7.彼が壊したもの

文字数 20,671文字

 眠れる(はず)がない。一人になり、一時の混乱から立ち直ると、佐和子は両手、両足を結束(けっそく)バンドで(しば)られ、自由が()かない体のまま部屋の中を調べた。窓のサッシは閉めてあるだけで容易に開くが、外から板が窓枠に打ち付けられていて、それ以上外には行けない。入口のドアは、外から後付(あとづ)けの鍵が付けられているのか、押しても引いても開く気配がない。部屋には絨毯(じゅうたん)の上に木製のテーブルとソファ、部屋の(すみ)にチェストが置かれているだけで、他には壁掛け時計すらない。一応、チェストの抽斗(ひきだし)を開けてみたけれど、案の(じょう)、何も入っていなかった。一体此処(ここ)何処(どこ)なのか、いつまでこうして閉じ込められるのか、大体、太一はどうなれば満足するのか、何も分からない。考えろ。必死で考えないと取り返しのつかない事態になる。下手(へた)に太一を刺激すると危害を加えられる恐れがある。これだけ入念に準備して凶行(きょうこう)(およ)んだのだ。太一は何としても目的を達成しようとするだろう。そもそも、彼が満足して佐和子を解放する事態など有り得ない。佐和子が自由になれば、警察に()け込むのは自明(じめい)だから。それなら(むし)ろ、何とか時間(かせ)ぎをして、救出の手が伸びるのを待つ方が賢明(けんめい)だ。警察が辿(たど)り着けなくても、忍耐強く待てば、逃げるチャンスはきっとある。太一の集中力もそういつまでも続かない。いつか(すき)が出来るまで我慢比(がまんくら)べをしよう。
 次の日、太一が目覚めてこの部屋に戻って来るまでの間に、佐和子は考えを整理し、覚悟を決めていた。
外からドアの鍵を開ける音がした後、ドアの隙間(すきま)から太一が姿を(あらわ)す。
「おはよう。」
 太一もよく眠れなかったのか、寝ぐせの付いた髪の毛に寝ぼけた顔だ。
「今何時なの。」
 言われるまま、太一はポケットからスマートフォンを取り出して確認する。
「八時二十分。」
 外の光が差し込まない部屋では時間が分からない。もうそんな時刻か。(しばら)くしたら会社の就業時間になり、自分が出勤してない事を不審(ふしん)に思った誰かが、電話を掛けて来る(はず)だ。
「私の携帯はどうしたの?」
「ああ、俺が預かっている。帰る時に返すよ。」太一は、まるでさも無い事の様に答える。「インスタント食品だけど、先に食事にしよう。腹減っているかな?」
 とても、他人を拉致監禁(らちかんきん)している犯罪者の雰囲気じゃない。自分の家に泊まりに来た友人と会話している様だ。
「ちょっと待ってて。朝食を持って来てから、それ、(はず)してあげるから。」
 太一は、佐和子の手首の結束(けっそく)バンドを指差してそう言うと、そそくさと部屋と出て行く。
 きっと、佐和子のスマートフォンの電源は切られているだろう。何度かけても(つな)がらなければ、不審に思う筈だ。欠勤などしたことは無い。何の連絡もつかなければ、きっと騒ぎになり、誰かが佐和子のマンションまでやって来て、部屋に居ない事に気付くだろう。そうすれば、事件に巻き込まれた可能性も考える。警察まで相談が行けば、しめたものだ。昨日の夜、太一と口論した後で車に乗り込んだ時、周囲に何人も人影があった。その誰かが証言してくれれば、きっと、此処(ここ)まで辿(たど)り着いてくれる。あとは、それまでどれだけの時間がかかるかだ。二、三日なら、幸運だろうか。一ヶ月はかかるだろうか。まさか、見つからないなんて…。
 佐和子はそう考えただけで、意志が折れそうになる。
「さあ、お待たせ。」
 食事の載った盆を持って太一が入って来る。
 これから長い一日が始まる。頑張れ、私。どういう会話をすれば、太一は冷静でいるだろう。
大学時代、一番気楽に話し合えた男友達は、今や得体(えたい)の知れない怪物に姿を変えて目の前にいる。

 白い乗用車がゆっくりと路上に()まる。モーターで走っているから、静かに目標に近付ける。運転席の塩崎刑事は、斜め向かいの古い一軒家(いっけんや)の様子を探る。物音がする、しない、以前に人が住んでいる形跡がない。まるっきりの空き家だ。
「あれ、手配車両ですね。」
 助手席の川越刑事が、一軒家の庭に停まる車を目で指し示す。
 ナンバープレートの数字と手配車両のナンバーを照合する。確かに該当のレンタカーだ。と言う事は、容疑者はこの家の中にいる可能性が高い。
 塩崎は車を発進させ、百メートル(ほど)行き過ぎた所に停車させて、バックミラーで一軒家の入り口を見遣(みや)る。
「連絡入れますね。」
 川越刑事はそう言って無線のハンドマイクを取り上げる。
「こちら一二九。現場到着した。当該車両が停車しているのを確認。屋内に潜伏(せんぷく)している可能性あり。」
「本部、了解。機動班到着まで、現況確認継続。」
「一二九、了解。」
 拉致(らち)被害者も一緒に家の中に居る可能性が高い。被疑者に感付かれると何をしでかすか分からない。此処(ここ)は、じっと待つのが得策(とくさく)だ。
「俺、周囲の住人に聞き込みしてきます。」
 川越刑事がシートベルトを(はず)す。
「あんまり、大っぴらにやるな。感付かれるぞ。」
「了解。」
 川越刑事は車を降りて、一軒家(いっけんや)とは逆の方に歩いて行く。
 事件発生から(すで)に五日が()っている。状況から痴情(ちじょう)のもつれだ。友人達への聞き込みでは、被疑者が被害者に好意を持っていたのは明らかだし、被害者には被疑者とは別の彼氏がいるようだ。被疑者は最近仕事を()めて、ストーカー行為を(おこな)っていた形跡もある。被害者に裏切られたとの思いを(つの)らせたら、相手を殺して自分も自殺するというのはありがちなケース。もしそうなら、あの一軒家の中で被害者も被疑者も既に()くなっているかも知れない。
 塩崎刑事は最悪の事態を想像して陰鬱(いんうつ)な気分になる。
 それにしても、犯罪に手を染めようとする人間の行動にしては、余りに無防備だ。被害者を車に乗せた場所は人目につく所だし、レンタカーは本名(ほんみょう)で借りている。周囲の防犯カメラを調べれば、いくつも怪しい行動をする被疑者が(うつ)っている。一時の感情に流されて凶行(きょうこう)(およ)んだのかと思えば、レンタカーを月借りしたり、古い一軒家を借りたりと冷静に計画している部分もある。一体、この被疑者は何を考えているのだ。
 機動班の到着よりも先に川越刑事が戻って来る。
「マル被を見た住人はいなさそうですね。あそこは空き家だと今でも思っている人が大半です。五日間、ずっと外に出ていないんじゃないですかね。」
「ふーん。五日も家に(こも)りっぱなしで耐えられるものかね。」
 塩崎刑事は想像した最悪の事態が現実に近付いたようで、陰鬱(いんうつ)な気分がいや増しする。
 早く機動班が来て、中の様子を確認してくれ。こういうやるせない事件はさっさと終わりにしたい。
 塩崎刑事はミラーで一軒家(いっけんや)を監視しながら、思わず溜息(ためいき)()らす。
 (しばら)くして機動班が到着する。被疑者に見られては元も子もない。一軒家からは見えない離れた空き地に車を停めて男達が集まる。家主(やぬし)から入手した一軒家の間取(まど)りを囲む。古い平屋の家だ。被疑者と被害者がいる場所は(およ)そ見当がつく。とは言え、被疑者は中から外の様子を(うかが)っているかも知れない。迂闊(うかつ)な行動はとれない。ただ、単独犯であることは確かだ。それならやりようはあるだろう。警察が動いている事を(さと)られる前に(かた)を付けたい。

 着替えたい。
 佐和子は、ソファの上に座り、太一と対峙(たいじ)しながら、頭の中はその事でいっぱいになっている。もう何日になるのか分からなくなった。お風呂にも入っていないし、()身着(みき)のまま。エアコンが付いている部屋にずっといるとは言え、(たま)らない。お風呂はこの家にもあるだろうが、トイレですらあの状態だ。風呂に入るとなったら、太一が脱衣場まで入って来ようとするかも知れない。第一、裸になったら、何をされるか分からない。出来るだけ、彼を刺激しないようにして、持ち(こた)えなければ。
 太一の口数(くちかず)は日を追うごとに少なくなった。佐和子をソファに座らせて、自分は絨毯(じゅうたん)の上に胡坐(あぐら)をかいてぼんやりしている事が多い。何度も太一に、どうしたら帰してくれるのか()いたが、自分の言う事を信じてくれたら、と繰り返すばかりだ。お互いに話す中身は堂々巡(どうどうめぐ)りで口にするのも疲れてしまった。
 下着だけでも替えたい。
 とても、太一に言えないが、頭の中はその事でいっぱいだ。
 呼び(りん)が鳴る。
 太一と佐和子に緊張が走る。太一は耳をすます。もう一度呼び鈴が鳴る。
樫垣(かしがき)さん、いらっしゃるかね。」
 小さいが、外からの声が届く、太一が腰を浮かせる。人差し指を口元に持って行き、佐和子を見つめている。
 ここで叫べば、聞こえるだろうか。だけど、太一がどんな行動に出るか分からない。佐和子は身を固くしたまま動けない。
「樫垣さん、大家(おおや)の鈴木です。…開けても良いかね。」
 大家では、合鍵を持っている。
「静かにしていてくれ。危害は加えない。」
 やり過ごせないと観念したのか、佐和子の手足を結束(けっそく)バンドで縛ると、口にタオルを()ませて頭の後ろで縛る。太一が追い詰められたら、何をするか分からない。恐怖に(とら)われて、佐和子は何も出来ずにいる。
「はい。ちょっと待ってください。」
 太一は大声で大家の呼び掛けに応じると、佐和子をその場に残し、ドアに外から鍵をかけて、玄関に向かう。
 ()ぐに玄関ドアを開けずに、太一はのぞき窓から外の様子を(うかが)う。契約の時に見た老人が一人、所在無(しょざいな)げに立っているのが見える。太一は、ドアチェーンを掛けたまま、ドアを少し開ける。
「はい、何ですか?」
「ああ、樫垣さん。あの、そこに車停めてあるけど、あのままだと、車が駄目(だめ)になっちゃうよ。ナンバー見たらレンタカーみたいだし、ちょっと来て、見てくれるかい。」
「あの、別に良いです。後でチェックしますから。」
「いや、あれじゃ、エンコしちゃうよ。もう何日も停めたままじゃないの?」
 しつこいオヤジだ。長くかかると、佐和子が何をするか分からない。ここで押し問答(もんどう)を繰り返したくない。
 仕方(しかた)なく、チェーンを(はず)して、太一は玄関を開ける。
「あれ、あんたの車だろ。」大家(おおや)は、庭に停めてあるレンタカーを指差す。「ちょっと見てごらんよ。」
大家は先に立って、車に向かって歩く。太一もその後から車に向かって歩き出す。
 途端(とたん)(へい)生垣(いけがき)の影から男達が雪崩(なだれ)の様に(あふ)れ出る。太一は(あわ)てて家の中に逃げ帰ろうとするが、男達の行動は早い。玄関先で男に飛び掛かられて一緒に倒れ込む。太一はあばら骨を勢いよく上がり(がまち)の角にぶつける。
「確保!」
 男の叫ぶ声。土足のまま、他の男達が家の中に雪崩(なだれ)込む。
『有田。』
 太一はそう叫ぼうとした。けれど、男に上から押さえつけられ、息をするのすら困難になっていた。

 私は被害者だ。
 あの一軒家(いっけんや)から救出された時は、助かった喜びと安堵(あんど)しかなかった。これで悪夢の様な出来事は終わり、今迄(いままで)と同じ平穏(へいおん)な日常が戻って来ると思った。戻って来た携帯は、着信履歴が山の様になっていたし、自分の家に戻ってみれば、あの日夕飯に食べるつもりだった惣菜(そうざい)が冷蔵庫の中で賞味期限切れになっていたりもしたが、そんなことは少し嫌な顔をして片付ければ済む話だ。けれど、それで終わると思った自分は甘かった。
 その日の夜には、沢山(たくさん)の友達から連絡が来た。
〈佐和子、大変だったね。〉
 大抵(たいてい)、こんな内容で始まる。
〈もう、落ちついた?〉
〈うん、心配してくれてありがとう。もう平気。〉
 同じお礼を返しておく。だが、相手が以前から太一の事も知っていると、これだけでは終わらない。
〈まさか、樫垣(かしがき)君があんな事するなんて思わなかった。〉〈佐和子もとんでもない人に好かれちゃったね。〉〈見た目は、なんか(やさ)しそうに見えたのに、何だか怖いね。〉〈あんな人、もう一生出て来なければ良いんだよ。〉
 送り手の気持ちは分からないでもない。それなりに当たり(さわ)りの無い返事を返しておく。でも、頭の中では、一体あんたに何が分かっているのと思う。彼女()の発言の奥底に何かが横たわっている。それが佐和子を苛立(いらだ)たせる。
 佐和子は、次の日から会社に出勤する。自分の部署、それに仕事で(かか)わりがある人は、事件を知っている。出勤して来た佐和子の顔を見れば、自然と声を掛ける。
「大丈夫だった?」「もう、平気?」「無理しなくて良いからね。」
 女性達は、特に心配そうな顔をしながら近寄って来て、佐和子が笑顔で答えると、満足()に遠ざかって行く。
「おう、おはよう。」
 男性達は、過剰(かじょう)に反応しない様にしている。佐和子が気にしない程度に視線を投げ掛けて通り過ぎて行く。
 始業時間になり、仕事を始める。休んでいた間に、自分がやる(はず)だった急ぎの仕事は、仲間が代行してくれている。進度を聞いて、途中から引き継ぐ。急ぎでない仕事は止まったままだ。少しずつ思い出しながら、自分のペースを取り戻していく。
「え~!」
 仕事の調子を取り戻しかけた頃になって、部屋の入り口の方から押し殺したような驚きの声が聞こえる。ふと視線を向けると、女性社員が二人、立ち話をしながらこちらを見ている。知らない社員だ。佐和子と目が合うと視線を()らし、何事も無かった様に歩いて視界から消える。
「○○さん、これ、時間が()いてしまったんですが、大丈夫ですか?」
 事件前に依頼されていた仕事が止まったままだった。頼まれた上司のところに納期を確認しに行く。
「あ?ああ。…うん、大丈夫だよ。どのくらいで出来るかな。」
 この人はこんなに物分(ものわ)かりが良かっただろうか。間に合わないと言おうものなら、今迄(いままで)はあからさまに不機嫌(ふきげん)になった印象しかない。
 それでも久し振りに仕事に集中して、自分の存在を実感出来る。昼休みは、いつも一緒にご飯を食べるOL数人でテーブルを囲む。事件の話は出ない。(むし)ろ、意識して言わない様にしていると思うのは考え過ぎか。視線を感じる。周囲から佐和子の背後への視線。これも自意識過剰(じいしきかじょう)なのか。
 仕事の途中でトイレに行く。廊下(ろうか)を歩く男性社員たちの声がトイレの中(まで)(ひび)いて来る。
「あんな事までするって、一体何があったんだ…」
 前後の話は分からない。でもきっとそれは自分の事件に関する話だ。
 そうか。
 私は被害者だ。なのに、今度は周囲の人間に責め立てられている。彼等は勝手に事件に(いた)経緯(いきさつ)を想像し、私と太一の間にあっただろう出来事を作り上げている。そうして、太一の人格の虚像(きょぞう)を作り上げ、私の虚像も作り上げている。彼等が表立(おもてだ)ってその事に触れないなら、私には言い訳する機会すら(もら)えない。第一、私の言い分など、最初から本気で聞く気など無い。(いく)ら彼等の想像を否定しても、誤魔化(ごまか)しているとしか受け取られないに決まっている。だったら構うものか。勝手に想像していれば良い。私は私らしく行動してやる。
 安藤玄には、その夜連絡した。向こうは昼過ぎだ。最初の夜には、とてもそんな余裕が無かった。彼は何故(なぜ)連絡が途絶(とだ)えたのか、理由が分からずにいる。事件について伝えなければならない。(とら)われていて、イギリス行きの予定が(つぶ)れてしまった。予定の日になっても佐和子が現れず、連絡もつかず、玄はきっと心配しているだろう。
〈僕がそっちに行くよ。〉
 事件に巻き込まれてイギリスに行けなかった事を(あやま)ると、玄からはその一言だけ返って来る。
〈大丈夫、日程調整し直して、行くから。〉
 何だか意地(いじ)になっているのを自覚する。あんな事件で、こんな状況で、自分がやりたかった事を(つぶ)されるのは納得出来ない。
 翌日、会社に行った佐和子は、機会を見付けて上司の前に立つ。
「この日とこの日、休暇頂きます。」
 海外旅行に行くと告げると、上司は目を見開(みひら)いて佐和子を見上げる。佐和子は真っ直ぐに上司を見おろす。
「…そうか、分かった。気分転換に良いだろう。」
 やはり、それか。
 今自分は、事件と関連してしか見られていない。どんなに今迄(いままで)と同じ様に振舞(ふるま)って、日常生活の中で自分を取り戻そうとしても、周りがそれを許してくれない。
 太一の予知など信じていない。あの時の太一は何か狂っていた。それでも、一抹(いちまつ)の不安がある。太一の予言がそれまで当たっていたのは、誇張(こちょう)があったとしてもある程度事実なのだろう。自分に対する不吉な予知が本当になるかも知れない。飛行機がそんな簡単に落ちたりしない。電車や車よりも事故の発生率は低いと聞いた事がある。理不尽(りふじん)に自分に降り掛かって来た災難は、彼が残した不愉快(ふゆかい)なこの予知を打破して初めて克服(こくふく)できる筈だ。
 負けるもんか。
 五日後、佐和子は空港からイギリスに向けて飛んだ。

 拘置所(こうりゅうじょ)の面会室に太一が姿を(あらわ)し、粗末(そまつ)椅子(いす)に座るのを待って、男は口を開く。
「弁護士の澤村です。樫垣(かしがき)さんの弁護(べんご)を担当する事になりました。」
 透明なアクリル板を挟んで太一の向かいに座る男は、暑い時期なのにYシャツにネクタイをしっかり締めている。白髪(しらが)()じった癖毛(くせげ)に残る(くし)()かした(あと)が、好き勝手(かって)振舞(ふるま)う髪の毛を、何とかまとめようとした努力を物語る。残念だがその甲斐(かい)なく、言う事をきかない髪の先端(せんたん)は自由に振舞(ふるま)い始めている。
「最大限あなたの権利を守るために働きます。だから、どうか私には包み隠さず話して下さい。」
 澤村は、太一の反応を待ったが、聞いているのかも(あや)しいくらいに反応がない。視線は定まらず、フラフラと揺れて、澤村を正視(せいし)しようとしない。
「私は、樫垣さんのご両親からご依頼を受けて来ています。随分(ずいぶん)長く、ご両親にお会いしていないそうですね。何か伝える事があれば、お伝えしますよ。」
 ついこの前まで普通のサラリーマンだった青年だ。肉親の話をすれば、何か反応するだろう。それを突破口(とっぱこう)に信頼関係を築きたい。
「別に。」
 太一の答えは()()ない。まだ、澤村と目を合わそうともしない。
 大学に入る時に上京し、それ以来実家に帰っていない様だ。両親は、会社を辞めてしまった事すら聞いていなかったと言っていた。もしかすると、親子の(なか)は、親が思う(ほど)良好ではなかったのかも知れない。澤村は方向を変える。
「樫垣さんは予知が出来るのですか?インターネットで他人の相談に乗っていたんですね。」
 澤村は、ポケットから小さな手帳を取り出してページを()る。初めて太一が顔を上げ、澤村の顔を見る。この話題なら良いのかも知れない。
「インターネットで調べさせてもらいました。それと、水沢さんですか?元同僚の。話を聞きました。」
「会ったんですか。」
 太一から初めて力の入った言葉が()れる。
「え?ええ。」
話を振っておきながら、太一の食いつきの良さに少しまごつく。
「…もう、会わないで下さい。」
 太一はまた、下を向く。
「どうしてですか?水沢さん、心配されていましたよ。あなたの為なら、何でも協力すると言ってくれました。あなた、会社では有望な若手と認識されていましたよ。」
 分からない。調べたが、会社の人間関係に問題は見付からなかった。見付からないどころか、話に出した水沢をはじめ、先輩社員から可愛(かわい)がられていたと思われる。そんな会社を捨ててまで、なぜ事件を起こしたのか。
「これ以上、迷惑を掛けられません。水沢さんには関係無い話です。」
 太一は、下を向いたまま、しかしはっきりと反論する。
 取り()えずどうにか話す気にはなってくれたようだ。
「分かりました。…話をあなたの話に戻しましょう。あなたは、逮捕(たいほ)・監禁の罪で起訴される事になります。現行犯逮捕されていますから、この点は認めざるを得ないかと思いますが、何か言い分はありますか?」
 澤村は太一の反応を待った。太一は下を向いたまま、応じる様子が無い。
「私が分からないのは、動機なんです。あなたは何故(なぜ)、有田佐和子さんを家の中に閉じ込めたんですか?」
 佐和子を拉致(らち)する前から、ストーカー行為をしていた事が、警察の調べで明らかになっている。普通に考えれば、一方的に好意を寄せて、その思いを()げるために相手を監禁したと想像する。けれど調書(ちょうしょ)によれば、太一は佐和子が飛行機乗らない様に説得したかったの一点張(いってんば)りだ。被害者の佐和子の供述(きょうじゅつ)にも、監禁されている間、太一がそれしか要求しなかったと書かれている。そんな事が有り得るのだろうか?
「…何度も、取り調べで話しました。」
「そうなんですか。でも、すいませんが教えてください。」
「俺は、有田さんに飛行機に乗らないで欲しかった。」
「それだけですか?」
「それだけ?」
太一は眉間(みけん)にしわを寄せて顔を上げると、澤村を(にら)む。澤村はじっと太一を見ている。太一は()ぐに目を()せる。
「そう、それだけです。」
何故(なぜ)、飛行機乗ってはいけないのですか?」
 太一の動きが止まる。澤村は太一の次の動きを待つ。太一の中で何かが葛藤(かっとう)している。
「…もう、良いです。帰って下さい。」
 太一は顔を()せたまま、(ようや)くそれだけ口にする。
 今日はこのくらいが限界か。
「分かりました。これで失礼します。また、お(うかが)いします。あと、何か話したくなったら、いつでも連絡下さい。」
 澤村は笑顔を作ったが、(うつむ)いている太一には届かなかった。

 浅沼が太一の面会に訪れたのは、起訴された後だった。
「何か、欲しいものは無いか。本でも持ってくれば良かったかな。」
「いや、良いさ。」
 起こした事件の内容が内容だっただけに、()んでいないか心配したが太一の顔色は悪くない。ちゃんと食事も出来ているのか、自室に引きこもっていた時期よりも(むし)ろ健康そうに見える。
「すまない。迷惑をかけた。」
 太一はアクリル板の向こうで頭を下げる。
今更(いまさら)良いよ。」
「斎藤の結婚式に(どろ)()る様な事になってしまった。」
 斎藤と河原崎の結婚式は先日終わったばかりだ。佐和子は気丈(きじょう)に出席していたが、同期の者達は皆、彼女に事件を想起(そうき)させない様に気を(つか)っているのが丸わかりだった。式の内容を話せば、太一の質問に答えなければならなくなる。この話題は避ける事にする。
「斎藤も心配していた。」
 浅沼の言った事は嘘ではない。本当は斎藤も太一の面会に来たいのだが、河原崎に止められている。
「ありがとう。気を(つか)わないでくれ。俺は自分のやりたい事をしたんだ。周りの迷惑を考えずに。今はその代償(だいしょう)を払う番なんだと思う。」
「なんだよ、それ。お前のやりたかった事って何だ。」
 太一の言い分は納得出来ない。佐和子を(つか)まえて、家に閉じ込める事がやりたかった事だと言うのか。
「俺は自分の予知に従ったまでだ。」
「予知?お前、こんな状態になっても、まだそんな事言っているのか。」
 浅沼が語気(ごき)を強めて(いさ)めると、太一は黙って目を()せる。
 そんなものに今もすがっているのは太一だけだ。ネットで太一をもてはやしていた連中は、とっくに彼の事を忘れている。警察だって、太一の弁護士だって、結局信じていないじゃないか。
 どこまで太一に事実をぶつけて良いのか浅沼は迷う。太一の気持ちを、今も(かろ)うじて(つな)ぎとめているのは、もうそれだけなのかも知れない。
「お前のそれは、お前の頭が生み出す幻想(げんそう)だ。周りからの刺激と自分の願望が混ざり合った中から立ち上った蜃気楼(しんきろう)だ。」
 浅沼は厳しい目付きで太一を(にら)む。太一は(うつ)ろな瞳で浅沼を見返している。
「俺だけは分かっている。能力は失われていないんだ。今でも予知しようと思えば出来る。…もう、しようとは思わないけど。」
 浅沼は、腹の中から()き上がるものを(おさ)え切れない。
「お前だけが分かっている?何言っているんだ。お前、何も分かっちゃいない。さっき、俺にすまないって(あやま)ったよな?お前、謝る相手を間違えてるだろ。お前に振り回された有田がどれだけ傷付いているか、想像した事があるのか。」
 怒りに(まか)せて一気に()くし立てる。太一はすまなそうな素振りも見せずに、死んだ様な目で、ヒートアップする浅沼を見ている。
「お前の気の迷いで、あいつは人生狂わされたんだぞ。おい、何とか言え!」
「ああ、それは俺の罪だ。浅沼に(とが)められるのは当然だと思う。甘んじて受けるしかない。」
 こいつの、この態度が気に入らない。知った様な顔をして、そのくせ何も理解しようとしていない。
「馬鹿野郎…。」
 浅沼は奥歯を()み締めて(うつむ)く。
 言い()りない。伝えきれない。こいつを救うにはどうしたら良いんだ。二人を仕切(しき)るアクリル板が無かったら、太一の胸倉(むなぐら)(つか)んで(なぐ)りたい気分だ。
 浅沼が顔を上げると、太一は相変(あいか)わらず、(うつ)ろな表情のまま浅沼を見ている。
 駄目だ。太一をこのまま放っておいたら、自己の世界に埋没(まいぼつ)して行ってしまう。
「太一、事実を見ろ。」浅沼は自分を落ち着かせてから、口を開く。「お前が、自分を犠牲(ぎせい)にしてまで守ろうとした有田は、とっくに飛行機に乗って、イギリスと日本を往復したぞ。」
 わずかに太一の(まぶた)が動く。
「お前の予知はどうなった?有田が乗る飛行機は事故を起こすんじゃなかったのか?良いか、これが現実だ。お前が見ていたのは、お前の中の幻想だ。」
 浅沼は表情も変えず、身動きもしない太一を見ながら、どうすればかつての彼に戻せるだろうかと考えていた。

 裁判が始まった。冒頭(ぼうとう)手続きの中、検察側の起訴状(きそじょう)では、太一は執拗(しつよう)に佐和子をつけ回し、自分の意思に従わせようとするが、それに応じない佐和子を自分の思い通りにするために逮捕(たいほ)・監禁に(いた)ったと読み上げられる。太一は弁護士の横で黙って机の上を見つめたまま、それを聞いている。罪状認否(ざいじょうにんぴ)で弁護士の澤村は、レンタカーは佐和子の家までの移動に便利なように借りた物であり、借家は仕事を()めた太一が郊外に居住場所を移す目的で借りた。逮捕・監禁は佐和子と話をする中で偶発的(ぐうはつてき)に発生したのであり、計画性は無かったと主張する。澤村は、(あらそ)える点は計画性の有無だけだと断じていた。計画性が立証(りっしょう)されなければ、執行猶予(しっこうゆうよ)付きの判決が出る可能性が高いと読んでいる。
 一方、裁判官から認否について()かれた太一は、おずおずと、しかしはっきりと、まるで違う点を否認(ひにん)した。
「私は、有田佐和子さんを助けたかったのです。…今となっては誰も信じてくれないでしょうが、あの時、あのまま有田さんがイギリス行きの飛行機に乗っていたら、事故に巻き込まれて死んでしまうという認識がありました。決して私欲(しよく)のためではありません。」
 つまり太一は、自分の思い通りにしたくて『逮捕・監禁』したのではなく、彼しか知り得ない危機から彼女を守るために『保護』したのだと主張している。この行為が何を目指(めざ)して行われたのか、そこには、予知という到底(とうてい)常人(じょうじん)には理解し得ない要素が含まれている。動機と計画性。この二つを争点にして、澤村弁護士は最初から勝ち目のない戦いを(いど)んでいかなければならない。
 それ以降の裁判の中で検察側は計画性を証明するため、借家(しゃくや)の状況写真を証拠として提出した。佐和子を閉じ込めた部屋の窓に外から板が打ち付けられた写真と、トイレのドアは(あらかじ)(はず)されて、外されたドアが別の一室に立てかけてある写真だ。更に、食料等立て(こも)るのに必要な資材を(あらかじ)借家(しゃくや)に搬入していた事実が明らかにされた。弁護側は、レンタカーの契約、借家の契約とも本人が実名で行なっており、隠蔽(いんぺい)する意志が無いこと、当日、車には佐和子が自分の意思で乗っていて、もし、佐和子が乗車を拒否すれば、太一ひとりで連れ去る事は事実上無理なことを()げて戦った。
 裁判を進めながら、澤村弁護士は悩んでいた。一つには、太一が自分の利益に執着(しゅうちゃく)しない事。量刑(りょうけい)で計画性の有無が重要なポイントになるのは明らかだ。だが、それを説明しても、太一が弁護に協力する素振(そぶ)りを見せない。
「自分が連れ去ったのは事実だし、有田さんを飛行機に乗せないために、どうやっても彼女に理解してもらえないなら、連れ去ってでも阻止(そし)しようと決めていたのも事実なので、仕方(しかた)ありません。」
 太一はそう言って、自ら、計画性を肯定(こうてい)してしまう始末(しまつ)だ。
 もう一つは、動機の証明だ。状況から好意を向ける女性が自分を振り向いてくれないので、犯行に(およ)んだと(とら)えるのが常識的だ。太一の言う理由が彼の中で真実だったとしても、それは、自分の行為を正当化しようとする詭弁(きべん)か、心理学で言うところの合理化だと解釈(かいしゃく)される。いくら太一が、動機が違うと言いつのっても、重要な争点(そうてん)にはならず、下手(へた)をすると、反省していないと(とら)えられ、量刑を重くしてしまいかねない。何とかして、太一の言い分にも理があると証明しなければならない。澤村弁護士は、承認として水沢を呼ぼうと考えた。
 水沢は、(こころよ)く応じた。彼女も、罪を犯すところまで太一を追い込んでしまった一因(いちいん)に、自分が関わっていたのではないかという罪悪感に(とら)われていた。だから、せめて太一の役に立つのならと、証人台に立つ事を決意してくれた。
「あなたと被告の関係について教えてください。」
 澤村は法廷で水沢に対する質問を開始する。検察側は証人として水沢が来ると想定していなかった様だ。何を始めようとしているのか見極(みきわ)めようと、()()る様に尋問(じんもん)の様子を見ている。
樫垣(かしがき)君が今年の春まで勤めていた会社の同僚です。」
 説明が不十分だ。欲しいのはその部分じゃない。澤村は、更に質問する。
「水沢さんは被告人と一時期インターネットのサイトを共同で運営していましたよね。」
「はい。…共同というか、私がサイトを立ち上げて、樫垣君に協力して(もら)っていました。」
「どんなサイトですか?」
「えっと、フォロワーって言って良いんでしょうか、サイト利用者からお悩みを聞いて、樫垣君がそれに答えるものです。樫垣君は予知が出来て、良く当たると評判でした。」
「予知ですか。あなた自身、被告の予知が当たるのを確認していますか?」
「はい。最初に彼の能力を知ったのは、私が帰宅する経路の途中で事故が起きるからと、忠告してくれた時でした。次の日に出勤してみると、確かに交通事故が起きていてびっくりしました。」
「ほう。その事故は、被告が事前に知り得る要素が無かったのですね?」
「知り得る要素?」
「例えば、被告の知り合いが事故の当事者だったり、インターネットなどに犯行予告が出ているなどです。」
「あ~、ありません。…詳しく調べた(わけ)じゃないですが。…それ以外にも、会社の同僚と出掛けた出張先で電車の事故を事前に察知(さっち)したと聞いています。」
「そうですか。ありがとうございます。つまり、水沢さん、あなた自身、被告に予知能力があると信じていると言う事で良いですか?」
「裁判長、異議(いぎ)あり。誘導尋問(ゆうどうじんもん)です。」
 検察が素早(すばや)く反応する。
「では、質問を変えます。水沢さんは、被告の能力をどう解釈(かいしゃく)していましたか?」
「解釈ですか?解釈…。答えになっているか分かりませんが、(すご)いなって思っていました。彼は交通関係しか予知出来ないって宣言してましたし、確かに交通関係しか当たりませんでしたが、それでも恋愛の相談とか、結構(はい)って来るんです。それに一つ一つ、樫垣君はお(ことわ)りの文章を書いていました。あ、能力とは別の話ですね。すいません。」
「結構です。質問を終わります。」
 まずまずだろう。少なくとも、予知が太一の単なる妄想(もうそう)ではなく、彼が自分の見たイメージを予知だと信じるだけの背景があった事はこれで証明出来た。
 澤村は席に戻る。替わって検察側の尋問(じんもん)が始まる。
「水沢さん、被告が会社を辞めた経緯(いきさつ)を覚えていますか?」
「はい。別に何もありません。ある日から急に会社に来なくなって、私達も連絡を取ろうとしたし、同僚が家まで迎えに行ったりしたのですが、それっきりで…」
「それはいつの事でしたか?」
「今年の春です。五月上旬だったと思います。詳しい日にちまでは覚えていません。」
「そうですか。五月。それ以前に彼の言動(げんどう)で気になる事はありませんでしたか?」
「別にこれと言って…あ。」
「ん?なにか、思い出されましたか?」
「大した事じゃないですけど、樫垣(かしがき)君が会社に出て来なくなる前の日に会社で気を失って、医務室に運ばれた騒ぎがありました。その数日前から元気が無くて、みんな心配していたので、休み出した時は、病気で家の中で倒れているんじゃないかってみんなで話してました。」
 被告席で太一は下を向き、硬く目を閉じ、両の(こぶし)をぎゅっと握り締めている。
「そうですか。裁判長、すでに提出した資料の通り、被告人がレンタカーを借りたのも、借家の契約をしたのも、五月です。終わります。」

 太一が面会室に来てみると、アクリル板の向こうには、若い女性が一人座っている。のっぺりとした顔は地味(じみ)な印象だ。大勢(おおぜい)の中に入ってしまえば、彼女に注目する人は居ないだろう。細かい花柄の半袖(はんそで)と、栗色(くりいろ)(ゆる)くウエーブした髪が何とか彼女の存在を明るくしている。
 この人は前に会った事がある。
 そう思いながら、太一は席に座る。
「こんにちは。私の事、憶えていますか?」
 人生経験から印象が薄い方だと自覚しているのだろう。いきなり彼女はそう()いて来る。
「えっと…。」
 太一が返事に(きゅう)していると、彼女はクスリと笑う。
「水沢さんの友達の川畑泰恵(やすえ)です。研修旅行でアメリカに行く前に、樫垣さんに予知してもらいました。」
「ああ、確か、長距離バスのトラブルをお知らせしました。」
「はい、そうです。」
 思い出してもらえたことが余程(よほど)(うれ)しかったのか、川畑は満面(まんめん)の笑みで(うなず)く。
「研修は無事だったんですか?」
「ええ、樫垣(かしがき)さんに予知してもらった通り、長距離バスの利用は()けて回りました。順調でした。」
「そうですか。」
「予知してもらったのに、お礼もしないで失礼しました。かなえには、樫垣さんによろしくお伝えするようにお願いしておいたのですが。」
「大丈夫です。気にしないでください。」
「あなたの予知は現実に起きたと思っています。」
「え?」
 唐突(とうとつ)物言(ものい)いで、太一は少し驚く。川畑は真面目(まじめ)な顔で太一を見つめて話し続ける。
「長距離バスのエンコなんて珍しい事ではないのだろうと思います。だからニュースにはならなくて。アメリカの地方紙やインターネットで探したんですが、それらしいトラブルの情報は得られませんでした。」
 ああ、そうか。この女性は、予知が当たっていたか気にしているだろうと思って、こんな話をしてくれているのだ。もう、自分にはどうでも良い事なのに。
「ああ。」
 太一は、視線を落とす。
「この前の裁判、傍聴(ぼうちょう)しました。かなえが証言するって教えてくれたので、どうしても聞きたくて。そしたら会ってお伝えしたい気持ちが()いてきて、どうにもならなくて。」 川畑は自分の胸に手を当てて、一呼吸置く。「私、樫垣さんが『クラントさんの予知』で活躍されているのをかなえから聞いて知っていました。サイトもよく見ていました。その後、やめる事になった経緯(いきさつ)もかなえから聞きました。」すまなそうに川畑は視線を落とす。しかし、()ぐに視線を戻すと、力強く言う。「でも、それは、予言者のジレンマなんだと思います。」
 川畑は、太一の反応を(うかが)っているが、太一にはピンと来ない、そもそも、予知の話に興味が無くなっている。
「前に会った時に話しました。もう、憶えていないかも知れませんが、私にも予知めいた能力があります。虫の知らせレベルの胸騒(むなさわ)ぎでしかありませんが、だから、自分でもいろいろ考える事があるんです。予知出来る人はその能力を使って人を救ってあげられます。樫垣さんの様に、事故が起きるから危ないとか、地震が起きるとか。」
 川畑は目を輝かせて話している。見た目の大人しい雰囲気からは想像出来ないくらいに饒舌(じょうぜつ)だ。
「もし、本当の予知能力を持っていて、その人が言った事が現実になれば、人々はその人を予言者だと認めるでしょう。そうやって認められた人が予知したらどうでしょう。例えば、樫垣さんが『クラントさん』として行なったイベントのシャトルバスの件は?」
 顔色を変えはしなかったが、(いや)な思い出を引き()り出されて太一の胸が痛む。
「イベント主催者が日程を変更し、その上、バスのルート(まで)変えてしまいました。本当ならば、起きていた事故が結果起こらなくなってしまいました。地震の様な、人の力ではどうにもできない事柄(ことがら)は別として、人がコントロールできる事故や事件は、予知する人の能力が本物で、その人の予知した事が現実になって、有名になればなる程、人々は予言者の言葉を信じて事件や事故を回避しようとします。だから結果的に起きなくなってしまうのです。他人から見れば、それは予知が(はず)れた、予知能力が無いと(だん)じられる事になります。…過去の歴史の中で実在したであろう予言者達も同じジレンマに遭遇(そうぐう)したと思います。予知した事が現実に起きて、かつ、自分が予言者として認められる状態を維持するにはどうしたら良いか。能力者は皆、真剣(しんけん)に悩んだ事でしょう。」
 勿体(もったい)を付ける様に、川畑はここで一息入れる。太一は興味も無いが、気持ち良く話す川畑を(さえぎ)る必要は無いと思えて、黙って聴いている。
「ノストラダムスってご存じですか?」
 川畑はどこか楽し()に切り出す。
「ノストラダムスって、予言をした人として有名なんですよね。ひと頃、日本でも話題になった。」
「ええ、『一九九九年七の月』で始まる四行詩が取り沙汰(ざた)されました。世界の終わりを表しているとか言われて。」川畑はくすりと笑う。「でも、さっき私が言った、予言者のジレンマを思い出して下さい。ノストラダムスは存命中から予言者として認められていました。フランス国王の死を予言した事で有名になりました。そんな人が書き残した詩篇(しへん)です。具体的に書かれた(こよみ)や地名をそのまま解釈して良いとは思えません。疑ってかかるべきじゃないでしょうか。」
「そんなもんですか。」
 熱を帯びる川畑の話から、どこか離れた位置で太一は聞いている。
「ノストラダムスは本当に予言が出来たのだと思います。彼が残したと言われる詩篇(しへん)の中には、偽物(にせもの)も混じっている様ですが、恐らく彼は予知能力を持っていました。そして、彼は考えたのでしょう。予言者のジレンマを回避して、自分の能力を人に認めさせるにはどうすれば良いかと。彼は、難解(なんかい)な詩篇として予言を残す事でそれを達成しようとしました。つまり、事件が起きる前は、曖昧(あいまい)で何を指しているか分からなかったり、幾通(いくとお)りにも解釈出来てしまうが、事件が起きた後、その詩を読み返せば、その事件を言い当てているのが理解出来る様な。そうすれば人々が彼の予言を読んで事前に回避してしまう様な事態にはならず、予言通りに物事が起こります。そう考えると、具体的な地名や年月が入っている詩篇(しへん)こそ、そのまま受け取ってはいけない、疑ってかからなければいけないと理解出来る(はず)です。『一九九九年七の月』の詩が結局当たらなかったと言われていますが、そうでないのかも知れません。『七の月』は七月ではなくて、元々ラテン語の七番目に名前が由来する『九月』を指すとも言われています。でもそれでは、簡単過ぎる気もします。年はどう読み解けば良いのか見当がつきません。それどころか、詩百篇(しひゃっぺん)の第八巻以降は、ノストラダムスの死後に発行されていて、偽物という見解もあります。『一九九九年』の詩は、第十巻に入っていて、偽物かも知れません。」
随分(ずいぶん)、ノストラダムスを研究されているのですね。」
「あ、御免(ごめん)なさい。話が()れてしまいました。」
 川畑は本当に恥ずかしそうにする。
「いえ、構いません。拘置所(こうちじょ)の中に居ても退屈(たいくつ)なだけですから。それじゃあ、ノストラダムスの予言を見直して、将来何が起きるか調べてみる価値がありますね。」
「いいえ。」川畑は首を振る。「さっき言った通り、予言者のジレンマが存在します。ノストラダムスは頭の良い人ですから、周到(しゅうとう)に事件が起きる前には読み解けないようにしてある(はず)です。第一、彼が的中(てきちゅう)させたとされる事柄を並べてみれば、彼の関心がキリスト教社会に影響のある出来事(できごと)だけだと分かります。東洋人の私達は、彼が本当の予言者だったと認めて、(やす)らかに眠ってもらう事で良いのだと思います。」
「そうですか。」
 太一は気乗りしない返事を返す。一体この人は何をしに来たのだろうとの気持ちが言葉に乗ったのか、彼女はそれを感じ取る。
「あ、それで、私は、樫垣(かしがき)さんのした事は無駄(むだ)じゃなかったと言いに来ました。きっと、女性を救おうと思い切った行動をされたのに、飛行機事故は起きず、自信を無くしているのだろうと思えたので。樫垣さんが行動を起こして、…事件になって、…それで大きくニュースにもなりました。それが、未来を変えたのだと思います。起きる(はず)だった未来を、航空会社もパイロットも、自分が当事者になると自覚していなくても、注意しようと思う気持ちが、未来を変えたのです。」
 川畑の眼は相変(あいか)わらず輝いている。
「ありがとうございます。」太一は小さく頭を下げる。「正直、自分に能力があるのか、自信を失くしていました。」視線を伏せたまま、今度は太一がとつとつと言葉にする。「この前、友人に言われました。事件の後、自分が救おうとした女性は、何の支障(ししょう)も無く飛行機でイギリスとの間を往復したと。…あの時自分は、自分が助けなければ大変な事になると、()(かく)それだけで頭がいっぱいでした。…そうやって、他人に事実を突き付けられてしまうと、本当に自分は正しかったのか、自分のやった事は無駄だったのじゃないかと思えて来て…。自分のやった事が他人に非難されるのは仕方(しかた)ない。理解されなくても構わないと覚悟は決めていたし、今でも、自分は予知出来ていたという感触の様なものが残っているのですが…。」
 川畑は何かを言い掛けてやめる。これ以上、どうやって太一を(はげ)ませば良いのか。
「あ、でも、後悔していません。」太一は不意(ふい)に顔を上げる。「これで良かったというか、これしかなかったと思っています。」
 最後に太一は寂しく笑った。

 空港の国際線到着口の前で佐和子は待っていた。空港に着いてから、かれこれ三時間になる。別に飛行機の到着が遅れている(わけ)ではない。日本に戻って来る安藤玄を万一にも待たせてしまわない様に早めに行動した結果、長く空港に滞在する結果になっていた。けれど、けっして苦ではない。むしろ、ショップを(のぞ)いたり、ラウンジでお茶をしながら、時々発着案内板を見て、到着までの時間が減って行くのを感じるのは、徐々(じょじょ)に玄が自分に近付いて来ているのを実感出来て、何か楽しい気持ちがする。いよいよ、玄の乗った飛行機が到着する時刻になって、佐和子は彼の姿が現れるのを想像しながら、到着口の前にやって来た。
 到着客と(おぼ)しき人々が三々五々(さんさんごご)出口から出て来ると、佐和子の気持ちは(はや)る。なかなか姿を現さないと、段々(だんだん)不安が(つの)って来る。(ようや)く、こげ茶のコートに身を包んだ細長いシルエットを見付けて、胸が高鳴(たかな)る。
「お帰りなさい。」
 佐和子の姿を認めた玄が近寄ると、佐和子から声を掛ける。
「ただいま。」
 少しはにかんだ様な笑顔を見せて、玄が答える。
「飛行機はどうだった?」
 佐和子は、玄の荷物が肩に掛けた布製のバッグ一つなのを確認すると、彼と並んで歩きながら話し掛ける。
「順調だったよ。ただ、隣の人の体臭(たいしゅう)がきつくて寝られなかったけどね。」
 玄は、首を()じる。
「じゃあ、今夜はゆっくり寝て頂戴(ちょうだい)。」
「時差のせいで、今は大丈夫だけど、明日の午前中は起きられないかも。」
 二人は、空港に接続した駅まで歩き、都心に向かう列車に乗る。玄はあまり腹が減っていないと言ったが、日本時間に体を合わせるためにも、何か少し夕飯めいたものを二人で食べる事にする。散々(さんざん)迷って、佐和子は玄を蕎麦屋(そばや)に連れて行く。今じゃ、日本料理は世界で認知されている。寿司も納豆も、ラーメン屋だってあるから、日本に帰って来て(なつ)かしい料理はそうそう無い。
明後日(あさって)、公判なんだよね。大丈夫?」
 蕎麦屋に入って、席に落ち着くと、玄が切り出す。佐和子は黙って(うなず)く。
「俺は、行った方が良いかな。」
 今度は首を横に振る。
「きっと、来ない方が良い。日本には一週間しかいないんでしょ。もっと他の事に時間を使って。」
 公判に行けば、太一を見る。それだけじゃなくて、傍聴(ぼうちょう)に来る大学の同期がいるかも知れない。誰が来るか分からない。確かに罪を(おか)したのは太一だけど、太一に同情する者もいる。その人は玄を元凶(げんきょう)のように見ているかも知れない。
 佐和子はそこまで口にしない。玄が更に傍聴(ぼうちょう)を希望したら、自分が証人台に立つ姿を見られたくないからと言うつもりだ。幸い、玄は自身の事以外、(こだわ)らない性格をしている。あっさりと公判は(あきら)めて、それ以上話題にしない。
「ね、私もイギリスで生活しても良い?」
 佐和子は悪戯(いたずら)そうな目で玄の反応を確かめる。
「え?構わないけど、仕事はどうするの?」
 突然の提案に玄はまごつく。
勿論(もちろん)、辞める。全部リセットして、私もイギリスで仕事を見付ける。」
 佐和子はどこか楽しそうだ。
「…そうか。良いね。君が安心して住めるような部屋を探しておくよ。」
 玄は少し笑顔を浮かべて、静かに言う。
 この人は、どこまで理由が分かってこう言っているのだろう。被害者である自分が、どれだけ他人の(ひそ)められた好奇(こうき)の目に耐えているのか想像出来るのだろうか。
 佐和子は、彼が薄っすら浮かべた笑顔が単純に佐和子が身近に来るのを喜んでいる様にしか見えず、腹の中を全てぶちまけたい衝動に()られる。
「じゃあ、俺も。」
 そう言うと、玄は(かたわ)らに置いたバッグを開けて手を突っ込み、ガサガサと探って、小箱を一つ取り出し、テーブルの上に載せて佐和子の方に押し出す。
 真紅(しんく)の包装紙で包まれた小箱は、(てのひら)にすっぽり入ってしまうくらいの大きさだ。こんなものに入る贈り物は限られる。
「安物なんだ。余り期待しないで欲しい。ほんとは、もっとそれなりの雰囲気がある時にと思ったんだけど、君に会ったら、早く渡したくなってしまって。…ごめん。」
 玄は()(くさ)そうに、佐和子を見ずに話す。最後の(あやま)りは何に対する謝りだろう。
「…ありがとう。」佐和子は目の前に押し出された小箱を取り上げる。「開けて良い?」
「いや、此処(ここ)じゃちょっと。後で。」
 玄は(あわ)てて、手で押さえる仕草(しぐさ)をする。
「そうだね。じゃ、後で。」
「部屋は、君と一緒に探した方が良いかな。」
「うん。それが良い。」
 佐和子が(うれ)しそうに(うなず)くと、玄は安心した様に屈託(くったく)のない笑顔を見せる。
 自分の未来の為に、私は負けられない。
 佐和子は、小箱をバッグにしまいながら、強く決心した。

 佐和子が証人台に立つ日が来た。現行犯逮捕だから被害者の証人尋問(しょうにんじんもん)は必要ないと当初思われたが、裁判が犯行の計画性を焦点(しょうてん)に進むにつれて、連れ去られる瞬間、彼女の意思決定にどの程度の自由度があったのか、一軒家で物理的、心理的状況の詳細を判断材料にする必要が生まれた。
 佐和子が入廷(にゅうてい)する。太一の存在で被害者が動揺しない様、いつもと違う場所に太一の席が設けられ、証人台との間には仕切(しき)り板が設置されている。
「被告人に車で連れ去られた時の状況について教えてください。」
 検察官の言葉は事務的で、佐和子を()め立てている様だ。
「あの晩は、買い物をして家に帰る途中でした。歩いていると、前から車が近付いて来て、見覚えのない車でしたので、自分に向かって来たのだと、(そば)に停まるまで気付かなくて、運転席から、その…被告が降りて来て、初めて自分に用事なんだと気付きました。」
「被告はその時、何を言いましたか?」
「…詳しくは憶えていません。だけど、実家に帰るとか言っていたと思います。もう、私は関わりたくなかったので、帰ってくれと言ったのですが、言う事を聴いてくれませんでした。」
「被告の車には、あなたから乗ったのですか?」
「はい。路上だったので、その場で話すのは人の目が気になりました。路上で言い合っているのを近所の人に見られるのは(たま)らないなと思ったので、実家に帰るなら、もう会わなくなるので、これを最後にしっかり決着を付けようと思いました。」
「被告が睡眠薬であなたを眠らせ、一軒家(いっけんや)に監禁しました。その時の状況を教えて下さい。」
「助手席に座って、車が走っている内に寝てしまいました。気付いたら知らない部屋に居ました。足をプラスチックのバンドの様な物で縛られていました。被告は…、自分の話を分かってもらうまで帰さないと…言いました。」途中から、佐和子の声が(ふる)える。「自分が知らない…別人に見えました。怒らせない様にって、そればかり…」何とか自分の感情を抑え込んでいたが、途中で言葉が途切れる。
「被害者女性には今でも、被告の精神的支配の影響が残っています。これ以上の証言は必要無いと思います。」
 佐和子のすすり泣く音が廷内に(こぼ)れている。検察官は被害者の証人尋問を打ち切る。
「すいません、ひとつだけ、一つだけ、質問させてください。」
 弁護人席で澤村弁護士が腰を浮かせながら、手を()げる。裁判官が質問を許可する。
「…お(つら)いでしょうが、一つだけ、答えて下さい。あなたはさっき、『実家に帰るのなら、もう会わなくなるから』とおっしゃいましたね。お二人は、大学時代のサークル仲間だったと聞いています。大学時代、あなたにとって、被告はどういう存在でしたか、そして、こんな事件を起こしてしまった被告に、今何を望みますか。」
 澤村にとって、これは一つの()けだ。大学時代の佐和子と太一が周囲から見てお似合いのカップルに見えた事は、サークル仲間の話から分かっている。恋愛感情が無かったとしても、少なくとも太一に対して悪い感情を持っていなかったのは確かだろう。ならば、被害者の口から彼の再起への期待が()れれば、情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)に影響する。
「存在…?」佐和子は考えている。何か迷っている様でもある。「仲の良い友達の一人でした。」鼻を(すす)りながら、くぐもった声で話し出す。「困った時は頼りになる存在でした。」
「そんな被告に今は何を望みますか。」
 澤村は刺激しないよう、出来るだけ(やさ)しい声で佐和子に答えを(うなが)す。佐和子は真っ直ぐ前を見ている。何を見ているのでもない。天井と壁の(さかい)にある(まわ)(ぶち)を見ている様だ。いつまで待っていても、佐和子が話し出す気配(けはい)は無い。じっと動かずに前を見ている。不思議に思い、澤村が彼女の様子に注目する。佐和子は声を出さずに泣いている。大きく見開いた両の眼から、涙が(すじ)となって(ほお)を伝う。裁判官と検察、そして澤村だけが、彼女のこの涙の目撃者だ。
 やがて、彼女は視線を手元に落とし、小さく(ふる)える(てのひら)で頬の涙を(ぬぐ)うと顔を上げ、真っ直ぐに裁判官を見つめて、ゆっくり深呼吸をする。それから、はっきりと誰にでも聞こえる声で発言する。
「何も。彼に望むものは何もありません。ただ、…二度と私の前に現れないで欲しいだけです。」
 気丈(きじょう)な人だ。
澤村はそう思いながら、赤らんだ眼で裁判官をしっかりと見据(みす)える佐和子の横顔を見つめる。最後の言葉は、仕切(しき)りで見えない向こう側に座る太一に向けての決別の言葉だ。太一は、彼女の姿を目に焼き付けることも(かな)わないまま、目を固く閉じ、両手を(ひざ)の上で握りしめている。きっと、どれだけ太一が切望しても、もう二度と彼が佐和子の声を聞く事すら叶わない。今、二人を分かつ仕切り板が最早(もはや)修復出来ない二人の運命を象徴(しょうちょう)している。最後の別れの言葉の代わりに、彼を非難する悲痛な彼女の声を胸の奥に()み込ませて、太一は残りの人生を送って行く。彼は今、(すで)に罰を受けているのかも知れない。
 私の質問は、ただ被害者と被告につらい思いをさせてしまっただけだ。
澤村弁護士は、事前に佐和子と話す機会が持てず、彼女の性格を把握していなかった事を後悔した。
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