、この前の予知は、それでも有効でしょうか?〉
あの『西部のたらこくちびる』からのコメントだ。
〈勝手に動画をアップしておいて、よく
太一は、怒っている今の感情に任せて、ストレートに返信する。
〈自分の日常を動画にアップしているだけです。イベントがとっても楽しみでした。事故に気を付けろと言われたので、自分だけじゃなくて、同じ様にイベントを楽しみにしている人にも注意してもらおうと思いました。〉
〈だからって、勝手に動画をあげて良い訳じゃない。訴えますよ。〉
〈すいません。それより、イベントが延期になってしまって、あなたの予知がどうなったのか心配です。延期になったら、あの予知は無効でしょうか。その場合、
〈そんな話をしていない。勝手な
〈分かりました。でも、あなたは私を助けるために予知してくれたのですよね。私だけでなく、もっと
〈勝手だ。事前に同意を取れと言っている。〉
〈それは私の落ち度でした。でも、皆さんにお知らせしてしまった以上、もし、
外れた、外れたと勝手な事言いやがって。
〈まだ、イベントが開催されていないのに、勝手に外れた事にするな。〉
〈外れたのじゃないのですか?〉
〈違う。〉
〈でも、イベントは延期になってしまいました。もし、本当に予知出来るのなら、事故ではなく、延期になる事を予知出来たのでは?延期になってしまっては、事故など起きようもありません。〉
太一は頭に血を
〈事故はこれから起きる。〉
〈それって、延期になっても、交通事故が起きるって意味ですか?〉
〈勝手に外れた事にしたのを謝罪しろ。〉
〈すいませんでした。私はてっきり、延期になった段階で外れたのだと思ってしまいました。
〈あんたが予知して欲しかったんだろ。信じたくなければ、それで良い。〉
〈信じたいです。でも、シャトルバスが事故に巻き込まれるってだけじゃ、
〈H浜三丁目って交差点で複数台の車が
〈そうですか。本当に未来が見えているんですね。ありがとうございます。〉
それきり、『西部のたらこくちびる』からの返信は
中国製A材の問題は技術部の
初回ロットとして納品された中国製A材は使い物にならない。
結論ははっきりした。来週納品される国内製A材で当面の生産を
「
B商社の担当者との電話を切ると、
「
「そんなのは予想していただろ。そこで『はい、そうですか』と言って引き下がっていては、何も出来ないぞ。こっちの状況は伝えられているのか?」
狭山はあからさまに
「状況は説明して、何とか
「…全く。話にならんな。」
狭山は舌打ちする。
「不純物の除去の話もあります。これも、中国メーカーはどこまで除去出来るか、やってみないと分からないと言っているそうです。」
追加で作ってくれても、不純物混じりの物がまた出来たのでは意味が無い。A材の製造方法など知りもしない太一や狭山では、相手の言い分に反論する事すらままならない。
太一の言葉には返事をせずに、狭山は腕を組んで考え込む。太一には何のアイデアも無い。狭山が首をひねる様子を
「おい、乗り込もう。」
どこへ?
太一には、狭山の意図が理解出来ない。
「B商社の担当者に電話して、これから行くから、上司の
無茶な相談だ。既にB商社の担当者は、中国メーカーと交渉してくれている。自分達が乗り込んで行った所で、それ以上何か新しい対策が起こせる様には思えない。
「あの、一応、連絡してみますが、急に言っても無理かも知れません。」
太一は、B商社の担当者の迷惑そうな声が想像できる。
「馬鹿、このまま、何もせずに
「はい。」
「俺は、部長の所に行って来る。上から手を回して
言い捨てると、狭山は
「大変なのは分かってるけど、ちょっと良いかな。」
大変なのが分かっていたら、
「たいっちゃん、この前ネットに動画上げた
「え?『西部のたらこくちびる』でしょ。しましたよ。」
「そうなんだ。あいつ、また動画アップしているよ。」
太一の動きが一瞬止まる。
「勝手にやらせておけば良いですよ。」
投げやりに返事を返す。
「そうだけどさ。良いのかな。」
水沢は、
「良いですよ。そんな事より、狭山さんがB商事とアポイント取れって言うんだけど、どう話したら、良いと思います?」
「ひたすら
もう、いつもの水沢の調子に戻っている。太一は短く
「もう
「こういうのは、女性がお願いしても
水沢は、太一の肩をポンと
〈今度の金曜日に。〉
斎藤が集まって飲もうと言い出したのは、十二月も後半に入ってからだった。サークルの同期会の時に、また飲もうと話し合った。それを受けて、忘年会をやろうという誘いだ。九月に安藤
当日、指定の店に太一が行ってみると、三人の男以外に女性が一人座っている。斎藤の隣ですました顔をしているのは、サークル同期の一人、河原崎
「よう、遅かったな。」
太一を見付けて浅沼が声を掛け、自分の隣の席に座る様、
「こんばんは。」
座りかけた太一に、河原崎が
「どうも。」
つい、太一も
何だ、この何かいわくあり
太一が飲み物を注文して落ち着くと、それを待っていたとばかり、斎藤が口を開く。
「
何だって?
太一は、少し
「ほら、樫垣も驚いている。俺達はみんな
水沼が面白そうにしている。
「お前
太一が浅沼と水沼に問い掛ける。二人は
「俺達も
「お前達はいつから付き合っていたんだ?」太一は、
「3年の夏合宿の時さ…」
いつもは
「そんな前から付き合っていたのか、全然知らなかったよ。どうやって隠していたんだ。」
逆に、いつもは大人しい水沼が、今日は
「それで、いつ結婚式を
浅沼は、冷静に
「いやぁ、まだ式場を回っているところだ。ちょっと良いなと思う式場は、一年先まで予約が埋まっていて、どうしようかと迷っているんだ。」
酒が入るにつれて、斎藤はいつもの調子を取り戻す。最初はお
「お前の会社には迷惑をかけている。」
「ああ、聞いている。お前の部署と取引始めた資材が
浅沼はどこまで事情を知っているのか分からないが冷静だ。この商談を取り持ってくれた事から、会社で
「ああ。最初に
「まあ、中国あるあるだな。」
浅沼は太一を見ずに
「なんとか、再製造して
「気を付けろ、どんな要求が出て来るか分からないぞ。ま、うちのメンバーが間に入っているから、そんなのは押し返してくれると思うけど、交渉には時間がかかるだろうな。」
二年しか経っていない。それぞれ就職してまだ二年目だ。なのに、浅沼は良く分かっているような口ぶりだ。半分は
「そうそう、佐和ちゃんもそうかも。」
何の話だ?
斎藤達の話題が分からず、太一は彼等のやり取りを
「そうか、そうだよな。」
水沼は明らかに太一の方に意味あり
「なんだ、女子の間でそんな話しているのか?」
斎藤が河原崎をたしなめる。
「別に、わざわざそんな話しないよ。でも、仲間だから、この前誰と会ったくらいの話はするでしょ。そうしたら、誰と誰が付き合っていそうかくらい分かるじゃん。」
河原崎は不満そうだ。どうやら、同期の仲間同士で付き合っている者が他にいるかという話題の様だ。
「だよな、だよな。それで、有田さんは誰と付き合っているって話なんだ?」
水沼は
「え~とね、何て言ったかな。」
河原崎は人差し指でこめかみを
「河原崎さん、
水沼は
「あんまり、目立たない人だから、名前思い出せないんだよね。…ほら、サークルにあんまり顔出さなかった暗い感じの人。あ、そうそう、今イギリスに居るって話だった。」
河原崎は、とっかかりを思い出して
「安藤玄だね。」
太一が軽く
「あ、そんな名前だっけ。安藤君って言ってたかな。」
そう言われても、河原崎は今一つピンと来ない。男達は誰も、太一を見ようとしない。
「なんで、有田が安藤と付き合っているって話になったんだい?」
太一はビールのジョッキを口に運ぶ。
「あのさ、明美が佐和ちゃんとこの間会ったらしいんだけど、その時にその安藤君?って人がイギリスにいるんだけど、ちょくちょくSNSでやりとりしていて、今度ステージに立つ事になったって知らせを、
河原崎は面白そうに、太一に話して聞かせる。
「そうだね。関心がなけりゃ、友達にそんな話、しないよね。」
太一は静かに
「それより、結婚式には呼んでくれるんだよな。」
浅沼が、
「あ?あ、呼んで欲しいか?」
斎藤は何とか受け答える。
「呼ばなくても良いけど、その時は、お前の過去を全て河原崎に話すだけだ。」
浅沼が
「いやいやいや、何を言われても困る様な過去は無いぞ。意味あり
斎藤がこれ見よがしに胸を張る。
「スピーチを俺達でするんだろ。任せろ、取って置きの
浅沼から
「あ、
水沼は何とか合わせて、向かいの斎藤の肩をバンバンと
みんなに気を
太一は、もう一度、ジョッキを口に運んだ。
何となく予感はあった。太一に恋愛の予知は出来ない。けれど予知とは違う、そこから
あの日の帰り、佐和子に振られた時に
誰もいないマンションのエレベーターの箱の中で、太一は身を
中国メーカーからは、三月に製造して供給、不純物は相変わらず製造してみないとどの程度まで減らせるか保証出来ないとの回答が来た。もし、不純物がこちらの要求以下に抑えられなければ、今回製造分は購入しない約束は飲ませたが、そうなったら太一達の会社の生産は止まってしまう。何とかして、次回製造では、不純物を減らせる見通しを得たい。
「お前、名古屋に行け。あそこの部長、お前と馬が合ったろ。」
狭山は視線を床に落としたまま、太一に宣告する。
冗談じゃない。たとえ以前は馬が合ったとしても、後ろ脚で砂を掛けるような
「…はい。」
太一は頭の中の整理がつかないまま、返事を返す。
「俺は、上海に行って来る。その間も進度報告書は、メールに
事務的に狭山が話す。
『お前の
太一の中で感情が高まって来る。返事を返す余裕などない。
「これから、飛行機と宿を確保だ。総務の田辺さん、その辺詳しかったよな。お前は
狭山は、そう言い残して太一の机を後にする。その後ろ姿を見た時、太一にイメージが降りて来る。
それらの事を太一は一瞬で理解する。狭山は総務に行くのだろう、部屋から出て行く後ろ姿が見える。
まあ、良いさ。
中国での交渉に狭山が遅れてしまったとしても、大きな問題にならないだろう。それでその日の会合が
太一は、どうやって二社購買の
太一は疲れ果てていた。本当に疲れきって何も出来ないのか、それとも、気持ちを立て直す気力が
仕事は、解決に向けて少なくとも動き始めている。問題は佐和子の方だ。佐和子が誰と付き合おうが、振られた自分が
太一は、日課になっている『クラントさんの予知』へのコメントを確認しながら、頭は佐和子の事でいっぱいのままだ。
浅沼や斎藤に頼んでみるのはどうだろう?彼等も佐和子と仲が良い。その上、太一の気持ちも知っている。彼等なら協力してくれるだろう。でも、それまで積極的に佐和子と
スマートフォンの画面に、クラントさんへの相談内容が
太一は、そう思いながらも、
次の相談は交通に関する相談だ。ちゃんと太一が出来る事を理解している。相談欄には、〈東京に住んでいるが息子夫婦は仙台に居る。まだ雪や道路の凍結が心配だが、車を運転して孫に会いに行きたいと思っている。大丈夫だろうか〉と書かれてある。文面からも、
太一は、イメージを浮かべようとしてみる。仙台、磯谷、自動車…。何も浮かんでこない。
〈何もイメージは浮かびませんでした。私には何のトラブルも予測出来ません。〉
やっぱり駄目だ。
太一は、思い返す。
もし、斎藤から佐和子に安藤をどう思っているか探ってもらったとしたら、何で斎藤が安藤と佐和子の間を気にするのかと疑問に思うだろう。言い
何となく決心が付いた。少し気分が楽になった気がする。『クラントさんの予知』のコメント返信も今日は終わりにして、ベッドに
〈斎藤と河原崎が結婚する話は聞いていると思う。結婚式の出し物で相談したい。時間がある日を教えて欲しい。〉
次の日、太一は
こんな何でもないメッセージなのに、何で指先が
佐和子からの返事はすぐに返って来ない。一人、名古屋に向けて新幹線に乗りながら、スマートフォンの画面ばかりチェックする。結局、名古屋に着いても佐和子からの返事は来ない。気持ちを仕事に切り替えて、C工業との交渉に
「
太一は、相手の反応の
「我々にお手伝い出来る事が残っているでしょうか。」
主任技師の男は、無表情に
部屋の暖房がやけに暑い。全身にぐっしょりと汗が
「私共の見通しが甘かったです…」
完全な
太一は自分が何を話しているのか半分分からなくなりながらも、必死で状況を説明する。
「中国製をお使いになるのですよね。問題があったのですか?」
切り替える先が中国メーカーという事を彼等には話していない。どこからか、情報を仕入れたと言う事だ。何でもお見通しだぞと、包み隠さず話せと言っているのだ。太一は会社の現状をそのまま説明する。
「そうですか。それはお困りでしょう。簡単に作れるようで、品質を上げるのはそれなりに経験が必要ですから。」
主任技師は笑顔を見せるが、
「我々が浅はかでした。その、
「今、『わが社』とおっしゃいましたよね?
「まあまあ、樫垣さんが悪い
言葉は優しい。けれど、まるで取り調べを受けている様だ。ここで
「それで、取引条件はどうされるおつもりで?」
専務がそれまで話していた主任技師に代わって話を進める。つまりは値上げを飲むのかと言っているのだ。これは想定内だ。すでに部長の
「ご希望の量、短期のお取引では、その価格でご提供するのはなかなか難しいかと。」
専務は居並ぶ部下を
その後も交渉は簡単には進まなかった。協力してくれる
供給される量とタイミングで生産に支障が出る可能性も残ってはいるが、ともかく、
佐和子からの返事は一時間前に届いていた。
「
いつもと変わらない文章なのに、どこか
待ち合わせに、佐和子は時間通りにやって来た。
「まだ、式の日にちも場所も決まっていないんでしょ?今からどうするつもり。」
佐和子の目は
「まあ、どういう仲間を集めて準備するのかから決めなけりゃならないだろ。」おかげで太一も落ち着いて話が出来る。「まず、その相談だよ。」
結局、サークルの同期の中から、手伝ってくれそうな人をピックアップして声を掛ける事にする。そうなるのは普通の流れだ。だから、予定していた通りに、太一は話を切り出す。
「安藤にも声を掛けようか?」
太一は、そう言いながら、佐和子の表情の
「あら、無理じゃない?安藤君、イギリスから帰って来られないでしょ。」
佐和子は少しも表情を変えずに、さらりと言ってのける。
「でも、同期仲間なんだし、声掛けないのも悪いだろ。」
「連絡は茜たちがするでしょ。結婚式の日取りが決まってから招待状を出すんじゃない?第一、出席者を選ぶのは、茜と斎藤君だから、私達は決められない。」
「そうか。出し物の準備には参加出来ないからな。声を掛けるにしても、連絡先が分からないし。」
「あら、みんなで空港まで送りに行ったのに、誰も連絡先を教えて
「ああ、有田さんは安藤から連絡先聞いてない?」
「見送りに行った時、
佐和子は事も
「メールの交換しているのか。仲良いんだな。」
つい、
「別に」佐和子は肩をすぼめて見せる。「斎藤君や水沼君のアドレスも分かるよ。
佐和子はこんな返し方をする人だったろうか。くだらない
「すまない。…同期会で空港まで見送りに行こうなんて言い出したりして、何だか急に安藤と仲良くなった気がしたものだから。」
「そう?相手は遠い
「ああ、じゃあ、浅沼達に話をしておくから。」
「私は女性メンバーに声を掛けておくね。
佐和子と店の前で別れた。太一は、家に帰る道すがら、佐和子の態度、
安藤の名前を出した時、佐和子は平静だった。動揺する
電車に揺られながら、自分がどんどんつまらない人間になって行く様な気がして、太一は目を閉じた。
家に帰ると、仕事に使っているスマートフォンに電話がかかってくる。見れば、相手は水沢だ。どうせ、仕事の話ではなく、自身のサイトの件に決まっている。こっちはその話に今は
「たいっちゃん、大変だよ。」電話に出るなり、
水沢が言っているのは、『西部のたらこくちびる』というハンドルネームで活躍している男の事だ。勝手に動画の題材にした事は、この前
「また、俺の事をネタにしているんですか?」
そんなもの、放っておけば良い。太一には
「イベントが延期になった後も、たいっちゃんが、予知は有効だって言ったくせに、結局何も起きなかったって動画で拡散しているんだよ。」
「え?」
太一は、一瞬思考停止に
「私のフォロアーの一人が教えてくれたの。『クラントさん』の予知はでまかせだと騒いでいる
「水沢さん、動画確認したんですか?」
「え?見たよ。太一も見てご
「分かりました。俺も、まず動画見てみます。その上で、相談しましょう。」
どうして、こう
「さて、皆さん。先日お伝えした予知の結果発表です。え~、もうね、イベントに参加されて、結果なんか分かってるよ~って人も
画面はパソコンのモニターにクローズアップし、太一と『西部のたらこくちびる』がイベントの延期が決まった後、それでも予知が有効なのかとの質問から始まったやり取りが表示される。順にお互いのコメントが追加されていくが、『たらこくちびる』に都合の悪い部分は
「と言う風にね、僕は、この方を信じていますから、そりゃもうね、数々の、数々の予知を行なって来た有名な方なんでね。この方の言う事を信じて、イベント当日、地下鉄で
カメラは、再びパソコンの画面にズームする。そこには、当のイベントのホームページが
「なんと、事故は起こらずにイベントは終了してましたぁ!あれ?事故、どうしちゃったんでしょう?もしかして、
引きの画面に戻ると、男が手を振って動画は終了する。
太一には、男のふざけた態度よりも、何も起こらなかった事実の方がショックだ。なぜ事故は起こらなかった?間違いなく、自分はシャトルバスが交通事故に巻き込まれるイメージを見た。あの男とのやり取りの中で見えたそれは、イベントと
スマートフォンが着信を告げる。見れば、水沢からのメッセージだ。明日の昼休みに相談するから、面談室に来いと書いてある。太一は、返事を返す気にもなれずに、ぐるぐると考えあぐねていた。
佐和子との関係、予知のトラブル…、混迷を深めていく中で、A材の国内調達だけが
肩を指で
「ちょっと。」
小声でそう言うと、さっさと歩いて行く。太一は黙って席を立って後を付いて行く。行先はいつものブースだ。
「いい太一、あの男から連絡があっても、出ちゃ
太一が席に着くなり、きつい目をして言い切る。あの男が『西部のたらこくちびる』なのは
「その話は、昼休みに話すのじゃなかったですか。」
太一も
「良いから、話を聞いて。あの男は、太一が何を言おうが、良いように話のネタにするだけ。」
「大丈夫です。あいつが連絡してきても、もう
「太一のせいじゃない。あれはイベント
水沢は、自分のスマートフォンを取り出してテーブルの上に置き、画面を操作する。
自分のせいじゃないって、何が言いたいんだ。
太一は水沢の操作する画面を
〈【運行ルートの変更】昨今、当イベントに対して
「太一が予知した交差点をシャトルバスは
なんて事だ。自分の予知が騒ぎになったために、コースを変えた?シャトルバスが交差点を通らなければ、事故に巻き込まれる
「これじゃ、予知は続けられない…」
知らなかった。自分の予知がいつの間にか、
「そうね。ちょっとお休みした方が良いかも。」
水沢は残念そうだ。自分のサイトの目玉企画をやめなければならない。
「あの、水沢さんにも迷惑かけてしまいました。」
太一は頭を下げる。自分が予知した事で、イベントの運営に支障が出て、その上、結果的に予知が
「ううん。こっちこそ、こんな事になるなんて、考えも無しに巻き込んじゃって
いつもの水沢には似つかわしくないくらいにしおらしい。
結局、勤務時間中に話を済ませてしまったから、昼休みは空き時間になった。太一は自分のスマートフォンで『クラントさんの予知』について
一つの表題が目に
〈【信じた私が馬鹿でした】私は長い距離、自分で車を運転することが無かったため、事故を起こさないか心配でした。それで、当たると話題になっていた人に相談したんです。その人は、未来に起こる事故が見えるとか言う話で、見えなければ安全なんだそうです。車で長距離運転する機会が出来たので、その人に見てもらいました。その人は『何も見えない』と言ってくれました。それで、私は安心して出掛けました。ところが、赤信号を見落とした私は、小学生を
太一から血の気が引いていく。スマートフォンの画面から視線が
これは何だ。これも自分が
書き込みの最後にハンドルネームが書かれている。『磯谷』と読める。
ああ、あの時の依頼だ。
「おい樫垣、聞いたか。」
「その様子じゃ、まだ聞いてないだろ、狭山さん、中国で事故に
事故?ああ、そうだ。狭山が中国で事故に
「え、じゃあ、メーカーとの打ち合わせは出来なかったんですか。」
「ああ、相手にも連絡が行ったらしい。」
「打ち合わせの再調整が必要ですね。今日の明日と言う
「お前、何言ってんだ。それどころじゃねぇぞ。狭山さん、重体で病院に運ばれたぞ。」
え?重体?
太一は、思わず
「さっき緊急手術を受けたって言う話が入ってきたとこだ。手術の結果は、まだ分かんねぇって。家族には別に連絡が行ってると思うけど、どうすんだろな。」
そんな。自分が見たイメージは、タクシーが道路わきに停まっているイメージだった。大きな事故には思えなかった。なのに
「しっかりしろよ。狭山さんの分は俺達でフォローすんだと思うから、樫垣は
多田は、太一の肩をポンと
狭山が事故に
太一がイメージしたのは、後続車が
とんでもない一日だ。仕事がまるで手に付かない。自分は、なんて事をしてしまったのだ。あの時、狭山にちゃんと話をしていれば。その時じゃなくても、狭山が中国に行くまでに、いくらでも自分の見たイメージの話をするチャンスはあった
太一の中の太一が自分を責め立てる。
…あの時、狭山さんは、総務に行こうとしていて、呼び止めて言う
もう一人の太一が必死で自分に言い
後からいくらでも言うチャンスはあった。
…狭山さんは中国出張の準備で忙しかったんだ。急にくだらない話をする訳には…
くだらない?自分の予知は当たるんだろ?狭山がタクシーのトラブルに巻き込まれれば、打合せが流れると思っていたじゃないか。それのどこがくだらない。
…ちょっと遅れるだけだ、こんな事故になるとは思ってもいなくて。
それでいい気味だと思っていただろう?自分の
…うるさい!狭山さんが
予知出来てないじゃないか。自分の予知は
…違う、そんなつもりは無い。
狭山の事だけじゃない。シャトルバスも、磯谷も、自分が予知すれば外れる訳がないと思っていなかったか?
…いつもと同じ感触があったんだ、起きるって感触が。磯谷さんのは、有田の事に気を取られてて…
結局、
…違う!
みんな自分に教えを
…違う!違う!
自分は
…うるさい!
自分をないがしろにした狭山には
…そうじゃない!
どうだ、願い通りに
…そんなもの望んでいない。
…うるさい!
今度は自分が苦しむ番だ。
…うるさい!うるさい!
家に帰っても、暗い自室のベットの上にうずくまって、太一はぐるぐると考え続ける。いくら考えても、いくら後悔しても、狭山の
ある日、斎藤からメッセージが来た。〈都合のいい日の会社帰り、ちょっと飲まないか〉と書かれてある。きっと結婚式の準備の相談に違いない。出来るだけ早いタイミングで会えるよう、候補日を提案する。斎藤も
店は斎藤の名前で予約されていて、
「なんだ、今日は、俺と二人だけか。」
特に深い意味も無く、太一は口にする。
「ああ、この前の事、
斎藤も
「この前の事?」
「
斎藤は二人の婚約を公表した時の飲み会での会話を気にしている。
「別に、許すも許さないも無いじゃないか。河原崎は知っている事を話しただけだ。」
なんだろう、この
「そうだけど…。お前、有田の事どうなんだ。」
斎藤や浅沼は、大学時代の太一が佐和子に
「何だ、急に。河原崎の話を気にしていないって言った時点で分かるだろ。」
太一の顔に笑顔が
「じゃあお前、
『諦めた』という言葉が太一の心臓をえぐる。
こいつに
「有田が安藤の事を気にしているなら、それで良いじゃないか。別に俺が口を挟む事じゃない。」
「そうか。」斎藤がテーブルに視線を落として、
気にしてくれているのは分かる。でも、
「なんだ、まるで有田と安藤の話は決まりみたいな言い方じゃないか。」
斎藤の持った
「いや、どうも本当だ。この前、安藤が日本に戻って来ていたらしい。街で見かけた
斎藤はテーブルを見たまま話す。太一は後頭部を
安藤が日本に帰って来た?イギリスで頑張るんじゃなかったのか。あんなに
「…そうなんだ。」
この言葉で、斎藤は太一の本心を
「やめよう、こんな話は。大丈夫。有田と会っても、問題ないよ。」
太一は、ジョッキのビールをあおる。
「ああ、すまん。もうやめよう。」
斎藤は、ちょっと笑顔を作って見せて、自分の仕事の
太一は、斎藤の話を聞きながら考えた。『安藤を見た奴がいる』と言った。もし、安藤一人を見ただけなら、佐和子と安藤の関係の
太一は、自分を
春が来て、新入社員が入って来た。太一にも新しい後輩が出来る。厳しい季節の
斎藤と河原崎の結婚式の日取りが決まった。太一たち、サークル同期の仲間は、式の準備と出し物の相談の為にコーヒーショップに集まった。男女合わせて十人程が、
相談の間、太一と佐和子は離れた位置にいた。人数が多いから当然なのかもしれないが、太一には何となく、佐和子が自分を避けている様に思える。太一は、佐和子と顔を合わせても冷静でいられる自分が意外でもあった。もしかすると、結婚式の準備の相談で周囲が盛り上がっているから、
これならば、もう大丈夫。自分には新しい生活が始まっている。
会は、二時間ほどでお
「やだ、雨。」「どうしよう。」「あ、あたし傘あるから一緒に入ってこ。」女性たちは互いに声を掛け合いながら、てんでに店を出て行く。
「
太一が店の入り口の方を見ると、同期の女性の一人、柏木が佐和子の隣に立って、太一の方を振り向いている。佐和子も太一を見ている。
「傘持っているでしょ、佐和子、同じ方向だから駅まで送ってあげて。」
何か理由を考え付いたとしても、
太一は
「悪いわね。」
柏木はさして悪そうにもせずにそう言って、自分は雨の中を走り出す。歩道を少し行ったところで数人の同期仲間が柏木が来るのを待っているのが見える。
「
佐和子は済まなそうな表情をしている。
「良いさ。K坂の駅で良いか?」
太一は折り畳み傘を広げる。
「うん。」
「お前、同期の女子に避けられているのか?」
なんだろう、沈黙が怖くて、歩き出すと思わず変な
「え?どうして?」
「他の連中はみんな、傘に入り合って、違う方に行ったじゃないか。」
「別に。私は用事があって帰るって言ったからよ。」
用事が何かは
「なんだか、その方が有田らしいか。」
「なに?私らしいって。それ、
佐和子は
「
「そ。」
佐和子はプイと正面に顔を向ける。
安藤玄は日本に戻って来ているのか?佐和子は玄と付き合っているのか?
他の話題を、と思っても、頭の中にこびりついて離れない。
「
佐和子の言葉で現実に引き戻される。
「ああ、今日みたいな雨にならないと良いけど。」
なんとか、調子を合わせる。
「七月じゃ暑いわね、きっと。どんな
「そう言うの、女の子同士で相談したりしないのか。」
「え~、どうなのかな。私は多分しない。」
「一人だけ目立つ
「別に。常識的ならそんな心配ないでしょ。私なんかより、目立ちたい子もいるから。」
「ふん、なるほどね。」
もう話題が
「あ、私、あそこで買い物して行くから、
佐和子は、交差点の向こう側、雑貨屋を指差す。用事があって帰るのじゃなかったのか。
「
「うん、コンビニでビニール傘でも買うから。」
歩行者用信号が青の内に、佐和子は太一を一人、傘に残して走り出す。
そうか、それが今の佐和子の気持ちか。
その時、
現実の視界に戻る。小雨の中、青信号が点滅し始めた横断歩道を小走りに遠ざかる佐和子が見える。太一は、