その一 侵入

文字数 37,177文字

第三章

  汝が立っている所にこそ、ありとあらゆる世界が存在する。
  ――『ゾーハル』より


その一 侵入

 遠くで鐘が鳴っていた。目覚める少し前のまどろんだ心の底で、音はカランカランと心地よく響いた。だがそれは、段々と近寄ってきて、そのぶん耳障りになり、ついには頭が割れるような騒音に変わった。すると負けないくらいの大声が窓の外から飛びこんできた。「ユッド!ギー=ユッド!起きて!ユーッド!」
 太っちょは頭を振り振り寝床から起きあがった。「おい、近所迷惑だぜ!」彼は窓から半身を乗りだしているラメッドに大声で文句を言った。すると彼女は鐘を打ち鳴らすのをやめ、澄ました顔で言った。「寝坊してるあんたが悪いんじゃない」そう言うなりカササギは身をひねって窓の外に消えた。バサバサと羽音がして、暗い部屋の中にさっと朝日が射した。
 太っちょは身支度を済ませると、北の塔から飛び立ち、朝の勤めに向かった。眼下には朝日を浴びた町並みが広がっている。金粉をまぶしたような朝靄の上に、様々な形をした塔が林立し、あちこちにある屋上庭園では、木々の若葉が明るい緑色に輝いていた。だが太っちょは憂鬱だった。彼は暖かい風を翼に受けながら、何度も深いため息を漏らした。落ちこんでいたのは彼だけではない。ケルビム(天使たち)の町は今、ひどく重苦しい空気に包まれていた。
 メガネのベー=ユッドが行方不明になってから、はや半年が経とうとしていた。当時は様々な噂が乱れ飛び、神の怒りを心配する声が方々であがった。不首尾が起きたのは、ウリムとトンミムが審判を下す前だったのだ。これが天使たちの不安を余計にかきたてた。長老たちが東奔西走し、浮き足立つ天使たちを怒ったり宥めたりした結果、ようやく町に落ち着きが戻り始めた。すると今度は神殿に異変が起きた。夜の聖山に怪音が響き、直後に雷が起こって、目も眩むような光を放ちながら海に落ちたのだ。だがそれも、ケルビムの社会を震撼させた大事件の先触れにすぎなかった。町の上空に怪光が走った数時間後、神殿で夜半の勤めを行っていた八千四百のケルビム全員が、心に異様な叫びを聞いた。その直後、トーラーの柱が急に光を失い、神聖文字を見ても声が聞こえなくなった。神殿は恐慌状態に陥った。太っちょは数えの橋の上に立ち尽くし、沈黙した神の柱を呆然と見上げていた。天使たちが叫び声をあげながら上へ下へと乱れ飛ぶ中、ラメッドが小石のように落ちてきて、太っちょに抱きついた。彼は言葉もなく震えているラメッドの金髪を撫でながら、「なに、大丈夫さ、大丈夫さ…」と何度もつぶやいた。だがそう言う太っちょの顔も真っ青だった。数分後、柱に再び光が宿り、神聖文字の声も復活した。色を失って右往左往していた天使たちに、長老らとレビたちが檄を飛ばして、勤めが再開された。だが作業は捗らなかった。衝撃から覚めやらなかった天使たちから、エドムの王名が何度も生じたのだ。混乱は翌日の午の勤めまで尾を引き、夕方になってようやく落ち着いた。それがついふた月前の出来事だった。
 太っちょのユッドは朝日を浴びて輝いている南の塔を暗い気持で眺めた。メガネのユッドは行方不明扱いになっているが、町の底に落ちて死んでしまったのは誰の目にも明らかだった。そのことを思うたび、錐で突かれたように心が痛んだ。彼にはひとつ、苦い思い出があった。メガネが施療院から逃げだした夜、部屋に二人のレビが押し入ってきたのだ。彼らは居丈高な態度で太っちょに迫った。まるで自分がメガネを匿っているような物言いだった。彼は震えあがり、懸命に潔白を主張した。その時の自分を思いだすにつけ、悔しさがわき起こるのだ。どうにもだらしなく、卑怯ですらあった。自分可愛さに友だちを売ったも同然だ。あの夜以来、ラメッドとはメガネの話を一度もしていない。今朝もそうだが、彼女はメガネのことも、その後神殿に起こったことも、一切なかったように振る舞っていた。太っちょは尚更やるせない気分になった。
 神殿に集った天使たちは、皆、浮かない顔をしていた。勤めの間にも、不安な顔をしてそっとあたりを見回す者や、ひそひそと私語を交わす者が後を絶たなかった。こんな状態が、トーラーの柱の異変からずっと続いているのだ。最近ではレビたちも匙を投げ、不届きな態度に見て見ぬ振りをしていた。エドムの王名が朝の勤めだけで三度起きた。これもいつものことになりつつあった。
 ラメッドと夕食をとった後、太っちょはひとりでとある集会にでかけた。アレフ=シンが毎週開いている講話の会で、最近つとに人気を呼んでいたのだ。会場は町の北側の一角にあった。太っちょは茜色をわずかに残した空から降下し、灯りを点す大小の塔の間を飛んで、巨大なカボチャのような丸い建物の上で急降下した。列をなす大きな窓から煌々と灯りが漏れ、中に沢山のケルビムがつめかけているのが見えた。聞き覚えのある甲高い声が切れ切れに聞こえる。講話はもう始まっているようだ。
 太っちょが建物の天辺に空いた入口から滑り込むと、そこは大きな球形のホールだった。ゆるいカーブを描く壁面から沢山の止り木が互い違いに伸び、どれも白い羽を畳んだ天使たちで鈴なりだ。太っちょは間に割り込んで席を確保すると、背伸びして広い部屋の真ん中に目をやった。ホールの底から樫の巨木がにょっきりと生え、天辺に円い論壇が据えられている。アレフ=シンは聴衆に背を向け、黒板になにか書きつけている所だった。禿げた後頭部が真上の灯りを反射して、てらてらと光っている。彼は白墨を置き、皆の方に振り返った。黒板には四つの神聖文字が書かれている。

‎דברי

 文字が目に入った途端、太っちょは顔をしかめた。頭の中に声が入りこんでくる。

(言葉・コトガラ・言葉・コトガラ・言葉…)

 声は二つの言葉の間をぶるぶると揺れ動いている。複数の意味を持つ単語を目にすると、こういうことになるのだ。太っちょの回りの天使たちも不快そうに頭を振っている。アレフ=シンは黒板の字を消した。同時に声も止んだ。「このように、神聖文字においては『言葉』と『ことがら』が同義である」シンはメガネの奥で鷹のような目を光らせ、居並ぶケルビムを睨みつけながら喋った。「つまり万物の根源は言葉であり、光の存在の前に、神の「光あれ」という言葉があるということだ。言葉はこのように、常に事物の背後にあり、楔のようにこの宇宙に打ちこまれているのだ。逆に言葉がなくば、宇宙は即座に原初の混沌に還ってしまうだろう」太っちょは小さいため息をつき、(帰ろうかな)と思った。彼はなにか耳寄りな情報はないかとここにやってきたのだ。これではゼーイル・アンピーンのいつもの小理屈と変わりがなかった。シンは声を張りあげ、滔々と語った。「小川の底に積もっている砂粒のひとつひとつを考えよ。どのひと粒も、この宇宙の広がりと歴史を構成する必然的な要素なのだ。その内のどのひと粒が欠けても、この宇宙は成り立たぬ。神の目には、無意味なものなどは、ただひとつとして存在しないのだ。我々の限られた認識では、その必然性が捉えられぬというだけの話だ」太っちょの左右の天使たちは食い入るようにアレフ=シンを見つめ、熱心に耳を傾けている。「ゆえにトーラーの柱に顕われる文字の連なりは、我々の目にいかに無意味に見えようと、神が閲する限りにおいて、すべてが神聖な意味を持つ。我々が行っている勤めは、神から流出した言葉を、再び神の目の前に戻すことに他ならぬ。それこそがティクーン(復元)の意義なのだ。我々がその言葉の意味を解するか否かは、実はそう大きな問題ではない。重要なのは、我々が宇宙の進化の欠くべからざる要素として存在していることなのだ。我々なくして、宇宙の復元はなされない」アレフ=シンはそう言うと、まわりをぐっと見回した。広い講堂を埋め尽くす天使たちの間で、多くの頭が「そうだそうだ」というふうに大きく頷いた。皆不安で、自分を元気づける言葉が欲しくて仕方がないのだ。太っちょは(つきあってられねえや)と思い、止り木からジャンプすると、翼を広げて出口に向かって飛んだ。ちょうど真上から一人の天使が降りてきて、羽と羽が軽く触れ合った。「失敬」太っちょは小声で詫びを言い、相手も黙礼を返した。ホールの戸口から飛び立った後で、太っちょは(あれ?)と思った。今すれ違った髭面を、どこかで見かけた記憶があったのだ。だが彼は、その気がかりをすぐに忘れてしまった。これからラメッドの部屋に行こうか、それともどこかの酒場にしけこもうかという問題の方が、はるかに重要だった。

 その頃、神殿の至聖所の奥まった一室では、大長老ツァデクと長老ギー=ベートが小さな卓を挟んで座っていた。ギー=ベートは苦い顔をして言った。「ですが、卓越せるツァデクよ。私には少々荷が重すぎるように思います」彼は、猿のような皺だらけの小さな顔を、更に皺くちゃにして続けた。「大長老代行の任には、アレフ=シンのような男こそが相応しいのではないでしょうか」すると大長老は首を横に振り、きっぱりと言った。「いいえ、彼には危ういところがある。私の代わりは任せられないわ。あなたみたいに穏健で、冷静な判断ができるケルブでなければね」ギー=ベートは意外の念に打たれてツァデクの顔を見た。かのベー=ユッドの件の時、死刑を宣告した彼女に、真っ先に抗議の声をあげたのは彼だったのだ。「ギー=ベート。今は大事な時よ。私にもしものことがあった時に、適切に状況を判断して指示を下す者がいないと、恐ろしい結果を招くことになる」上品に束ねられた銀色の髪の下で、大長老の顔が憂いに曇った。彼女はひどく疲れているように見えた。その様がギー=ベートに決心をさせた。彼は頭を深くさげて言った。「かしこまりました、卓越せるツァデクよ。至らない身ではありますが、仰せの通りにいたしましょう」ツァデクは微笑んで言った。「ありがとう」しかしその顔は、すぐに苦しげな顔に戻った。「でもあなたには、とてもつらい思いをさせることになる。許してね」
 二人は小部屋の外に出た。湾曲している廊下の突きあたりに頑丈な鉄の扉がある。大長老は鍵束を取りだし、閂の錠をあけた。扉の先は細くて暗い縦穴で、壁の内側を階段が螺旋状に這いのぼっている。30アンマ(15メートル)ほど上に円い出口が見えていた。穴は翼を広げるには狭すぎ、大長老は老齢で飛べなくなっていたので、ギー=ベートは腰の曲がったツァデクを支えながら、一歩一歩階段をのぼらねばならなかった。二人の老人がふうふう喘ぎながら階段をあがり切ると、そこは円い広間の真ん中だった。「ここは…」ギー=ベートが驚きの声をあげた。部屋の壁の一方には銀色に光る大きな扉があり、反対側には金色の扉があった。大長老が言った。「そう、ここがビーナー(知性)の書庫と、ホクマー(智慧)の書庫の入口よ」ホクマー(智慧)の書庫は、千年にわたるケルビムの歴史の中で、一度も開いたことがないとされていた。金色の扉の面に神聖文字が刻まれている。ギー=ベートはすが目になって、左右の扉をまたいで横に並んでいる文字を読んだ。不思議なことに文字は沈黙したままで、声が伝わってこない。だが長年の経験で意味は容易に読みとれた。ただ「自由ナル者ノミ」とある。「そっちには入れないわ」大長老はギー=ベートの背中を叩いて促すと、銀の扉に向かった。神聖文字はなく、代わりに実をたわわにつけたリンゴの木が浮き彫りになっている。(噂に聞いた通りだ)とギー=ベートは思った。こちらがビーナー(知性)の書庫の入口なのだ。十万のケルビムの中で、ひとり大長老のみが入室を許されている聖域だった。
 二人が前に立つと、扉が音もなく左右に開いた。真っ暗だった部屋の中に、ぱっと灯りが点った。ギー=ベートはツァデクの後について、恐る恐る足を踏み入れた。天井の高い長方形の部屋だ。両側の壁に四角い金属の櫃が高く積みあがっていた。左側の壁に整然と積まれた櫃には神聖文字で数字が振られ、手前から奥に向かって何百個も並んでいた。右側の壁に積まれた櫃には数字ではなく表題が記されている。近くの櫃に目をやったギー=ベートは思わず息を呑んだ。「イザヤ書…」彼は回りの櫃に目を走らせた。「エゼキエル書」「ヨブ記」「詩編」…。それらはとうの昔に失われたとされている聖典の名前だった。ケルビムの間では、不完全な口伝として、そのあらましが知られているだけの書物たちだ。冷たく輝く銀色の箱の群れを、ギー=ベートは呆然と見つめた。「こっちよ」大長老はギー=ベートを促して、部屋の右手前の隅に向かった。そこには粗末な木の机と真っ黒な木の櫃が置いてあった。大長老は小さな椅子に腰をおろすと、足元の櫃から銀色の四角い塊を取りだし、机の上に置いた。薄い金属の板を沢山重ね合わせ、一冊の本のように綴じたものだ。ギー=ベートは鈍い光沢を放つ表面をじっと見た。神聖文字がびっしりと綴られている。だが、ホクマー(智慧)の書庫の扉と同じく、文字の声は聞こえなかった。ツァデクは言った。「ここにはケルビムの町の前史が記されている。代々の大長老の間で受け継がれてきた、門外不出の文書よ」紙のように薄い板をパタンパタンとめくりながら大長老は言った。「私はこれを読んだ時、大長老に選ばれたことを心底悔やんだわ」彼女は顔をあげると、厳しい目になって、傍らで立ち尽くしている猿面を見据えた。「いいこと。これから私が話すことは、なにがあっても口外しないで。約束してちょうだい」ギー=ベートはごくりと唾を呑みこんだ。「かしこまりました、卓越せるツァデクよ」大長老は彼をじっと見ながら言った。「ギー=ベート。第三のトーラーは、実は一度、この世に姿を現しているのよ」その言葉の意味がギー=ベートに呑みこめるまで、しばらく時間がかかった。やがて彼の目が大きく見開かれた。「なんと…」そう言ったきり、猿面は絶句した。「見つけだしたのは翼なき者たちよ。千年の昔にね」大長老はそう言うと、机の引出しからメガネを取りだした。彼女は小さなレンズを鼻の上に乗せ、銀色の板に目を落とすと、訥々と語った。「彼らは新サバタイ派と呼ばれる宗派の信者だった。当時の世界では多くの国々が互いに憎み合い、戦争に明け暮れていたと言うわ。新サバタイ派は、世の乱れこそが至福の新時代の先触れだと信じていたらしいの。彼らはティクーン(復元)委員会という名の結社を作り、莫大な財を投じてウリムとトンミムを建造した。その目的は、モーセ五書の文字を組み替えることにより、次のシュミッター(宇宙期)に相応しいトーラー(律法)を探すことだった」ギー=ベートは恐る恐る口を挟んだ。「卓越せるツァデクよ。つまり翼なき者たちが、我々と同じことを行っていたと?」「いえいえ」ツァデクは首を横に振った。「今のウリムとトンミムは、本来持っている力の、ごくごく僅かしか使っていないのよ」彼女は天井を見あげた。その向うにウリムとトンミムの本体があるとされていた。「哲学の薔薇の中には、宇宙生成前の混沌と繋がっている極小の門がある。私たちは、そこからエン・ソフ(無限なる者)の声を聞きとっているわ。あなたも知っているように」ギー=ベートは無言で頷いた。「今、その門は二十二しか使われていない。だけど哲学の薔薇の結晶の中には、他に五百億個の門が並んでいるらしいわ。ずっと閉ざされたままでね」ギー=ベートは眉をひそめた。それが一体どんなことなのか、彼には想像もつかなかった。ツァデクは続けた。「千年前、ウリムとトンミムは、その持てる力をすべて使って、三十万四千八百五個の神聖文字が織りなす広大無辺の宇宙に分け入り、その隅々までを探索した。私たちが何千億年かけてもなしえないことを、わずか三年でやりとげたのよ。その結果、なんらかの首尾一貫した意味を持つ文字の列が、六十万通りほど発見されたとあるわ」ギー=ベートの顔が歪んだ。その途方もない数には、ひどく冒涜的な響きがあったのだ。大長老は金属板を指で繰りながら話し続けた。「でも、そこにはあらゆる種類の文章が含まれていた。くすっと笑える滑稽話集やら、ありえないほど大きな椅子の使用法やら、中には口にするのも汚らわしい内容のものもあったというわ。機械が無差別に選びだしたものですものね」猿面の額の皺が更に深くなった。大長老の話には神聖さの欠片もなかった。それどころか、どこからか悪魔の嘲笑が聞こえてきそうだった。「ティクーン委員会は、更に二十年以上の時間をかけて、六十万の文書の中から、神聖な内容を持っていると思われるものだけを選別した。さぞかし砂を噛むような作業だったでしょうね。その結果、四十八の群に分かれる九百五十五の文書が残った。それらはシェアール(残りの者)と呼ばれ、大切に保管された。それがこれよ」ツァデクが指さした先には、番号を振られ、整然と並んだ櫃があった。驚き呆れているギー=ベートの傍らで、彼女は低い声で言った。「私はいくつか櫃を開いて、中身を読んだことがある」「どんな内容なのです?」「立派なものだわ。どの一節にも、謎めいた深みと至高の輝きがあった。モーセ五書にも引けをとらないように思えたわ。でも私は怖くなって途中で読むのをやめたの」「なぜです」ギー=ベートは話に引きこまれるあまり、大長老に尊称をつけて呼ぶのを忘れていた。彼女も自分の思いに沈み、それに気がつかなかった。「シェアール(残りの者)を書いたのは誰でもない。翼なき者でも、ウリムとトンミムでもない。彼らはただ、可能性の海の中を探して回っただけなのよ。それに、あらゆる組み合わせを吟味した結果なのだから、奇跡や神が介在する余地もないわ。これらを生んだのは、単なる確率の法則なのよ。その、誰でもない者に書かれた言葉が、確かに私の心を打ったの。これは恐ろしいことだわ」「つまり、これらが第三のトーラーなのですか?卓越せるツァデクよ」ギー=ベートが壁に積まれた櫃の群を呆然と見あげながら尋ねると、大長老は悲しげに首を振った。「いいえ、そこまでの話だったら世界は滅びず、ティクーン委員会は、単に風変わりな世捨て人の集団として終わっていたでしょう。でも彼らは更にその先へと突き進み、ついにシェビラー(器の破壊)を招いてしまったのよ」喋っている内に大長老の疲労はいや増しに増していくようだった。彼女はのろのろと続けた。「きっかけは、九百五十五の文書の中に、真の第三トーラーと思われる記述が、ひとつだけ見つかったことよ」ギー=ベートは大長老をまじまじと見て尋ねた。「卓越せるツァデクよ、一体どのような内容なのですか?」「それがまったく不明なの。四十二番の番号が振られた文書だったそうだけど、今その櫃だけが空なのよ」ツァデクはため息をついて金属板の束を叩いた。「ここには十人の委員が目を通したと記されている。でも彼らは即座に精神を病んでしまったそうよ。七人はその場で自死した。二人は完全な失語症になってしまい、意志の疎通ができなくなったというわ。残るひとりはひどい錯乱状態に陥って、そのまま回復することがなかった。ただ、彼の切れぎれの言葉からわかったのは、『この書物は、この宇宙に存在してはならない』ということだったの」ギー=ベートは深く眉をひそめて言った。「古の言葉にもありましたな。『智慧は命ある者の地で見出すことはできない』と」「その通りよ。私たちは、生きたまま第三のトーラーを目にすることはできないの」ギー=ベートは悲痛な顔で尋ねた。「卓越せるツァデクよ。だとすれば、我々ケルビムとトーラーの柱は、一体なんのためにこの世にあるのでしょう」大長老は冷たい口調で答えた。「契約の履行のためよ。世界が再び滅びるのを防ぐためでもあるわ」彼女は鈍く光る文字を指で辿りながら続けた。「ティクーン委員会は自分たちの試みが失敗に終わったことを知り、第三のトーラーを永久に破棄しようとした。ところが委員のひとりが頑強に反対したの。彼は当時、世界で一、二を争うほどの富豪だったというわ。ウリムとトンミムも、実質は彼の私財で造られたらしいのよ。名をエノクといって、徹底的な虚無主義者だったとも、逆に敬虔な人物だったとも言われている。とにかく複雑な性格の持ち主だったらしいわ」細くて白い指が苛立たしげに金属板を叩いた。ツァデクはギー=ベートに向き直り、灰色の瞳で彼を見つめながら言った。「彼は破棄される寸前だった第三のトーラーの写本を一部持ちだし、彼にしかわからない場所に秘匿した。その上で、彼はメータトローンを生みだしたの」ギー=ベートは驚いて尋ねた。「卓越せるツァデクよ。翼なき者が、神を生んだとおっしゃるのですか?」「そうよ。メータトローンは最初、模倣の神にすぎなかった。ティクーン委員会は、トーラーの探求と平行して、神がいかに振る舞うかを知ろうとしていた。彼らは巨大な機械の脳に森羅万象の出来事を記憶させ、その心の中にひとつの宇宙を作りだした。機械は夢を見るようにして、偽物の宇宙をそっくり再現するのよ。メータトローンはその偽の世界で神としてふるまうべく設計されたの。あらゆる聖典が機械の脳に詰めこまれたというわ。ところがエノクは、メータトローンを現実の宇宙に解き放ってしまったのよ。過失だったとも故意だったとも、冗談のつもりだったとも、様々に言われているわ。でも真相は闇の中。今となってはどっちでもいいことね」大長老は金属板をパタンととじ、メガネを外して続けた。「メータトローンはたちまち強大な力を得て、ついにはメルカーバー(天の車)をも支配下に置いたの。そして翼なき者たちに悔い改めを迫った。第三のトーラーが顕現したのだから、慈愛が支配する次のシュミッター(宇宙期)に移行すると宣言したのよ。だけどその移行の条件は、今ある宇宙を徹底的に破壊し尽くすことだったの。翼なき者たちは恐れおののいて、機械の神の命令を拒絶した。するとシェビラー(器の破壊)が起き、翼なき者たちの世界は一夜にして壊滅した。生き残った小数の者の中にエノクがいた。彼はメータトローンに取りなしを乞い、トーラーの柱を作って、ケルビムに贖罪を行わせることを条件に、千年の猶予を得たのよ。これが私たちの町ができた理由だわ」そこまで語り終えると、ツァデクはギー=ベートの顔をじっと見た。「どう?聞いてしまって後悔したでしょ」猿面はがっくりと肩を落として言った。「卓越せるツァデクよ、今までのお話からは、およそ神の息吹というものが感じられません。これは恥辱と呼ぶに相応しいのではありませんか」「その通りよ」大長老は答えた。「歴代の大長老たちは、その恥辱に耐えて、ケルビムの町を支えてきたの。私にもしものことがあった時は、あなたにその任を担ってもらわなければならないわ」ギー=ベートは下を向いたまま、ぎりぎりと奥歯を噛んだ。時満ちて、穏やかに生涯を終えようとしていた今になって、不意に耐え難い重荷がのしかかってきたのだ。「この町だけじゃない。今は宇宙全体が危機に瀕しているのよ。だから私はやむなく、あの若者の命を奪う決断をした。私自身の誇りも、大長老として守るべき倫理も、全部投げ捨ててね」ギー=ベートははっとして顔をあげた。「卓越せるツァデクよ、すると、あの若者に宇宙を滅ぼす力があったとおっしゃるのですか?」ツァデクは深く頷いた。「そうよ。それに恐らく、彼はまだ生きている。ケリポートの外でね。神殿の異変は、たぶんベー=ユッドがなんらかの行動を起こした結果だと思うわ」「なんと…」ギー=ベートの皺だらけの顔の中で、両の目がまん丸に開いた。「あなたもさっき見たでしょう。ホクマー(智慧)の書庫には私ですら入れない。あそこに入ることができるのは『自由ナル者』だけよ。この『自由』の意味はよくわからないけど、どうやらその条件のひとつは、一度ケリポートの外に堕ちて、そこから戻ってくることらしいの。ベー=ユッドはたぶん、その資格を得たのよ」大長老は腰をかがめ、恐るべき歴史が記された金属の本を櫃にしまった。彼女は真っ黒な木の蓋を撫でながら続けた。「『自由ナル者』が書庫の壁に第三のトーラーを納めることで、エノクとメータトローンの間に交わされた契約は成就する。でもその結果は宇宙の物理的な破壊でしかないの。これを読む限りではね」「しかし、卓越せるツァデクよ」ギー=ベートは苦しげな顔で尋ねた。「あの若者が、その真実を知った上で、敢えてそのような行動をとるでしょうか。それに第三のトーラーの在りかも不明なのではありませんか?」すると大長老は考え深げに言った。「ギー=ベート、問題はベー=ユッド個人の意志を越えているのよ。もっと大きな力が働いているの。恐らく第三のトーラーは、間もなくここに現れる。どういう形でかはわからないけど、今は部下に全力で探索に当たるように命じてあるの。どんな徴候も見逃さないようにとね。それに、この流れに手を貸そうとしている者がもうひとりいるわ。アレフ=シンよ」ギー=ベートは息を呑んだ。「彼が…?」「そう、アレフ=シンは、エノクとメータトローンの間に交わされた契約を知っている。どこでその知識を得たのかはわからないけれど、彼の行動は、そう解釈しないと説明がつかないわ。彼はベー=ユッドを『自由ナル者』に仕立てあげるために、ケリポートの外に追いやった。私はなんとかそれを阻止できたと思っていたけど、詰めが甘かったわ。ベー=ユッドが再び町に戻ってくれば、アレフ=シンは契約の成就のために、あらゆる手を尽くすでしょう」「しかし、卓越せるツァデクよ」ギー=ベートは絞りだすような声で尋ねた。「つまるところ、アレフ=シンは神の意志に従っているのではありませんか?それがどんな結果をもたらそうとも、理と義は彼にあるのではありませんか」大長老は、言い聞かせるような口調で、ゆっくりと答えた。「でも、その神の正体は、狂った機械なのよ」「卓越せるツァデクよ、そんなお言葉をあなたから聞くのは、あまりにつらい」猿面は涙をぽたぽたと落としていた。「それでは、この世は暗愚と虚無に支配されているとおっしゃるのか。我々はその玩具にすぎないとおっしゃるのか」ツァデクはその腕をやさしく握って言った。「いいえギー=ベート、神聖なものは確かにあるわ」老いた天使は、涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて尋ねた。「それは、どこにあるのです?」大長老は微笑んで言った。「それは、私たちがここで生きているという事実よ」彼女は猿面の腕を握る手にぐっと力をこめ、彼を近寄せて言った。「世界がどんなに狂っていても、歴史がどんなに馬鹿馬鹿しいものであっても、その事実は変わらない。私にとって、この町と、十万の子供たちの命こそが神聖なのよ」ツァデクは両目を一杯に見開いている猿面を見返して続けた。「私はそれを守るためならなんでもする。魂が地獄に堕ちたってかまわないわ。ギー=ベート、あなたも私と一緒に戦ってくれる?」猿面は泣きじゃくりながら言った。「かしこまりました…かしこまりました…卓越せるツァデクよ…」ツァデクはそんなギー=ベートの顔を愛しげに見つめている。だが大長老は、彼女が知るすべてを彼に教えたわけではない。それは彼女の政治家としての狡猾さがなせる業だったが、同時に彼女の優しさでもあった。善良な長老にこれ以上の重荷は負わせるまいと、ツァデクは心に決めていた。

 アレフ=シンは、ホールの下階の控えの部屋で、居残った十人ほどの聴講生と議論を戦わせていた。熱心な生徒らは、尊敬する長老と直接言葉を交わしたことに満足し、やがてひとり、二人と帰って行った。残ったのは髭のベー=レーシュと二人の女だった。きりっとした顔立ちの女は、ユッドが失踪した日、シンに近衛兵の動向を伝えたレビだ。だが今の彼女は目立たぬように平服を纏っていた。もうひとりの小柄な女は、かつてユッドの隣で勤めを行っていた、彼と同名のベー=ユッドだった。当時短髪だった彼女の赤毛は、今では随分伸びて、おかっぱ頭に変わっている。三人の若いケルビムは、アレフ=シンを囲んで座った。口火を切ったのは髭だ。「アレフ=シン。このような場に我々を呼び寄せるのは、少々大胆に過ぎませんか?」するとシンは皆を鋭い目で見回して言った。「いや、わしはもちろんだが、君らも既に近衛兵から目をつけられている。むしろ、こういう公の場のほうが安全だ。だが話は短いほうがよい。なにか変わった徴候を見つけた者はいるか?」三人の天使は首を横に振った。赤毛のユッドが言った。「方々の噂に耳を傾けているけど、それらしい話は聞かないわ。神殿の異変以来、皆ピリピリしているから、ちょっとでもおかしいことが起これば、こちらの耳にも入りそうなものだけど」ベー=レーシュが言った。「アレフ=シン。探索の対象が漠然とし過ぎているのです。なにかもう少し、手がかりになるような情報はありませんか?」するとシンはふむと嘆息し、広い額をトントンと叩きながら言った。「シェキナーは第三のトーラーのありかまでは教えてくれなかったのだ。ただわしに、探せばすぐに見いだされるだろう、と告げたのみでな。確かなのは、それがこの町のどこかにあり、聖櫃保持者の帰還を待っているということだ。それも、かのベー=ユッドが見れば、直ちにわかる形でだ。我々は彼に先んじて新たなトーラーを手に入れねばならぬ。恐らく大長老もそれを狙っているはずだ」するとレビの女が頷いた。「最近、近衛兵たちは神殿を留守にすることが多いのです。彼らはケリポートの周辺にまで捜索の手を広げています。表向きは夷狄の侵入を警戒するためということになっていますが」髭は考え深げに言った。「灯台元暗しということもある。私は念のため、ベー=ユッドの部屋をもう一度あらためてみましょう」「うむ、頼むぞ。今日はこれくらいにしておこう」シンは立ちあがり、三人の若者を見回した。「くれぐれも気をつけろ。今のところ大長老はわしらの命までは狙ってこぬ。町の内部に余計な火種を撒きたくないからだ。だがいよいよ事態が差し迫れば、ツァデクは躊躇なく牙を向けてくるぞ」皆、シンの顔をひたと見つめて頷いた。彼は低い声で言った。「行け、エノクの子らよ」三人の天使は立ちあがり、部屋を去った。

 太っちょのユッドはほろ酔い加減で酒場を後にした。空に月はあがっておらず、三つのメルカーバーと無数の星々がまぶしいほどに輝いていた。太っちょは夜風を受けて舞いあがり、まばらに灯が点る町並みを見おろしながら家路についた。彼の左手には星影を背にした南の塔が見えていた。酔いと春の風とが、太っちょを感傷的にさせた。彼はふと、かつてメガネのユッドが住んでいた部屋を尋ねてみようと思い立った。
 太っちょは大通りを越え、ラメッドの眠る三日月館をかすめて、大小の塔がひしめく工房地帯の上を滑るように飛んだ。あたりは寝静まり、南の塔は真っ黒い影となって星空につき刺さっていた。彼は塔の回りをくるくると飛びながら上昇し、メガネのユッドの部屋の前に着いた。窓の鎧戸はあけ放たれていたが、中は真っ暗で様子がわからない。木戸を押すと、錠がかかっておらず、ギイと内側に開いた。太っちょはそっと中に入った。カンテラに照らされた室内はがらんとしていた。寝床は崩れ、藁が所かまわず散らばっている。そこに枯れ葉が混ざっていた。ずっと窓があけ放しだったのだろう。部屋の真ん中で、太っちょは大きなため息をついた。なんの意味もなかった。中途半端な感傷と中途半端な疾しさが中途半端な行動をとらせただけだ。四角い窓からメルカーバーが顔を覗かせている。赤い光が非難するように太っちょの目を射た。酔いが醒めてきた。彼はぶるっと身震いし、その場を立ち去ろうとした。
 すると背後でことりと音がした。太っちょはぎくっとして振り向いた。壁際に置かれた木の戸棚が目に入る。またことりと音がした。戸棚の中からだ。太っちょはそろそろと古ぼけた家具に近寄り、唐草模様が浮き彫りになっている扉を開いた。蝶番がキイと音を立て、中がカンテラの光に照らされた。木の棚が三段組まれているが、上にはなにも置いてない。が、太っちょが身を屈めて底板の奥を覗きこむと、隅に丸っこい石が押しこんであるのが見えた。彼は手を伸ばし、石を手にとった。見覚えがある石だ。いつも戸棚の上に置いてあった物だった。なんでメガネがこんな石を大事に持っているのか、理解に苦しんだ思い出がある。
 その時、太っちょを妙な感覚が襲った。カンテラに照らされた石の表面に見える、細かいあばたのような窪みが、虫眼鏡で覗いたように、急に大きくはっきりと見えだしたのだ。無数にあいた穴が、太っちょの目に向かって、一斉に押し寄せてきたようだった。彼は目眩に襲われ、石から目をそらそうとした。ところが見えない力が頭をがっちりと押さえ、離さなかった。石の表面が太っちょの視界一杯に広がった。と、気泡のようにぶつぶつとあいた穴のひとつひとつが赤く光り始めた。光はぐんぐんと増し、たちまち耐え難い強さになった。「やめろ!」太っちょは叫び声をあげ、真っ赤な光から逃れようとした。すると石からにゅっと大きな手が生えて、太っちょの体をむんずと掴んだ。そしてじたばた暴れる彼を、すぽっと石の中に引きこんでしまった。「うわあ!」太っちょは、絶叫しながらどことも知れない空間の中を落ちていった。彼の回りで無数の赤い光が乱れ踊っていた。それらは文字のようにも見えたが、常にうねうねと伸び縮みし、同じ形に留まっていなかった。やがて赤い光の群れはギー=ユッドの頭の中一杯に広がり、とうとうなにもわからなくなった。

 ベー=レーシュは南の塔に戻ると、真っ先に自分の部屋の一階下に向かった。メガネのユッドが住んでいた場所だ。もう何度となく確かめた後だったので、新たな発見があるとも思えなかったが、念には念を入れる必要があった。すると木の扉が開いていた。中からほんのりと明かりが漏れている。ベー=レーシュははっと身構えた。(レビが来ているのだろうか)彼は羽音を立てないようにして窓に近寄り、中をそっと覗きこんだ。すると床の隅に男が倒れているのが見えた。腰のカンテラがちらちらと瞬いている。消える寸前だった。他の誰かがいる気配はない。レーシュは注意深くあたりを見回しながら、部屋の中に入った。倒れている男の体を抱き起こすと、見たことのある顔だった。今日講堂ですれ違った男だ。レーシュは更に思いだした。この小太りのケルブはベー=ユッドの友人だ。ここに出入りしている所を何度か目にしたことがある。「おい、大丈夫か」レーシュは男の体を揺すったが、彼は眠りこけたままだ。昏睡しているようだが、寝息は規則正しく、安らかだった。彼は男の手に握られている物を見てぎょっとした。丸みを帯びた石だ。以前ここに忍びこんだ時に目にしていたが、つまらぬ物だと思って放ってあったのだ。ところが石は今、赤い色に鈍く輝いていた。光は石の表面で無数に枝分かれした筋をなし、静かに脈打っている。レーシュは男の手に握られている石を、恐る恐る触ってみた。熱くはない。彼は石を男の手からもぎ取ろうとした。するとバチッと音がして、石が閃光を放った。レーシュの右手に激痛が走った。「クッ!」彼は右手を押さえ、必死で声をかみ殺した。見ると手の平のあちこちが赤く焼けただれている。レーシュは痛みに耐えながら、赤く光る石をまじまじと見た。(これは第三のトーラーとなにか関係があるのだろうか)石の放つ光は、およそこの世のものとも思えなかった。それは冥界で永遠に燃え続けているという暗黒の炎を思い起こさせた。(いや)とレーシュは思い直した。(この石こそが、恐らく第三のトーラーそのものなのだ)どういうわけか、石は眠りこけている男と離れたくないらしい。レーシュは素早く考えを巡らせると、男の体を部屋の隅に引きずっていき、その上を藁で覆った。特に石の上には念入りに藁を被せ、光が漏れないようにした。(一刻も早く、アレフ=シンに伝えないと)レーシュは心を逸らせながら塔の外に飛び立った。その様子をじっと見つめる目があることに、彼は気がつかなかった。

 ユッドは揺れる舟の上で足を踏ん張り、ブンと鉄の鉤を放りあげた。縄がしゅるしゅると垂直に伸びあがり、20アンマ(約10メートル)上の露台に巻きついた。カエルが呆れたように言った。「なんてこと」彼女は水面から突きでた岩の上に立ち、ユッドの動きを見ていた。「私は一年かかったのよ。これじゃ立つ瀬がないわ」「いや、まだ二回に一回しか成功しないんだ。まだまだだよ」ユッドは照れ笑いを浮かべ、縄にとりついてするするとのぼり始めた。腕の力こぶが盛りあがり、丸く張りだしたふくらはぎが揺れた。彼の体は、この二ヶ月で更に大きくなっていた。体の奥に秘められていた成長の力が、解き放たれたバネのように彼の背丈を伸ばし、腕や腿の筋肉を太くした。カエルとの身長の差は頭ひとつ分ほどになり、なおも縮まりつつあった。ユッドは最初の露台にたちまち這いあがると、斜め上の次の露台目がけて鉤を投げた。一投目は狙いを外したが、間髪を入れずに繰り出された二投目は、岩から張りだした木の板に、生き物のように巻きついた。
 シェキナーの宮殿から帰ってきた後、ユッドは黙々と壁のぼりの練習に打ちこんできた。彼の目に、もう迷いは見られなかった。カエルはしばらく前から、再びユッドの訓練に立ち会うようになっていた。罵声を浴びせたり暴力を振るったりすることはなく、彼の動きをじっと見守り、時おり助言を与えた。その言葉は短く、簡単なものだったが、それを聞いた後のユッドの動きは見違えるように変わった。カエルは彼の成長ぶりに内心舌を巻いた。だがユッドはユッドで、上達すればするほど、カエルの技がいかに鍛え抜かれたものかを思い知るようになった。彼は町を脱出する時に彼女が見せた動きの数々を思いだしては、自分があれを真似するのはとても無理だと思った。しかもカエルは師もなく、たったひとりで鬼神のような技を身につけたのだ。
 二人は崖の間に渡された木の幹の上で組み打ちをした。ユッドが最初の練習の日にのぼらされた、一番高い場所に据えられた木だ。はるか50アンマ下に広がる水面が、洞窟の上から射しこむ光を浴びて、さざ波を光らせている。「さあ、どこからでもかかってきなさい」カエルは横木の上に足を揃え、すっくと背を伸ばして言った。ユッドは腰を屈めて身構えると、飛びかかると見せかけて、やにわに足払いをかけた。するとカエルはトンと跳びあがり、ユッドの背中を足蹴にして彼の後ろに着地した。ユッドはあやうく滑り落ちそうになり、幹にしがみついた。そこに声がかかった。「駄目よ。どんな時も、まず自分の足場を確保すること。攻撃は目的じゃない。自分の場所を保つ手段だわ」ユッドが振り向くと、彼を静かに見おろしているカエルの目と合った。彼女は相変わらず背をまっすぐ伸ばし、丸木の上に揃えられた両足は、そこから生えた枝のようで、わずかなぐらつきも見えない。ユッドは賛嘆の気持を隠そうともせずに尋ねた。「どうして君は、いつもそんなに堂々としていられるんだい?」彼は、カエルがかつて、吹きすさぶ風をものともせず、大通りに渡された橋の上を歩いていたさまを思いだした。すると彼女は、しばらくうーんと考えてから答えた。「つまりこれも、場所とか位置とかの問題かしらね」「位置?」ユッドが聞き返すと、カエルは考え考え言った。「自分の回りがどう変わっても、絶対に変わらないことがひとつある。自分がいる位置は、いつもひとつだけだということだわ」彼女はユッドに歩み寄り、彼の前でしゃがんだ。「二つの場所に同時にはいられないし、二人が同時に同じ場所にいることもできない。私はあなたと入れ替わることはできないし、あなたも私にはなれない」そう言って、カエルは指をユッドの額に押し当てた。ユッドは困惑して言った。「それはその通りだけど、俺の質問の答えにはなっていないよ」カエルは微笑みながら言った。「とにかく、私がいるこの場所は、神様がくれた場所なのよ。それは誰にも譲れないし、譲ろうと思ってもできやしない。そう思うと、なんだか心が落ち着いてくるのよ」ユッドは憮然として言った。「ふん、俺の前で神の名前は出してほしくないね」その時、下から声が聞こえた。「たのもう!」男の声だ。また声がした。「たのもう!どなたかおらぬか!」ユッドとカエルは顔を見合わせた。声は、狭まった洞窟の向うから聞こえた。小屋のあたりに誰かが来たのだ。
 二人が小舟でオヤジさんの根元に戻ると、枝の上にひとりの天使が立っていた。黒い長衣に金色の飾り帯をしている。近衛兵の士官だ。ユッドとカエルは舟の上で身構えた。カエルは足元に転がっていた木のヤスを引っ掴んだ。棒切れの先を尖らせただけの物で、剣を振るうレビに対するには余りにお粗末だ。他に武器らしい武器といえば、ユッドが腰に巻きつけている鉄の鉤くらいだった。黒衣のレビは枝から飛び立つと、舟の上でバサバサと羽ばたきながら二人を見おろした。青白い細面に、切れ長の目が光っている。カエルははっとした。彼はかつて二人を助けたレビのひとり、エリフだったのだ。彼は静かに言った。「ベー=ユッドか。見違えたぞ」「誰だ、おまえは」ユッドは叫んだ。彼はエリフの後ろ姿しか知らないのだ。するとエリフは言った。「私はエリフ。君の翼を切り落とした者だ」ユッドは驚いて頭上の天使を見つめた。カエルから、命の恩人が彼であることは聞いていた。「じゃあ君が…」とユッドが言いかけるとエリフはそれを遮るように言った。「ベー=ユッド。今日は君を斬りに来たのだ。尋常に勝負がしたい」細い目からはなんの感情も読みとれない。カエルの背筋が凍りついた。(薬を使っているんだわ!)咄嗟に体が動いた。彼女は手に持ったヤスを下手投げでビュンと投げた。棒は稲妻のように宙を走った。だがその切っ先が眉間につき刺さる直前に、手練の剣士は体をひねって避けた。カエルは間髪を入れず、ユッドの腰にぶらさがっている鉤を手にした。そして小さな金具をパチンと外して束ねてあった縄をほどくと、呆然としているユッドを尻目にブンブンと鉤を振り回した。エリフは低い声でカエルに言った。「君ではない。ベー=ユッドに言っているのだ」カエルの返事は言葉ではなく、うなりをあげる鉤だった。旋回する縄の先で、鉄の爪がエリフの脇腹に襲いかかった。ガチンと大きな音がして縄の動きが止まり、エリフとカエルの間にぶらんと垂れさがった。鉤は、エリフの左手に握られた剣に巻きついていた。幅広の刃は鞘に入ったままだ。エリフは静かに言った。「カエルよ。私は正気だ。薬を飲んではいない」彼は剣をブンと放った。それは縄と一緒に舟の上に落ちた。「取るがよい。私と勝負するのだ」そう言うと、エリフは腰にさげていたもう一本の剣を抜き放った。カエルが叫んだ。「エリフ、聞いて。ユッドは…」するとエリフは首を横に振って遮った。「いや、もはや言葉に意味はないのだ。君たちは宇宙の破壊者だ。私は君らを助けた愚を償わねばならぬ」ユッドはエリフの顔を呆然と見返した。カエルはなお言い募った。「ユッドは世界を壊そうなんて思っちゃいないわ」「いや、その可能性をいささかなりとも持つ者を、捨て置くわけにはいかぬのだ」今まで無表情だったエリフの目に、初めて苦渋の色が浮かんだ。その顔を見ているうちに、ユッドの心はしんしんと冷えてきた。例えようもない寂しさが彼を襲ったが、引き換えに落ち着きが戻ってきた。ユッドは羽ばたいて宙空に止まっている天使が、随分と小さく見えることに気がついた。(ああ、俺の体のほうが大きくなったのだ)と彼は思った。(俺は世界を破壊する化けものなのだ)と。ユッドは足元に転がっている剣を取った。「いいだろう」彼は鞘から剣を抜き放ちながら言った。「だが、敢えて互角の勝負がしたいと言うならば、ここにおりてきて、翼を使わずに俺と戦うがいい」カエルが小声で叫んだ。「ユッドやめて!勝ち目はないわ」目に怯えの色を浮かべているカエルに、ユッドは言った。「カエル。俺は多分ここで、逃げちゃいけないんだ」ユッドの顔は悲しげだったが、その目にはゆるぎのない決意が宿っていた。「ユッド…」そう言ったなり絶句したカエルに、ユッドは微笑んだ。「大丈夫。俺は死なないよ」エリフがバサバサとおりてきて、舟の舳先に立った。「カエル、頼む」ユッドがカエルを見て言うと、彼女は苦しげな顔で「その約束、絶対守ってね」と言い、頭上に張りだしていたオヤジさんの枝に跳び移った。その反動でゆらりと舟が揺れる中、エリフは剣を上段に構えて言った。「いざ」
 ユッドは舟の鞆まで後ずさると、剣を横様に構えた。武器を持つのは初めてだったが、その重みと絹の束はよく手になじんだ。エリフは内心ユッドの変わりように驚嘆していた。三ヶ月前の頼りなさげな青年とは完全に別人だ。野獣のような体躯ばかりではない。その瞳に宿る光は寂しげだったが、底知れない深みを持っていた。恐らく、会わない間にいくつも修羅場を潜ってきたのだろう。するとユッドは両足を踏ん張り、舟を左右に揺すり始めた。エリフの足がよろめいた。ユッドが言った。「君は剣の達人で、俺はずぶの素人だ。これくらいのズルは許してもらうよ」声にふざけた調子は微塵もない。彼は腰を屈め、重心を低く保ちながら、闘志に燃えた目をエリフに注いでいた。「好きにするがよい」エリフはそう言うや、脚力だけで舟の上をひと飛びに跳んで、ユッドに上段から刃を浴びせた。ユッドはあわてて剣を前にかざした。ガチンと音を立てて鉄と鉄がぶつかった。ユッドの手首に鈍い衝撃が走り、あやうく剣をとり落としそうになった。細身のエリフから繰りだされた刃は、大きな岩が落ちてきたように重く、圧倒的な力を秘めていたのだ。エリフは体勢を崩したユッドに、すかさず二の太刀を浴びせようとした。だがユッドはそのまま足をぐっと突っ張り、大きく舟を揺らした。慣れないエリフは横につんのめった。その脇をユッドの剣が襲った。エリフは咄嗟に斜めに剣をかざした。またガチンと大きな音がして火花が散った。一歩さがったエリフは、ユッドの獣じみた膂力と運動神経に舌を巻いた。こんな敵に相見えたのは生まれて初めてだ。肌に粟粒が立つのと同時に、混じりけのない称讃の念がわきあがってきた。エリフはその気持を必死で抑えながら考えた。(小手先の勝負は無用だ。次の一撃でなんとしても仕留める)そう決意して、エリフは剣を構え直した。ユッドは左右の足に強弱をつけ、舟を不規則に揺らしていた。だがエリフは下半身でその動きを相殺し、腰から上を不動に保った。黒衣のレビが細い目を幽鬼のように光らせ、ひたと自分を見据えているさまに、ユッドの背筋が凍った。(もう舟の揺れに慣れてきている。長引けば俺の不利だ)エリフは剣を上段に構えたまま、ゆっくりとユッドに近づいてきた。互いの剣が触れ合うほどの間合いになった時、ユッドの体がぐらりと揺れた。エリフが右の足で、思い切り舟底を蹴ったのだ。だがユッドは持ちこたえ、がら空きになったエリフの腹に向かって剣を突きあげた。ほとんど同時にエリフの刀が袈裟懸けに振りおろされた。「ユッド!」カエルの叫び声が鋭く響いた。
 カエルが見守る下で、二人の男は彫像のように動かなかった。今しも二つの体から真っ赤な血が吹きだすのではないかと、彼女は身を震わせた。だがなにも起こらない。見ると互いの刃は、相手の肌を切り裂く寸前で、ぴたりと止まっていた。エリフがかすれた声で聞いた。「なぜ剣を止めた…」ユッドの方が先に剣を止めたのだ。咄嗟の行動にユッドの腕は痺れ、心臓がまだバクバクと鳴っていた。彼は荒い息をしながらエリフを睨みつけた。「おまえ、わざと刺し違えようとしたな!」エリフの顔に動揺が走った。彼は剣をユッドの首筋に当てたまま、真っ赤になって怒鳴った。「だったらどうした!」するとユッドも大声で言った。「エリフ、おまえは意気地なしだ!」「なに?」思いもよらない侮辱に、エリフは目を剥いた。するとユッドは手に持った剣を横に放り投げた。剣はくるくると回転して飛び、離れた水面にぼちゃんと落ちた。広がる波紋を呆然と見つめるエリフの前で、ユッドはどっかりと座りこんだ。「エリフ、俺を斬れ!」「なにを言うのだ?」たじたじとなっているレビに、ユッドは畳みかけた。「どうした?俺は宇宙を破壊する災厄だぞ。今を逃してどうする?早く斬らないか!」ユッドは鬼のような目でエリフを睨みすえた。「うぬ…」エリフは脂汗を浮かべ、再び剣を振りあげた。そしてぎゅっと目をつぶり、腕に力をこめた。ユッドも目をとじた。カエルは枝の上で息を呑んでいた。ユッドの助けに入りたかったが、手足が凍りついたように動かなかった。と、ぶるぶると震えていた切っ先が、力なくさがった。エリフはがっくりと肩を落として言った。「駄目だ。私に君は斬れない」ユッドは目をあけ、エリフをじっと見た。そして、ふいに下を向いて言った。「そうだ、それでいいんだ」その声は低く、自分に言い聞かせているようだった。カエルは枝の上から、そろそろと舟におりると、座りこんでいるユッドの肩に手を置いた。彼は顔をあげ、カエルの手を握った。そして身を起こしながら言った。「俺が滅ぼすべき害悪なら、君は徒党を組んででも、闇討ちしてでも俺を討ち果たすべきだったんだ。なりふりなんて構っている場合じゃない」エリフははっと顔をあげた。ユッドは静かに続けた。「でも君はひとりでやってきて、俺に真正面から勝負を挑んだ。君は宇宙の運命と自分の誇りとを天秤にかけて、誇りを選んだんだ」エリフは再び頭を落とした。そして絞りだすように言った。「そうだ。私は手前勝手なうつけ者だ。なんということだ」ユッドは言った。「でもエリフ、それでいいんだよ」彼は下を向き、つぶやくように続けた。「誰も宇宙なんて背負えはしないし、そんな義理もないのさ」カエルはユッドの横顔をまじまじと見つめていた。(私が好きな鞜屋さんは、こんな男だったっけ?)彼の成長ぶりは怖いほどだった。カエルを置いて、どこか遠くに行ってしまいそうだった。するとユッドはカエルに振り向いた。もつれた金髪の間で、青い目が笑っていた。彼は言った。「みんな、自分が一番大事なものを守ればいい。それでいいんだ」
 しばらく後、三人は小屋の中で向かい合って座っていた。エリフが訥々と言った。「私はあれから、大長老が君の命を狙った理由を知ろうと、志願して近衛兵の一員になった。十人組隊長に昇格したのはついひと月前だ。ケリポート周辺の警備のために人員を増す必要ができてな。それで私も潜りこめたのだ」彼はそう前置きして、ケルビムの町に今なにが起きているのかを語った。ユッドは自分の行動が思わぬ波紋を広げているのを聞いて驚いた。だが、なにより衝撃を受けたのは、太っちょがシェキナーの石と接触し、意識不明になっていることだった。それを発見したのがエリフだったのだ。「私は偶々、君の部屋の周辺の監視に当たっていた。君の隣人だったベー=レーシュは、君に毒を盛った嫌疑では無罪放免だったが、その後は要注意人物として目をつけられていた。大長老はレーシュが属する秘密結社の動きを探るために、あえて彼を泳がせていたのだ。その結社の頭目は長老のアレフ=シンだ」ユッドの顔が曇った。髭の背後にはゼーイル・アンピーン(気短な者)がいたのだ。レーシュは地下のシェキナーの存在を知っていた。アレフ=シンの記憶がなにかのきっかけで復活したのかもしれない。だとすれば、彼はあえてユッドをケリポートの外に叩きだし、シェキナーに会うように仕向けたことになる。だがその狙いがよくわからなかった。エリフは続けた。「私もこれまでは、ごく曖昧な形でしか危機を知らされてこなかった。私のような新参者は大長老に直接接触する機会が少ない。古参の隊長たちに探りを入れようとしたが、彼らはツァデク様への忠誠心が強く、とても口が堅いのだ。だが私は異変の第一発見者となった。私はレーシュが君の部屋を出た直後に中に入り、君の友人が昏睡状態で石を握っているのを発見したのだ。私は即座に神殿に伝令を走らせた。すると私は大長老に直々に呼ばれ、状況をくわしく聞かれた。そして、口外を厳に慎むようにと命ぜられたのだ。私はこの機会しかないと思い、思い切って彼女の真意を正した。するとツァデク様は、君がまだ生きており、君と石が出会えば、宇宙的な災厄が起きると断言したのだ。その事態はなにがあっても避けなければならないとな」エリフはそう言ってユッドを見た。だが彼はなにも言わず、じっとなにかを考えている風だった。エリフは言葉を継いだ。「途方もない話だが、大長老が嘘を言っているようには見えなかった。それに私は異様な光を発する石を、この目で見たのだ。あの禍々しい光は、確かにただごとではなかった。だから私は、秘かにここにやってきたのだ」ユッドが「それで今、太っちょは…ギー=ユッドはどうなっているんだい?」と尋ねると、エリフは言った。「彼は石と共に、まだ南の塔の君の部屋に留まっている。昏睡したままだが、命に別状はないようだ。だが彼を部屋の外に移動させようとすると、石が高熱を発してそれを拒むのだ。部屋は近衛兵によって厳重に警護されている。ただし情報が外部に漏れぬよう、ごく目立たないようにしてな。表向き、君の友人は重病を患って施療院に収容されていることになっている」ユッドはむっつりと考えこんだ。彼の頭にはラメッドの顔がちらついていた。彼女はどうしているだろう。さぞかし太っちょのことを心配しているに違いない。するとカエルが尋ねた。「ベー=レーシュとアレフ=シンはそのまま放ってあるの?」「いや、彼らにもそろそろ逮捕の手が及ぶはずだ。だがまだ公式なものではなく、秘密裏に捕えられ、どこかに監禁されるのだろう。なにしろゼーイル=アンピーンは人望の高い実力者だ。彼が逮捕されたことが知れれば、ケルビムの町はひどい混乱に見舞われるだろう」エリフはユッドを見て続けた。「ツァデク様は君の死刑を勝手に決めてしまった。あのやり方に不満を持っている者も多いのだ。レビの中にもアレフ=シンに心酔している者が多数いる。下手をすれば内乱が起きかねない」しばしの沈黙があった。エリフはユッドを見て言った。「私は知っていることをすべて話した。今度は君の番だ。君は本当に宇宙に危害を加えようとしているのか」「いや、そのつもりはない」ユッドは即座に答えた。「でも、確かに俺は、石をホクマー(智慧)の書庫に運んでいくつもりだ。これがそれを納める聖櫃だ」ユッドが取りだした黒い箱を見て、エリフは目を丸くした。「聖櫃だと?なんの話だ?」ユッドは箱をパカリと二つに分けた。彼はいびつな形をした窪みをエリフに見せて言った。「ここに石を納めるんだ。あの石の正体は、第三のトーラーだと言うんだよ」「ちょっと待て」エリフは頭を振って言った。「俺にはまるでついていけないぞ。これは現実なのか?」「残念ながらそうらしい」ユッドはそう言って、聖櫃を自分の後ろに押しやった。「エリフ、俺にだってわからないことだらけなんだ。でも、いくつかはっきりしていることがある。ケリポートの外では、もうシェビラー(器の破壊)が始まっているらしい。地球の反対側では、沢山の翼なき者たちが、言葉を喋ることも、文字の読み書きもできなくなっているというんだ」エリフは驚いて尋ねた。「翼なき者だと?彼らはとうの昔に滅びたのではないか?」「いや、俺は実際に彼らと会っている。翼なき者たちは、様々な国に分かれて、この地上に沢山住んでいるんだ。第三のトーラーを書庫に納めないと、あと数ヶ月で彼らの世界は滅びてしまうらしい。千年前と同じにな。俺はそれを止めなければならないと思っている」「だが大長老は、君に石を渡したら宇宙が滅びると言っているぞ」エリフの問いかけに、ユッドはしばし黙りこんだ。そして、言葉を選び選び、答えた。「アリク(忍耐強い者)の言っていることは半分だけ正しい。ホクマー(智慧)の書庫には二つの穴があるというんだ。片方の穴に聖櫃を納めると、この宇宙は完全に破壊され、その後に新しいシュミッター(宇宙期)が始まる。そして、もう片方に納めれば、宇宙は消えずに、神がこの世から姿を消すらしい。これは地下で会ったシェキナーが言ったことだ」ユッドは、この世界を統べている神の正体が機械だということは黙っていた。レビにとって、真実はあまりに残酷だ。それでもユッドが語ったことは、エリフには十分衝撃的だった。「馬鹿な!そんなことは到底信じられん」そう言いながらも、エリフは暗い予感に襲われていた。剣の炎の突如の発動とトーラーの柱の沈黙、そして石が放っていたおぞましい光は、すべて滅びの徴候を示していた。彼は足元の大地が音を立てて崩れてゆくような感覚を覚えた。ユッドの言葉が更に追い打ちをかけた。「どちらの穴に聖櫃を納めても、ケルビムと町はその使命を終える。大長老はそれを恐れているんだろう」重苦しい沈黙の後、エリフが言った。「つまり君は、ケリポートの外の世界を救うために、神とケルビムの町を滅し去ると言うのだな」ユッドはむっつりした顔で頷いた。「たぶん、そういうことになる」「私には到底受けいれられぬ!」エリフは吐き捨てるように言うと、やにわに立ちあがった。そして大きな白い翼をそびやかし、出口に向かって歩き始めた。「どこに行くんだい?」ユッドが声をかけると、エリフは彼に背を向けたまま言った。「私は任務に戻る。次に相見える時は容赦をせんぞ!」するとユッドは言った。「いや、俺は君に一緒にいて欲しいんだ、エリフ」「世迷いごとを!」エリフは振り返り、ユッドをキッと睨みつけた。「私に反逆天使の片棒を担げと言うのか!」「そうだ」ユッドはエリフを静かに見つめて言った。「だが、俺がもし、本当に誤った行動をとりそうになったら、その時は、俺を斬って構わない」「なんだと?」エリフが信じられないという目をすると、ユッドはもつれた髪を掻き掻き言った。「俺だって自分の選択に自信があるわけじゃない。それに俺の知識はごく限られている。間違った判断をすることだって、十分ありえるんだ」彼は再びエリフを見あげた。「エリフ、君はただ、自分の良心に従って行動すればいい。君はそれができる男だ。だから俺は命を救われた」そう言って、ユッドはエリフに笑いかけた。カエルはかつてエリフが語った言葉が、そのままユッドの口から出たことに驚いた。だがエリフは忌々しげに言った。「なぜそうやって笑っていられるのだ?」彼の顔が苦渋に歪んだ。「私は君の翼を斬ってしまってからは、地獄の日々だったのだ。君が背負っているものは、その比じゃなかろうに」ユッドは口元に笑みを浮かべたまま言った。「そうだな、なんでだろうな」エリフはしばらく考えこんでいたが、やがてユッドを見て言った。「やはり私は町に戻る。君の提案は考えておこう。だが当てにはするなよ」彼は戸口に向かいながら言った。「もうひとつ。ツァデク様は石を破壊する方法を探っているらしい。その際はギー=ユッドの命を犠牲にするのもやむなしと言っているそうだ。古参の近衛兵から漏れ聞いた話だが」「なんだって?」ユッドが思わず腰をあげると、エリフは戸口に立って言った。「私が知っているのはそこまでだ。お互い時間はないぞ」黒衣の天使はジュートの幕をめくって表に出た。バサバサと羽音がして、屋根の隙間から洩れる陽光が一瞬遮られた。しばらく黙っていたカエルが口を開いた。「どうするの、ユッド」するとユッドはカエルを見て言った。「今夜にも町に行きたいんだ。太っちょが危ない」カエルは諦めたようなため息をついた。そして立ちあがって言った。「ならまず、腹ごしらえをしないとね」
 カエルとユッドは連れ立って漁に出た。日はだいぶ西に傾いていた。二人は黄金色のしぶきを立てて海に飛びこみ、水中で目を合わせて笑った。扁平頭の巨魚たちが集まってきて、二人の回りで輪を描いた。二人は一匹ずつ魚を獲った。深い感謝と詫びの心と共に。
 たっぷりとした夕食の後、カエルは自分の藍色の鞜と、ユッドがここに来た時に履いていた茶色の鞜を取りだした。二人は普段、裸足で過ごしていたのだ。そして彼女は、奥にしまってあったもう二足の鞜を持ってきて、ユッドの前に並べた。彼は驚いた。太っちょとラメッドのために彼が作ったものだ。カエルは水に落ちた鞜を乾かし、大切に取っておいたのだ。彼女は言った。「これを持っていったらどうかと思うんだけど」ユッドはしばらく考えてから、「うん、そうだな」と答えた。

 日暮れ前、二人は小屋を後にした。ケリポート(胡桃の殻)を越えるには、まだ光があるうちがいいとカエルが言ったのだ。それから町の底で夜中になるまで待ち、南の塔に忍びこもうというのだ。ケルビムの町から追放されて半年がたっていたが、ユッドは曜日の感覚を保っていた。今日は金曜日だ。日没から安息日が始まり、明日の日没まで続く。その間は神殿の勤めがなく、天使たちは外を出歩かなくなる。町は静かなはずだった。二人の出で立ちは、鞜をはいていることをのぞけば、普段と変わりなかった。袖無しの麻の上衣と膝までの短いズボン。腰の帯には小さな籠と、鉤のついたロープがくくりつけてある。服の汚れ具合も、真っ黒に日焼けした肌も、二人お揃いだった。上の町は今、遅い春だ。この格好でも寒くはないだろう。支度の最後にユッドは一度投げ捨てた剣を水底から拾いあげ、背中に結わえつけた。
 ユッドとカエルがオヤジさんの梢を伝い、洞窟の上に出ると、夕日が真横から二人を照らした。カエルは前に立ち、灌木の茂る谷地を奥に進んだ。すると右側の崖に、縄が一本ぶらさがっているのが見えてきた。カエルはその前で足を止めた。縄には等間隔に結び目がついていて、のぼりやすくなっている。ユッドが見あげると、縄は崖の上に茂る木々の間を抜け、その先は夕空の中に消えていた。「ここが町の入口よ」カエルはそう言ってユッドを振り向いた。彼女は厳しい顔をして続けた。「この縄をのぼっていくと、しばらく目の前が真っ暗になる。200アンマ (約100メートル)くらいのぼると、また目が見えるようになるんだけど、その間が結構きついの。なぜか、とても心細い気持になるのよ。町を守る仕掛けのひとつだと思うけど」ユッドはシェキナーが魚を使って島を守っていることを思いだした。これも同じような仕組みなのだろう。カエルが先になり、ユッドが後になって、二人は縄をのぼり始めた。カエルが言った通り、崖の上にさしかかると、ユッドの目の前に黒い靄がたちこめてきて視界を塞いだ。彼が手探りで縄をのぼってゆくと、やがて縄の端にたどり着いた。縄は太いコの字型の金具に結びつけられていて、その鉄の棒は冷たい岩の壁に打ちこまれていた。ユッドが上に手を伸ばすと、その手をカエルの手が握った。「ここから先は金具を伝っていくのよ」すぐ側にいるはずなのに、彼女の声は妙に遠くから聞こえた。金具は1アンマほどの間隔をあけて上に続いていて、ユッドは手探りしながら這いあがった。濃い暗闇が、どろどろした櫪青(タール)のように顔を塞ぎ、息が苦しくなった。やがて彼を言いようのない不安が襲ってきた。自分がどこに向かっているのかわからなくなり、音のしない闇の中で、どちらが上でどちらが下かも定かでなくなってきた。手足の感覚が痺れたように鈍くなり、自分が体を動かしているのか、それとも同じ場所に留まっているのかもわからない。するとカエルの声がした。「ユッド、こっちよ。私の声がする方に進んで」声は重い空気に押しつぶされたように小さく、くぐもっていた。だがユッドの頭は少しはっきりした。彼は前後を分厚く囲む暗闇の中で必死で手足を動かし、声のするほうに進んだ。それからどれだけの時間が過ぎたかわからない。ようやく前方にわずかな光が見えてきた。前を進むカエルの姿が薄ぼんやりと見える。彼女が言った。「ケリポートを抜けたわよ」
 空気が変わった。うだるような常夏の夕方ではなく、ひんやりとした夜の空気だ。ユッドの頭上では、垂直の断崖がどこまでも上に伸びていた。金具に掴まって身をひねり、背後を見ると、何百アンマも向うに、同じような崖が広がっているのが見えた。彼は底なしの峡谷にぶらさがっているのだ。眼下には黒い霧のような闇が立ちこめている。今しがた越えてきたケリポート(胡桃の殻)だ。ユッドは自分の前を黙々と進んでいるカエルを見て、今さらながらに畏れの気持を抱いた。彼女は心を迷わせる危険な闇の中で、金具を一個一個崖に打ちこみ、たったひとりで道を切り開いたのだ。
 二人は崖に張りだした狭い岩棚にたどり着いた。はるか頭上にちらちらと光が見える。町の灯りだった。あたりはほとんど真っ暗だったが、見つかる恐れがあるのでカンテラは点せない。ユッドとカエルは岩棚の端に座り、ひと休みした。崖縁で長い足をぶらぶらさせながらカエルが言った。「ここは北の塔の真下あたりよ。崖沿いに進めば大通りの底に突き当たる。私のいつもの通り道は、そこから町にあがって、橋伝いに南の塔に向かうのよ」隣に座っているユッドは、自分が施療院から逃げだした夜のことを思いだした。すると彼が辿った道は、カエルの通り道とほとんど同じだったことになる。「けれど、そこを通るとレビに見つかる危険が大きい。今日は安息日だけど、エリフの話の感じだと、近衛兵は休まずにあたりを見張っているはずだわ」ユッドは大きく頷くと、カエルに尋ねた。「俺を助けた時は、南の塔の下からどうやって帰ったんだい?」「町の底には使われていない水道や貨物橋が結構残っているのよ。そこを辿って帰ったの。寝ているあなたをおんぶしてね」カエルは笑ってつけ足した。「でも今じゃ、ちょっと無理ね。あなた大きくなりすぎたもの」ユッドはばつの悪い顔をして言った。「そこを逆に辿って行けないかな?」するとカエルはうーんと考えて言った。「ちょっときついけど、それがよさそうね」
 だが、カエルの「ちょっと」はなかなかのものだった。二人は崖のわずかな出っ張りの上を横這いになって進み、薄暗がりの中で深々と落ちこんでいる裂け目の上を跳び越した。やがて頭上からわずかに届く明かりの下で、天然の岩壁と町の基部の境目がぼんやりと見えてきた。前方では、二人が這いあがってきた峡谷に、別の谷がぶつかっていた。聖山に続く大通りと、町を南北に走るもうひとつの通りの交差点だ。町中で一番賑わっている場所だった。だがその底は、幽鬼の住処のようにひっそりと静まり返っている。二人の頭上50アンマ(約25メートル)ほど上を細い水道橋が斜めに過り、反対側の岸壁に達していた。カエルは腰の鉤を手に持ち、ブンブンと振り回し始めた。垂直に回転する縄が彼女の手元で円を描き、大きな楯のようになった。それはたちまち広がり、半径が10アンマを越えた。するとカエルは手に持った縄をパッと手放した。鉤はきれいな曲線を描いて飛び、足元でとぐろを巻いていた縄がしゅるしゅると上に運ばれた。鉄と石がぶつかるガチンという音が響くと、カエルと橋の間に、ピンと張られた縄の道ができていた。「先に行って」カエルに言われるまま縄を這いのぼりながら、ユッドはため息をついた。自分の技量は、カエルに比べれば、まだ赤ん坊のようなものだった。二人は狭い橋の上を、反対側の崖に向かって歩いた。ユッドはこわごわ下を見ながら、そろそろと足を進めた。薄暗がりの中、何百アンマも落ちこんでいる崖の底で、ケリポートが真の闇となって横たわっている。高い場所にはだいぶ慣れてきたユッドだったが、それでも背筋がぞくぞくとした。すると後ろのカエルが鋭く言った。「下を見ない。見てもなんの役にも立たないわ」ユッドが振り向くと、カエルはすっくと背を伸ばし、長い足をコンパスのように前後させていた。彼女は闇の中で目を光らせながら言った。「見るのは前。そして上よ」カエルはそう言って自分で上を見た。その顔がはっと引き締まった。「ユッド、隠れるのよ!」彼女はそう言ってユッドの肩を押した。ユッドが見あげると、上空を光の点が二つ舞っていた。カンテラの灯りだ。二人は残っていた10アンマほどの距離を駆け抜け、垂直の壁にぴたりと張りついた。どうやら見つからずに済んだらしい。二つの光点は聖山の方角に去っていった。ユッドとカエルは、壁の上に口をあけていた四角い窓から建物の基部に入りこんだ。大通りの四つ角に立つ、大きな市場のある建物の底だ。カエルも初めて入る場所だったが、そこを通り抜けたほうが安全だと判断したのだ。二人は腰のカンテラに灯を点した。すると眼前に、なんとも奇妙な景色が現れた。「これは…」ユッドは目を疑った。そこは狭い部屋だったが、床も壁も天井も、まっすぐな面はどこにもなく、荒海のようにうねり、ねじ曲がっていた。カエルが言った。「建物の根っこはどこもこんな感じなのよ」
 二人は凸凹した歩きづらい床を横切り、ひしゃげた戸口を潜った。その先は上下左右に蛇行している廊下だった。カエルとユッドは満腹の蛇のように膨れたり、逆に瓶の口のように狭まったりしている通路を苦労して這い進んだ。ユッドは気がついた。町の建物は、岩盤を鑿で削って造られたのではなく、植物のように岩からにょきにょきと生えてできたらしい。ねじ曲がっている壁や床は、建物が大地の胎道をくぐり抜けた時の苦悶の跡なのだ。だが、一体どんな魔法を使えば岩から町が生まれるのか、見当もつかなかった。うねうねと続く廊下の両側に歯形のような窪みが並んでいる。生まれ損なった部屋なのだろう。トウモロコシの端っこの実のように、月足らずでこの世に産み落とされ、化石となった胎児たちだ。穴たちはぶよぶよと歪み、てんでに悲鳴をあげている口の群れに見えた。ユッドはぞっとして首をすくめた。二人は廊下の先がぐいっとせりあがり、そのまま垂直に巻きあがっている場所にさしかかった。まるで大きなカタツムリの殻の内部にいるようだった。幸い廊下の幅は狭まっていたので、二人は両手両足を突っ張って湾曲した壁を這いあがった。ユッドは悪夢の中に迷いこんだような心地だったが、前を進むカエルはフンフンと鼻歌を歌っていた。「なにが楽しいんだい?」ユッドが怪訝な顔で尋ねると、カエルは振り向いて言った。「いえ、こういう時って、わりとどうでもいいことを考えたりするのよね」
 二人はようやく長い廊下の外れにたどり着いた。窓の向こう側に見える崖は、もう南の塔がある区域だった。二人は反対側に渡る前に仮眠をとり、夜中を待つことにした。廊下の突き当たりにあった小部屋には窓がなく、隠れるにはもってこいだった。空気はひんやりとしていたので、二人はすり鉢のように凹んだ床の底で抱き合って眠った。カエルはすぐに眠ってしまったが、ユッドはなかなか寝つけなかった。だが目の前のカエルが立てる規則正しい寝息が、やがて彼の眠気を誘った。彼は重苦しい眠りへと落ちていった。

 太っちょは暗い大地の上を飛んでいた。もう、どれだけの時間飛び続けてきたかわからない。溶岩のような赤く光る筋に覆われた真っ黒い土地は、飛べども飛べども果てがなかった。彼は一度、地面に降りようとした。すると真下の地面がぼこぼこと盛りあがり、そこから裂けた口がいくつも現れた。身の毛もよだつような咆哮が轟き、地面の盛りあがりは、たちまち恐ろしい怪物の群れへと姿を変えた。魚かトカゲのような鱗に覆われ、鎌のように尖った刺を無数に生やした化けものどもは、真っ赤な口をあけ、太っちょを激しく威嚇した。彼は泡を喰って上空に駆けあがった。すると怪物たちは叫ぶのをやめ、元の黒い土塊に戻った。太っちょは当てもなく飛び続けるしかなかった。
「なんなんだ畜生!」彼は毒づきながら上の空を睨んだ。天蓋は真っ暗で星ひとつ見えない。彼は、自分がなんでこんな場所にいるのか、さっぱりわからなかった。記憶が霞んでいて、自分の名前すら思いだせないのだ。と、前方に小さな白い光が見えた。太っちょは藁にもすがる思いで光の点目がけて飛んだ。近づくにつれ、光ははっきりとした形をとり始めた。翼を持つケルブ(天使)の形だった。
「おい、助けてくれ!」太っちょは大声をあげて、光るケルブに近寄った。天使は翼を畳んで横たわり、ふわふわと宙を漂っていた。若い男だ。目はとじられ、眠っているようだ。仰向けになった彼の臍のあたりから、銀色に光る糸がまっすぐ伸びていた。その先は暗い空の彼方に消えている。どうやら光るケルブは細い糸の先にぶらさがっているらしかった。それにしても大きな体だ。太っちょの三倍はある。全身をガウンのように覆っている翼は六枚もあった。太っちょは息を呑んだ。(ケルブ・カドモン(最初の天使)だ!)それは、伝説に聞くケルビムの始祖そのままの姿だったのだ。太っちょは微光を放っている巨人の顔を恐る恐る覗きこんだ。彼ははてと首をひねった。どこかで見たことがある顔なのだ。すると男はうっすらと目を開いた。太っちょは不意に思いだした。こいつはメガネのベー=ユッドだ。メガネはかけていないし、恐ろしく大きな体をしているが、顔立ちに見誤りようはなかった。太っちょは友人の大きな肩を揺すって叫んだ。「おい!」すると巨大なケルブは首をもたげ、太っちょの顔をまじまじと見た。そして驚きの声をあげた。「おまえか!」すると巨人の体がビュンと上に持ちあがった。驚き呆れている太っちょの目の先で、六枚の翼を持つ天使はぐんぐん空にのぼってゆく。糸がもの凄い力で彼を引っ張っているらしい。「おい待て!」太っちょはあわてて叫んだが、メガネの姿はたちまち小さくなり、真っ暗な天に呑みこまれた。

 ユッドははっと目覚めた。目の前にカエルの鼻がある。口を半開きにして寝入っている彼女の顔は、青い光にうっすらと照らされていた。ユッドは訝しんだ。カンテラを消して寝たので、部屋は真っ暗のはずだ。彼はほのかな青白い光の出所を知って驚いた。彼の腰の籠からだ。蓋を取ると、中の聖櫃が燐光を放っていた。真っ黒な箱の回りを、青白い光が後光のようにとり巻いていたのだ。「どうしたの?」寝ぼけ眼をこすりながら起きあがったカエルは、異様な光に気がついて目をぱちくりさせた。「聖櫃が光っているんだ」ユッドは籠の中から黒い箱をそっと取りだした。青白い光が部屋中に満ちた。ユッドは不思議な光を放つ箱をじっと見ながら言った。「今、太っちょの声が聞こえたんだ」ユッドはカエルに向き直って言った。「なにか変なことが起きている。急いだほうがいい」カエルの頭は現実的に働いた。「ならこの光は隠さないとね」そう言って、彼女は腰の籠から短刀を取りだし、上衣を脱いだ。そして裾を大きく切り取った。再び彼女が衣を纏うと、引き締まった腹と窪んだ臍が丸見えだった。「いいのかい?」ユッドが困ったような顔で聞くと、カエルは笑って答えた。「少しスースーするけど、こっちの方が動きやすいわ」
 ユッドは切りとった麻の布で聖櫃をぐるぐると包んだ。籠に入れると光は洩れてこない。二人はひしゃげた部屋を後にし、ぶよぶよと波打っている廊下に出ると、とっつきの窓からそっと外を覗いた。上空にも下にもカンテラの光は見えない。二人は壁を伝い、少し離れた場所から突きでていた貨物橋によじのぼると、あたりを警戒しながら暗い谷を渡った。たどり着いた先は工房が密集する城館の基部だった。逃亡中だったユッドが髭のレーシュと出会った場所だ。二人は窓から建物の中にもぐりこみ、反対側の端に向かった。内部はさっきと同じくひどいありさまで、床と壁は悪夢のように歪み、ねじ曲がり、しばしば上下逆さまになった。真っ暗な迷宮の中を進むのは、ひどく骨が折れ、気が滅入ることだったが、レビの目をかいくぐるには、これが一番だったのだ。
 二人は苦労の末、城館の反対側にたどり着いた。窓から外を覗くと、深い崖を挟んだ反対側に南の塔の基部が見えた。巨大な樹木の幹のようなその建造物は、荒々しく隆起する岩盤と溶け合って、遥かな深みに根をおろしていた。見あげると、塔は黒々とした影となってどこまでも空に伸び、頂上は闇にまぎれて見えなかった。すぐ手前に、城館から塔に向かって伸びている貨物橋があった。背後の星々が、細い橋の姿をぼんやりと浮きあがらせている。かつてユッドが雨の中を渡った橋だった。あたりにカンテラの灯は見えない。「エリフの話だと、ここらは厳重に見はられているはずよね」カエルが小声で言い、ユッドが頷いて答えた。「だけど目立たないようにしているんだろう。いくら安息日でも、派手な動きをすれば他のケルビムに気づかれるからね。たぶん俺の部屋の回りを重点的に固めているんだろう」カエルは下を指さした。二人のいる窓から20アンマほど下に古い貨物橋がかかり、南の塔に伸びている。幸い屋根がついていて、上から見とがめられずに通り抜けられそうだった。「あそこを渡った先に、塔のホールまで続いている通路がある。品物を市場に運ぶために作られたみたいだけど、今は誰も使っていない。たぶん私しか知らないわ」ユッドは半年前のあの日、カエルが塔のホールの中から現れたのを思いだした。カエルが「でも、そこから先はどうするの?なにか作戦はある?」と尋ねると、ユッドは崖の縁から覗く星空を見あげて言った。「あると言えば、ある」

 サペルは腕を組み、ぐっと星空を睨んでいた。一時長く伸ばしていた髪は、また油で固めた短髪に戻っている。裸の胸に短いチョッキという出で立ちも、元の水先案内人の格好だった。ここはケルビムの島から少し離れた海域だ。彼が立っている蒸気船の甲板からは、満天の星を背に、様々な形の船影が見える。西半球同盟の各国から集まった軍船たちだ。
「そろそろ準備が完了するぞ」サペルが声に振り向くと、そこに小柄な老人が立っていた。ゴダムだ。彼はポケットが沢山ついた探検服に身を包み、顔には二つの円い窓がついた無骨なゴーグルをはめている。彼の背後では、真っ黒に塗られた巨大な風船が浮き上がり、沢山の綱で甲板に繋がれていた。風船は膨らんだパンのような紡錘形をしており、大きな編み籠のようなゴンドラを吊り下げている。ゴンドラは舟のような形をしていて、長さは8メートルほどある。重量を軽くするため、細くて強靭な木で骨組みを造り、側壁は編んだ竹でできていた。舳先には木の板が張られたデッキがあり、尾部には風の流れを調整するための大きな舵が取りつけられている。ゴンドラの中央では、煙突のような筒から轟々と炎が吹きだし、風船に熱を送りこんでいた。筒の下にはバルブやメーターが沢山ついた複雑な機械が据えられていて、ひとりの男が忙しく立ち働いている。サペルは疑わしげな目で言った。「これが本当に飛ぶのかよ?」「文献ではな」老学者はにやりと笑って言った。「いかんせん準備期間が短かすぎるわい」やりとりはもちろん、彼らの国の言葉でされている。サペルは言った。「ま、しょうがないな。火事場泥棒は勢いが命だ」すると博士がむっとした顔になった。「人聞きの悪いことを言うでない。これは貴重な文化遺産の保護活動なのだぞ」サペルは首をすくめて「ハイハイ」と言った。
 蒸気船の回りでは、各国の海軍が続々と集まりつつあった。西半球同盟の尻には火がついていた。原因不明の失語症は、彼らの予想を越える速度で東半球を席巻し、いまや大洋を越えて、大陸の東海岸に達していた。沿岸の住民は恐慌をきたし、難民となって内陸部になだれこんでいた。同盟は、天使の島への総攻撃を直ちに開始することを決めた。サペルらは同盟に属する小さな王国に身を寄せ、自ら偵察役を買ってでたのだ。もっともサペルもゴダムも任務を全うしようなどとはさらさら考えていない。哲学の薔薇をうまく奪取できたら、戦場からとっとと逃げだす算段だった。
 ボッボッと音がして、機械から吹きでていた炎が不安定に揺らめいた。「またか」ゴダムが不機嫌な顔で振り向くと、ゴンドラの中で作業をしていた男が手招きした。かと思うとボンッと音がして炎が消えた。「くそ!」ゴダムは叫ぶなり機械に駆け寄り、いくつもあるバルブを開けたり閉めたりし始めた。助手の男は、ぶつぶつと呪いの言葉を吐いている博士を一歩離れて見守っている。浅黒い肌をした若者だ。彼はかつてユッドが助けた奴隷だった。言葉を失った青年は、サペルを慕い、影のようにつき従っていたのだ。

 同じ頃、至聖所の奥の間では、大長老と猿面のギー=ベートが、逮捕されたアレフ=シンと対面していた。三人の他、部屋の中にケルブの姿はない。警護の近衛兵は扉の外で待機していた。アレフ=シンは手錠をかけられたまま、椅子に座らされていた。
「卓越せるツァデクよ。これは一体どういうことですかな」シンが冷ややかな口調で切りだした。「安息日の真夜中に、少々物騒ではありませんか」車椅子の大長老は静かに言った。「アレフ=シン、もう駆け引きをしている場合じゃないのよ」ツァデクの口調はしっかりしていたが、そこには隠しようのない疲れがあった。背後に立っているギー=ベートは、大長老の小さな背中を痛ましい思いで見つめていた。数日前から、アリク(忍耐強い者)は立って歩けなくなっていたのだ。彼女はいきなり本題に入った。「第三のトーラーは今、私の手の内にある。ベー=ユッドが生存していることも知っています。彼も直に逮捕されるでしょう。智慧(ホクマー)の書庫にあれが納められることは決してない。あなたの計画は頓挫したのよ」シンは眉ひとつ動かさず、鷹のような目で大長老を見つめていた。内心は少し驚いている。大長老は予想以上に物事を知っているようだ。だが彼女の知識がどこまでのものなのかはわからない。だから彼は黙っていた。すると大長老は灰色の目でシンを見据えて言った。「私が聞きたいのは、あなたがどこから知識を仕入れたのかということなの」するとシンがおもむろに口を開いた。「恐らく、かの奇しき天の書記官の計らいでしょう、卓越せるツァデクよ」この話題は自分に有利なカードとなると思い、彼は重々しく続けた。「私は五十年前に翼を失い、ケリポートの外に堕ちました。今のベー=ユッドのようにです」ギー=ベートは目を丸くして聞いている。彼にはまるで覚えのないことだったのだ。だが大長老の表情は変わらない。シンは(恐らく大長老だけが記憶の操作を免れているのだ)と思いながら続けた。「私は地下の宮殿でシェキナーと会い、隠された知識を得ました。だが私は翼を再び得るのと引き換えに、その記憶を失ったのです。それはご存知のことでしょう。卓越せるツァデクよ」大長老は頷いて言った。「私はそれを先代の大長老の書き置きから知りました。でもあなたはその記憶をとり戻したのね。それはいつのことなの?」「先のヨベルの年が終わった時です。新年を迎えた真夜中に、突然すべての記憶が蘇りました。ちょうど新しい千年期が始まった瞬間です。到底偶然とは思えません」大長老はシンをじっと見つめたまま黙っていた。その目からはなんの感情も読みとれない。やがて彼女は言った。「機械の誤作動だとは思わない?古代の計算機は、時々そういう誤りを犯したというわ」シンの顔に憤りの色が浮かんだ。彼は怒りを押し殺した声で言った。「卓越せるツァデクよ、あなたの口から、そのような冒涜的な言葉をお聞きするとは思いませんでした」ツァデクはわざとゆっくりした口調で言った。「だけどメータトローンは、翼なき者たちが作った機械にすぎないわ。当然あなたも知っていることよね」するとシンはうつむきながら言った。「確かにメータトローンは機械から構成されている。だがそれ以上のものです」彼は頭をあげ、大長老の顔を覗きこむようにして言った。「我々にしても、所詮は化学物質の寄せ集めにすぎないのです。にも関わらず、我々はそれ以上のなにかなのだ。違いますか?卓越せるツァデクよ」すると大長老は、大きなため息をついて言った。「つまりあなたは、メータトローンが起こそうとしている破壊行為が、本当に宇宙を至福の世界に導くと考えているのね」シンは深く頷いて言った。「少なくとも、今の世界よりもひどくなることはありますまい」彼は低い声で続けた。「私はケリポートの外をかいま見たのです。そして知りました。この世は真の地獄です」しばし三人の間を沈黙が支配した。やがて大長老が疲れた声で言った。「アレフ=シン、さっきも言った通り、私は駆け引きはしない。あなたの意見は意見として、私の決定は覆らないわ」彼女はシンの顔を見て続けた。「私が知りたいのは、シェビラー(器の破壊)をどうやって切り抜けられるかということなの。千年前、エノクはメータトローンに助命を願い、それが受けいれられた結果、ケルビムの町ができた。私たちはメータトローンと新たな契約を結ばなくてはならないと思うの。さもないと、この町までシェビラーに呑まれてしまうわ」
 シンは大長老が喋る間に冷静さをとり戻していた。するとツァデクはもうひとつの選択肢を知らないか、知っていてとぼけていることになる。(たぶん後者だろう)とシンは思った。(恐らく猿面もそれを知るまい。いいだろう、その芝居にしばらく乗ってやる)シンは頭をあげ、皮肉な声で言った。「つまりあなたは、世界の他の部分を見殺しにしてでも、ケルビムの町を存続させたいとお考えなのですね、卓越せるツァデクよ」大長老の顔から血の気が失せた。だが彼女はしっかりとした声で答えた。「そうとってもらって結構よ。私は地獄に堕ちてもいいの。答えてちょうだい、アレフ=シン。あなた、エノクの取りなしについて、なにか知っていることはある?」ゼーイル・アンピーン(気短かな者)の答えは即座だった。「知りません。知っていてもお答えはできかねます」彼は大長老を厳しく見据えて続けた。「それは神に背くことだ、愚かなツァデクよ」するとギー=ベートがわなわなと震えて叫んだ。「黙らっしゃい!」彼は大長老の前に回りこみ、彼女の前に跪いて言った。「卓越せるツァデクよ、これ以上の会話は無用と存じます。どうぞ私にご命じください。この反逆者を去らせよ、と」大長老は猿面の肩を優しく叩くと、シンを見て言った。「アレフ=シン、もう一度聞くわ。あなたの計画は無に帰した。それでもあなたはケルビムを、私たちの町を守ろうというつもりはないの?」シンは大長老をまっすぐ見て言った。「たった今お答えした通りです。私を牢につなぎなさい」
 すると扉の外で、なにやら叫び声がした。ガチンガチンと固いものがぶつかり合う音がして、「あっ!」という短い悲鳴が響いた。次の瞬間、扉が乱暴に開き、何人ものケルビムが押し入ってきた。「なにごとじゃ!」と叫びながら、ギー=ベートは大長老の前に立ちふさがった。その喉首に刃が突きつけられた。震えた手で剣を握っているのは白衣のレビだ。椅子に拘束されているシンに駆け寄ったのは、もうひとりのレビと髭のベー=レーシュだった。「今、お助けしますぞ!」レーシュが上ずった声で叫ぶと、レビが鍵束を取りだし、シンの手錠を外した。大長老の声が響いた。「あなたがた、なにをしているのかわかっているの?」ツァデクに向かって剣を振りあげているレビも、猿面に刃を突きつけているレビも、顔を強ばらせたまま答えない。ベー=レーシュが振り向き、震えた声で言った。「あなたの間違った行いを正すのです、アリクよ!」
 アレフ=シンはゆっくりと椅子から立ちあがり、部屋の中を見回した。誰もがひどく動揺している。ひょんなことから流血が起きるのは避けたかった。彼は大きな声で言った。「双方、怪我をした者はいるか!」するとレーシュが言った。「外で近衛兵が二人、傷を負っています。我々に抵抗したので、やむなく剣を交えたのです」「なんてことを!」大長老が怒りに震えて叫ぶと、彼女に刃を向けていたレビが蚊の鳴くような声で言った。「腕に剣を受けただけです。命に別状はありません」「恥を知りなさい!」大長老が一喝すると、レビは剣を握ったままビクッと首をすくめた。シンはレーシュに向かって言った。「わしはもう大丈夫だ。廊下で待機している者に、怪我人の手当をするように言いなさい」レーシュが頷いて戸口から出ていくと、入れ替わりに三人のレビが剣を構えて入ってきた。先頭に立っているのはきりっとした顔立ちの女性だ。シンの手足になって動いているレビだった。シンは彼女に声をかけた。「イゼベル。大長老はこの部屋に留まって頂く。ギー=ベートには別室をご用意して差しあげろ。くれぐれも丁重に扱い、粗相なきようにな」「かしこまりました、アレフ=シン」イゼベルと呼ばれたレビは、鋭い目をあたりに配りながら答えた。「剣をおろすのだ!」ギー=ベートがもの凄い剣幕で怒鳴った。彼は後ろを振り向き、ツァデクに向かって剣を振りあげたままのレビを睨みつけていた。「無礼者めが!」自分の首にも刃が突きつけられているというのに、猿面は今にも飛びかかりそうな様子だ。アレフ=シンは「お静かに、ギー=ベート」と言うと、二人のレビに剣をおろすよう手振りで指示した。「無用な諍いはやめましょう。おとなしく指示に従って頂きたい」シンがツァデクとギー=ベートの両方に向かって言うと、猿面は「盗人猛々しい!」と怒鳴った。だが彼はぶるぶると身を震わせたまま、それ以上の抵抗はしなかった。車椅子の大長老は、灰色の目でシンを見あげ、低い声で言った。「後悔するわよ、アレフ=シン」真面目くさった顔でシンは答えた。「かもしれませんな」彼は静かに続けた。「卓越せるツァデクよ。あなたの重荷は私が引き受けましょう。今まで十分苦しんでこられたのです。しばしお休みになってください」
 彼は大長老に向かって深々と頭をさげると、一度も振り返らずに部屋を出た。廊下では黒衣の近衛兵が二人、壁際にへたりこんでいる。腕に巻かれた包帯からは血が滲み出ていた。その前では白衣のレビが二人、剣を構えて見張りに立っていた。彼らの顔にも怯えと戸惑いの色がある。無理もない。天使たちは、今まで同胞に刃を向けることなど、夢に見ることもなく生きてきたのだ。シンは歩み寄ってきたレーシュに言った。「ツァデクの派の者は、まだ神殿に残っているのか?」レーシュは小声で答えた。「ごく小数で、既に皆監禁してあります。今日は安息日ですし、近衛兵の主な者は南の塔に遣わされています。だから私もイゼベルも容易に脱出できました。牢番のレビはほとんど我々の仲間でしたから」「赤毛は?」「彼女は逮捕の手から逃れ、町中に潜んでいると思われます」シンはうむ、と頷いてレーシュに言った。「ここには最小限の人員を残せばよい。おまえもイゼベルも私と共に南の塔へ向かうのだ」彼は顎に手を当てて続けた。「それともうひとつ、味方に文書管理官はおるかな」「と言いますと?」レーシュはシンの意図を計りかね、眉をひそめた。その時、遠くから鐘の音が聞こえてきた。シンは廊下の端の小窓を見た。町に向かって開かれたその窓の向うから、鐘の音は聞こえていた。
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登場人物紹介

ユッド(ベー=ユッド)


主人公の若い天使。鞜職人。

不慮の事故で翼を失ってしまう。

内向的で目立たない性格の持ち主だが、時々妙に意固地になる。


通名:メガネ

正式名:出エジプト記三章十四節の第二子なるユッド

カエル


本作のヒロイン。

先天性異常で翼を持たずに生まれた天使。

世をすねて、日の射さない地の底に住んでいる。

背が高く、並外れた運動神経の持ち主。

苛酷な境遇のせいでひねくれた所はあるが、本来は呑気。

ラメッド(ダー=ラメッド)


ユッドの幼なじみの天使。ユッドは彼女に淡い恋心を抱いている。

色白で、流れるような金髪と鈴のような美声の持ち主。

絵に書いたような天使ぶりだが、中身は割と自己中。


通名:カササギ

正式名:申命記十四章七節の第四子なるラメッド

太っちょ(ギー=ユッド)


ユッドの幼なじみの天使。同じユッドの名を持っているので少々ややこしい。

広く浅くをモットーとする事情通。常にドライに振る舞おうとしているが、正体はセンチメンタリスト。


正式名不詳(作者が考えていない)

ゼーイル・アンピーン(アレフ=シン)


天使の長老の一人。ゼーイル・アンピーンは「気短な者」を意味するあだ名。

その名の通りの頑固者。なぜかユッドにつらく当たる。


正式名:創世記二十二章八節の初子なるシン

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