1.同期会の夜
文字数 11,061文字
この頃は雨が多い。梅雨 なんだから、しょうがないと言ってしまえばそれまでだが、地球温暖化の影響か、気候が亜熱帯に似通 ってきて、雨の降る日が多くなったと感じる。
樫垣 太一は、テーブルの椅子 に腰かけて、焼いたトーストを頬張 り、朝のニュースの天気予報を見ながら考えた。お天気お姉さんの解説ははっきりしない。概 ね晴れの予報だが、大気の状態が不安定で、所に依 ってはゲリラ雷雨になるかも知れないと言っている。それって、雨が降っても降らなくても天気予報は当たっていて、自分達のせいじゃないって言っている様なものだ。毎日、そういう予報をしておけば、きっと苦情は来ないのだろう。些細 な事にひねくれて突 っ掛かっている自分に気付いて、太一はトーストの残りを口に押し込むと、テレビを消して皿を流しに運ぶ。
いかん、いかん。こんな状態じゃ、どんどん性格が捻 じ曲がる。
スポンジで皿を洗いながら、思わず溜息 をつく。簡単に洗い物を終えて、鏡の前でネクタイを締める。
平日の朝が同じルーティンの繰り返しに変わってから一年と三ヵ月。大学時代から住んでいる賃貸マンションをそろそろ引き払って、もっと会社への交通の便 が良い場所に引っ越そうかと考え始めている。それなりに給料は貰 えるし、家賃がもう少し高くても、通勤に割 く時間を減らせる方が魅力的だ。
壁の時計を振り返る。もう時間だ。太一は昨日の夜、椅子に投げ出したままの黒い鞄 を拾い上げて玄関へ足早 に向かう。特に何も考えずに、昨日と同じこげ茶の革靴 を履 く。体がふらつかない様、玄関脇 の靴箱 に掴 まった時、靴箱の上に投げ出したままの折り畳 み傘 が手に当たる。
いつもなら、そんなもの気にしない。靴を履 き終えたなら、玄関ドア開けてとっととエレベーターに向かっている筈 だ。でも、一度折り畳 み傘 の存在に気付いてしまったら、靴を履 き終えても出掛ける気になれず、折り畳 み傘 を睨 んだまま突 っ立っている。別に何か頭に浮かんだ訳 じゃない。嫌な予感とか、胸騒 ぎとか、そんなもの何も感じない。きっと、さっき天気予報に一人で噛 み付いていたせいだろう。ゲリラ雷雨に気持ちが引っかかっているんだ。
朝の時間にそんなに余裕はない。此処 で逡巡 していて、一本電車を乗り過ごすと、始業時間に間に合うか分かったものじゃない。太一は迷っているのが馬鹿らしい事に気付いて、折り畳 み傘 をひっつかみ、鞄 の中に捻 じ込みながら玄関ドアを開けた。
都心に向かう電車はいつもの様に混んでいる。途中 で急行に乗り換えると少し早く着くが、殺人的な混雑に耐 えてまで早く行くメリットが感じられずに、いつも各停のまま乗って行く。片手に鞄 を持ち、片手でつり革 か手摺 を握って、けっして痴漢に間違われないよう、両手が塞 がった状態を心掛ける。スマホを弄 りながら乗っている人が多い。特に椅子 に座った人は、何かの儀式 の様に、悉 くスマホの画面に視線を落としている。太一は両手が塞 がっているので、そうやって一人一人の世界に逃げ込んでいる人達の様子や、見慣れた車窓からの景色を眺 めながら、時間をやり過ごす。
大学への通学も同じ電車に乗っていた。けれど、一時限の講義がなかったり、有ってもサボったりで、通勤時間帯の電車を使う事は殆 ど無かった。自分の気持ちの中にも、無理して講義に間に合わせなければいけないという切迫感 が無かった。今は違う。遅刻など出来 ない。何が何でも、始業時間までに自分の席に座って仕事を始めていなければならない。だけど、強迫観念 にも似た緊張に支配された期間は、入社してから一か月と続かなかった。今も状況は変わっていない。強い義務感が太一を動かしているのは変わりない。ただ、張 り詰 めた緊張は失われて久 しい。入社したては必死だった。通勤だけじゃない。仕事が分からない、会社の人の顔も名前も覚えていない。入社時の教育を受けて、配属先で指導者から仕事を教えてもらって…。新しい環境に馴染 むのでいっぱいいっぱいだった。やがて、少しずつ慣れて行く。曲 りなりにも自分に任された仕事を回せるようになって、周囲の同僚の顔や名前だけじゃなく、性格も理解して、得手不得手 を感じて、それなりに自分の居場所を作って行く。暫 くは、そうした少しずつ出来 るように変わっていく自分に充実したものを感じていられる。やがてその時期が過ぎると、惰性 で同じ様な毎日を重ねている自分の存在に気付く。けっして単調ではない。毎日違う出来事 があり、達成感を味わう事だってある。だけど、自分の中で何かが鈍 くなっていくのを感じる。
「よお、おはよう。」
会社のエントランスでエレベーターを待っていると、太一と同じ資材部の先輩が声を掛けてくる。太一が入社してから、面倒を見てくれている狭山 だ。
「あ、おはようございます。」
太一は軽く会釈 して応 える。
「月例報告書の締め切り今日迄 だぞ。大丈夫か?」
太一は、生産に使うA材の調達を担当している。狭山が言っているのは、月に一回、部門で行なう業務の進度報告会で使う資料に、A材の調達についての状況を太一がまとめて書くように指示されているからだ。
「大丈夫です。午前中にはなんとか。」
エレベーターの扉 が開いて、待っていた従業員達が一斉 に動き出す。その流れに乗って、太一と狭山 も乗り込む。
「おう、田所。お前、引っ越したんだって?」
狭山は、エレベーターの中で他の部署の顔見知りを見付けると、太一の回答には反応せずに、直 ぐ話を始める。
確かに、報告書は書こうと思えば、直 ぐに書ける。問題は、書いた内容に狭山がOKを出すかだ。A材の調達には問題が発生していた。今迄 十年以上に亘 って材料を供給していた会社、C工業から、老朽化 した設備の更新 を理由に値上げの申請が出ているのだ。十三パーセントにもなる価格上昇は、この材料を使う製品の利益を消滅させかねない影響力を持っている。
狭山 の意識が他の人との会話に移り、しつこく言われなかった事は、むしろ太一とっては有難かった。報告書に値上げになる事態だけ書いても、到底 、狭山が許すとは思えない。かといって、C工業からの値上げの申請はこれで二回目だ。前回は、相手が根負 けするまで何度も交渉して値上げを回避したため、今回は向こうも不退転 の覚悟で来ているに違いない。
どうするか…。
自分の机でパソコンに向かって業務をしながら、太一の頭の中では、この件の対応がぐるぐると解決策も無く回っていた。
「お前、これで上が納得するとでも思っているのか?」
午後の業務時間が始まるとすぐに報告書を狭山 に提出したが、反応は予想通りだ。
「でも、このまま相手と交渉を続けても、埒 が明きそうにありません。相手は言外 に来年度から供給を止める事を匂 わせています。」
「そんなのにビビってたら負けだろ。相手だって、こっちとの取引が無くなれば、売上も利益も失うんだ。弱気を見せた方が負けだぞ。」
狭山 の言い分は多分 正しい。彼は太一よりも長い会社経験の中で、それを学んできた。だとしても、必ず正しい訳 ではない。前回の値上げ交渉の時は、太一が一年目だった事もあり、狭山が主担当で交渉に当たり、難航 はしたが、このやり方で相手に矛 を収 めさせた。だから狭山は、自信をもってそう言い切ってくる。
「前回の交渉は結局、年末までかかりました。相手も予算に影響するからと、泣く泣く交渉をやめたんじゃなかったですか。『次の時は、お願いしますよ』て言っていたのは、今度は俺達が譲 る番だって意味でしょ。」
「それで、『はい、そうですか』って言う奴 があるか。そんなもん、気付かないふりで強気に行くんだよ。」
そう言われても、太一には押し通す自信が無い。狭山と自分は別物だ。
「…それで、報告書はどうするんだ?」
どうすると言われても、自分で考えられるのはこれが限界だ。代替案 など無い。
「今すぐに答えが無くても、努力する方向性を示さなきゃ駄目 だろ。」
「方向性ですか?」
「そうだよ。お前、このまま交渉続けても、埒 が明かないって言ったよな。だったら、他の事を考えるんだよ。例えば…、違う会社から買う策を考えられないか。」
それは分かる。他の会社から買う案は、最初に考える打開策 だ。だからと言って、どこから買えるのか分からない。知らない会社に飛び込みで電話を掛けて、『A材売ってませんか?』って言ったところで相手にしてくれないだろう。
「はあ、それが検討できれば、良いんですが…。」
「取り敢 えず、そうしておけ。今月はそれで乗り切って、次迄 にどうするか考えろ。」
詭弁 だ。見通しも無いのに、そんな事書いても下手 に期待させるだけで、解決は近付かない。そう思いながらも、太一は了解の返事を短く返すと、自分のデスクに戻って報告書の修正に取り掛かった。
仕事を終えたのは、七時を過ぎた頃だった。ビルのエントランスまで来てみると、外は雨が降っている。すっかり忘れていたが、ビルの外の、しとしと降る雨に濡 れる路面を見て、鞄 に折り畳 み傘 を入れたのを思い出す。
傘を入れて来てラッキーだ。
太一は傘を差すと駅に向けて歩き出す。すぐに今日の夕食をどうするかに頭は切り替わる。会社を出たら、意識して仕事の事は考えない様にしている。
明日は、久し振りに大学時代の仲間との飲み会だ。今日は贅沢 をしないでおこう。
帰り道で惣菜屋 に寄って何か買って帰る事にする。久し振りに同期の仲間に会えると思うだけで、気分が上がってくるのを感じる。昼間、狭山 に何度も資料を作り直 させられた事で落ち込んでいた分を取り返した気になって、歩道の水たまりすら気にせずに足早 に駅に向かった。
翌朝もいつもと同じルーティンで出掛ける支度 をする。テレビを見ながら、トーストを頬張 り、後片付けをしてからネクタイを締める。黒い鞄 を取り上げて、玄関で靴 を履 く。ふと、靴箱 の天板 に置いた左手が気になる。
なんだ?
靴箱の角を掴 んだ自分の左手を見つめる。何の変哲 もない。なのに、何か気になる。靴 を履 き終えた太一はその場に突 っ立って、左手を握ったり、開いたりしてみる。別に違和感 は無い。左手がおかしい訳 じゃない。
じゃあ、なんだ?
左手を目の前に持ってきて、暫 く眺 める。
いや、だから、手の問題じゃない。
今度は靴箱 の上を見る。薄暗い天板 の上は少し埃 っぽい。今自分が掴 んでいたところだけ埃 が無くなっている。
あ、傘 。
昨日はこの場所に折り畳 み傘が置かれていた。今日は無い。
それが、原因?…おかしい。そんなものが気になる訳 が無い。
太一は空 の自分の掌 を見つめる。昨日使った折り畳 み傘は、乾かすためにベランダに開いて置いてある。思い出して太一は思わず、視線を居間の向こう、光が差し込むサッシに向ける。朝の慌 ただしい出掛 け間際 に逡巡 している場合じゃない。その筈 なのに、時間の心配はどこかに飛んでしまい、太一の頭の中は傘の事しか考えられない。
天気予報は、今日は晴れだと言っていた。所に依 って夕立があるくらい暑い一日になると。夕立があるとしても一時だ。雨宿 りしていれば通り過ぎて行く。それでも傘が必要か?今日は大学時代の同期の飲み会だし、傘なんか入れた重い鞄 を提 げて行くのは何だか億劫 だ。
太一は、玄関ドアに体の向きを変えてノブを掴 む。なのにドアを開けて出て行く決心がつかない。そのまま目を瞑 る。
何なんだ、一体これは。
一つ、小さく溜息 をついて振り返る。革靴 をぞんざいに脱ぎ捨て、まっすぐベランダに向かった。
会社を定時で上がり、太一は事前にメールで知らされていた店に急ぐ。明日は休みだ。今日は旧友たちと思いっきり飲み明かせる。夕方になっても気温が下がらない都会の狭い歩道を、少人数毎 塊 りになって向こうから歩いて来る人の間を上手 く縫 って行く。店は大学時代から太一達が良く使っていた場所だ。会社からでも迷う事無く辿 り着ける。
大半 が遊び目的の緩 いテニスサークルだった。練習などろくにやらない。何かと理由を付けては飲み会をし、夏の合宿は毎年違う避暑地のペンションを、その時の幹事が見繕 って段取りしていた。そんな軟弱な仲間達だったが、偏差値の高い大学だったからか、勉学もそつなくこなし、同期で留年するような奴 はおらずに卒業した。
「おう、久し振り。」
店で案内された部屋の襖 を開けると、見知った顔が太一を見上げて声を掛ける。まだ五、六人がてんでに座布団の上に座って、手持無沙汰 にしている。あの頃とは違い、どいつも清潔そうな髪型にきちんとした身なりだ。久し振りと言っても、追い出しコンパ以来、やっと一年と少し経 ったに過ぎない。
「浅沼、お前、中国行くって言ってたじゃないか。」
太一は、声を掛けた男の隣に行くと、腰を下ろしながら話し掛ける。
「ああ、行って来たさ。本場の中華料理ってのは、どんだけ旨 いんだろうと思っていたけど、日本人の口にはイマイチ合わない。やっぱり日本で食べるのが一番だ。」
「なんだよ、仕事の話じゃなくて、食い物の話かよ。ちゃんと仕事して来たのか?」
太一は、半分笑いながら冷やかす。
「まあ、入って一年ちょっとの俺じゃあ、鞄 持ちで付いて行く様 なもんだからな。現地法人との顔つなぎは出来 たから、これから頑張るさ。」
「そうか。」
中国?
太一の頭の隅 にその言葉が引っかかる。
「お前、B商事だよな。」
太一は、浅沼を見ずに手元のテーブルを見つめながら訊 く。
「ああ。」
「B商事はうちの会社と取引あるだろ。」
「樫垣 の所?…Nテックだっけ?よく知らんが、あるんじゃないか?」
「お前の所、A材を扱っているか?」
「A材?何に使う材料だ?ま、工業原材料は大抵 やっているから、扱っているんじゃないか。まあ、やっていなくても、儲 かるならやるけどな。」
浅沼は太一の方を見てにやりと笑う。
「そうか。そうだよな。」太一も笑顔になる。「な、資材扱っている部門の人、紹介してくれないか。」
「なんだ、仕事か?分かった、紹介してやるから、上手 く行ったら、奢 れよ。」
「お前が海外に行っていなければな。」
太一は、浅沼の背中を一つ叩 く。
浅沼と話し込んでいる内に、メンバーは大方 集まって来ていた。
「樫垣 君、久し振り。」
聞き慣れた女性の声に振り向くと、有田佐和子が太一の隣の席に座ってくる。周囲を見回せば、他の女性は向こうでひと塊 に座っている。佐和子だけが、わざわざ、太一の隣を選んだのだ。太一は、自分の鼓動 が高鳴 るのを自覚する。
「やあ、仕事お疲れ様。」
さりげなく、挨拶 を返す。
佐和子は夏らしい薄手の淡い色のブラウスに紺地のタイトスカートを穿 いている。その恰好 では、今日の暑さは辛 いだろう。OLになって短かった髪をやめ、肩まで伸ばして栗色に染め、ウェーブを掛けている。如何 にもOL然 とした雰囲気に、太一は思わず目線を逸 らす。
程無 く、飲み会が始まった。始まってしまえば、すぐに一年の間など感じないくらい、気兼 ねなく誰とでも話が弾 む。気分は学生のそれにすっかり戻っている。
「その係長がすごいきっちりしてて。書類が机からすこしでもはみ出していようものなら大変なの。みんな、そんなところに気を遣 って、ピリピリしている。」
宴が盛り上がってくると、佐和子は饒舌 になった。今の部署での出来事を楽しそうに太一に語って聞かせる。太一も合 いの手を入れながら、彼女が話したいように話させる。
「でも、近藤さんってベテランの人は、全然気にしてないの。係長が不機嫌 そうに乱雑な机を見ていても知らん顔。係長もきっと何度言っても聞かないから、もう言うのを諦 めているでしょうけど、そのために機嫌 が悪くなって、他の人がとばっちりを食うから、みんなブーブー言ってる。」
「空気読まないって言うか、マイペースな人っているよな。そういう人に限って、自分は何でも一人でやって誰にも迷惑かけてないって思ってたりするんだ。」
佐和子の愚痴 に調子を合わせて話をする。佐和子は屈託 なく、気持ちをストレートに表情に出す。誰とでも同じ様に接する佐和子だが、とりわけ太一には積極的に話し掛けて来ると感じているのは太一ばかりだろうか。
「何だ、お前。まだそんな事やってるのか。」
斜め向かいの席から大きな声が上がる。斎藤だ。大学時代からサークルのムードメーカーと言うか、どちらかと言えばお調子者だった奴 だ。斎藤のその言葉の言いようは相手を見下している。言われているのは、安藤玄 だ。昔から一人でいる事が多く、仲間に打ち解けようとしない少し変わった奴 だ。今日の飲み会に姿があるのさえ、どういう風の吹き回しかと驚く。大学を卒業してからこんな仲間の飲み会に来ても、話す相手もいないんじゃないかと他人事 ながら心配になる。
斎藤の声があまりに大きくて、佐和子も太一も話をやめて目を向ける。
「お前、それじゃ食っていけないだろ。」
斎藤はもうすっかり、酔いが回っている。
「いや、食うだけなら何とかなるさ。」
玄は、斎藤にからまれても真面目 に答える。
「もっとちゃんとした仕事に就 けよ。」
斎藤が玄の肩をボンボンと叩 く。
「なんだ、何説教している。」
浅沼も斎藤の大声に引き寄せられて、話に割り込む。
「安藤の奴 、会社辞めて、サックスやってんだと。」
斎藤が即答する。
「何だ。お前、銀行に入ったんじゃなかったか?」
浅沼は玄の就職先を覚えていた。
「うん。辞めた。」
「え~。」
周囲の者は皆、信じられないという表情だ。
「それで?何やっているって?」
浅沼が身を乗り出す。
「サックスだって。」
答えたのは斎藤の向かいの席で話を聞いていた水沼だ。無口だが、気の良い奴 だ。
「サックス…」
「サキソフォンだよ。楽器。」
皆が黙っているのは『サックス』の意味が分からないからじゃないのに、斎藤は念押しする。そう言われてみれば、他の連中がYシャツにスラックス姿なのに、彼は派手なTシャツにGパンだ。
「演奏する場があるのか?」
つい、太一も話に加わる。
「道玄坂から露地 に折れたところにある店で夜に吹かせてもらっている。」
銀行勤 めを辞めて、夜のジャズバーで演奏する。一同は黙って玄の今の境遇を想像する。きっと、安アパートで昼遅くまで寝ていて、午後は何をするでもなくぶらついて、夕方から店に向かう生活を続けているのだろう。玄の演奏を聞いた事は無い。だが、大学時代から趣味でやっているのは知っていた。誰かに付いて習ったり、他の仲間とバンドを組んでいるような話も聞いた記憶は無い。腕は趣味の領域からそんなにはみ出していないだろう。
「安藤一人で演奏するのか?」
今度は浅沼が質問する。
「いや、三人くらいでいつもやってる。ドラムとベースはいないと様 にならないから。」漸 く、玄の表情に笑 みが浮かぶ。「二回に一回くらいはピアノも入る。」
「なんで?何でだ。銀行員やりながらだって、趣味で出来 るだろ。」
太一は思わず口にする。口にしてしまってから、答えは想像できそうに思えてくる。
「まあ、そうだけど。それじゃ、飽 き足 らなくなって。…恰好 良く言えば、みんな中途半端だって思ったからさ。」
宴席なのに、一つも面白い事を言わずに、とつとつと事実だけを並べて行く。
「言ってやってくれ。そんな少年の夢みたいなものにしがみ付いてたって、後で困るぞって。…おい、聞いているかぁ!」
斎藤が玄の隣で喚 く。
「それで、俺、今度イギリスに行く事になった。向こうで演奏しながら、腕を磨 くんだ。」
「おい、イギリスって、何か当 てでもあるのか。」
浅沼が直 ぐに問い質 す。
「イギリス人のサックス奏者と知り合いになってさ。こっちに来ないかって誘われたんだ。」
「どうやって、そんな知り合い出来 たんだ。」
「ジャズフェスを観 に来日して、フェスの後、東京に一泊した時に、たまたま俺が出ている店に飲みに来て知り合ったんだ。その人が、良ければ一緒にこっちでやらないかって誘ってくれた。」
何だか、余 りに虫のいい話だ。そのイギリス人が何に惹 かれて安藤玄に声を掛けたのか知らないが、自分の趣味が高じてバーで演奏している男に才能があるなんてうまい話が、そうそうある訳 が無い。上手 い話にはきっと落とし穴がある。恐らく、この話を聴いていた者はみんな嫌 な予感がしたに違いない。
「すごい、ドラマみたいじゃない。」
佐和子の声に振り向くと、目を輝かせて身を乗り出している。彼女だけは、この話に胡散臭 さを感じなかったのか。玄は少し微笑 んで見せて、ハイボールをあおる。佐和子が肯定的 な発言をしてしまったため、他の者は諫 める言葉を飲み込んでしまう。
「もう、向こうに行く日程が決まっている。」
「え?」
思わず、浅沼が声を漏 らす。
「決まっているって、住む場所とかどうするんだ。」
太一は責めてしまわない様 に言葉を選んで質問する。
「さっき言った、イギリス人と一緒に暮らす。ルームシェア?って言うのかな。もう、既に二人音楽仲間が一緒に暮らしているそうだ。」
とても、一度会社に勤めた事のある人間の言葉とは思えない。玄は、体ごと五センチくらい座布団から浮いているんじゃないだろうか。
「え、凄 い。みんな、イギリスの人?」
佐和子だけが無邪気 だ。
「アメリカ人とシンガポールの人らしい。シンガポールは中国系だね。」
「ふうん。」
佐和子の関心を引いているのが、なんだか気に障 る。
「仕事は?向こうで仕事見付けなきゃならないだろ。」
太一は、ムキになって言い募 っている自分を自覚する。
「ああ、だけど日本よりも働ける場所は多いから、何とかなる。」
「え、いつ行くの?」
佐和子だけがどんどん乗り出していく。
「九月。こっちの仕事とか、整理してから行くから、まだ先だよ。」
玄は片頬 を歪 ませて笑 みを作る。何だか、彼の目には我々が惨 めな社畜 に映 ってはしまいか。
「そうなんだぁ。ね、ね、その時は、みんなで見送りに行かない?」
佐和子は隣の太一のシャツの二の腕辺 りを引っ張って、みんなの表情を窺 う。
え?面倒 な。
反射的に太一の頭が反応する。口には出さなかったが、表情まで上手 く誤魔化 せたかは自信が無い。
「いや、良いよ。みんな仕事があるだろ。」
玄が済まなそうに主張する。恐らく、玄も来て欲しい訳 じゃないのだろう。
「何言ってる。まだ三ヶ月先の予定が埋まっている奴 などいるか!」
斎藤が、脇から玄の背中を叩 く。さっきよりも勢いが付いている。あれは痛いだろう。酔っぱらった斎藤の盲動 にこっちまで巻き込まれるのか。
「そうだよ。遠慮なんてしなくても。仲間なんだから。」
太一は思わず、佐和子の顔を見る。そう言った彼女は、玄を見て微笑 んでいる。
仲間。確かにみんな同じサークルに居た同級生だ。一緒に遊んで、馬鹿やって、悩みも愚痴 も零 し合った浅沼や斎藤は仲間だと感じるが、ろくにサークルの集まりに顔を出さず、たまに居ても一人で混ざろうとしていなかった安藤玄を知り合いだと思っても、仲間だと感じたことは無かった。佐和子は玄を太一達と等距離に感じているのだろうか。それともその気にさせるための方便 か。
「いいよ、ほんとに。なんか、大袈裟 になっちゃうから。」
遠慮じゃない。きっと、玄は来て欲しくないのだ。
「ええ~。みんなで横断幕 もって、バンザーイってやりたいのに。」
どこぞの出征 だ。玄じゃなくても、喜ぶ奴 などいるものか。
女性に甘い声でねだられると男は弱い。玄は口ではやめてくれと言いながらも、顔が笑っている。佐和子がどんなつもりで言ったのか分からない。けれど、彼女が絶対に行くというのを否定する者は居ない。まして太一にとって、玄の事などどうでも良かったが、彼女が見送りに行くのを知っていながら、自分は行かないという選択肢 はあり得ない。皆で会話を重ねて行くうちに、それぞれの意思の確認もなしに、既決 の予定になっていく。
「それじゃ、飛行機が決まったら、SNSで全員配信してね。」
最後に念を押す様に笑顔で佐和子が言う。玄が渋々 了解すると、程無 くして一次会はお開きになった。
店の外に出ると、雨が降っていた。激しい雨ではないが、本降 りでとてもすぐにやむようには思えない。
「有田さん、傘 もっている?良かったら、駅まで入って行く?」
太一は鞄 から折り畳 み傘 を取り出しながら、佐和子に声を掛ける。ごく自然な筈 だ。誰も変に思わないだろう。
「ありがと。樫垣 君は二次会行かないの?」
本当は、浅沼達ともっと飲むつもりでいた。けれど、久し振りに佐和子と二人になるチャンスを逃 してまで飲みに行く選択は無い。浅沼達とは、時々憂 さを晴らしに集まろうと、さっき意気投合 したから、尚更 だ。
二人は、金曜日の宵 の口、まだこれから賑 わおうとする通りを一本の傘に入って歩く。
「小さい傘で御免 。濡 れちゃうよね。」
太一は、気遣 いされない程度に傘を佐和子の方に差し出す。周囲は知らない人が通り過ぎて行くだけだ。今この小さな傘の内 の世界には、佐和子と太一の二人しかいない。
今なら、今なら言えるかも知れない。
大学時代からずっと、自分の中では何度も告 げてきた。それまでの関係を壊 すのが怖くて、結局言葉として発する事なく卒業してしまった。今なら、毎日顔を合わせる事も無い、たとえ振 られたとしてもけじめがつけられる筈 だ。
「…安藤君、凄 いなぁ。あんな決断しちゃうなんて。」
佐和子の言葉で太一は現実に引き戻される。
安藤?まだ、そんな事を言っているのか。
「安藤?大学時代なら良いけど、今になって趣味に生きるのは危 うくないか。」
何だか、こんな事を言う自分がひどく嫌 な人間に思えてくる。
「そうだけど、追いかけられる物があるって、憧 れるじゃない?…私、そういうの無いから。」
「一人で夢を追いかけるのも良いけど、人並 みの幸せを目指すのでも悪くないだろ。」
自分はどうだ。自分は胸が張れるのか。
「樫垣 君はそういうタイプ?」佐和子は傍 らから、太一を見上げる。「就職して、結婚して、アットホームな家庭を作って…。なんか、ちょっとつまらなくない?」
太一はぎくりとする。自分の気持ちを見透 かされて、婉曲 に断 られてはいまいか。
「有田さん、何かやりたい事を探しているの?」
妙 に声が上 ずる。
「そういうわけでもないけど…。今日、安藤君の話聞いて、良いなぁって思っただけ。これから、考えるかな。」
もう、駅前まで来てしまった。今、太一が告白したところで、佐和子は驚くだけだろう。もしかすると、今そんな気は無いと、あっさりと、実 に爽 やかに言ってのけそうだ。
「有田さん。…安藤の見送り行くんだろ?俺、車出すから、空港まで一緒に行かないか?」
漸 く言えたのは、これだけだ。急速に気持ちがしぼんでいく。
「あ、そうだね。そうしよ。じゃ、近くなったら、SNSで相談しよ。」
佐和子は駅の照明に横から照らされて、陰影 のくっきりした笑顔を残して、太一に手を振ると改札に消えて行く。家まで送ると言ったら、どう反応しただろうか。きっとはっきりとした拒絶はしない。でも肯定 もせず、少し考えるふりをした後で、遠慮する旨 の返事を返してくるだろう。大学の時もそうだった。無防備に間近 まで近付いて来るくせに、こっちが踏み込もうとすると、ひらりとかわしてみせる。彼女は、そうやって自分達大学時代の仲間みんなと等距離の、彼女にとって心地 良いバランスを保っている。卒業した今も、それは何も変わっていない。
いかん、いかん。こんな状態じゃ、どんどん性格が
スポンジで皿を洗いながら、思わず
平日の朝が同じルーティンの繰り返しに変わってから一年と三ヵ月。大学時代から住んでいる賃貸マンションをそろそろ引き払って、もっと会社への交通の
壁の時計を振り返る。もう時間だ。太一は昨日の夜、椅子に投げ出したままの黒い
いつもなら、そんなもの気にしない。靴を
朝の時間にそんなに余裕はない。
都心に向かう電車はいつもの様に混んでいる。
大学への通学も同じ電車に乗っていた。けれど、一時限の講義がなかったり、有ってもサボったりで、通勤時間帯の電車を使う事は
「よお、おはよう。」
会社のエントランスでエレベーターを待っていると、太一と同じ資材部の先輩が声を掛けてくる。太一が入社してから、面倒を見てくれている
「あ、おはようございます。」
太一は軽く
「月例報告書の締め切り今日
太一は、生産に使うA材の調達を担当している。狭山が言っているのは、月に一回、部門で行なう業務の進度報告会で使う資料に、A材の調達についての状況を太一がまとめて書くように指示されているからだ。
「大丈夫です。午前中にはなんとか。」
エレベーターの
「おう、田所。お前、引っ越したんだって?」
狭山は、エレベーターの中で他の部署の顔見知りを見付けると、太一の回答には反応せずに、
確かに、報告書は書こうと思えば、
どうするか…。
自分の机でパソコンに向かって業務をしながら、太一の頭の中では、この件の対応がぐるぐると解決策も無く回っていた。
「お前、これで上が納得するとでも思っているのか?」
午後の業務時間が始まるとすぐに報告書を
「でも、このまま相手と交渉を続けても、
「そんなのにビビってたら負けだろ。相手だって、こっちとの取引が無くなれば、売上も利益も失うんだ。弱気を見せた方が負けだぞ。」
「前回の交渉は結局、年末までかかりました。相手も予算に影響するからと、泣く泣く交渉をやめたんじゃなかったですか。『次の時は、お願いしますよ』て言っていたのは、今度は俺達が
「それで、『はい、そうですか』って言う
そう言われても、太一には押し通す自信が無い。狭山と自分は別物だ。
「…それで、報告書はどうするんだ?」
どうすると言われても、自分で考えられるのはこれが限界だ。
「今すぐに答えが無くても、努力する方向性を示さなきゃ
「方向性ですか?」
「そうだよ。お前、このまま交渉続けても、
それは分かる。他の会社から買う案は、最初に考える
「はあ、それが検討できれば、良いんですが…。」
「取り
仕事を終えたのは、七時を過ぎた頃だった。ビルのエントランスまで来てみると、外は雨が降っている。すっかり忘れていたが、ビルの外の、しとしと降る雨に
傘を入れて来てラッキーだ。
太一は傘を差すと駅に向けて歩き出す。すぐに今日の夕食をどうするかに頭は切り替わる。会社を出たら、意識して仕事の事は考えない様にしている。
明日は、久し振りに大学時代の仲間との飲み会だ。今日は
帰り道で
翌朝もいつもと同じルーティンで出掛ける
なんだ?
靴箱の角を
じゃあ、なんだ?
左手を目の前に持ってきて、
いや、だから、手の問題じゃない。
今度は
あ、
昨日はこの場所に折り
それが、原因?…おかしい。そんなものが気になる
太一は
天気予報は、今日は晴れだと言っていた。所に
太一は、玄関ドアに体の向きを変えてノブを
何なんだ、一体これは。
一つ、小さく
会社を定時で上がり、太一は事前にメールで知らされていた店に急ぐ。明日は休みだ。今日は旧友たちと思いっきり飲み明かせる。夕方になっても気温が下がらない都会の狭い歩道を、少人数
「おう、久し振り。」
店で案内された部屋の
「浅沼、お前、中国行くって言ってたじゃないか。」
太一は、声を掛けた男の隣に行くと、腰を下ろしながら話し掛ける。
「ああ、行って来たさ。本場の中華料理ってのは、どんだけ
「なんだよ、仕事の話じゃなくて、食い物の話かよ。ちゃんと仕事して来たのか?」
太一は、半分笑いながら冷やかす。
「まあ、入って一年ちょっとの俺じゃあ、
「そうか。」
中国?
太一の頭の
「お前、B商事だよな。」
太一は、浅沼を見ずに手元のテーブルを見つめながら
「ああ。」
「B商事はうちの会社と取引あるだろ。」
「
「お前の所、A材を扱っているか?」
「A材?何に使う材料だ?ま、工業原材料は
浅沼は太一の方を見てにやりと笑う。
「そうか。そうだよな。」太一も笑顔になる。「な、資材扱っている部門の人、紹介してくれないか。」
「なんだ、仕事か?分かった、紹介してやるから、
「お前が海外に行っていなければな。」
太一は、浅沼の背中を一つ
浅沼と話し込んでいる内に、メンバーは
「
聞き慣れた女性の声に振り向くと、有田佐和子が太一の隣の席に座ってくる。周囲を見回せば、他の女性は向こうでひと
「やあ、仕事お疲れ様。」
さりげなく、
佐和子は夏らしい薄手の淡い色のブラウスに紺地のタイトスカートを
「その係長がすごいきっちりしてて。書類が机からすこしでもはみ出していようものなら大変なの。みんな、そんなところに気を
宴が盛り上がってくると、佐和子は
「でも、近藤さんってベテランの人は、全然気にしてないの。係長が
「空気読まないって言うか、マイペースな人っているよな。そういう人に限って、自分は何でも一人でやって誰にも迷惑かけてないって思ってたりするんだ。」
佐和子の
「何だ、お前。まだそんな事やってるのか。」
斜め向かいの席から大きな声が上がる。斎藤だ。大学時代からサークルのムードメーカーと言うか、どちらかと言えばお調子者だった
斎藤の声があまりに大きくて、佐和子も太一も話をやめて目を向ける。
「お前、それじゃ食っていけないだろ。」
斎藤はもうすっかり、酔いが回っている。
「いや、食うだけなら何とかなるさ。」
玄は、斎藤にからまれても
「もっとちゃんとした仕事に
斎藤が玄の肩をボンボンと
「なんだ、何説教している。」
浅沼も斎藤の大声に引き寄せられて、話に割り込む。
「安藤の
斎藤が即答する。
「何だ。お前、銀行に入ったんじゃなかったか?」
浅沼は玄の就職先を覚えていた。
「うん。辞めた。」
「え~。」
周囲の者は皆、信じられないという表情だ。
「それで?何やっているって?」
浅沼が身を乗り出す。
「サックスだって。」
答えたのは斎藤の向かいの席で話を聞いていた水沼だ。無口だが、気の良い
「サックス…」
「サキソフォンだよ。楽器。」
皆が黙っているのは『サックス』の意味が分からないからじゃないのに、斎藤は念押しする。そう言われてみれば、他の連中がYシャツにスラックス姿なのに、彼は派手なTシャツにGパンだ。
「演奏する場があるのか?」
つい、太一も話に加わる。
「道玄坂から
「安藤一人で演奏するのか?」
今度は浅沼が質問する。
「いや、三人くらいでいつもやってる。ドラムとベースはいないと
「なんで?何でだ。銀行員やりながらだって、趣味で
太一は思わず口にする。口にしてしまってから、答えは想像できそうに思えてくる。
「まあ、そうだけど。それじゃ、
宴席なのに、一つも面白い事を言わずに、とつとつと事実だけを並べて行く。
「言ってやってくれ。そんな少年の夢みたいなものにしがみ付いてたって、後で困るぞって。…おい、聞いているかぁ!」
斎藤が玄の隣で
「それで、俺、今度イギリスに行く事になった。向こうで演奏しながら、腕を
「おい、イギリスって、何か
浅沼が
「イギリス人のサックス奏者と知り合いになってさ。こっちに来ないかって誘われたんだ。」
「どうやって、そんな知り合い
「ジャズフェスを
何だか、
「すごい、ドラマみたいじゃない。」
佐和子の声に振り向くと、目を輝かせて身を乗り出している。彼女だけは、この話に
「もう、向こうに行く日程が決まっている。」
「え?」
思わず、浅沼が声を
「決まっているって、住む場所とかどうするんだ。」
太一は責めてしまわない
「さっき言った、イギリス人と一緒に暮らす。ルームシェア?って言うのかな。もう、既に二人音楽仲間が一緒に暮らしているそうだ。」
とても、一度会社に勤めた事のある人間の言葉とは思えない。玄は、体ごと五センチくらい座布団から浮いているんじゃないだろうか。
「え、
佐和子だけが
「アメリカ人とシンガポールの人らしい。シンガポールは中国系だね。」
「ふうん。」
佐和子の関心を引いているのが、なんだか気に
「仕事は?向こうで仕事見付けなきゃならないだろ。」
太一は、ムキになって言い
「ああ、だけど日本よりも働ける場所は多いから、何とかなる。」
「え、いつ行くの?」
佐和子だけがどんどん乗り出していく。
「九月。こっちの仕事とか、整理してから行くから、まだ先だよ。」
玄は
「そうなんだぁ。ね、ね、その時は、みんなで見送りに行かない?」
佐和子は隣の太一のシャツの二の腕
え?
反射的に太一の頭が反応する。口には出さなかったが、表情まで
「いや、良いよ。みんな仕事があるだろ。」
玄が済まなそうに主張する。恐らく、玄も来て欲しい
「何言ってる。まだ三ヶ月先の予定が埋まっている
斎藤が、脇から玄の背中を
「そうだよ。遠慮なんてしなくても。仲間なんだから。」
太一は思わず、佐和子の顔を見る。そう言った彼女は、玄を見て
仲間。確かにみんな同じサークルに居た同級生だ。一緒に遊んで、馬鹿やって、悩みも
「いいよ、ほんとに。なんか、
遠慮じゃない。きっと、玄は来て欲しくないのだ。
「ええ~。みんなで
どこぞの
女性に甘い声でねだられると男は弱い。玄は口ではやめてくれと言いながらも、顔が笑っている。佐和子がどんなつもりで言ったのか分からない。けれど、彼女が絶対に行くというのを否定する者は居ない。まして太一にとって、玄の事などどうでも良かったが、彼女が見送りに行くのを知っていながら、自分は行かないという
「それじゃ、飛行機が決まったら、SNSで全員配信してね。」
最後に念を押す様に笑顔で佐和子が言う。玄が
店の外に出ると、雨が降っていた。激しい雨ではないが、
「有田さん、
太一は
「ありがと。
本当は、浅沼達ともっと飲むつもりでいた。けれど、久し振りに佐和子と二人になるチャンスを
二人は、金曜日の
「小さい傘で
太一は、
今なら、今なら言えるかも知れない。
大学時代からずっと、自分の中では何度も
「…安藤君、
佐和子の言葉で太一は現実に引き戻される。
安藤?まだ、そんな事を言っているのか。
「安藤?大学時代なら良いけど、今になって趣味に生きるのは
何だか、こんな事を言う自分がひどく
「そうだけど、追いかけられる物があるって、
「一人で夢を追いかけるのも良いけど、
自分はどうだ。自分は胸が張れるのか。
「
太一はぎくりとする。自分の気持ちを
「有田さん、何かやりたい事を探しているの?」
「そういうわけでもないけど…。今日、安藤君の話聞いて、良いなぁって思っただけ。これから、考えるかな。」
もう、駅前まで来てしまった。今、太一が告白したところで、佐和子は驚くだけだろう。もしかすると、今そんな気は無いと、あっさりと、
「有田さん。…安藤の見送り行くんだろ?俺、車出すから、空港まで一緒に行かないか?」
「あ、そうだね。そうしよ。じゃ、近くなったら、SNSで相談しよ。」
佐和子は駅の照明に横から照らされて、