2.兆し
文字数 14,741文字
土日は、鬱々 と過ごした。部屋の中にいると、何度も飲み会の席の佐和子の表情が思い出された。かと言って、憂 さ晴らしに出掛ける気にもなれず、何をするわけでもなくぼんやりとしている内に、時が刻 まれていく。
この週末だけ。この週末を過ぎれば、また忙しい毎日がいつもの自分に戻してくれる筈 。
月曜日の朝は、意識していつものルーティンをこなして会社に向かう。
〈工業材料グループの昭島 さんにお前の話をした。一度会って、話がしたいそうだ。〉
月曜日の午後、会社のパソコンに浅沼からのメールが届く。
これは、可能性があるかも知れない。
「あの、A材の件ですけど、中国品を輸入するって策はどうでしょう?」
早速 、太一は机でパソコンを使っている狭山 に声を掛ける。
「中国?別にそれは良いが、そんな見込みあるのか。」
狭山はモニターから目を離さずに、パソコンのマウスを弄 りながら応 える。頭から太一を見くびっている。
「B商事って、うちと取引ありますよね?」
「あ、材料の方じゃなくて、完成品の輸出だがな。…だからって、話に乗ってくれる訳 じゃないぞ。」
「あの、B商事に知り合いが居まして、相談したら、話を聴いてくれるそうなんです。」
「なに?お前、相手方 と話したのか?」
「いえ、まだです。どうやって進めるのが良いのか分からないので、その前に相談に来ました。」
「そうか。」狭山 は初めてパソコンの操作をやめると、目を落として一瞬考え込む。「いきなり購入を決める事は出来 ない。あくまで今の購入先との取引が優先だ。相手が値上げに拘 った場合は、ならば、別のところに切り替えると切り出すためのカードだ。そもそも、B商事の方が安いかも分かっていない内は、選択肢になるかも決まっていない。樫垣 はまず、相手先のアポを取れ。俺とお前の二人で話に行く。良いか。」
「はい。」
漸 く。漸く自分のやる事が認めてもらえそうだ。
太一は小さく頷 くと、自分の机に戻って浅沼のメールに返信を書く。アドレナリンが分泌されて、全身に力が漲 って来るのを感じる。上手 くすれば、これが突破口になると思うと、気持ちが逸 る。
退社までの五時間があっという間に過ぎた。相手の昭島 さんと直接メールのやり取りをして、打ち合わせの日程は決めた。明日は部長に報告して、交渉を行なう事の承認を貰 う。太一は、帰りに飲み屋で狭山 に奢 ってもらい、気分良くアパートの玄関ドアを開けた。
靴 を脱ぐ時に、靴箱の上に置かれた折り畳 み傘 に気付く。土曜日に乾かして、畳んでここに置いたのだ。そう言えば、今朝は全 く気にしなかった。そもそも天気予報がどうだったのかも覚えていない。
太一は、フンと鼻で笑うと、それ以上気にもせず、リビングに向かった。
それから、B商事との話はどんどん進んだ。部長の承認が取れて、相手と会って話し合いをし、中国製A材の輸入が出来 る事を確認、購入数量を伝えて、見積もりを出してもらうところまで合意した。そうやって、毎日会社へ出勤を繰り返す中で、折り畳 み傘 の件も太一なりに判 って来ていた。
帰りに雨が降るのを予知できる。
簡単に言えば、そんな感じだった。別に特別な能力が太一に備 わっている訳 じゃない。それまでの二十数年の人生の中で、未来予知が出来 たり、不思議な能力が発揮出来た経験は無い。不思議な体験をした事も無ければ、自分が特別な人間だと感じた事も無い。だけど、いつの間にか、雨が降るのを予知出来る様になっていた。「予知」と言うのは、言い過ぎかも知れない。「気になる」と言う方が正確だ。朝から雨が降っていれば、そんな能力は必要ない。普通に傘 を持って家を出る。朝、雨が降っていない時にその能力が発揮される。晴れているか、曇っているかは関係ない。もっと言えば、テレビの天気予報も関係ない。出掛ける際、玄関で靴箱 の上に置いてある折り畳 み傘 が気になるか、ならないか。それに尽 きる。気になれば、折り畳み傘を持って行く。必ず、帰りには雨が降った。気にならない時は、折り畳み傘の存在すら忘れたまま、家を出てしまう事もしょっちゅうだ。
太一は、急に自分に備 わった、そんな変な能力について、彼なりに理屈を考えてもみた。雨が降る時は、概 ね気圧が下り坂だ。古傷の痛みで雨が降る前に判 る人がいる。もしくは、雨の前になると頭痛がしたり、体調を崩す人の話も聞く。いずれも気圧の変化に起因すると言われている。別に雨が降るのを予感できるのは不思議でも何でもない。恐らく自分の中のどこかが気圧の変化を察知して、雨が降るのを感じ取っているのに違いない。それが『傘が気になる』という形で表れているだけの事だ。そう自分の中で納得してしまえば、雨が降るのを予知するのは、気楽に楽しめる能力だった。朝、折り畳み傘が気になって、鞄 に入れて来た日は、いつ雨が降り出すかと少しワクワクしながら、窓の外を気にしてみる。そして、雨が降り出せば、ああ、今日も当たったと一人満足する。その内、そうやって一人で満足しているのでは飽 き足 らず、雨が降ると予知した日には、同僚に『今日は雨が降りますよ』と、訊 かれてもいないのに、機会を見つけては話して回ったりする。今ではスマートフォンの天気予報アプリが一般的だから、別に言われなくても大抵 の人は知っていて、誰も驚いてくれず、不思議に思ってもくれない。それでも太一は懲 りずに、誰かが何故 分かるのかと質問してくれるのを期待して言い続けていた。
その朝、太一は急いでいた。いつもよりも早く起きると、慌 てて支度 をする。いつものトーストの朝食はスキップして、歯を磨 き、ざっと顔を洗うと、シャツの袖 に腕を通す。玄関で靴 を履 く。今日は折り畳み傘が気にならない。
大丈夫、雨は降らないな。…それどころじゃない。会社に遅刻する。
玄関を飛び出すと、小走りにエレベーターの前に行って、ボタンを押す。
駅に着いた時刻は、いつもよりも四十分早い。足早 に改札を通り抜けてホームに上がると、丁度 各駅停車が滑 り込んでくる。手近 なドアの停車位置の列に並んで乗り込む。
太一の頭の中には途中駅で乗り換える事しかない。D台駅で降りて、駅の改札を出て、近くの大通りの交差点にある階段を降りて、地下鉄に乗り換える…。早朝にベッドの中でウトウトしていた時からずっと、頭の中にはそのイメージが繰り返し流れている。各駅停車の中でつり革に掴 まり、窓の外を流れて行く景色をぼんやりと眺 めながら、自動再生動画の様に、頭の中で乗り換えのシミュレーションが続く。
D台駅に着いた。機械的に太一は足を踏み出し、人の流れに乗って駅のホームに降りると、乗り換えに適した改札に向かって足早 に歩く。いつもはこんな事をしない。乗り換えなどせずに、各駅停車に乗って行けば、一本で会社の最寄 り駅に着く。
なのに、何をやっているんだ?
頭の中では半分不思議に思っている。却 って時間をかけて通勤しようとしている。だが、今実行している地下鉄に乗り換えての通勤を、今日はどうしてもやらなければならない。いつもの時間まで寝ているなんて我慢 できず、飛び起きてバタバタとこんな馬鹿げた乗り換え通勤をやっている。
そう言えば、大学時代は呑気 なものだった。大学に行こうと電車に乗って目的の駅迄 来たが、何だか大学に行くのが億劫 になり、降りずにそのまま電車に乗って海を見に行ったこともあったっけ。
地下鉄のホームで電車を待ちながら、そんな事を考える。あんな、責任も感じていなかった自由な時代とは違う。責任ある社会人がこんな事をしている。どこか罪悪感が過 りながらも、いつもと違う朝は少し楽しくもある。
地下鉄に乗る。今度は、いつもと違う、会社に一番近い駅で降りる事ばかりが頭の中を廻 っている。窓の外は暗いだけだ。時折 、照明が後ろに飛び去って行く。見る物が無く、中吊 り広告を隅 から隅 まで眺 める。
目当 ての駅に着いて降りる。通勤時間にこの駅で降りて会社に向かうのは初めてだ。朝の人の多さと、全ての人が黙々とそれぞれの目的地に向かって流れて行くのに圧倒されながら、太一もその波に乗って会社を目指す。
会社には、いつもよりも十分早く着く。
「おや、早いな。お前、G都市線で通勤しているんじゃなかったか?」
席に座って、仕事を始めようとしている太一を見付けて、出勤して来た狭山 が声を掛ける。
「あ、おはようございます。はい、その電車で通っています。」
「さっき、菅田 から電話があって、人身事故で電車が途中駅で止まってしまったから、遅れるって連絡があったぞ。さては、菅田のガセか?」
「今日は早くに家を出て地下鉄で来たので、自分はたまたま引っかからなかっただけだと思います。」
「ふん、そうか。…それじゃ、資料用意しておけよ。九時から部長に説明するから。」
A材の購買について、B商事から得た見積もりを元に、部長に進度報告をする件だ。
「はい。」
気を引締めると、太一は自分のパソコンに向かった。
「そうか、十八パーセントも価格が安くなるのか。」
手にした資料に目を落として、川口部長が呟 く。
「はい、購入数量を増やせれば、もっと価格差が広がる見込みがあります。」
部長のデスク前に立つ狭山 が得意気 に付け加える。太一は、その脇 で黙って立っている。
「それで、どう進めるつもりだ。」
川口部長は、資料に目を落としたまま、不愛想 に言う。
「まず、現行メーカーと価格交渉をします。」
「価格交渉をしたところで、この値段にはならないだろう。向こうは、値上げを言ってきているんだろ?」
部長が顔を上げて、狭山と太一の顔を交互に見る。
「はい。彼等は値上げに拘 るでしょう。なので、我々としては別の購入先の検討も始めると伝えます。直ぐには購入比率をシフトしませんが、B商事からの購入が軌道 に乗ったら、徐々 に購入数量をシフトします。」
「ふん。」部長は、短く返事をすると、また、資料に視線を戻す。「中国から安定して供給できるのか?」
「B商事は、既に他社に供給実績があるそうです。中国メーカーから直送せず、B商事の倉庫に一定量ストックする方式を採 るため、価格のインパクトは落ちますが、供給のリスクは低く抑えられます。」
狭山 は、B商事との打ち合わせで得た情報を元に、流れるように説明する。
自分にもこんな風に説明できる日が来るのだろうか。
狭山を横から眺 めながら、その余裕に感心する。
「ん。良いじゃないか。進めてくれ。」
部長は手にしていた資料を狭山に差し出しながら、また、二人の顔を交互に見遣 る。
「ありがとうございます。」
狭山が軽く会釈 するのに合わせて、太一も頭を下げる。
自分の席に戻ると、同じ資材部の先輩の高田がそっと寄って来る。
「どうだった?部長に何て言われた?」
「あ、進めろって言われました。」
太一は、高田が近づいてきたのに気付かなかったから、急にすぐ傍 から小声で声を掛けられ、まごつきながらも、結論だけ伝える。
「それだけか?今回の件、お前が解決策を見つけたんだろ。」
耳元で、中年男に小声で喋 られるのは何だか気持ち悪い。
「アイデアは俺ですが、相手との交渉は大体狭山さんがやったんで。」
自分で言っていて何だか虚 しい。取り繕 っているとしか、自分でも思えない。
「それでもよ、『よくやった』の一言くらいあっても良いだろ?まだ、担当始めて、一年しか経 ってないんだから、大金星じゃないか。」
「たまたまですよ、たまたま。知り合いが商社に居たんで。」
今度は作り笑いをしている自分を意識する。
「それでも、立派なもんだよ。」太一の肩を肘 でこずく。「頑張れぇ。狭山 さんに手柄 横取りされるなぁ。」
高田は、それだけ言うと、すうっとその場を離れて行く。太一の頭の中に高田の最後の科白 が残滓 の様 に沈んで行く。
横取り?狭山をライバルだと考えた事は無い。入社した時から、自分の面倒を見てくれた、大事な先輩だ。今回の件だって、確かにきっかけは自分のアイデアだけど、B商事との交渉を主体になって進めたのは狭山だ。狭山は、別に自分でやっていない事を自分でやったと主張している訳 じゃない。だけど…。何だろう。高田に言われて、自分の中で形を成していなかった、濃い霧 の塊 の様 な物が、だんだん固まって形になって行くのを感じる。やがてそれが、自分で制御できない程 に大きくなってしまいそうで怖い。
「樫垣 。」
太一を呼ぶ狭山の声に全身が反応する。
「は、はい!」
太一は反射的に椅子から腰を浮かす。不自然に大きな返事じゃなかったろうか。
「今後のスケジュールを決めるぞ。資料持って付いて来い。」
狭山はそう言いながら、自身のノートパソコンと、紙の資料を小脇 に抱えて、立ち上がる。
「はい!」
太一は慌 てて机の上に散らばっている資料を搔 き集め、ノートパソコンをひっつかんで、打ち合わせブースに向かう狭山を追いかけた。
その日は、今の取引先であるC工業に出向 く日だった。C工業の担当者と太一たちの間で、A材の価格をめぐる交渉はもう十回を超えた。両社の関係者は、常に一方の会社に集まって話し合いを行うのでなく、一回毎交互に相手先に出向き、交渉を重ねていた。今回は太一たちがC工業に出向く番だ。東京駅で狭山 と落ち合い、新幹線で相手先に向かう。これまで互いに主張を譲 らず、かと言って決裂するリスクを冒 す事も出来 ず、閉塞感 の中でフラストレーションが溜まるばかりだった。今回は違う。太一たちはB商事の結果を入手して、強気の交渉ができる状態にある。それまでの様 に、出口が見えない為に気が重くなる出張ではないが、逆に狭山が強気 に攻めて、交渉が過激な方向に突き進んで後戻り出来 ない事態にならないか、太一は不安を感じていた。
太一は、朝から変なイメージに囚 われていた。踏切に立ち往生 するトラック、そこに電車が突 っ込んできて、原型を留めないくらいにトラックを破壊しながら引き摺 って行く。先頭車両は脱線し漸 く止まる。最初にそのイメージが頭に浮かんだのは、朝食のトーストを齧 りながらニュースを見ている時だった。ぼんやりとテレビの画面を眺 める太一の脳裏 に不意 にイメージが湧 いた。不思議にも思わず、驚きもしなかった。ただ、『ああ、事故が起きる』とだけ思った。その時はそれ以上気に留 める事も無く、狭山 との待ち合わせ時間を気にしながら支度 をした。家を出る頃には、すっかりイメージの事は忘れていた。
東京駅の新幹線の改札の前で狭山は待っていた。二度目のイメージは、狭山と会って挨拶 を交 わした直後に脳裏に浮かんだ。狭山と何気 ない会話をしながらも、気持ちは半分、自分の頭の中のイメージに囚 われている。それは朝見たイメージの繰り返しだった。踏切で立ち往生 するトラック、迫 る電車。今度は電車の塗装の色まではっきりと認識できた。
あれは、これから行く名古屋の私鉄の車両の色だ。
相手先に出張する度に乗る電車の色は自然と覚えた。狭山の話に相槌 を打ちながら、新幹線に乗り込む。並んで座席に座った後は、それ以上会話を交 わさず、狭山は持って来たノートパソコンを台の上に乗せて仕事を始める。太一もそれに倣 ってノートパソコンを広げるが、頭では別の事を考えている。
どうして、こんなイメージが浮かぶのだろう。一度だけでなく二度も。今迄 、こんなイメージに囚 われた事は無かった。初めての出来事なのに、自分の中では至極 当たり前の様 に、このイメージがこれから起きるのだと感じている。何故 ?何の根拠も無い。第一、イメージとして浮かぶと言う事は、きっと、過去にどこかで目にした事のある風景だからじゃないのか?今迄一度も見た事の無い光景を、こうもリアルにイメージする事が可能なのだろうか?いやむしろだからこそ、これは普通に回想されたイメージじゃないと言えないだろうか…。だとしたら、これは自分達がこれから遭遇 する事故を予見しているのか?自分達がトラックに乗っている訳 は無い。乗っているとしたら電車だ。この後、名古屋で乗り換えた電車が事故を起こすのだろうか…。馬鹿げた妄想 だ。こんな事が本当になるなんて誰が信じるものか。狭山に事故が起きるかも知れないと言ったら、どういう反応をするだろう。それこそ、一笑 に付 されてお終 いだ。質 の悪い冗談だと思われるかも知れない。きっと大丈夫。もし、自分達が乗っている電車が事故に巻き込まれても、先頭車両に乗っていなければ、怪我 しないで済むだろう。
太一は、考えるのをやめて、ノートパソコンの画面に映し出されている資料に集中する。直 ぐにまた、脳裏をイメージが過 る。同じイメージ。太一は、パソコンのキーを打つ手を止める。
これは、警告だ。無視するなと言うのだ。なら、どうする。出張を取りやめにする訳 にはいかない。事故が発生する時間は判っていない。乗る電車を遅らせたからと言って、事故を避けられるとは限らない。
「あの、狭山 さん。」
暫 く考えてから、太一は恐る恐る、声を掛ける。
「ん?」
狭山はノートパソコンから視線を外 さずに応 える。
「今日は、名古屋駅からタクシーにしませんか?」
「なんだ、どうした。」
狭山はパソコンの手を止めると、珈琲のペットボトルを取り上げて一口飲む。
「梅雨が明けて暑くなったから、電車を降りた後、C工業までの道のりがきついですよ。」
太一はもっともらしい言い訳 を口にする。
「なんだ、暑いのは苦手か?」狭山は窓の外の景色に視線を移す。「確かに暑そうだな。後で、課長にタクシー使ったのがバレると厄介 じゃないか?」
「駄目 ですかね。」
あんまり強くは言えない。何か確信がある訳 じゃない。
「う~ん、ま、良いか。予定時間に遅れそうになったって言えば済むよな。」
太一を見て、ニヤリと笑ってみせる。太一は何だか助かった気持ちになり、自然と笑顔がこぼれる。
名古屋で新幹線を降りると、桜通口 まで駅構内 を横断して歩き、いつもなら乗り換える私鉄には向かわずに、タクシーに乗り込む。
「樫垣 のおかげで、涼しく移動できるな。」
狭山 は運転手に行先を告げた後、からかい半分に口にする。彼の真意 を測りかねて、太一は苦笑いを浮かべるしかない。
C工業の事務所には予定より十五分も早く着いた。型通 りの挨拶 を済ますと、話し合いはすぐに始まる。相手は先の打ち合わせ後に検討した結果を幾 つか話すが、結局のところ、値上げ以外に手立 てが無いと納得させようとしている。前回までなら、太一達は色々と対案を出して検討を促 し、結論を先延ばしにする手段を使ってきたが、今回は違う。
「検討頂きましたが、値上げ以外に対応案が無いという事ですね。」
狭山 は静かにそこまで言って、一旦 間 を置く。居並 ぶC工業のメンバーは皆、反応せずに黙っている。漸 く自分達の言い分を認める気になったかとでも思っているのだろうか。
「しかし、それでは、我々もこの事業を続けて行けません。事業の在 り方を再構築する事態となります。事業存続のため、あらゆる可能性を検討する必要があります。その中には、御社 以外からの購入の検討も含まれますが、ご了解頂けますか?」
狭山 ははっきりとした口調 でそこまで話すと、言葉を切る。
「それは、転注 もあり得るという事ですか?」
相手の出席者の中から、主任技師の肩書 を持つ者がおずおずと問い質 す。
「そういう事です。」
狭山の言葉は明確だ。場 の空気が硬くなるのを感じる。C工業のメンバーは互いに視線を飛ばし合っている。きっと、こういう場合も想定していただろう。
「止 むを得ません。我々としてはこれ以上のご協力は無理ですので。」
主任技師の言葉には、覚悟とくやしさと諦 めが込められている。太一にはそう感じ取れた。互いに言葉にしてしまえば、話し合いはそれ以上長くはかからなかった。気の早い者は、いつまで自分たちの会社に注文が来るのかと訊 いたが、転注 も視野に検討を始めると宣言しただけの、今の段階でそんな具体的な話が出来 る筈 も無い。
「それでは、これで。」
太一の心配を他所 に、会議は冷静さを保ったまま終了となる。
「あの、電車でお帰りになりますか?」
狭山と太一が帰り支度 をしていると、事務所の女性が、会議室に顔をのぞかせて声を掛ける。
「ええ、そのつもりですが。」
狭山は鞄 を締 めながら答える。
「今、不通になっているみたいですので、駅に行っても無理だと思います。タクシーをお呼びしますので、暫 くお待ちいただけますか。」
「そうですか。すいません。」
太一は、朝のイメージの事を思い出した。此処 に無事に着いた事で安心し、話し合いが始まってしまうと、会議の行方 に神経を集中させていたから、朝の自分のイメージの事はすっかり忘れていた。
「あの、何かあったのですか?」
太一は、会話に横から割り込む。
「どうやら、踏切事故があった様 です。こちらに来られる時には大丈夫でしたか?」
「いえ、タクシーで名古屋駅から直接来たので、影響ありませんでした。」
「いつ頃、事故があったのでしょう。」
太一は自分でも差 し出 がましいと思いながらも、口を挟 まずには居られない。どうしても確かめたい。
「詳しくは分かりませんが、事故が起きてからそんなに経 っていないと思います。負傷者を含む乗客の避難が完了して、これから事故処理を始めると、テレビのニュースで実況中継していますから。」
そうか、ニュース。ニュースに出ている筈 だ。
太一は、自分のスマートフォンを取り出すと、ニュースを検索し始める。
「すいません。じゃあ、タクシーをお願いできますか。」
太一の様子を奇異 に感じながらも、狭山 がその場を取りなす。
「少々、こちらでお待ち下さい。」
事務員は気にする風 も無く、そう言うと姿を消す。
太一は、ニュースサイトで事故の記事を見付けて目を走らす。午前十時頃。自分達が名古屋から電車に乗っていれば、遭遇 してもおかしくない時間帯だ。
ああ、やっぱり。
特に驚きも感動もない。予感めいたものが、確信に近くなっただけだ。
「おい、何をそんなにしゃかりきになって見ているんだ。」
狭山は、会議が予想した範囲内で決着したことに安堵 して機嫌 が良さそうだ。このタイミングで誤魔化 そうにも、太一には良い理由が思いつかない。仕方 なく、本当の事を話す。馬鹿にされようが、気持ち悪がられようがしょうがないと覚悟を決める。
「朝、タクシーで行きましょうって、提案しましたよね。あれ、なんか予感めいたものがあったんです。虫の知らせってやつですかね。」
「予感って、お前、さっき言ってた事故の事か?」
狭山 は目を大きくして太一を睨 んでいる。眉間 に僅 かに皴 が寄っている。
「はい、多分。実は、今日は電車に乗らない方が良い気がして、提案したんです。」
「何言ってんだ。変な事言うなよ。」狭山は手を上げて左右に振りながら、顔をそむける。「それより、昼飯だ。名古屋駅で食っていくか?」
当たり前の反応だ。むしろ過剰 に反応されなかった事に太一は安堵 する。
「何か、名古屋名物が良いですね。」
太一もそれ以上、拘 らずに話に乗った。
太一が自分に何か予知できる能力があるかも知れないと思い始めたのは、それからだった。思い返してみると、部長説明の日にいつもよりも早く家を出たのも、そうしないと通勤電車が止まって遅刻すると、当たり前の様 に考えていたからだった。あの時は、イメージが頭に浮かぶことは無かった。ただ、夜の内から、明日は電車が事故で遅れる事を当たり前の様に理解していた。
雨が降る予知は、気圧の変化や湿度を感じ取る感覚が備 わっていると想定することで説明できた。しかし、電車の事故は気象 の様な前兆現象 がない。時間的にも空間的にも離れた場所にいる太一が何かの変化で察知 することなど出来 ない筈 だ。それでも、最初は軽く考えていた。『虫の知らせ』。古くから、そう言う言葉で語られてきたものがある。何か胸騒 ぎの様な予感めいたものならば、沢山 の人が経験しているから、そういう言葉が現代まで残っているのだろう。
決して特別な事じゃない。
それ以降も、太一は同じ様な経験を繰り返した。休日にレンタカーで出掛 けた時に、目的地の駐車場の何処 が満車で何処 なら空 いているか、まだ随分 離れている内から感じたり、電車が遅れるのを事前に察知して交通手段を切り替えられた。大抵 の場合、短い時間だがその場のイメージが頭を過 る。駐車場の空き状態なら、その駐車場を俯瞰 して見る様なイメージ、電車の事故ならば、事故が起きる瞬間を遠くから眺 めている様なイメージが頭に浮かぶ。しかも、初めて天気以外を予知した部長説明の日は、イメージは浮かばずに認識だけだったのが、回を重ねるうちに鮮明 なイメージが過 るようになり、それが徐々 に長く、かつ、細部まで理解できるようになっていった。
自分に特殊な能力があると確信した太一は、新しい事に挑戦してみた。まず思いついたのは宝くじだ。当たる売り場や番号が判 れば、大金持ちになれる。会社員生活で疲労困憊 する事も無い。数字が判らなくても、当たるか、当たらないか予知できれば、当たると感じた時だけ買えば良い。けれど、イメージも予感も全くない。何か感じた気になって買ってみても、末等以外当たらない。次に競馬をやってみる。全然感じる物が無い。一日やっただけで諦 める。株もやってみる。結局、何を買って、いつ売って良いのかすら見当 もつかない。欲が絡 むからいけないのだろう。ならばと、トランプを裏返しに並べ、何のカードか想像してみる。何度やっても、何もイメージが浮かばない。当たる筈 も無い。いろんな味の飴 が入った菓子を買って、目をつぶって袋に手を入れて、何を取り出すか当ててみる。連続して当たると、能力が有る様に思えてくるが、長くは続かない。集計してみれば、当たったり外れたりを繰り返して、結局想定される確率の範囲内だ。結局自分に予知できる能力があると思ったのは、思い過ごしだと悟 って能力を試すのをやめた。
そんなことをやっている最中 でも、通勤に関するイメージの精度は上がっていく。毎日電車で通勤していると、トラブルが日常的に起きていることに気付く。飛び込み自殺、人と電車の接触事故、線路内に立ち入る人、電車のドアの開閉トラブル、電気系統、ブレーキの故障…。自分の乗る電車に少しでも遅れる影響が出そうな出来事 は、前を走る電車に起きるトラブルでも、頭にイメージが浮かぶようになった。天気と鉄道状況に関しては完璧 に予想できる自信がついてくる。太一は、それを便利になったくらいの感覚で捉 え、自分が困らない様に活用していた。
思わぬ転機は予知なくやって来た。
水沢かなえが帰り支度 を始めている。気付けば、定時はとっくに過ぎて、窓の外はすっかり暗くなっている。水沢は、資材の発注処理が仕事だ。太一よりも一つ年上なだけだが、短大出で会社での経験が長い分、苦 も無く仕事をこなしている。高々 一年の齢 の差なのに、如何 にもお姉さん然 と太一に接してくる。
「たいっちゃん、まだ頑張る?いい加減にしておきなよ。」
机の脇を通り抜けながら太一に声を掛ける。不意 に太一の脳裏 にイメージが浮かぶ。
「あの、ちょっと。」
太一は、水沢を呼び止める。
「?」
水沢は行きかけた足を急に止めて、ふらつきながら太一の顔を見る。
太一の脳裏 には、交差点で歩道に突っ込む車のイメージが過 っていた。信号待ちで歩道にかたまる人の群れに向けて、右折車とぶつかった車が方向を制御できずに突っ込んで来る。イメージはそこまで。ほんの一瞬頭に浮かんだにすぎない。それでも太一には、『ああ、事故が起きる』と理解できる。交差点には見覚 えがあった。会社から最寄 り駅までの大通りにある交差点に違いない。きっと、このまま水沢が会社から駅に向かえば、事故に遭遇 するという知らせだ。
太一の顔を見て立ち止まっている水沢に、どう伝えようか一瞬迷う。そのまま伝えたところで信じてもらえるとは思えない。かと言って、他の言い方で分かって貰 える術 を知らない。
「水沢さん、あの、変な事言いますが、ちゃんと最後まで話を聴いて下さい。良いですか?」
太一は真剣だ。
「何?ちょっと、何を言う気?」
水沢は気持ち悪がって身を引く。
「水沢さん、大通りを駅まで歩いて帰るつもりですよね。今日だけ、一本南の裏道を通って帰って下さい。」
「え?何で?それ、なんかあるの?」
水沢は持っていた鞄 を胸の前で抱えて、眉間 に皴 を寄せる。当然の反応だ。しょうがない。
「あの…、表通りの交差点で事故があるんです。」
自分でも何を言っているんだろうと思う。こんな事言って、誰が俄 かに信じるだろう。
「事故?事故があったの?」
「いえ、事故は…これから起きる筈 なんです?」
「はぁ?どういうこと?これから起きるって?…太一が起こすの?」
「そうじゃなくて、…何て言うか、俺の推測なんですけど。」
「ちょっと、変な事言わないでよ、縁起 でもない。先に帰るなんて言うから嫌がらせ?」
水沢は、眉間 の皴 を深くして言い募 る。
「いえ、そんなんじゃないです。冗談で言っているつもりは無くて、本気。本当に起こると思って言っているんです。」
太一は、何とか少しでも水沢に理解してもらおうと必死で話す。ここまで言ってしまってから、無かった事には出来 ない。まして、もしかしたら、事故に巻き込まれて水沢が怪我 をするかも知れない。自分の予感が外 れて、事故も何も無かったで済むならそれで良い。太一が下らない予感で人を惑わし揶揄 ったと、後で悪者にされたとしても、それなら後悔は無い。もし此処 で水沢を引き留める事を諦 めて、実際に事故に遭遇 したら、それこそ後悔しても後悔しきれない。
「ええ~、何だか変だよ。」
水沢は太一と距離を取ったまま、必死に話す太一の様子を見て固まっている。
「お願いです。騙 されたと思って、今日だけ、裏道を通って帰って下さい。」
太一はペコリと頭を下げる。
「何だ、何騒いでいる?」
太一の声が大きかったのか、水沢の反応が大袈裟 だったのか、二人の様子を見付けた狭山 が近づいて来る。
「何だか、たいっちゃんが変な事言い出した。」
水沢は太一から目を離さずに訴 える。少しでも目を離したら、襲 い掛かって来るとでも思っているのか。
「なんだ、樫垣 、水沢口説 いてるのか。」
狭山は太一の横に来て、肩をポンポンと叩 く。
そんなんじゃない。そんな冗談しか言えないのか。
出来 れば狭山にこんな所、知られたくなかった。どうせ、何かにつけてネタにされるに決まっている。
「違いますよ。水沢さんがこれから帰るんですけど、危ないからって忠告していた所です。」
こんな説明も狭山にしたくなかった。でも、適当な事を言えば、水沢は猶更 怪しみ、全 ての努力が無駄 になる。
「危ない?じゃあ、お前が一緒に帰ってやれば良いだろ。」
「いや、そういう『危ない』じゃなくて、交通事故に遭 いそうで…」
「え?」
太一の言っている意味が理解できずに、狭山は訊 き返す。
「表通りを帰ると、交通事故に遭 うって言っているの。」
太一が説明する前に、水沢が趣旨 を要領 よくまとめて話してくれる。だか、それは助けるというよりも、非難 している風 に聞える。
「なんだそれ?やっぱり、お前が言いたいのは、事故に遭 っちゃ大変だから、俺と一緒に帰ろうって事だろ?」
「そうじゃないです。これから、表通りの大きな交差点で交通事故があるんです。巻き込まれる可能性があるから、裏通りから帰って欲しいって言ったんです。」
「事故があるって、何でお前が判 るんだ。」
「そう、私もそれ言った。おかしいでしょ?おかしいでしょ。」
我 が意 を得 たりとばかり、水沢が狭山と太一を交互に見て言い募 る。
もう、仕方 ない。信じてもらえるとは思えないが、説明するしかない。
流れで自身の経験を話さずにいられなくなった事に、一縷 の不安がないわけじゃない。だが、ぐずぐずしていられない。黙って逡巡 していれば、話が変な方向に行きそうだ。
「俺、最近、予知出来 るんですよ。不意 にイメージが浮かんで、これから起きる事分かるんです。」
太一は、出来 るだけ静かに、真面目 な顔で話す。こんな話、冗談にしか聞こえない。真実味 を持たすために出来るのは誠実に話す、そのくらいだ。案に相違 して、二人は何の反応も見せずに黙っている。
「何?何言ってんの?」
水沢が狭山に助けを求める様 に視線を送る。
「お前、そう言えば、名古屋に出張した時もそんな事言っていなかったか?」
良かった。そうだ、狭山には名古屋出張の折 にそんな話をした。
「そうです。確かあの時も、電車で事故がありましたよね。憶えていますか?」
太一は、狭山に勇 んで話しかける。
「ああ。水沢、そう言えば、こいつ、前にも電車の事故を予知したんだよ。確か、新幹線に乗っている時に、『今日はタクシーで行こう』なんて言い出して、なんかおかしいなぁって思っていたら、俺達が乗ろうとしていた私鉄で事故があって、不通になっちゃってるのを、後で知ったんだ。」狭山は水沢から太一に視線を移す。「あん時、お前、どうやって知ったって言った?」
「電車が事故を起こす場面が頭の中にイメージとして浮かんだんです。今回と同じです。今回は、車が交差点で事故する場面が頭に浮かびました。」
「えぇ~、気持ち悪い。」
水沢は遠慮 なしに思った事を口にする。
「まあまあ。あん時はこいつの勘 で助けられたんだ。今回も当たるかどうかわからないが、道変えるくらいなら、やってやったらどうだ?」狭山はまた、水沢から太一に視線を移す。「お前も、親切で言っているんだろ?」
「はい、勿論 です。…外 れたら、何か奢 るって言う事でも構いませんから、今日は騙 されたと思って、別の道を通って帰って下さい。」
狭山は太一のこの能力を『勘』と言った。そう言うのが正しいかも知れない。自分で自在には予知出来ない、不意 に頭の中に降って来る啓示 の様な物。それを世間では『勘』と呼ぶのかも知れない。そう思うと、この能力は特別なものでなく、沢山 の人に備 わった普通の能力の様に思えて来て、太一は安心する。
「でも、裏通りは暗くなると、なんか嫌 な感じなんだよね…」
水沢の表情は冴 えない。
「何言ってるんだよ、まだそんな遅い時間じゃないだろ。人通りだって沢山 あるから大丈夫だよ。」
狭山は呆 れる。
「う~ん。」
「…じゃ、良い、分かった。誰か一緒に帰らせるから、裏通りで帰れよ。」
狭山は周囲を見回す。定時からだいぶ経 っているから、残っている者はまばらだ。
「おい、多田ぁ。」
「はい!」
狭山は、部屋の隅 でコピーを取っている若い男に声を掛ける。太一の一年先輩だ。
「お前、もう仕事終わりにして、水沢と一緒に駅まで帰ってくれるか?」
狭山は仕事と同じ様に強引だ。
「え、ああ、良いっすよ。」
多田は、コピーを終えながら、壁の時計をちらりと見て答える。
「さっき、こいつは、当たらなかったら、奢 るって言ってたぞ。今日は騙 されて、明日は何か高い物奢 ってもらえ。」
「え~、そうだなぁ。あたし、鰻 が良いかな。川井屋の鰻って食べた事ないから。」
水沢の顔に如何 にも悪戯 そうな笑 みが浮かぶ。
「まずいな、さっきのは、ものの弾 みで…」
太一は不安になって、言い訳 が口をつく。
「何言っているんだ。わざわざ、水沢に手間 かけさせるんだ。もし、当たっていなかったら、責任とらなきゃ。…多田、お前もとばっちりで帰らなきゃならなくなったんだから、もし外 れてたら、一緒に奢 ってもらえ。」
狭山も水沢の冗談に乗る。
「え?何すか?何だか知らないっすけど、奢 ってもらえるなら、いくらでも。」多田が帰り支度 をして傍 に来る。「狭山さんの奢 りですか?」
「馬鹿、俺がお前達に奢 らなきゃならない謂 れは無い。樫垣 の勘が外 れたら、お前と水沢に鰻 を奢 るそうだ。」
「へえ、お前凄 いな。」
多田の言葉には感情がこもっていない。
「ま、詳しいいきさつは、帰りながら、水沢に聞いてくれ。」
太一と狭山は、多田と水沢の後ろ姿をオフィスの中から見送る。
「事故が起きる勘なんか、当たらない方良いけどな。」
狭山は、ぼそりと言い残して、自分の机に戻って行く。
自分はどうなんだろう?
太一は考えた。当たらない方が良いのか、当たって欲しいのか。狭山の言う通り、事故は起こらない方が良い。そんな事は分かり切っているのに、さっきのやり取りの時に、予感通りに事故が起こる事を望んでいなかった自信はない。いや、今でも自分は一体どっちを望んでいるのだろう。
この週末だけ。この週末を過ぎれば、また忙しい毎日がいつもの自分に戻してくれる
月曜日の朝は、意識していつものルーティンをこなして会社に向かう。
〈工業材料グループの
月曜日の午後、会社のパソコンに浅沼からのメールが届く。
これは、可能性があるかも知れない。
「あの、A材の件ですけど、中国品を輸入するって策はどうでしょう?」
「中国?別にそれは良いが、そんな見込みあるのか。」
狭山はモニターから目を離さずに、パソコンのマウスを
「B商事って、うちと取引ありますよね?」
「あ、材料の方じゃなくて、完成品の輸出だがな。…だからって、話に乗ってくれる
「あの、B商事に知り合いが居まして、相談したら、話を聴いてくれるそうなんです。」
「なに?お前、
「いえ、まだです。どうやって進めるのが良いのか分からないので、その前に相談に来ました。」
「そうか。」
「はい。」
太一は小さく
退社までの五時間があっという間に過ぎた。相手の
太一は、フンと鼻で笑うと、それ以上気にもせず、リビングに向かった。
それから、B商事との話はどんどん進んだ。部長の承認が取れて、相手と会って話し合いをし、中国製A材の輸入が
帰りに雨が降るのを予知できる。
簡単に言えば、そんな感じだった。別に特別な能力が太一に
太一は、急に自分に
その朝、太一は急いでいた。いつもよりも早く起きると、
大丈夫、雨は降らないな。…それどころじゃない。会社に遅刻する。
玄関を飛び出すと、小走りにエレベーターの前に行って、ボタンを押す。
駅に着いた時刻は、いつもよりも四十分早い。
太一の頭の中には途中駅で乗り換える事しかない。D台駅で降りて、駅の改札を出て、近くの大通りの交差点にある階段を降りて、地下鉄に乗り換える…。早朝にベッドの中でウトウトしていた時からずっと、頭の中にはそのイメージが繰り返し流れている。各駅停車の中でつり革に
D台駅に着いた。機械的に太一は足を踏み出し、人の流れに乗って駅のホームに降りると、乗り換えに適した改札に向かって
なのに、何をやっているんだ?
頭の中では半分不思議に思っている。
そう言えば、大学時代は
地下鉄のホームで電車を待ちながら、そんな事を考える。あんな、責任も感じていなかった自由な時代とは違う。責任ある社会人がこんな事をしている。どこか罪悪感が
地下鉄に乗る。今度は、いつもと違う、会社に一番近い駅で降りる事ばかりが頭の中を
会社には、いつもよりも十分早く着く。
「おや、早いな。お前、G都市線で通勤しているんじゃなかったか?」
席に座って、仕事を始めようとしている太一を見付けて、出勤して来た
「あ、おはようございます。はい、その電車で通っています。」
「さっき、
「今日は早くに家を出て地下鉄で来たので、自分はたまたま引っかからなかっただけだと思います。」
「ふん、そうか。…それじゃ、資料用意しておけよ。九時から部長に説明するから。」
A材の購買について、B商事から得た見積もりを元に、部長に進度報告をする件だ。
「はい。」
気を引締めると、太一は自分のパソコンに向かった。
「そうか、十八パーセントも価格が安くなるのか。」
手にした資料に目を落として、川口部長が
「はい、購入数量を増やせれば、もっと価格差が広がる見込みがあります。」
部長のデスク前に立つ
「それで、どう進めるつもりだ。」
川口部長は、資料に目を落としたまま、
「まず、現行メーカーと価格交渉をします。」
「価格交渉をしたところで、この値段にはならないだろう。向こうは、値上げを言ってきているんだろ?」
部長が顔を上げて、狭山と太一の顔を交互に見る。
「はい。彼等は値上げに
「ふん。」部長は、短く返事をすると、また、資料に視線を戻す。「中国から安定して供給できるのか?」
「B商事は、既に他社に供給実績があるそうです。中国メーカーから直送せず、B商事の倉庫に一定量ストックする方式を
自分にもこんな風に説明できる日が来るのだろうか。
狭山を横から
「ん。良いじゃないか。進めてくれ。」
部長は手にしていた資料を狭山に差し出しながら、また、二人の顔を交互に
「ありがとうございます。」
狭山が軽く
自分の席に戻ると、同じ資材部の先輩の高田がそっと寄って来る。
「どうだった?部長に何て言われた?」
「あ、進めろって言われました。」
太一は、高田が近づいてきたのに気付かなかったから、急にすぐ
「それだけか?今回の件、お前が解決策を見つけたんだろ。」
耳元で、中年男に小声で
「アイデアは俺ですが、相手との交渉は大体狭山さんがやったんで。」
自分で言っていて何だか
「それでもよ、『よくやった』の一言くらいあっても良いだろ?まだ、担当始めて、一年しか
「たまたまですよ、たまたま。知り合いが商社に居たんで。」
今度は作り笑いをしている自分を意識する。
「それでも、立派なもんだよ。」太一の肩を
高田は、それだけ言うと、すうっとその場を離れて行く。太一の頭の中に高田の最後の
横取り?狭山をライバルだと考えた事は無い。入社した時から、自分の面倒を見てくれた、大事な先輩だ。今回の件だって、確かにきっかけは自分のアイデアだけど、B商事との交渉を主体になって進めたのは狭山だ。狭山は、別に自分でやっていない事を自分でやったと主張している
「
太一を呼ぶ狭山の声に全身が反応する。
「は、はい!」
太一は反射的に椅子から腰を浮かす。不自然に大きな返事じゃなかったろうか。
「今後のスケジュールを決めるぞ。資料持って付いて来い。」
狭山はそう言いながら、自身のノートパソコンと、紙の資料を
「はい!」
太一は
その日は、今の取引先であるC工業に
太一は、朝から変なイメージに
東京駅の新幹線の改札の前で狭山は待っていた。二度目のイメージは、狭山と会って
あれは、これから行く名古屋の私鉄の車両の色だ。
相手先に出張する度に乗る電車の色は自然と覚えた。狭山の話に
どうして、こんなイメージが浮かぶのだろう。一度だけでなく二度も。
太一は、考えるのをやめて、ノートパソコンの画面に映し出されている資料に集中する。
これは、警告だ。無視するなと言うのだ。なら、どうする。出張を取りやめにする
「あの、
「ん?」
狭山はノートパソコンから視線を
「今日は、名古屋駅からタクシーにしませんか?」
「なんだ、どうした。」
狭山はパソコンの手を止めると、珈琲のペットボトルを取り上げて一口飲む。
「梅雨が明けて暑くなったから、電車を降りた後、C工業までの道のりがきついですよ。」
太一はもっともらしい言い
「なんだ、暑いのは苦手か?」狭山は窓の外の景色に視線を移す。「確かに暑そうだな。後で、課長にタクシー使ったのがバレると
「
あんまり強くは言えない。何か確信がある
「う~ん、ま、良いか。予定時間に遅れそうになったって言えば済むよな。」
太一を見て、ニヤリと笑ってみせる。太一は何だか助かった気持ちになり、自然と笑顔がこぼれる。
名古屋で新幹線を降りると、
「
C工業の事務所には予定より十五分も早く着いた。
「検討頂きましたが、値上げ以外に対応案が無いという事ですね。」
「しかし、それでは、我々もこの事業を続けて行けません。事業の
「それは、
相手の出席者の中から、主任技師の
「そういう事です。」
狭山の言葉は明確だ。
「
主任技師の言葉には、覚悟とくやしさと
「それでは、これで。」
太一の心配を
「あの、電車でお帰りになりますか?」
狭山と太一が帰り
「ええ、そのつもりですが。」
狭山は
「今、不通になっているみたいですので、駅に行っても無理だと思います。タクシーをお呼びしますので、
「そうですか。すいません。」
太一は、朝のイメージの事を思い出した。
「あの、何かあったのですか?」
太一は、会話に横から割り込む。
「どうやら、踏切事故があった
「いえ、タクシーで名古屋駅から直接来たので、影響ありませんでした。」
「いつ頃、事故があったのでしょう。」
太一は自分でも
「詳しくは分かりませんが、事故が起きてからそんなに
そうか、ニュース。ニュースに出ている
太一は、自分のスマートフォンを取り出すと、ニュースを検索し始める。
「すいません。じゃあ、タクシーをお願いできますか。」
太一の様子を
「少々、こちらでお待ち下さい。」
事務員は気にする
太一は、ニュースサイトで事故の記事を見付けて目を走らす。午前十時頃。自分達が名古屋から電車に乗っていれば、
ああ、やっぱり。
特に驚きも感動もない。予感めいたものが、確信に近くなっただけだ。
「おい、何をそんなにしゃかりきになって見ているんだ。」
狭山は、会議が予想した範囲内で決着したことに
「朝、タクシーで行きましょうって、提案しましたよね。あれ、なんか予感めいたものがあったんです。虫の知らせってやつですかね。」
「予感って、お前、さっき言ってた事故の事か?」
「はい、多分。実は、今日は電車に乗らない方が良い気がして、提案したんです。」
「何言ってんだ。変な事言うなよ。」狭山は手を上げて左右に振りながら、顔をそむける。「それより、昼飯だ。名古屋駅で食っていくか?」
当たり前の反応だ。むしろ
「何か、名古屋名物が良いですね。」
太一もそれ以上、
太一が自分に何か予知できる能力があるかも知れないと思い始めたのは、それからだった。思い返してみると、部長説明の日にいつもよりも早く家を出たのも、そうしないと通勤電車が止まって遅刻すると、当たり前の
雨が降る予知は、気圧の変化や湿度を感じ取る感覚が
決して特別な事じゃない。
それ以降も、太一は同じ様な経験を繰り返した。休日にレンタカーで
自分に特殊な能力があると確信した太一は、新しい事に挑戦してみた。まず思いついたのは宝くじだ。当たる売り場や番号が
そんなことをやっている
思わぬ転機は予知なくやって来た。
水沢かなえが帰り
「たいっちゃん、まだ頑張る?いい加減にしておきなよ。」
机の脇を通り抜けながら太一に声を掛ける。
「あの、ちょっと。」
太一は、水沢を呼び止める。
「?」
水沢は行きかけた足を急に止めて、ふらつきながら太一の顔を見る。
太一の
太一の顔を見て立ち止まっている水沢に、どう伝えようか一瞬迷う。そのまま伝えたところで信じてもらえるとは思えない。かと言って、他の言い方で分かって
「水沢さん、あの、変な事言いますが、ちゃんと最後まで話を聴いて下さい。良いですか?」
太一は真剣だ。
「何?ちょっと、何を言う気?」
水沢は気持ち悪がって身を引く。
「水沢さん、大通りを駅まで歩いて帰るつもりですよね。今日だけ、一本南の裏道を通って帰って下さい。」
「え?何で?それ、なんかあるの?」
水沢は持っていた
「あの…、表通りの交差点で事故があるんです。」
自分でも何を言っているんだろうと思う。こんな事言って、誰が
「事故?事故があったの?」
「いえ、事故は…これから起きる
「はぁ?どういうこと?これから起きるって?…太一が起こすの?」
「そうじゃなくて、…何て言うか、俺の推測なんですけど。」
「ちょっと、変な事言わないでよ、
水沢は、
「いえ、そんなんじゃないです。冗談で言っているつもりは無くて、本気。本当に起こると思って言っているんです。」
太一は、何とか少しでも水沢に理解してもらおうと必死で話す。ここまで言ってしまってから、無かった事には
「ええ~、何だか変だよ。」
水沢は太一と距離を取ったまま、必死に話す太一の様子を見て固まっている。
「お願いです。
太一はペコリと頭を下げる。
「何だ、何騒いでいる?」
太一の声が大きかったのか、水沢の反応が
「何だか、たいっちゃんが変な事言い出した。」
水沢は太一から目を離さずに
「なんだ、
狭山は太一の横に来て、肩をポンポンと
そんなんじゃない。そんな冗談しか言えないのか。
「違いますよ。水沢さんがこれから帰るんですけど、危ないからって忠告していた所です。」
こんな説明も狭山にしたくなかった。でも、適当な事を言えば、水沢は
「危ない?じゃあ、お前が一緒に帰ってやれば良いだろ。」
「いや、そういう『危ない』じゃなくて、交通事故に
「え?」
太一の言っている意味が理解できずに、狭山は
「表通りを帰ると、交通事故に
太一が説明する前に、水沢が
「なんだそれ?やっぱり、お前が言いたいのは、事故に
「そうじゃないです。これから、表通りの大きな交差点で交通事故があるんです。巻き込まれる可能性があるから、裏通りから帰って欲しいって言ったんです。」
「事故があるって、何でお前が
「そう、私もそれ言った。おかしいでしょ?おかしいでしょ。」
もう、
流れで自身の経験を話さずにいられなくなった事に、
「俺、最近、予知
太一は、
「何?何言ってんの?」
水沢が狭山に助けを求める
「お前、そう言えば、名古屋に出張した時もそんな事言っていなかったか?」
良かった。そうだ、狭山には名古屋出張の
「そうです。確かあの時も、電車で事故がありましたよね。憶えていますか?」
太一は、狭山に
「ああ。水沢、そう言えば、こいつ、前にも電車の事故を予知したんだよ。確か、新幹線に乗っている時に、『今日はタクシーで行こう』なんて言い出して、なんかおかしいなぁって思っていたら、俺達が乗ろうとしていた私鉄で事故があって、不通になっちゃってるのを、後で知ったんだ。」狭山は水沢から太一に視線を移す。「あん時、お前、どうやって知ったって言った?」
「電車が事故を起こす場面が頭の中にイメージとして浮かんだんです。今回と同じです。今回は、車が交差点で事故する場面が頭に浮かびました。」
「えぇ~、気持ち悪い。」
水沢は
「まあまあ。あん時はこいつの
「はい、
狭山は太一のこの能力を『勘』と言った。そう言うのが正しいかも知れない。自分で自在には予知出来ない、
「でも、裏通りは暗くなると、なんか
水沢の表情は
「何言ってるんだよ、まだそんな遅い時間じゃないだろ。人通りだって
狭山は
「う~ん。」
「…じゃ、良い、分かった。誰か一緒に帰らせるから、裏通りで帰れよ。」
狭山は周囲を見回す。定時からだいぶ
「おい、多田ぁ。」
「はい!」
狭山は、部屋の
「お前、もう仕事終わりにして、水沢と一緒に駅まで帰ってくれるか?」
狭山は仕事と同じ様に強引だ。
「え、ああ、良いっすよ。」
多田は、コピーを終えながら、壁の時計をちらりと見て答える。
「さっき、こいつは、当たらなかったら、
「え~、そうだなぁ。あたし、
水沢の顔に
「まずいな、さっきのは、ものの
太一は不安になって、言い
「何言っているんだ。わざわざ、水沢に
狭山も水沢の冗談に乗る。
「え?何すか?何だか知らないっすけど、
「馬鹿、俺がお前達に
「へえ、お前
多田の言葉には感情がこもっていない。
「ま、詳しいいきさつは、帰りながら、水沢に聞いてくれ。」
太一と狭山は、多田と水沢の後ろ姿をオフィスの中から見送る。
「事故が起きる勘なんか、当たらない方良いけどな。」
狭山は、ぼそりと言い残して、自分の机に戻って行く。
自分はどうなんだろう?
太一は考えた。当たらない方が良いのか、当たって欲しいのか。狭山の言う通り、事故は起こらない方が良い。そんな事は分かり切っているのに、さっきのやり取りの時に、予感通りに事故が起こる事を望んでいなかった自信はない。いや、今でも自分は一体どっちを望んでいるのだろう。