1.同期会の夜

文字数 11,061文字

 この頃は雨が多い。梅雨(つゆ)なんだから、しょうがないと言ってしまえばそれまでだが、地球温暖化の影響か、気候が亜熱帯に似通(にかよ)ってきて、雨の降る日が多くなったと感じる。
 樫垣(かしがき)太一は、テーブルの椅子(いす)に腰かけて、焼いたトーストを頬張(ほおば)り、朝のニュースの天気予報を見ながら考えた。お天気お姉さんの解説ははっきりしない。(おおむ)ね晴れの予報だが、大気の状態が不安定で、所に()ってはゲリラ雷雨になるかも知れないと言っている。それって、雨が降っても降らなくても天気予報は当たっていて、自分達のせいじゃないって言っている様なものだ。毎日、そういう予報をしておけば、きっと苦情は来ないのだろう。些細(ささい)な事にひねくれて()っ掛かっている自分に気付いて、太一はトーストの残りを口に押し込むと、テレビを消して皿を流しに運ぶ。
 いかん、いかん。こんな状態じゃ、どんどん性格が()じ曲がる。
 スポンジで皿を洗いながら、思わず溜息(ためいき)をつく。簡単に洗い物を終えて、鏡の前でネクタイを締める。
 平日の朝が同じルーティンの繰り返しに変わってから一年と三ヵ月。大学時代から住んでいる賃貸マンションをそろそろ引き払って、もっと会社への交通の便(べん)が良い場所に引っ越そうかと考え始めている。それなりに給料は(もら)えるし、家賃がもう少し高くても、通勤に()く時間を減らせる方が魅力的だ。
 壁の時計を振り返る。もう時間だ。太一は昨日の夜、椅子に投げ出したままの黒い(かばん)を拾い上げて玄関へ足早(あしばや)に向かう。特に何も考えずに、昨日と同じこげ茶の革靴(かわぐつ)()く。体がふらつかない様、玄関(わき)靴箱(くつばこ)(つか)まった時、靴箱の上に投げ出したままの折り(たた)(かさ)が手に当たる。
 いつもなら、そんなもの気にしない。靴を()き終えたなら、玄関ドア開けてとっととエレベーターに向かっている(はず)だ。でも、一度折り(たた)(かさ)の存在に気付いてしまったら、靴を()き終えても出掛ける気になれず、折り(たた)(かさ)(にら)んだまま()っ立っている。別に何か頭に浮かんだ(わけ)じゃない。嫌な予感とか、胸騒(むなさわ)ぎとか、そんなもの何も感じない。きっと、さっき天気予報に一人で()み付いていたせいだろう。ゲリラ雷雨に気持ちが引っかかっているんだ。
 朝の時間にそんなに余裕はない。此処(ここ)逡巡(しゅんじゅん)していて、一本電車を乗り過ごすと、始業時間に間に合うか分かったものじゃない。太一は迷っているのが馬鹿らしい事に気付いて、折り(たた)(かさ)をひっつかみ、(かばん)の中に()じ込みながら玄関ドアを開けた。
 都心に向かう電車はいつもの様に混んでいる。途中(とちゅう)で急行に乗り換えると少し早く着くが、殺人的な混雑に()えてまで早く行くメリットが感じられずに、いつも各停のまま乗って行く。片手に(かばん)を持ち、片手でつり(かわ)手摺(てすり)を握って、けっして痴漢に間違われないよう、両手が(ふさ)がった状態を心掛ける。スマホを(いじ)りながら乗っている人が多い。特に椅子(いす)に座った人は、何かの儀式(ぎしき)の様に、(ことごと)くスマホの画面に視線を落としている。太一は両手が(ふさ)がっているので、そうやって一人一人の世界に逃げ込んでいる人達の様子や、見慣れた車窓からの景色を(なが)めながら、時間をやり過ごす。
 大学への通学も同じ電車に乗っていた。けれど、一時限の講義がなかったり、有ってもサボったりで、通勤時間帯の電車を使う事は(ほどん)ど無かった。自分の気持ちの中にも、無理して講義に間に合わせなければいけないという切迫感(せっぱくかん)が無かった。今は違う。遅刻など出来(でき)ない。何が何でも、始業時間までに自分の席に座って仕事を始めていなければならない。だけど、強迫観念(きょうはくかんねん)にも似た緊張に支配された期間は、入社してから一か月と続かなかった。今も状況は変わっていない。強い義務感が太一を動かしているのは変わりない。ただ、()()めた緊張は失われて(ひさ)しい。入社したては必死だった。通勤だけじゃない。仕事が分からない、会社の人の顔も名前も覚えていない。入社時の教育を受けて、配属先で指導者から仕事を教えてもらって…。新しい環境に馴染(なじ)むのでいっぱいいっぱいだった。やがて、少しずつ慣れて行く。(まが)りなりにも自分に任された仕事を回せるようになって、周囲の同僚の顔や名前だけじゃなく、性格も理解して、得手不得手(えてふえて)を感じて、それなりに自分の居場所を作って行く。(しばら)くは、そうした少しずつ出来(でき)るように変わっていく自分に充実したものを感じていられる。やがてその時期が過ぎると、惰性(だせい)で同じ様な毎日を重ねている自分の存在に気付く。けっして単調ではない。毎日違う出来事(できごと)があり、達成感を味わう事だってある。だけど、自分の中で何かが(にぶ)くなっていくのを感じる。
「よお、おはよう。」
 会社のエントランスでエレベーターを待っていると、太一と同じ資材部の先輩が声を掛けてくる。太一が入社してから、面倒を見てくれている狭山(さやま)だ。
「あ、おはようございます。」
 太一は軽く会釈(えしゃく)して(こた)える。
「月例報告書の締め切り今日(まで)だぞ。大丈夫か?」
 太一は、生産に使うA材の調達を担当している。狭山が言っているのは、月に一回、部門で行なう業務の進度報告会で使う資料に、A材の調達についての状況を太一がまとめて書くように指示されているからだ。
「大丈夫です。午前中にはなんとか。」
 エレベーターの(とびら)が開いて、待っていた従業員達が一斉(いっせい)に動き出す。その流れに乗って、太一と狭山(さやま)も乗り込む。
「おう、田所。お前、引っ越したんだって?」
 狭山は、エレベーターの中で他の部署の顔見知りを見付けると、太一の回答には反応せずに、()ぐ話を始める。
 確かに、報告書は書こうと思えば、()ぐに書ける。問題は、書いた内容に狭山がOKを出すかだ。A材の調達には問題が発生していた。今迄(いままで)十年以上に(わた)って材料を供給していた会社、C工業から、老朽化(ろうきゅうか)した設備の更新(こうしん)を理由に値上げの申請が出ているのだ。十三パーセントにもなる価格上昇は、この材料を使う製品の利益を消滅させかねない影響力を持っている。
 狭山(さやま)の意識が他の人との会話に移り、しつこく言われなかった事は、むしろ太一とっては有難かった。報告書に値上げになる事態だけ書いても、到底(とうてい)、狭山が許すとは思えない。かといって、C工業からの値上げの申請はこれで二回目だ。前回は、相手が根負(こんま)けするまで何度も交渉して値上げを回避したため、今回は向こうも不退転(ふたいてん)の覚悟で来ているに違いない。
 どうするか…。
 自分の机でパソコンに向かって業務をしながら、太一の頭の中では、この件の対応がぐるぐると解決策も無く回っていた。

「お前、これで上が納得するとでも思っているのか?」
 午後の業務時間が始まるとすぐに報告書を狭山(さやま)に提出したが、反応は予想通りだ。
「でも、このまま相手と交渉を続けても、(らち)が明きそうにありません。相手は言外(げんがい)に来年度から供給を止める事を(にお)わせています。」
「そんなのにビビってたら負けだろ。相手だって、こっちとの取引が無くなれば、売上も利益も失うんだ。弱気を見せた方が負けだぞ。」
 狭山(さやま)の言い分は多分(たぶん)正しい。彼は太一よりも長い会社経験の中で、それを学んできた。だとしても、必ず正しい(わけ)ではない。前回の値上げ交渉の時は、太一が一年目だった事もあり、狭山が主担当で交渉に当たり、難航(なんこう)はしたが、このやり方で相手に(ほこ)(おさ)めさせた。だから狭山は、自信をもってそう言い切ってくる。
「前回の交渉は結局、年末までかかりました。相手も予算に影響するからと、泣く泣く交渉をやめたんじゃなかったですか。『次の時は、お願いしますよ』て言っていたのは、今度は俺達が(ゆず)る番だって意味でしょ。」
「それで、『はい、そうですか』って言う(やつ)があるか。そんなもん、気付かないふりで強気に行くんだよ。」
 そう言われても、太一には押し通す自信が無い。狭山と自分は別物だ。
「…それで、報告書はどうするんだ?」
 どうすると言われても、自分で考えられるのはこれが限界だ。代替案(だいたいあん)など無い。
「今すぐに答えが無くても、努力する方向性を示さなきゃ駄目(だめ)だろ。」
「方向性ですか?」
「そうだよ。お前、このまま交渉続けても、(らち)が明かないって言ったよな。だったら、他の事を考えるんだよ。例えば…、違う会社から買う策を考えられないか。」
 それは分かる。他の会社から買う案は、最初に考える打開策(だかいさく)だ。だからと言って、どこから買えるのか分からない。知らない会社に飛び込みで電話を掛けて、『A材売ってませんか?』って言ったところで相手にしてくれないだろう。
「はあ、それが検討できれば、良いんですが…。」
「取り()えず、そうしておけ。今月はそれで乗り切って、次迄(つぎまで)にどうするか考えろ。」
 詭弁(きべん)だ。見通しも無いのに、そんな事書いても下手(へた)に期待させるだけで、解決は近付かない。そう思いながらも、太一は了解の返事を短く返すと、自分のデスクに戻って報告書の修正に取り掛かった。
 仕事を終えたのは、七時を過ぎた頃だった。ビルのエントランスまで来てみると、外は雨が降っている。すっかり忘れていたが、ビルの外の、しとしと降る雨に()れる路面を見て、(かばん)に折り(たた)(かさ)を入れたのを思い出す。
 傘を入れて来てラッキーだ。
 太一は傘を差すと駅に向けて歩き出す。すぐに今日の夕食をどうするかに頭は切り替わる。会社を出たら、意識して仕事の事は考えない様にしている。
明日は、久し振りに大学時代の仲間との飲み会だ。今日は贅沢(ぜいたく)をしないでおこう。
 帰り道で惣菜屋(そうざいや)に寄って何か買って帰る事にする。久し振りに同期の仲間に会えると思うだけで、気分が上がってくるのを感じる。昼間、狭山(さやま)に何度も資料を作り(なお)させられた事で落ち込んでいた分を取り返した気になって、歩道の水たまりすら気にせずに足早(あしばや)に駅に向かった。
 翌朝もいつもと同じルーティンで出掛ける支度(したく)をする。テレビを見ながら、トーストを頬張(ほおば)り、後片付けをしてからネクタイを締める。黒い(かばん)を取り上げて、玄関で(くつ)()く。ふと、靴箱(くつばこ)天板(てんばん)に置いた左手が気になる。
 なんだ?
 靴箱の角を(つか)んだ自分の左手を見つめる。何の変哲(へんてつ)もない。なのに、何か気になる。(くつ)()き終えた太一はその場に()っ立って、左手を握ったり、開いたりしてみる。別に違和感(いわかん)は無い。左手がおかしい(わけ)じゃない。
 じゃあ、なんだ?
 左手を目の前に持ってきて、(しばら)(なが)める。
 いや、だから、手の問題じゃない。
今度は靴箱(くつばこ)の上を見る。薄暗い天板(てんばん)の上は少し(ほこり)っぽい。今自分が(つか)んでいたところだけ(ほこり)が無くなっている。
 あ、(かさ)
 昨日はこの場所に折り(たた)み傘が置かれていた。今日は無い。
 それが、原因?…おかしい。そんなものが気になる(わけ)が無い。
 太一は(から)の自分の(てのひら)を見つめる。昨日使った折り(たた)み傘は、乾かすためにベランダに開いて置いてある。思い出して太一は思わず、視線を居間の向こう、光が差し込むサッシに向ける。朝の(あわ)ただしい出掛(でが)間際(まぎわ)逡巡(しゅんじゅん)している場合じゃない。その(はず)なのに、時間の心配はどこかに飛んでしまい、太一の頭の中は傘の事しか考えられない。
 天気予報は、今日は晴れだと言っていた。所に()って夕立があるくらい暑い一日になると。夕立があるとしても一時だ。雨宿(あまやど)りしていれば通り過ぎて行く。それでも傘が必要か?今日は大学時代の同期の飲み会だし、傘なんか入れた重い(かばん)()げて行くのは何だか億劫(おっくう)だ。
 太一は、玄関ドアに体の向きを変えてノブを(つか)む。なのにドアを開けて出て行く決心がつかない。そのまま目を(つむ)る。
 何なんだ、一体これは。
 一つ、小さく溜息(ためいき)をついて振り返る。革靴(かわぐつ)をぞんざいに脱ぎ捨て、まっすぐベランダに向かった。

 会社を定時で上がり、太一は事前にメールで知らされていた店に急ぐ。明日は休みだ。今日は旧友たちと思いっきり飲み明かせる。夕方になっても気温が下がらない都会の狭い歩道を、少人数(ごと)(かたま)りになって向こうから歩いて来る人の間を上手(うま)()って行く。店は大学時代から太一達が良く使っていた場所だ。会社からでも迷う事無く辿(たど)り着ける。
大半(たいはん)が遊び目的の(ゆる)いテニスサークルだった。練習などろくにやらない。何かと理由を付けては飲み会をし、夏の合宿は毎年違う避暑地のペンションを、その時の幹事が見繕(みつくろ)って段取りしていた。そんな軟弱な仲間達だったが、偏差値の高い大学だったからか、勉学もそつなくこなし、同期で留年するような(やつ)はおらずに卒業した。
「おう、久し振り。」
 店で案内された部屋の(ふすま)を開けると、見知った顔が太一を見上げて声を掛ける。まだ五、六人がてんでに座布団の上に座って、手持無沙汰(てもちぶさた)にしている。あの頃とは違い、どいつも清潔そうな髪型にきちんとした身なりだ。久し振りと言っても、追い出しコンパ以来、やっと一年と少し()ったに過ぎない。
「浅沼、お前、中国行くって言ってたじゃないか。」
 太一は、声を掛けた男の隣に行くと、腰を下ろしながら話し掛ける。
「ああ、行って来たさ。本場の中華料理ってのは、どんだけ(うま)いんだろうと思っていたけど、日本人の口にはイマイチ合わない。やっぱり日本で食べるのが一番だ。」
「なんだよ、仕事の話じゃなくて、食い物の話かよ。ちゃんと仕事して来たのか?」
 太一は、半分笑いながら冷やかす。
「まあ、入って一年ちょっとの俺じゃあ、(かばん)持ちで付いて行く(よう)なもんだからな。現地法人との顔つなぎは出来(でき)たから、これから頑張るさ。」
「そうか。」
 中国?
 太一の頭の(すみ)にその言葉が引っかかる。
「お前、B商事だよな。」
 太一は、浅沼を見ずに手元のテーブルを見つめながら()く。
「ああ。」
「B商事はうちの会社と取引あるだろ。」
樫垣(かしがき)の所?…Nテックだっけ?よく知らんが、あるんじゃないか?」
「お前の所、A材を扱っているか?」
「A材?何に使う材料だ?ま、工業原材料は大抵(たいてい)やっているから、扱っているんじゃないか。まあ、やっていなくても、(もう)かるならやるけどな。」
 浅沼は太一の方を見てにやりと笑う。
「そうか。そうだよな。」太一も笑顔になる。「な、資材扱っている部門の人、紹介してくれないか。」
「なんだ、仕事か?分かった、紹介してやるから、上手(うま)く行ったら、(おご)れよ。」
「お前が海外に行っていなければな。」
 太一は、浅沼の背中を一つ(たた)く。
 浅沼と話し込んでいる内に、メンバーは大方(おおかた)集まって来ていた。
樫垣(かしがき)君、久し振り。」
 聞き慣れた女性の声に振り向くと、有田佐和子が太一の隣の席に座ってくる。周囲を見回せば、他の女性は向こうでひと(かたまり)に座っている。佐和子だけが、わざわざ、太一の隣を選んだのだ。太一は、自分の鼓動(こどう)高鳴(たかな)るのを自覚する。
「やあ、仕事お疲れ様。」
 さりげなく、挨拶(あいさつ)を返す。
 佐和子は夏らしい薄手の淡い色のブラウスに紺地のタイトスカートを穿()いている。その恰好(かっこう)では、今日の暑さは(つら)いだろう。OLになって短かった髪をやめ、肩まで伸ばして栗色に染め、ウェーブを掛けている。如何(いか)にもOL(ぜん)とした雰囲気に、太一は思わず目線を()らす。
 程無(ほどな)く、飲み会が始まった。始まってしまえば、すぐに一年の間など感じないくらい、気兼(きが)ねなく誰とでも話が(はず)む。気分は学生のそれにすっかり戻っている。
「その係長がすごいきっちりしてて。書類が机からすこしでもはみ出していようものなら大変なの。みんな、そんなところに気を(つか)って、ピリピリしている。」
 宴が盛り上がってくると、佐和子は饒舌(じょうぜつ)になった。今の部署での出来事を楽しそうに太一に語って聞かせる。太一も()いの手を入れながら、彼女が話したいように話させる。
「でも、近藤さんってベテランの人は、全然気にしてないの。係長が不機嫌(ふきげん)そうに乱雑な机を見ていても知らん顔。係長もきっと何度言っても聞かないから、もう言うのを(あきら)めているでしょうけど、そのために機嫌(きげん)が悪くなって、他の人がとばっちりを食うから、みんなブーブー言ってる。」
「空気読まないって言うか、マイペースな人っているよな。そういう人に限って、自分は何でも一人でやって誰にも迷惑かけてないって思ってたりするんだ。」
 佐和子の愚痴(ぐち)に調子を合わせて話をする。佐和子は屈託(くったく)なく、気持ちをストレートに表情に出す。誰とでも同じ様に接する佐和子だが、とりわけ太一には積極的に話し掛けて来ると感じているのは太一ばかりだろうか。
「何だ、お前。まだそんな事やってるのか。」
 斜め向かいの席から大きな声が上がる。斎藤だ。大学時代からサークルのムードメーカーと言うか、どちらかと言えばお調子者だった(やつ)だ。斎藤のその言葉の言いようは相手を見下している。言われているのは、安藤(げん)だ。昔から一人でいる事が多く、仲間に打ち解けようとしない少し変わった(やつ)だ。今日の飲み会に姿があるのさえ、どういう風の吹き回しかと驚く。大学を卒業してからこんな仲間の飲み会に来ても、話す相手もいないんじゃないかと他人事(ひとごと)ながら心配になる。
 斎藤の声があまりに大きくて、佐和子も太一も話をやめて目を向ける。
「お前、それじゃ食っていけないだろ。」
 斎藤はもうすっかり、酔いが回っている。
「いや、食うだけなら何とかなるさ。」
 玄は、斎藤にからまれても真面目(まじめ)に答える。
「もっとちゃんとした仕事に()けよ。」
 斎藤が玄の肩をボンボンと(たた)く。
「なんだ、何説教している。」
 浅沼も斎藤の大声に引き寄せられて、話に割り込む。
「安藤の(やつ)、会社辞めて、サックスやってんだと。」
 斎藤が即答する。
「何だ。お前、銀行に入ったんじゃなかったか?」
 浅沼は玄の就職先を覚えていた。
「うん。辞めた。」
「え~。」
 周囲の者は皆、信じられないという表情だ。
「それで?何やっているって?」
 浅沼が身を乗り出す。
「サックスだって。」
 答えたのは斎藤の向かいの席で話を聞いていた水沼だ。無口だが、気の良い(やつ)だ。
「サックス…」
「サキソフォンだよ。楽器。」
 皆が黙っているのは『サックス』の意味が分からないからじゃないのに、斎藤は念押しする。そう言われてみれば、他の連中がYシャツにスラックス姿なのに、彼は派手なTシャツにGパンだ。
「演奏する場があるのか?」
 つい、太一も話に加わる。
「道玄坂から露地(ろじ)に折れたところにある店で夜に吹かせてもらっている。」
 銀行勤(ぎんこうづと)めを辞めて、夜のジャズバーで演奏する。一同は黙って玄の今の境遇を想像する。きっと、安アパートで昼遅くまで寝ていて、午後は何をするでもなくぶらついて、夕方から店に向かう生活を続けているのだろう。玄の演奏を聞いた事は無い。だが、大学時代から趣味でやっているのは知っていた。誰かに付いて習ったり、他の仲間とバンドを組んでいるような話も聞いた記憶は無い。腕は趣味の領域からそんなにはみ出していないだろう。
「安藤一人で演奏するのか?」
 今度は浅沼が質問する。
「いや、三人くらいでいつもやってる。ドラムとベースはいないと(さま)にならないから。」(ようや)く、玄の表情に()みが浮かぶ。「二回に一回くらいはピアノも入る。」
「なんで?何でだ。銀行員やりながらだって、趣味で出来(でき)るだろ。」
 太一は思わず口にする。口にしてしまってから、答えは想像できそうに思えてくる。
「まあ、そうだけど。それじゃ、()()らなくなって。…恰好(かっこう)良く言えば、みんな中途半端だって思ったからさ。」
 宴席なのに、一つも面白い事を言わずに、とつとつと事実だけを並べて行く。
「言ってやってくれ。そんな少年の夢みたいなものにしがみ付いてたって、後で困るぞって。…おい、聞いているかぁ!」
 斎藤が玄の隣で(わめ)く。
「それで、俺、今度イギリスに行く事になった。向こうで演奏しながら、腕を(みが)くんだ。」
「おい、イギリスって、何か()てでもあるのか。」
 浅沼が()ぐに問い(ただ)す。
「イギリス人のサックス奏者と知り合いになってさ。こっちに来ないかって誘われたんだ。」
「どうやって、そんな知り合い出来(でき)たんだ。」
「ジャズフェスを()に来日して、フェスの後、東京に一泊した時に、たまたま俺が出ている店に飲みに来て知り合ったんだ。その人が、良ければ一緒にこっちでやらないかって誘ってくれた。」
 何だか、(あま)りに虫のいい話だ。そのイギリス人が何に()かれて安藤玄に声を掛けたのか知らないが、自分の趣味が高じてバーで演奏している男に才能があるなんてうまい話が、そうそうある(わけ)が無い。上手(うま)い話にはきっと落とし穴がある。恐らく、この話を聴いていた者はみんな(いや)な予感がしたに違いない。
「すごい、ドラマみたいじゃない。」
 佐和子の声に振り向くと、目を輝かせて身を乗り出している。彼女だけは、この話に胡散臭(うさんくさ)さを感じなかったのか。玄は少し微笑(ほほえ)んで見せて、ハイボールをあおる。佐和子が肯定的(こうていてき)な発言をしてしまったため、他の者は(いさ)める言葉を飲み込んでしまう。
「もう、向こうに行く日程が決まっている。」
「え?」
 思わず、浅沼が声を()らす。
「決まっているって、住む場所とかどうするんだ。」
 太一は責めてしまわない(よう)に言葉を選んで質問する。
「さっき言った、イギリス人と一緒に暮らす。ルームシェア?って言うのかな。もう、既に二人音楽仲間が一緒に暮らしているそうだ。」
 とても、一度会社に勤めた事のある人間の言葉とは思えない。玄は、体ごと五センチくらい座布団から浮いているんじゃないだろうか。
「え、(すご)い。みんな、イギリスの人?」
 佐和子だけが無邪気(むじゃき)だ。
「アメリカ人とシンガポールの人らしい。シンガポールは中国系だね。」
「ふうん。」
 佐和子の関心を引いているのが、なんだか気に(さわ)る。
「仕事は?向こうで仕事見付けなきゃならないだろ。」
 太一は、ムキになって言い(つの)っている自分を自覚する。
「ああ、だけど日本よりも働ける場所は多いから、何とかなる。」
「え、いつ行くの?」
 佐和子だけがどんどん乗り出していく。
「九月。こっちの仕事とか、整理してから行くから、まだ先だよ。」
 玄は片頬(かたほお)(ゆが)ませて()みを作る。何だか、彼の目には我々が(みじ)めな社畜(しゃちく)(うつ)ってはしまいか。
「そうなんだぁ。ね、ね、その時は、みんなで見送りに行かない?」
 佐和子は隣の太一のシャツの二の腕(あた)りを引っ張って、みんなの表情を(うかが)う。
 え?面倒(めんどう)な。
 反射的に太一の頭が反応する。口には出さなかったが、表情まで上手(うま)誤魔化(ごまか)せたかは自信が無い。
「いや、良いよ。みんな仕事があるだろ。」
 玄が済まなそうに主張する。恐らく、玄も来て欲しい(わけ)じゃないのだろう。
「何言ってる。まだ三ヶ月先の予定が埋まっている(やつ)などいるか!」
 斎藤が、脇から玄の背中を(たた)く。さっきよりも勢いが付いている。あれは痛いだろう。酔っぱらった斎藤の盲動(もうどう)にこっちまで巻き込まれるのか。
「そうだよ。遠慮なんてしなくても。仲間なんだから。」
 太一は思わず、佐和子の顔を見る。そう言った彼女は、玄を見て微笑(ほほえ)んでいる。
 仲間。確かにみんな同じサークルに居た同級生だ。一緒に遊んで、馬鹿やって、悩みも愚痴(ぐち)(こぼ)し合った浅沼や斎藤は仲間だと感じるが、ろくにサークルの集まりに顔を出さず、たまに居ても一人で混ざろうとしていなかった安藤玄を知り合いだと思っても、仲間だと感じたことは無かった。佐和子は玄を太一達と等距離に感じているのだろうか。それともその気にさせるための方便(ほうべん)か。
「いいよ、ほんとに。なんか、大袈裟(おおげさ)になっちゃうから。」
 遠慮じゃない。きっと、玄は来て欲しくないのだ。
「ええ~。みんなで横断幕(おうだんまく)もって、バンザーイってやりたいのに。」
 どこぞの出征(しゅっせい)だ。玄じゃなくても、喜ぶ(やつ)などいるものか。
 女性に甘い声でねだられると男は弱い。玄は口ではやめてくれと言いながらも、顔が笑っている。佐和子がどんなつもりで言ったのか分からない。けれど、彼女が絶対に行くというのを否定する者は居ない。まして太一にとって、玄の事などどうでも良かったが、彼女が見送りに行くのを知っていながら、自分は行かないという選択肢(せんたくし)はあり得ない。皆で会話を重ねて行くうちに、それぞれの意思の確認もなしに、既決(きけつ)の予定になっていく。
「それじゃ、飛行機が決まったら、SNSで全員配信してね。」
 最後に念を押す様に笑顔で佐和子が言う。玄が渋々(しぶしぶ)了解すると、程無(ほどな)くして一次会はお開きになった。
 店の外に出ると、雨が降っていた。激しい雨ではないが、本降(ほんぶ)りでとてもすぐにやむようには思えない。
「有田さん、(かさ)もっている?良かったら、駅まで入って行く?」
 太一は(かばん)から折り(たた)(かさ)を取り出しながら、佐和子に声を掛ける。ごく自然な(はず)だ。誰も変に思わないだろう。
「ありがと。樫垣(かしがき)君は二次会行かないの?」
 本当は、浅沼達ともっと飲むつもりでいた。けれど、久し振りに佐和子と二人になるチャンスを(のが)してまで飲みに行く選択は無い。浅沼達とは、時々()さを晴らしに集まろうと、さっき意気投合(いきとうごう)したから、尚更(なおさら)だ。
 二人は、金曜日の(よい)の口、まだこれから(にぎ)わおうとする通りを一本の傘に入って歩く。
「小さい傘で御免(ごめん)()れちゃうよね。」
 太一は、気遣(きづか)いされない程度に傘を佐和子の方に差し出す。周囲は知らない人が通り過ぎて行くだけだ。今この小さな傘の(うち)の世界には、佐和子と太一の二人しかいない。
 今なら、今なら言えるかも知れない。
 大学時代からずっと、自分の中では何度も()げてきた。それまでの関係を(こわ)すのが怖くて、結局言葉として発する事なく卒業してしまった。今なら、毎日顔を合わせる事も無い、たとえ()られたとしてもけじめがつけられる(はず)だ。
「…安藤君、(すご)いなぁ。あんな決断しちゃうなんて。」
 佐和子の言葉で太一は現実に引き戻される。
 安藤?まだ、そんな事を言っているのか。
「安藤?大学時代なら良いけど、今になって趣味に生きるのは(あや)うくないか。」
 何だか、こんな事を言う自分がひどく(いや)な人間に思えてくる。
「そうだけど、追いかけられる物があるって、(あこが)れるじゃない?…私、そういうの無いから。」
「一人で夢を追いかけるのも良いけど、人並(ひとな)みの幸せを目指すのでも悪くないだろ。」
 自分はどうだ。自分は胸が張れるのか。
樫垣(かしがき)君はそういうタイプ?」佐和子は(かたわ)らから、太一を見上げる。「就職して、結婚して、アットホームな家庭を作って…。なんか、ちょっとつまらなくない?」
 太一はぎくりとする。自分の気持ちを見透(みす)かされて、婉曲(えんきょく)(ことわ)られてはいまいか。
「有田さん、何かやりたい事を探しているの?」
 (みょう)に声が(うわ)ずる。
「そういうわけでもないけど…。今日、安藤君の話聞いて、良いなぁって思っただけ。これから、考えるかな。」
 もう、駅前まで来てしまった。今、太一が告白したところで、佐和子は驚くだけだろう。もしかすると、今そんな気は無いと、あっさりと、(じつ)(さわ)やかに言ってのけそうだ。
「有田さん。…安藤の見送り行くんだろ?俺、車出すから、空港まで一緒に行かないか?」
 (ようや)く言えたのは、これだけだ。急速に気持ちがしぼんでいく。
「あ、そうだね。そうしよ。じゃ、近くなったら、SNSで相談しよ。」
 佐和子は駅の照明に横から照らされて、陰影(いんえい)のくっきりした笑顔を残して、太一に手を振ると改札に消えて行く。家まで送ると言ったら、どう反応しただろうか。きっとはっきりとした拒絶はしない。でも肯定(こうてい)もせず、少し考えるふりをした後で、遠慮する(むね)の返事を返してくるだろう。大学の時もそうだった。無防備に間近(まぢか)まで近付いて来るくせに、こっちが踏み込もうとすると、ひらりとかわしてみせる。彼女は、そうやって自分達大学時代の仲間みんなと等距離の、彼女にとって心地(ここち)良いバランスを保っている。卒業した今も、それは何も変わっていない。
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