3.それは無意識にわかっていた事
文字数 16,392文字
翌朝、出社すると間もなく、水沢が太一に声を掛ける。
「たいっちゃん、凄 いね。まさかほんとに当たるなんて思わなかった。」
「事故、あったんですか?」
水沢の言い振りで大体想像は付くが、確認せずにはいられない。
「そう、けが人も出たそうよ。今朝、交差点の街灯が凹 んでたから、いろんな人に訊 いちゃった。」
太一も出勤時、同じ交差点を通って来るけれど、その時は自分が予知した事故の事を思い出さなかった。昨日、水沢とやり取りしたことも、今、声を掛けられる迄 忘れていたくらいだ。
「そうですか。水沢さんが巻き込まれなくて良かった。」
「右折しようとした車と直進車がぶつかって歩道に突っ込んだそうよ。結構 大きな事故でこの会社の人で事故を目撃した人もいたんだって。」
大体、太一の頭に浮かんだイメージと同じだったと思って良いだろう。
「時間は…、時間は、水沢さんの帰る時間だったんですか?」
「さあ、詳しい時間までは訊 かなかったけど、まだ、会社帰りのサラリーマンが沢山 いた時間だから、そんなに違わなかったんじゃない。」
昨日の夜や今朝のニュースでは何も報じていなかった。死者が出た訳 ではなさそうだから、その程度の事故では、全国ニュースにはならないという事なのだろう。
「でも、どうして分かるの?超能力ってやつ?なんでも予知出来 ちゃうの?」
水沢は秘密を知りたくてせっついてくる。
「いえ、何でもって訳 じゃないです。時々、ほんと、時々、感じる事があるくらいで。」
太一は出来 るだけ騒ぎにしたくない。
「え~、じゃあ、宝くじとか予知できないの?この店で買った宝くじが当たる~とか。」
「それ、自分でもやってみたんですけど、全然駄目でした。欲が絡 む物は駄目みたいです。例えば、競馬、競輪のような賭 け事なんかも。」
「そうなんだぁ。でも、やっている内に見えるようになるかもよ。」
「なんか、努力して能力が付くって感じは無いんです。見たいと思って見える訳 じゃなくて、何 の気 なしにしていると、不意 に感じる事があるんです。それも、電車だったり、…今回は車の事故でしたけど、そんな類 いの物ばかりみたいです。」
「ほんと、そーなんだ。じゃ、頼んで占 ってもらう事はできないかな。ちょっと、SNSでツイートしちゃったけど、良いよね?」
水沢はお茶目 な表情をして、笑ってみせる。
「え?ツイートって、何したんですか?」
太一は俄然 不安になってくる。水沢がその表情をした時は、何か企 んでいる時だ。
「え、事故が予知出来ちゃう子が会社の同僚に居るって書いただけだよ。名前とか書いてないから、安心して。」
いや、とても安心出来ない。
「いや、それ大丈夫ですか。」
「なんだ、昨日の結果で、いつ奢 ってもらうか相談か?」
太一が水沢の行動を問 い詰 めようとしたところに、狭山 が近付いて来る。どんどんややこしい話になりそうな予感しかしない。
「太一の予想当たってた。」
水沢は如何 にも自分の成果の様に自慢する。
「え、じゃあ、事故があったのか。」
狭山は冷静に二人の表情を見比べている。
「そう、大通りの交差点で車が歩道に突っ込んだんだって。」
「ふーん、こうなると、樫垣 には予知能力があるのかもって気になるな。」
狭山は太一の脇に立った位置から冷たい視線で見下ろしている。太一は肯定も否定もせずに黙っている。
「でしょ、でしょ。凄 いよね。」
「…まあ、これで二回目だ。もう一回、三回続いたら、まぐれじゃない、本当の力だって言えるかもな。」
狭山は水沢をみて、ニヤリと笑う。
「え、そんなに待たなくても、十分に凄 いよ。私、ツイートしちゃった。きっと反響あるよ。」
やめてくれ、そんなの迷惑なだけだ。
太一は、昨日水沢に声を掛けた事を後悔し始めている。
「そんな誰が書いたか分からない戯言 に一々 反応しないだろ。」
狭山は斜 に構 えて水沢を見下ろす。
「水沢さん、もうツイートするのやめて下さいよ。」
漸 く、太一は水沢に抗議する。
「わかった、御免 、御免 。」
バツが悪いのか、そう言いながら、水沢はその場を後 にする。
「ふん、ま、良かったじゃないか。」
狭山 はぼそりとそう言うと、太一の肩を叩 いて離れて行く。
昨日、水沢に事故の話をしたのは、単に事故が起きるのを予知出来 ていながら何もしないで、後から知り合いが事故に遭 ったと知ったら、きっと後ろめたい気持ちになるから避けたかっただけだ。良く考えもせずに反射的に話をして、その結果、確かに事故から水沢を守れはしたが、何だか面倒 な事になりそうだ。
考えても仕方 ない。
半 ば今の状態から目を逸 らす様に、太一は自分に言い訳 しながらパソコンに向かい、頭を仕事に切り替えた。
結果は忘れた頃に出た。それから一週間くらいしたある日の午後、仕事中の太一の脇 に水沢が来て腰を屈 め、太一の耳元で囁 く。
「ちょっと良いかな?相談したいんだけど。」
太一は、パソコンのモニターに集中していて、話し掛けられて初めて水沢がすぐ傍 に居る事に気付く。
「ちょっと、そんなに驚かないでよ。」
びっくりした表情で振り向いた太一を見て、水沢は小声で言いながら太一の腕を軽く叩 く。素早 く周囲に目を走らせ、誰も二人の動きを気にしていないのを確かめると、水沢は太一の席から離れる。二、三歩歩いたと思ったら、振り返って太一を手招 きする。太一は、招かれるまま、席を立って水沢に付いて行く。二人は商談や打ち合わせに使う小さなブースに入ってドアを閉める。
「あのさ、私の友達があんたにみて欲しいって言ってるんだけど。」二人きりになると、水沢はすぐに本題の話を始める。声を潜 めて周囲に聞かれない様 にしている。「その子、アメリカに研修で行くんだけど、海外に行くのは初めてで心配しているのよ。」
そこまで聞けば、水沢が何の話で自分を引っ張って来たか、太一にも見当 がつく。
「この前も言ったじゃないですか、俺、自在に予知出来 る訳 じゃないって。頼まれても、何も判りませんよ。」
太一も水沢につられて、声を潜 めてはいるが、語気 が強くなる。
「知っている。…知ってるし、そう言ったけど、それでも良いからみて欲しいんだって。」
小声だが、互いに言葉に力がこもる。
冗談じゃない。他人の運命に責任なんて持てない。
太一はテーブルに目を落として、溜息 をつく。
「お願い、一度みてやってもらえない。何も見えなけりゃ、そう言ってくれて良いから。」
占 いの真似事 か。兎 に角 、気が重い。他人に物事を強 いられるのは、こんなにも嫌なものなのか。
「…その子、そういう類 いの事、信じているのよ。」太一が不機嫌 そうに黙っているため、水沢がさらに事情を説明する。「彼女自身もそう言う能力があるみたいで。」
「なら、俺なんかに頼らなくても良いじゃないですか。自分で予想できるから。」
「そうじゃなくて。」
水沢がイラついてテーブルを叩 く。急にキレる水沢に太一は身構 える。
「彼女のは、予感がするだけ。今回の研修旅行もなんか悪い予感がするんだって。でも、予感だけで研修をやめる事なんて出来 ないでしょ。」
理由を付けてサボることは出来そうに思う。恐らく、そんな事をしたら自分が許せないような真面目 な人なのだろう。水沢は話を続ける。
「かと言って、このまま成 り行きに任せて出掛けて、何かあったらきっと後悔する。て言うか、彼女、もしかしたら最悪の事態になるんじゃないかって心配している。だから、自分の予感が正しいのか、正しいとしたら、何がありそうなのか、知りたいと真剣 に考えているの。」
それなら、もっと適当な人間がいるんじゃないか。太一は頭に浮かんだ言葉を口にしなかった。自分がその女性の立場だったらどうするだろう。自分の中の何かが、このまま進んではいけないと警告を発している。けれど、進まずに済ませられないのなら、何に救いを求めるだろう。太一が信用できると思える人も組織も思い浮かばない。きっと、彼女も同じなのだろう。
「だから、一度、話を聞いてあげてよ。その子だって悩んでの事なんだから。あんたも同じ能力を持っているなら、辛 さだって分かるんじゃない?」
『辛 さ』という言葉が太一の胸に刺さる。俺は辛 いのか?この能力を持っていると辛 いのか?そんな風に思ったことは無い。辛 い思いなんかしていない事が却 って不安になる。自分がまだ経験していない何かがあるのかも知れない。
「分かりました。一回だけ。」太一は水沢の顔を正面から見る。「会って話を聞きましょう。でも、期待しないで下さいね。」
最後の言葉に力を込めて、水沢に釘 を刺す。
「じゃ、日程調整するね。」
急にいつもの水沢に戻って陽気に言うと、さっさと席を立ってブースを出て行く。太一は、彼女の後ろに付いてブースを出て自分の席に戻る。直 ぐには仕事が手に付かない。モニターに映 る書類を睨 み付けて座っている。
別にその女性を助けるつもりになったわけじゃない。その人の話を聴いたところで、何か予知出来るとはとても思えない。むしろ何か期待させるような言葉を残すくらいなら、残念ながら何も分からないと伝えて、諦 めてもらう方が良い。それでもその人に会おうという気になったのは、自分と同じ様 に何か予感を感じられる人というのは、どんな人なのか興味があったから。俄 かに自分に備 わったこの能力の不思議に少しでも迫 りたいと考えたからだ。
太一は、自分で自分にそう言い聞かせながら、いつまでも、液晶画面を見つめていた。
ファミリーレストランでテーブルの向かいに座った女性は、肩まである茶色に染めた髪を後ろで一つに束ねている。花柄のプリント地のワンピースは華 やかだが、彫 りの浅い顔は表情が乏 しく、大勢 の中では目立たない存在なんだろうと想像できる。水沢が彼女を、学校の同級生、川畑泰恵 と紹介する。水沢から紹介されても、川畑は直ぐに自分から話し出そうとせず、太一の様子を窺 う様な視線を時々向けて来るだけだ。こんなどちらかと言えば、消極的なタイプの女性が、その対極 にあるような水沢の友達というのも不思議だが、どうしても太一の話が訊 きたいと固執 した当人というのも俄 かには信じられなかった。
「最初に言っておきます。」相手が喋 り出さないのに業 を煮 やして、先に太一が口を開く。「自分の意思で予知が出来 る訳 じゃないので。だから、川畑さんが期待するような回答は多分 出来ないと思います。それでも良いんですね?」
冷たいかも知れない。だが、勝手に期待されて、何かあった時にこっちのせいにされるのでは、堪 ったものじゃない。
「えっと…、樫垣 さんから何か啓示 が貰 えたら良いなと思っています。…あ、でも、分かってます。必ずしも予知できる訳 じゃないって事は、かなえから聞いてます。」
川畑泰恵は、はじめぼそぼそと、途中から早口にそう言うと、また下を向いて黙り込む。
こうしていても埒 が明 かない。こんな居心地 の悪い場はさっさと終わりにしたい。
「それで、話を聴かせてください。研修旅行に行かれるとか。」
「ええ、九月にアメリカで研修があって、それに参加する事になりました。そう言われた直後はそんな感じはなかったんですが、段々 、何て言うか…胸騒 ぎって言うんですか、酷 くなってきて、最近は何も手に付かないような状態になってきちゃって。」
それは思い過ごしだろう。
太一はそう思ったが、口に出さずに川畑を観察する。川畑は、太一の考えが読めるかの様に、直 ぐに言い訳 を始める。
「あ、あの、こういう経験って初めてじゃないんです。小さい頃から何度もそう言う経験があって、小学校の時に初めて経験したんですけど、その時は、二、三日そんな状態が続いて、何だろうって思っていたら、その後、お婆 さんが亡くなって。それからなんです。何か悪い事がある前兆 みたいに胸騒 ぎの様な、何かここら辺が」川畑は自分の胸に手を当てる。「ザワザワした感覚が起きて、どうしようもなくなると、必ず何か起きて。」
川畑はここで言葉を切った。彼女の視線はテーブルの上にある。太一は冷めた気持ちのまま、川畑の様子を見ている。水沢は、川畑の脇に座って、二人の様子を交互に見て黙っている。完全に傍観者 を決め込むつもりだ。
不意 に川畑が顔を上げる。
「信じてもらえますか?私の予感。…何か起こるのを予感出来るって事。」
もしかしたら、彼女は、自分の能力について理解してもらいたいだけなのかも知れない。ふと、太一の頭の中をそんな考えが過 る。さっき太一自身が思ったように、彼女がこんな話をしても、まともに聞いてくれる者はいないのだろう。予知ができる、虫の知らせがある、そんな事をちょっと感じた経験は、実は誰にでもあるのだろう。でもそれが、思い込みや勘違 いだったと思い知る経験も同時にしている。だから、いつまでも、そんな思いに囚 われている川畑をみて、まともに取り合う相手はいない。だから、太一なのだ。自分でコントロールできないにしても、予知が出来 ると言っている太一が、川畑の言っている事を否定すれば、太一自身を否定する事にもなる。川畑は無意識にしろ、それが分かっていて、太一に救いの手を求めている。
「そんなに気になるのなら、その研修、やめてしまってはどうですか。」
川畑の問いには答えずに突き放す。
「そうは出来 ないんです。それに、私がやめても、誰かが代わりに行きます。向こうで何かあるのなら、結局、その人が巻き込まれてしまうでしょ。」
どこか言い訳 臭 いのが太一には気に入らない。
「そうか、言われてみれば、向こうで何があるか分からないですよね。俺は、電車とか車とかのトラブルしか予知できた事がありません。」今、天気は関係ないだろう。「もし、暴漢 に襲 われるとか、天災があるとかいう事なら、俺には最初から予知する能力が無いと思います。」
「そうかも知れません。でも、樫垣 さんが今迄 経験した予知が、たまたま、そう言った交通絡 みの事だけだった可能性もあります。それに、研修で交通機関を使った移動は多いです。樫垣さんに何か見える可能性は高いと思います。」
いくらネガティブな話をしても、この人は諦 めてくれない。大人 しそうな外見からは想像出来ないくらいの意志の強さを持っている。それなら、気の済むまで話させて、何も分からないと結論付けて帰ってもらおう。
「分かりました。…それじゃ、その研修の日程を教えてください。」
「…はい。」
川畑は小さく頷 くと、椅子 からバッグを取り上げ、その中から、折り畳 まれた紙を取り出して、テーブルの上で広げる。
「九月十七日の十七時に成田空港からデルタ航空の飛行機でデトロイトに向かいます。そこで乗り換えて…」
川畑は、事細 かに研修の予定を話し出す。何もそんな細かい話は要 らないと思いながらも、ここで口を挟めば、却 って時間がかかる事になりそうで、太一は黙って聴く。彼女等の研修は、どうやら、彼女が勤めている会社の事業に関係する研究機関やユーザーを訪ねる計画の様だ。太一はよく知らない名前ばかりだが、何となく想像は付く。何人で行く計画なのかは分からないが、それぞれ勝手に移動し、目的地で落ち合って目的の場所を訪問し、終われば現地で解散して、次の目的地で集合するまでは自由行動という形になっている。
太一は、途中から目を閉じて、川畑の話を聞き流していた。ふと、頭にイメージが浮かぶ。走る犬をかたどった絵がボディに描かれているバスだ。車線がいくつもある広い道の路肩に停 まっている。何かトラブルが発生してそれ以上走れなくなったのだ。エンジンだろうか?タイヤだろうか?
太一は目を開ける。
川畑はまだ、日程を説明している。ワシントンに集合して帰りの便に乗るというくだりまで来ている。太一は迷っていた。今浮かんだイメージを川畑に伝えるべきだろうか。
「…成田に着いたら、現地で解散です。私は、成田エクスプレスに乗って、都心へと帰って来るつもりでいます。」
川畑はそこまで一気に話すと、紙から目線を上げて太一を見る。もうそれ以上話すつもりは無いのか、太一が何か言うのを待っている様だ。
ここで何も見えなかったと言って、この場をお終 いにする事は出来 る。太一の頭の中に浮かんだイメージが本当に起こったとしても、生死に関わる事態にはならないだろう。きっと、目的地に着くのが遅れて、その場所での見学なり研修なりに参加できないくらいで終わる。そのくらいならば、相手に伝えなくても良いじゃないか。でも本当にそれで良いのか?彼女は、太一の能力を信じて頼って来たのだ。それは、裏切りそのものじゃないのか。誰にも言わなければ、分かりはしない。だが、自分が納得できるのか?第一、自分は自分の力を信じていないのか?人に隠さなければならない様な力なのか?
「あのさ…」
随分 間 が空 いた。川畑に視線を戻した時、彼が思案している間中、川畑も水沢も黙って太一の様子を見ていた事に気付く。これだけ一人で考え込んでいる様 を見せつけていては、何か感じるものがあったのが丸分かりだ。これじゃあ、誤魔化 しは効かない。
「いま、川畑さんの話を聞いていて、一つイメージが湧 きました。」
太一は、正直に話す。みるみる川畑の眼が輝いていくのが判る。
「いや、あんまり期待しないで下さい。当たらないかも知れないから。あまり期待されても困ります。」
川畑が二度力強く頷 く。こっちの前置きなどどうでも良いって感じだ。
「その…、バスが見えました。」太一は、自分に集中している四つのまなこに気圧 されて、生唾 を飲む。「アメリカのバスです。きっと長距離走る奴 。…そんなバスに乗る予定はありますか。」
何だか不安になってくる。
「たぶん。」川畑が頷 く。「その方が安上がりだから。」
「高速道路だと思います。その路肩に停まっているバスが見えました。きっとトラブルで停まっています。エンジントラブルとか、パンクとか…流石 にガス欠ってことは無いでしょうけど。」
「交通事故じゃないんですね?」
「たぶん違います。車体に破損は見えませんでしたし、路肩に停まっているのはバス一台だけで、他に見えませんでした。本線上はスムーズに車が流れてたし。」
川畑が一つ息を吐 く。
「大きな事故じゃないんですね。怪我人とか…出ないでしょうか。」
川畑は途中で言い淀 む、きっと死者と言い掛けて、口にするのをやめたのだろう。
「そこまでは分かりません。でも、大きな事故には見えませんでした。」
「分かりました。長距離バスは避 けた方が良いですね。高くてもコミューター便があれば、飛行機を利用するようにします。」
言ってしまった後で、急に責任が圧 し掛かってくる。彼女は、太一の言った事を真 に受けて、高い費用を払おうとしている。
「きっと、悪くても予定に遅れるくらいの出来事 で済むと思います。俺の言った事で行動を変えるかは、自己責任でお願いします。」
太一は、軽く頭を下げる。
「何言ってるのよ。ちゃんと予知出来たじゃない。そのくらいで済むなら、泰恵 だって安心よね。」
漸 く水沢が口を挟 む。女性二人は互いに顔を見合わせて頷 きあう。
「樫垣 さん、ありがとうございました。安心しました。」
川畑がペコリとお辞儀 をする。
「いえ…別に。」
太一もつられて頭を下げた。
数日しか経 たないうちに、水沢は次の相談を持って来た。川畑がアメリカに行くのは来月だ。まだ、太一の予知が当たっていたかどうかも分からない。しかし、水沢には当たっているかどうかは大した問題ではないのだろう。
また、ブースへと引っ張り込まれる。
「太一、交通系じゃないと、予想できないみたいじゃない?」
何だか、そう言われると反論したくなるが、実際、頭に浮かぶのは、電車や車のトラブルばかりだ。川畑の時に浮かんだのもバスのトラブルだし、確かにそうなのだが。
「だから、依頼を断 るのも大変で。」
誰も、予知の依頼を募 ってくれなど頼んだ憶 えは無い。寧 ろ、SNSになど載っけるなと言った筈 だ。いつの間に、水沢が占 いの客引きの様な立場になっているのだ。
「それで、アキちゃんって子がね。」太一が反応するまえに、勝手に水沢は話を進める。「友達と北海道旅行に行くんだけど、大丈夫か知りたいんだって。」
「ちょっと待って下さい。前にも言ったけど、俺は見ようとして見れる訳 じゃないです。いくら知りたいって言われても…」
「でも、この前は見れたじゃない。」
太一の話の途中で、水沢が口を挟む。
「あれは、たまたま…」
「いいの。今度もたまたま見れるかも知れないでしょ。兎 に角 、やってみて。」
水沢に借りがある訳 じゃない。弱みも握られていない。彼女は押しの強さだけで攻めて来る。
「やるって言われたって、仕事があるから会っている暇 なんてありません。」
「太一のアカウント、相手に教えるから、兎に角、SNSでやり取りしてみてよ。良いでしょ、そのくらい。判 んなかったら、判んないって言ってくれて良いから。」
勝手な話だ。水沢としては、太一とその女性を繋 げば、役目を果たせて面目 が保 てる。後はどうなろうと自分には関係ない。もし、太一に何のイメージも浮かばないとしても、もし、間違った予知をしても、それは太一の問題と言う事か。
「勝手に決めないで下さい。SNSでやり取りしたって、どうにもならない。」
「あんた、やってみたの?」
「何を?」
「だから、SNSで誰かに予知してあげた事があるの?」
「…いや、無いですけど。」
「だったら、やって見なけりゃ分からないでしょ。」
太一は溜息 をつく。
「強引だな。」
「たいっちゃん、私の事知っているでしょ。そう言う人だって。」
太一に出来 る事は、出来るだけ不満を表情に表す事くらいだ。
「じゃ、今日中に連絡するように言っておくから、メッセージが届いたら、相手してあげてね。」
最後は陽気にそう言うと、水沢はブースを出て行く。この調子だと、水沢のどれだけ広いか分からない交友関係が尽 きるまで、何度このブースに引きずり込まれるか分かったものじゃない。と言って、彼女にとってデメリットが無い限りは何を言ってもやめそうにない。少し考えを巡らせたくらいでは、水沢を止めるアイデアが思いつかず、取り敢 えず自分の席に戻って、仕事に専念する。
アキちゃんと呼ばれていた女性からのSNSは午後に届いた。業務中は私物のスマートフォンは見ない様にしているから、それに気づいたのは二時間の残業を終えた後だった。
〈突然ですいません。私、田村明穂と言います。水沢先輩からお聞きでしょうか。〉
SNSにはそれだけ書いてある。彼女の先輩にあたる水沢とは違い、一応の礼儀をわきまえているらしい。
〈はい。今日聞きました。〉
太一は、ホームで帰りの電車を待ちながら返信する。
〈今度、友達と北海道旅行に行くんですが、無事に帰って来れるか、見てもらえますか。〉
返信が来たのは、電車に乗った後だった。明穂からの文面を見つめて、太一は暫 く考える。
何だろう、感じるこの軽さは。街角に出ている易者 に興味本位でちょっと占 ってもらおうみたいなノリ。太一にそんなつもりは無い。ここは、ちゃんと言っておかないといけない。
〈水沢さんからどう聞いているか分かりませんが、意識して他人の予知をやった事はありません。多分何も見えないと思います。何も見えなければ、諦 めて下さい。〉
〈はい、承知しています。それでも、お願いしたいです。〉
今度はすぐに返事が返ってくる。知らない男に自分の旅行の予知を頼む心境はどんなものなのだろう。たかが国内旅行だ。危険に晒 される事は殆 ど無い筈 だ。その上、太一は多分見えないと言っている。水沢さんにお願いした以上、もう引き下がれないと言う事だろうか。
〈国内旅行じゃ、危ない事は無いんじゃないかと思いますが、何を気にしているのですか?〉
すぐに返事が返って来るだろうと思って、スマートフォンの画面を見ていたが、今度は返事が返って来ない。冷たく突き放したから諦 めたのか。ちょっと後味 が悪い気もしたが、忘れる事にする。水沢に明日何か訊 かれたら、変に期待されても困るから、最初に確認したら返事が来なかったと言っておこう。これで水沢も、これ以上話を持ってくるのをやめるだろう。
ところが、一切 をすっかり忘れて、駅からマンションに向かって歩いている途中で着信がくる。
〈私の兄は旅行中の事故で亡くなりました。これ以上、両親を悲しませたくないので、こんなお願いをしました。すいません。ご迷惑をお掛けしました。〉
太一は足を止めた。同時に罪悪感が襲 ってくる。自分の事情だけ押しつけて、相手の事情など端 から考えようともしていなかった。
突然、イメージが頭に浮かぶ。車が整然 と並ぶ広い場所。駐車場の様だ。大勢 の人が歩いている。荷物を積み込んで乗り込む人達もいれば、係員と思 しき人に説明を聞いている人もいる。一台の車に乗り込もうとしている若い女性達。四人連れだ。運転席に乗り込んだ女性が車のキーを回してエンジンを掛けようとしている。運転席のインジケーターが見える。Fuelと書かれた箇所の針がEの近くにあるのが見える。
イメージはそこで終わった。太一は、歩道の上でスマートフォンを見つめたままでいる自分に気付く。どのくらいその場に突 っ立っていたのだろう。平静を装 い、徐 に顔を上げて歩き出す。
さっきのイメージは何だろう?あの場所はきっと、レンタカーの大きな拠点だ。あんな大きな拠点は、国内では北海道しかない。右ハンドルの車、おまけに日本人だらけの場所となれば完全にそうだ。自分が北海道に行く予定は無い。この先、急な出張が入ったとしても、北海道は考えられない。となれば…。
太一は人の流れを妨 げない様に歩道の隅 に移動すると、スマートフォンのキーを打つ。
〈田村さん、もしかして、北海道でレンタカーを借りますか?〉
返事が返って来ない。あんなやり取りをしたのだから、きっと諦 めてしまったのだろう。悪い事をした。
太一が諦めて家に向かって歩いている途中で返信が来る。
〈はい。向こうはレンタカーで回る予定です。〉
あのイメージはきっと、その場面が見えたのだろう。
〈イメージが見えました。ガス欠に気を付けて下さい。特に、レンタカーを借りたら直 ぐに、燃料が満タンになっているか確認してみてください。〉
レンタカーは基本、燃料満タンで受け取り、満タンにして返すものだ。満タンにして返せない場合は、追加料金を支払って清算し、次に貸し出すまでにレンタカー業者が燃料補充するが、それを忘れたまま、彼女たちが借りてしまうのだろう。
〈分かりました。ありがとうございます。〉
少し太一の気が晴れる。自分の意思で受けた事でなくても、礼を言われれば悪い気はしない。起こるかどうかも分からないアドバイスに過ぎないとしても、何だか自分が役に立った気になって来る。
〈お気をつけて。〉
良かった。自分がイメージした事が、事故じゃなくて単なる燃料切れで。そんな些細 なトラブルでも、旅行をしている当人達にとっては、気分を害する出来事 には違いない。太一は自分に結果を納得させながら家路 を急いだ。
九月になり、自分がレンタカーを借りる段 になって、太一は田村明穂とのSNSのやり取りを思い出していた。水沢に半 ば強制的に頼まれて、彼女の北海道旅行を予知する羽目 になった。あの時、面倒 な事に巻き込まれて、責任を負いたくない一心 で自分の事ばかり考えていた。結局、SNS上でのやりとりだけで、どんな女性なのか知らないままだ。でも、あの後、もう一度だけ田村明穂とSNS上でやり取りする機会があった。
ある日突然、メッセージが届いた。
〈無事に帰ってきました。ほんとにレンタカーの燃料が無くなっていました。出発する前にレンタカー屋さんに言って、満タンにしてもらいました。ありがとうございました。〉
そこには、ただ文字が並んでいるだけだったが、太一にとっては、まるで神の福音 の様に全身を浮揚 させてくれる魔法の力を持っていた。
なんて返事を書こうか。書きかけては消して、結局、〈無事でよかったですね。〉とだけ返信した。
暫 く太一の興奮は収まらなかった。自分の予知が他人によって証明されたのだ。それまで、自分に関わる事は何度も予知して自信があったが、他人に関する予知は確信というものが無かった。確かに、水沢の件は予知が出来 た。でもそれは、自分もその後帰宅するのだし、自分が巻き込まれる可能性だってあった。水沢の事が予知出来たのか、自分も関係しているから予知出来たのか曖昧 だ。川畑泰恵 の件は、予知はしたけれど川畑がまだアメリカに行っていない。本当に無事に帰って来れるのか、結果が出ていなかった。田村明穂の結果は、自分の能力に対する太一の認識を確信に変えていた。
今日は、何の予感も無い。
これは大事な事だ。太一も、これから迎えに行く有田佐和子にも、もしかすると、空港で会う大学時代のサークル仲間にも、危険が降りかからないと言えそうだ。今日は同期会の時に約束した、安藤玄 のイギリス行きを見送る日だ。トラブルがあっては、玄の新しい門出 に縁起 が悪いし、太一が密 かに決めた予定も滅茶苦茶 になってしまう。
太一は、慣れないレンタカーを運転して、佐和子と待ち合わせる駅のロータリーに向かう。
太一は車で迎えに行くのだ。駅に迎えに行こうが、佐和子の家まで迎えに行こうが、さして労力に違いは無い。けれど、佐和子は駅前ロータリーを指定した。
〈Eヶ丘駅の北口ロータリーに迎えに来て下さい。〉
SNSの文章は丁寧 だが、距離を感じる。良くとれば、社会人になって社会常識が身についたと解釈 できる。でも太一には、大学卒業からの一年間の不在が二人の距離を拡げているとしか感じられない。
今日、言わなければ後 が無い。
「よろしくね。」
駅のロータリーで、車の助手席に乗り込んで来た佐和子は、屈託 のない笑顔を見せながら明るい声で短くそう言い、シートベルトを締める。襟元 に刺繍 の入ったシャツに薄いカーディガンを羽織 って、膝丈 のスカートを穿 いた佐和子を乗せて車を走らせるのは、傍 から見ればドライブデートだ。太一はざわざわする気持ちを押し殺しながら、安全運転に努める。太一の内心など気にも懸けない佐和子が気さくに喋 るから、車内は直 ぐに同級生の二人になる。天気にも恵まれ、車は高速道路を爽快 に走り抜けて行く。
空港のロビーで浅沼たちを見つけるのに時間はかからなかった。安藤玄は暗いトーンの襟無 しのシャツに細身 のパンツで、如何 にも彼の職業に合った雰囲気を醸 し出している。不思議と周囲から浮いていないのは、多種多様な人間が交差する空港という場所のせいかも知れない。見送りに参加したのは、太一たち二人を加えても五人。あの一次会で安藤玄の話を聞いていた、斎藤、浅沼、水沼に佐和子と太一。きっと、あの場で佐和子の思い付きを聞かなければ、みんなこの場に居なくて済んだだろう。
「十四時半の飛行機だそうだ。」
佐和子と太一が合流すると、浅沼が太一にそれだけ告げる。太一が佐和子と二人連れで現れた事には何も触れない。さも、それが当たり前の様 に接してくれる彼の行動が、太一には嬉 しかった。
壁一面を天井近くまで埋める大きな発着案内板に目を遣 る。ロンドンヒースロー空港行きは、表示板の下の方に出ている。まだ三時間以上の間 がある。
「やることないな。飯でも食うか。」
斎藤が太一の耳元で声を潜 める。
「そうだな。」
太一も苦笑 いで応じる。
「じゃあ、今日来るメンバーが揃 ったから、昼飯にしようぜ。安藤も来るだろ。」
斎藤は、まるっきり声色 を変えて、陽気に仲間に声を掛ける。仲間の輪に入れず突 っ立っている玄に声を掛けるのは、流石 仕切り屋の面目躍如 と言ったところだ。どうせ時間には余裕がある。玄と見送りの五人は、ぶらぶらと空港内の飲食店のウインドウを眺 めては、冗談を言い合いながら、決める事もせずにうろつき回る。
「さあ、いい加減、どこかに決めようぜ。」
しびれを切らした浅沼がそう言い出した時には、時計は一時近かった。結局、軽食メニューのある店で、思い思いに軽めの食事をする。飛行機に乗れば、動きもしないのに食事攻めに遭 うだろうと玄を気遣 っての事だが、当人はそれが判っているのか、いないのか、黙って仲間に付き従っていただけだ。そもそも、見送りに来て欲しくも無かったのだから、付き合っているだけましな方かも知れない。四人席二つに三人ずつ別れて座る。気を遣 ったのか、良いように押しつけられたのか、太一と佐和子、玄の三人でテーブルを囲んだ。
「ねえ、向こうでの働き口は決まったの?」
一通り注文が済むと、佐和子は臆 せず玄に話し掛ける。三人で黙っているよりも遥 かにましだ。
「うーん、演奏できる場所は向こうに行ってから探す。それまでは、ハンバーガーショップの調理場でアルバイトさ。」
自嘲気味 に笑顔で佐和子を見ている。
「それじゃあ、大変だな。」
太一も一応相槌 を打つ。
「あら、もう生活するだけの収入を得る当てがあるとも言えるじゃない。やりたい事が出来 る場所は、じっくり見付ければ良いでしょ。」
佐和子が玄のかたを持っているようで気に入らない。
「演奏できる場所ってそんなに沢山 あるのか?」
つい、否定的な言葉が口をつく。
「日本に比べれば、そういう場所はあるけど、アーティストも世界中から集まって来ているから、競争だね。」
玄は特に気分を悪くすることも無く、素直に応じる。
「腕を磨 いて行かないと、生き残れないって事ね。頑張ってね。」
佐和子の励 ましの言葉には、想いがこもっている。傍 らで聞いていた太一にも、ああ、心から成功を願っているんだなと感じさせる何かが、言葉の中から滲 み出る。
「ありがとう。…少しは自信がなけりゃ、イギリスに行こうなんてしないさ。」
玄は、はにかんだ様な表情になる。
こいつは、大学時代からこんななよなよした感じだったろうか。それとも、就職とか、今の生活の中で変わってしまったのか。太一は何か生理的に受け付けないものに触れて悪寒 を感じる。
「頑張るだけ、頑張れよ。」
半 ば突き放す様に、太一は呟 く。
食事を済ませて出発ロビーまで、六人は塊 りになって戻る。
「じゃあ、そろそろ、行くよ。」
セキュリティゲートが見える場所で、仲間を振り返って玄が宣言する。
ああ、さよならだ。
何かから解放される気分が太一を襲 う。玄は仲間に背を向けてゲートを目指して歩き出す。歩きながら、セカンドバックからパスポートと搭乗チケットを取り出している。太一達はその場に立ち止まって、そんな彼の様子を見送る。
「あ、安藤君。」
遠ざかる玄を追いかけて、不意 に佐和子が小走 りに追いかける。追いついた佐和子は玄を呼び止め、自分のカバンから小さな包みを取り出して、一言、二言話し掛けている。戸惑 った表情の玄は、やがて笑 みを浮かべて、その包みを受け取る。玄が再び歩き出すのを見届けると、佐和子は、また小走 りに仲間の元に戻って来る。
「餞別 渡して来た。」
佐和子はそれだけ言って、太一たちと一緒にゲート前に並ぶ玄を見ている。太一は暫 く佐和子の様子を見ていた。いつもと変わらない、涼し気 な表情で玄がゲートに飲み込まれて行くのを見ている。それを確認すると、太一も玄がゲートの先で見えなくなる迄 見送った。
玄を見送った後、集まった仲間で何かしようという話も出たが、結局、何もしなかった。玄が乗った飛行機が飛び立つのを展望台から見送って、機会がなければ来る事の無い空港の中をショッピングがてら、ぶらついただけで、そのまま解散となった。太一は佐和子を自宅の最寄 り駅まで送って行く約束だ。
「話を聴いてもらえるかな。」
帰りの車の中、たわいもない会話の途中で、突然、太一は切り出す。それは、思い付きではない。前からこのタイミングで話そうと決めていた。空港の帰り、高速道路を走行中なら、細かい道路事情に注意する必要は無い。佐和子の表情ばかりを見る訳 にはいかないが、話しきるには却 って好都合 でもある。
「なに?」
佐和子の声が急に神妙 になる。話の中身を察しているのだろうか。
「夏に同期の飲み会が有ったろ。俺、あの時にさ、久し振りに有田の顔見て、喋 って、思ったんだ。俺、有田の事が好きなんだって。」
太一は言葉を切った。ちらりと佐和子の顔を横目で確かめる。彼女は真剣な顔で黙ったまま、太一の横顔を見ている。彼女は話さない。車のエンジン音と道路の繋 ぎ目を越えるタイヤの走行音だけが同じ調子で車内に響 いている。
「今日も、こうして一緒に話していて楽しいなって…。こういう風 に付き合っていけないかな。」
「二人で?」
佐和子の声が予想以上に冷静で、太一はドキリとする。
「…そう、二人で。」
ここで挫 ける訳には行かない。自分に言い聞かせる様に口にする。
「…そう、ありがとう。」
静かに言って、佐和子が視線を進行方向に向ける気配を感じる。少しも輝 きの無い言葉。それだけで太一は全 てを悟 る。これから先は悪足掻 きだ。
「なんかね、樫垣 君とは昔から兄弟みたいに仲良くて、今もそんな気持ち。嫌いじゃない、好きだけど、…恋愛感情にはならないかな。」
「それは…、確かに今迄 そう言う目で見ていなかったから、直 ぐには無理だろうけど、これから、付き合っていく中で変わる可能性だってあるんじゃないか。」
精一杯 だ。簡単に諦 める訳にはいかない。
「樫垣君は近過ぎるんだよ、きっと。ほんとの家族みたいな感じだから。こういう付き合いを続けても変わらない。それじゃ、樫垣君に変な期待持たせるだけ悪いでしょ。」
なんで、試してみない内から、そんな風 に言える?つまりは、傷付けない様に体良 く断 っているだけじゃないか。
「どうしても駄目 か?」
漸 くそれだけ口にする。あっさり降伏 宣言だ。
「うん、…御免 なさい。」
「いや、謝らなくて良い。俺が勝手に、今日言おうと決めた事だから。」
ハンドルを持つ両手に上手 く力が入らない。車の中じゃなければ、きっとその場から出来 るだけ早く逃げだそうとしただろう。
「私、こんな事言ったら、勝手な女だと思われちゃうけど、大学のサークルの仲間達とは、ずっと仲の良い仲間で居たい。…時々集まって、ふざけて、馬鹿やって。…そういう風 に何も気にしないで、素 のままでいられる関係って、この先出合う人とは作れないでしょ?」
佐和子は、固まった空気を払う様に、一生懸命に話す。
「ああ、学生の時の仲間は特別だと思うよ。」
今度は、太一の言葉に力が入らない。佐和子に悪いと思っても、どうしようもない。
「樫垣 君との楽しい思い出も沢山 ある。三年生の夏合宿で行ったペンションでの事憶えてる?奈津子が二年生に揶揄 われたのを、私がけしかけたせいだと誤解した事があったでしょ?樫垣君が夜中まで話に付き合ってくれて、誤解を解 いてくれたのは嬉 しかった。」
「あれは、ちょっとした行き違いが原因だったじゃないか。そんな事で合宿が変な雰囲気になるのが嫌 だったんだ。」
実はその頃からもう好きだった。だから夜中まで付き合ったんじゃないかと言ったら、佐和子を追い詰めてしまうだろうか。そうしたい気持ちが湧 いてくる。
「これで樫垣君とは縁遠 くなっちゃうのかな?今まで通りの友達では居たくない?」
「そんな事ない。気にしないで良い。」
「ありがとう。気持ちに答えられなくてごめんなさい。」
「いや、…いいさ。」
残酷 な要求だ。やっぱり佐和子は心地 いい関係を壊 したくないのだ。これをきっかけに自分が佐和子から離れたら、同期会の席で、今度は斎藤や浅沼と他愛 のない会話をして満足して帰るのだろう。佐和子にとって太一たちは、彼女の素敵 な青春の思い出を彩 るアイテムに過ぎないのかも知れない。時々、部屋の片隅からアルバムを取り出して、ページをめくるのと同じ感覚を味わいたいのだ。
会話は途切 れてしまった。インターを降りて暫 く走れば佐和子を降ろす駅のロータリーに着く。そんなに長い時間はかからない。そこまで考慮 して、このタイミングで太一は話を切り出した。考えてみれば馬鹿々々 しい。それじゃあ、最初から断 られると想定して、話すタイミングを決めていたじゃないか。自分は佐和子と付き合いたかったのか、それとも、ちゅうぶらりんな自分の気持ちを清算したかったのか。
「ありがとう。それじゃあね。」
駅のロータリーで降りる時、佐和子はしっかりと太一の目を見て言う。笑顔じゃないが、その瞳 は生きている。
「それじゃ。」
太一は軽く笑顔を作って、佐和子を送り出した。
「たいっちゃん、
「事故、あったんですか?」
水沢の言い振りで大体想像は付くが、確認せずにはいられない。
「そう、けが人も出たそうよ。今朝、交差点の街灯が
太一も出勤時、同じ交差点を通って来るけれど、その時は自分が予知した事故の事を思い出さなかった。昨日、水沢とやり取りしたことも、今、声を掛けられる
「そうですか。水沢さんが巻き込まれなくて良かった。」
「右折しようとした車と直進車がぶつかって歩道に突っ込んだそうよ。
大体、太一の頭に浮かんだイメージと同じだったと思って良いだろう。
「時間は…、時間は、水沢さんの帰る時間だったんですか?」
「さあ、詳しい時間までは
昨日の夜や今朝のニュースでは何も報じていなかった。死者が出た
「でも、どうして分かるの?超能力ってやつ?なんでも予知
水沢は秘密を知りたくてせっついてくる。
「いえ、何でもって
太一は
「え~、じゃあ、宝くじとか予知できないの?この店で買った宝くじが当たる~とか。」
「それ、自分でもやってみたんですけど、全然駄目でした。欲が
「そうなんだぁ。でも、やっている内に見えるようになるかもよ。」
「なんか、努力して能力が付くって感じは無いんです。見たいと思って見える
「ほんと、そーなんだ。じゃ、頼んで
水沢はお
「え?ツイートって、何したんですか?」
太一は
「え、事故が予知出来ちゃう子が会社の同僚に居るって書いただけだよ。名前とか書いてないから、安心して。」
いや、とても安心出来ない。
「いや、それ大丈夫ですか。」
「なんだ、昨日の結果で、いつ
太一が水沢の行動を
「太一の予想当たってた。」
水沢は
「え、じゃあ、事故があったのか。」
狭山は冷静に二人の表情を見比べている。
「そう、大通りの交差点で車が歩道に突っ込んだんだって。」
「ふーん、こうなると、
狭山は太一の脇に立った位置から冷たい視線で見下ろしている。太一は肯定も否定もせずに黙っている。
「でしょ、でしょ。
「…まあ、これで二回目だ。もう一回、三回続いたら、まぐれじゃない、本当の力だって言えるかもな。」
狭山は水沢をみて、ニヤリと笑う。
「え、そんなに待たなくても、十分に
やめてくれ、そんなの迷惑なだけだ。
太一は、昨日水沢に声を掛けた事を後悔し始めている。
「そんな誰が書いたか分からない
狭山は
「水沢さん、もうツイートするのやめて下さいよ。」
「わかった、
バツが悪いのか、そう言いながら、水沢はその場を
「ふん、ま、良かったじゃないか。」
昨日、水沢に事故の話をしたのは、単に事故が起きるのを予知
考えても
結果は忘れた頃に出た。それから一週間くらいしたある日の午後、仕事中の太一の
「ちょっと良いかな?相談したいんだけど。」
太一は、パソコンのモニターに集中していて、話し掛けられて初めて水沢がすぐ
「ちょっと、そんなに驚かないでよ。」
びっくりした表情で振り向いた太一を見て、水沢は小声で言いながら太一の腕を軽く
「あのさ、私の友達があんたにみて欲しいって言ってるんだけど。」二人きりになると、水沢はすぐに本題の話を始める。声を
そこまで聞けば、水沢が何の話で自分を引っ張って来たか、太一にも
「この前も言ったじゃないですか、俺、自在に予知
太一も水沢につられて、声を
「知っている。…知ってるし、そう言ったけど、それでも良いからみて欲しいんだって。」
小声だが、互いに言葉に力がこもる。
冗談じゃない。他人の運命に責任なんて持てない。
太一はテーブルに目を落として、
「お願い、一度みてやってもらえない。何も見えなけりゃ、そう言ってくれて良いから。」
「…その子、そういう
「なら、俺なんかに頼らなくても良いじゃないですか。自分で予想できるから。」
「そうじゃなくて。」
水沢がイラついてテーブルを
「彼女のは、予感がするだけ。今回の研修旅行もなんか悪い予感がするんだって。でも、予感だけで研修をやめる事なんて
理由を付けてサボることは出来そうに思う。恐らく、そんな事をしたら自分が許せないような
「かと言って、このまま
それなら、もっと適当な人間がいるんじゃないか。太一は頭に浮かんだ言葉を口にしなかった。自分がその女性の立場だったらどうするだろう。自分の中の何かが、このまま進んではいけないと警告を発している。けれど、進まずに済ませられないのなら、何に救いを求めるだろう。太一が信用できると思える人も組織も思い浮かばない。きっと、彼女も同じなのだろう。
「だから、一度、話を聞いてあげてよ。その子だって悩んでの事なんだから。あんたも同じ能力を持っているなら、
『
「分かりました。一回だけ。」太一は水沢の顔を正面から見る。「会って話を聞きましょう。でも、期待しないで下さいね。」
最後の言葉に力を込めて、水沢に
「じゃ、日程調整するね。」
急にいつもの水沢に戻って陽気に言うと、さっさと席を立ってブースを出て行く。太一は、彼女の後ろに付いてブースを出て自分の席に戻る。
別にその女性を助けるつもりになったわけじゃない。その人の話を聴いたところで、何か予知出来るとはとても思えない。むしろ何か期待させるような言葉を残すくらいなら、残念ながら何も分からないと伝えて、
太一は、自分で自分にそう言い聞かせながら、いつまでも、液晶画面を見つめていた。
ファミリーレストランでテーブルの向かいに座った女性は、肩まである茶色に染めた髪を後ろで一つに束ねている。花柄のプリント地のワンピースは
「最初に言っておきます。」相手が
冷たいかも知れない。だが、勝手に期待されて、何かあった時にこっちのせいにされるのでは、
「えっと…、
川畑泰恵は、はじめぼそぼそと、途中から早口にそう言うと、また下を向いて黙り込む。
こうしていても
「それで、話を聴かせてください。研修旅行に行かれるとか。」
「ええ、九月にアメリカで研修があって、それに参加する事になりました。そう言われた直後はそんな感じはなかったんですが、
それは思い過ごしだろう。
太一はそう思ったが、口に出さずに川畑を観察する。川畑は、太一の考えが読めるかの様に、
「あ、あの、こういう経験って初めてじゃないんです。小さい頃から何度もそう言う経験があって、小学校の時に初めて経験したんですけど、その時は、二、三日そんな状態が続いて、何だろうって思っていたら、その後、お
川畑はここで言葉を切った。彼女の視線はテーブルの上にある。太一は冷めた気持ちのまま、川畑の様子を見ている。水沢は、川畑の脇に座って、二人の様子を交互に見て黙っている。完全に
「信じてもらえますか?私の予感。…何か起こるのを予感出来るって事。」
もしかしたら、彼女は、自分の能力について理解してもらいたいだけなのかも知れない。ふと、太一の頭の中をそんな考えが
「そんなに気になるのなら、その研修、やめてしまってはどうですか。」
川畑の問いには答えずに突き放す。
「そうは
どこか言い
「そうか、言われてみれば、向こうで何があるか分からないですよね。俺は、電車とか車とかのトラブルしか予知できた事がありません。」今、天気は関係ないだろう。「もし、
「そうかも知れません。でも、
いくらネガティブな話をしても、この人は
「分かりました。…それじゃ、その研修の日程を教えてください。」
「…はい。」
川畑は小さく
「九月十七日の十七時に成田空港からデルタ航空の飛行機でデトロイトに向かいます。そこで乗り換えて…」
川畑は、
太一は、途中から目を閉じて、川畑の話を聞き流していた。ふと、頭にイメージが浮かぶ。走る犬をかたどった絵がボディに描かれているバスだ。車線がいくつもある広い道の路肩に
太一は目を開ける。
川畑はまだ、日程を説明している。ワシントンに集合して帰りの便に乗るというくだりまで来ている。太一は迷っていた。今浮かんだイメージを川畑に伝えるべきだろうか。
「…成田に着いたら、現地で解散です。私は、成田エクスプレスに乗って、都心へと帰って来るつもりでいます。」
川畑はそこまで一気に話すと、紙から目線を上げて太一を見る。もうそれ以上話すつもりは無いのか、太一が何か言うのを待っている様だ。
ここで何も見えなかったと言って、この場をお
「あのさ…」
「いま、川畑さんの話を聞いていて、一つイメージが
太一は、正直に話す。みるみる川畑の眼が輝いていくのが判る。
「いや、あんまり期待しないで下さい。当たらないかも知れないから。あまり期待されても困ります。」
川畑が二度力強く
「その…、バスが見えました。」太一は、自分に集中している四つのまなこに
何だか不安になってくる。
「たぶん。」川畑が
「高速道路だと思います。その路肩に停まっているバスが見えました。きっとトラブルで停まっています。エンジントラブルとか、パンクとか…
「交通事故じゃないんですね?」
「たぶん違います。車体に破損は見えませんでしたし、路肩に停まっているのはバス一台だけで、他に見えませんでした。本線上はスムーズに車が流れてたし。」
川畑が一つ息を
「大きな事故じゃないんですね。怪我人とか…出ないでしょうか。」
川畑は途中で言い
「そこまでは分かりません。でも、大きな事故には見えませんでした。」
「分かりました。長距離バスは
言ってしまった後で、急に責任が
「きっと、悪くても予定に遅れるくらいの
太一は、軽く頭を下げる。
「何言ってるのよ。ちゃんと予知出来たじゃない。そのくらいで済むなら、
「
川畑がペコリとお
「いえ…別に。」
太一もつられて頭を下げた。
数日しか
また、ブースへと引っ張り込まれる。
「太一、交通系じゃないと、予想できないみたいじゃない?」
何だか、そう言われると反論したくなるが、実際、頭に浮かぶのは、電車や車のトラブルばかりだ。川畑の時に浮かんだのもバスのトラブルだし、確かにそうなのだが。
「だから、依頼を
誰も、予知の依頼を
「それで、アキちゃんって子がね。」太一が反応するまえに、勝手に水沢は話を進める。「友達と北海道旅行に行くんだけど、大丈夫か知りたいんだって。」
「ちょっと待って下さい。前にも言ったけど、俺は見ようとして見れる
「でも、この前は見れたじゃない。」
太一の話の途中で、水沢が口を挟む。
「あれは、たまたま…」
「いいの。今度もたまたま見れるかも知れないでしょ。
水沢に借りがある
「やるって言われたって、仕事があるから会っている
「太一のアカウント、相手に教えるから、兎に角、SNSでやり取りしてみてよ。良いでしょ、そのくらい。
勝手な話だ。水沢としては、太一とその女性を
「勝手に決めないで下さい。SNSでやり取りしたって、どうにもならない。」
「あんた、やってみたの?」
「何を?」
「だから、SNSで誰かに予知してあげた事があるの?」
「…いや、無いですけど。」
「だったら、やって見なけりゃ分からないでしょ。」
太一は
「強引だな。」
「たいっちゃん、私の事知っているでしょ。そう言う人だって。」
太一に
「じゃ、今日中に連絡するように言っておくから、メッセージが届いたら、相手してあげてね。」
最後は陽気にそう言うと、水沢はブースを出て行く。この調子だと、水沢のどれだけ広いか分からない交友関係が
アキちゃんと呼ばれていた女性からのSNSは午後に届いた。業務中は私物のスマートフォンは見ない様にしているから、それに気づいたのは二時間の残業を終えた後だった。
〈突然ですいません。私、田村明穂と言います。水沢先輩からお聞きでしょうか。〉
SNSにはそれだけ書いてある。彼女の先輩にあたる水沢とは違い、一応の礼儀をわきまえているらしい。
〈はい。今日聞きました。〉
太一は、ホームで帰りの電車を待ちながら返信する。
〈今度、友達と北海道旅行に行くんですが、無事に帰って来れるか、見てもらえますか。〉
返信が来たのは、電車に乗った後だった。明穂からの文面を見つめて、太一は
何だろう、感じるこの軽さは。街角に出ている
〈水沢さんからどう聞いているか分かりませんが、意識して他人の予知をやった事はありません。多分何も見えないと思います。何も見えなければ、
〈はい、承知しています。それでも、お願いしたいです。〉
今度はすぐに返事が返ってくる。知らない男に自分の旅行の予知を頼む心境はどんなものなのだろう。たかが国内旅行だ。危険に
〈国内旅行じゃ、危ない事は無いんじゃないかと思いますが、何を気にしているのですか?〉
すぐに返事が返って来るだろうと思って、スマートフォンの画面を見ていたが、今度は返事が返って来ない。冷たく突き放したから
ところが、
〈私の兄は旅行中の事故で亡くなりました。これ以上、両親を悲しませたくないので、こんなお願いをしました。すいません。ご迷惑をお掛けしました。〉
太一は足を止めた。同時に罪悪感が
突然、イメージが頭に浮かぶ。車が
イメージはそこで終わった。太一は、歩道の上でスマートフォンを見つめたままでいる自分に気付く。どのくらいその場に
さっきのイメージは何だろう?あの場所はきっと、レンタカーの大きな拠点だ。あんな大きな拠点は、国内では北海道しかない。右ハンドルの車、おまけに日本人だらけの場所となれば完全にそうだ。自分が北海道に行く予定は無い。この先、急な出張が入ったとしても、北海道は考えられない。となれば…。
太一は人の流れを
〈田村さん、もしかして、北海道でレンタカーを借りますか?〉
返事が返って来ない。あんなやり取りをしたのだから、きっと
太一が諦めて家に向かって歩いている途中で返信が来る。
〈はい。向こうはレンタカーで回る予定です。〉
あのイメージはきっと、その場面が見えたのだろう。
〈イメージが見えました。ガス欠に気を付けて下さい。特に、レンタカーを借りたら
レンタカーは基本、燃料満タンで受け取り、満タンにして返すものだ。満タンにして返せない場合は、追加料金を支払って清算し、次に貸し出すまでにレンタカー業者が燃料補充するが、それを忘れたまま、彼女たちが借りてしまうのだろう。
〈分かりました。ありがとうございます。〉
少し太一の気が晴れる。自分の意思で受けた事でなくても、礼を言われれば悪い気はしない。起こるかどうかも分からないアドバイスに過ぎないとしても、何だか自分が役に立った気になって来る。
〈お気をつけて。〉
良かった。自分がイメージした事が、事故じゃなくて単なる燃料切れで。そんな
九月になり、自分がレンタカーを借りる
ある日突然、メッセージが届いた。
〈無事に帰ってきました。ほんとにレンタカーの燃料が無くなっていました。出発する前にレンタカー屋さんに言って、満タンにしてもらいました。ありがとうございました。〉
そこには、ただ文字が並んでいるだけだったが、太一にとっては、まるで神の
なんて返事を書こうか。書きかけては消して、結局、〈無事でよかったですね。〉とだけ返信した。
今日は、何の予感も無い。
これは大事な事だ。太一も、これから迎えに行く有田佐和子にも、もしかすると、空港で会う大学時代のサークル仲間にも、危険が降りかからないと言えそうだ。今日は同期会の時に約束した、安藤
太一は、慣れないレンタカーを運転して、佐和子と待ち合わせる駅のロータリーに向かう。
太一は車で迎えに行くのだ。駅に迎えに行こうが、佐和子の家まで迎えに行こうが、さして労力に違いは無い。けれど、佐和子は駅前ロータリーを指定した。
〈Eヶ丘駅の北口ロータリーに迎えに来て下さい。〉
SNSの文章は
今日、言わなければ
「よろしくね。」
駅のロータリーで、車の助手席に乗り込んで来た佐和子は、
空港のロビーで浅沼たちを見つけるのに時間はかからなかった。安藤玄は暗いトーンの
「十四時半の飛行機だそうだ。」
佐和子と太一が合流すると、浅沼が太一にそれだけ告げる。太一が佐和子と二人連れで現れた事には何も触れない。さも、それが当たり前の
壁一面を天井近くまで埋める大きな発着案内板に目を
「やることないな。飯でも食うか。」
斎藤が太一の耳元で声を
「そうだな。」
太一も
「じゃあ、今日来るメンバーが
斎藤は、まるっきり
「さあ、いい加減、どこかに決めようぜ。」
しびれを切らした浅沼がそう言い出した時には、時計は一時近かった。結局、軽食メニューのある店で、思い思いに軽めの食事をする。飛行機に乗れば、動きもしないのに食事攻めに
「ねえ、向こうでの働き口は決まったの?」
一通り注文が済むと、佐和子は
「うーん、演奏できる場所は向こうに行ってから探す。それまでは、ハンバーガーショップの調理場でアルバイトさ。」
「それじゃあ、大変だな。」
太一も一応
「あら、もう生活するだけの収入を得る当てがあるとも言えるじゃない。やりたい事が
佐和子が玄のかたを持っているようで気に入らない。
「演奏できる場所ってそんなに
つい、否定的な言葉が口をつく。
「日本に比べれば、そういう場所はあるけど、アーティストも世界中から集まって来ているから、競争だね。」
玄は特に気分を悪くすることも無く、素直に応じる。
「腕を
佐和子の
「ありがとう。…少しは自信がなけりゃ、イギリスに行こうなんてしないさ。」
玄は、はにかんだ様な表情になる。
こいつは、大学時代からこんななよなよした感じだったろうか。それとも、就職とか、今の生活の中で変わってしまったのか。太一は何か生理的に受け付けないものに触れて
「頑張るだけ、頑張れよ。」
食事を済ませて出発ロビーまで、六人は
「じゃあ、そろそろ、行くよ。」
セキュリティゲートが見える場所で、仲間を振り返って玄が宣言する。
ああ、さよならだ。
何かから解放される気分が太一を
「あ、安藤君。」
遠ざかる玄を追いかけて、
「
佐和子はそれだけ言って、太一たちと一緒にゲート前に並ぶ玄を見ている。太一は
玄を見送った後、集まった仲間で何かしようという話も出たが、結局、何もしなかった。玄が乗った飛行機が飛び立つのを展望台から見送って、機会がなければ来る事の無い空港の中をショッピングがてら、ぶらついただけで、そのまま解散となった。太一は佐和子を自宅の
「話を聴いてもらえるかな。」
帰りの車の中、たわいもない会話の途中で、突然、太一は切り出す。それは、思い付きではない。前からこのタイミングで話そうと決めていた。空港の帰り、高速道路を走行中なら、細かい道路事情に注意する必要は無い。佐和子の表情ばかりを見る
「なに?」
佐和子の声が急に
「夏に同期の飲み会が有ったろ。俺、あの時にさ、久し振りに有田の顔見て、
太一は言葉を切った。ちらりと佐和子の顔を横目で確かめる。彼女は真剣な顔で黙ったまま、太一の横顔を見ている。彼女は話さない。車のエンジン音と道路の
「今日も、こうして一緒に話していて楽しいなって…。こういう
「二人で?」
佐和子の声が予想以上に冷静で、太一はドキリとする。
「…そう、二人で。」
ここで
「…そう、ありがとう。」
静かに言って、佐和子が視線を進行方向に向ける気配を感じる。少しも
「なんかね、
「それは…、確かに
「樫垣君は近過ぎるんだよ、きっと。ほんとの家族みたいな感じだから。こういう付き合いを続けても変わらない。それじゃ、樫垣君に変な期待持たせるだけ悪いでしょ。」
なんで、試してみない内から、そんな
「どうしても
「うん、…
「いや、謝らなくて良い。俺が勝手に、今日言おうと決めた事だから。」
ハンドルを持つ両手に
「私、こんな事言ったら、勝手な女だと思われちゃうけど、大学のサークルの仲間達とは、ずっと仲の良い仲間で居たい。…時々集まって、ふざけて、馬鹿やって。…そういう
佐和子は、固まった空気を払う様に、一生懸命に話す。
「ああ、学生の時の仲間は特別だと思うよ。」
今度は、太一の言葉に力が入らない。佐和子に悪いと思っても、どうしようもない。
「
「あれは、ちょっとした行き違いが原因だったじゃないか。そんな事で合宿が変な雰囲気になるのが
実はその頃からもう好きだった。だから夜中まで付き合ったんじゃないかと言ったら、佐和子を追い詰めてしまうだろうか。そうしたい気持ちが
「これで樫垣君とは
「そんな事ない。気にしないで良い。」
「ありがとう。気持ちに答えられなくてごめんなさい。」
「いや、…いいさ。」
会話は
「ありがとう。それじゃあね。」
駅のロータリーで降りる時、佐和子はしっかりと太一の目を見て言う。笑顔じゃないが、その
「それじゃ。」
太一は軽く笑顔を作って、佐和子を送り出した。