その8 エノクからメータトローンへ

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partⅠ

 お久しぶりです。皆さんお変わりはありませんでしょうか。私はずっと夏バテぎみだったのですが、ここ数日なんとなく風が秋っぽくなってきて、少し元気を取り戻したところです。これを機に、ダラダラ引き延ばしてきた当おまけシリーズも、いい加減ケリをつけてしまおうと思い立ちました。ついさっきですけどね。やる気モードが最後まで続きますように。前回のお話を書きあげた時は、ぶっちゃけ抜け殻状態でした。とにかく話が重かった。なんで俺がユダヤ民族の宿命について喋っちゃてるのおおお???というのもあり。ここで少し空気を変えてみましょう。やっかいごとだらけの地上から視線を離し、空に向けてみます。するとそこには最高の天使にして宇宙の書記官、メータトローンの姿があるのです。

「その古い伝承によれば、神によって連れ去られ、天使メタトロンに変えられた族長エノクは、靴屋であったという。彼は目打ちを突き刺しては甲革を靴底に縫いつけたばかりではなく、あらゆる上のものをあらゆる下のものに結びつけた。このようにしてエノクは彼の手仕事の一部始終に絶えず瞑想を伴わせ、この瞑想によって流出物の流れを上から下へとみちびき(このようにして世俗的な行為は儀礼的行為に変えられた)、ついには彼自身地上のエノクから彼の瞑想の対象たる超地上的なメタトロンに変えられるにいたった。」(『カバラとその象徴的表現』p.184)

 どこかで聞いたような話ですね。気のせいか。これは13世紀のドイツで生まれた逸話だそうです。人間エノクがメータトローンに変貌する話そのものは、もっと古い歴史を持っています。旧約聖書の外典『エノク書』をちょっと覗いて見ましょう。

「『神は私をノアの洪水の種族の中心から連れ去り、シェキーナーの風の翼にのせて私を最高天に運び、第七の天アラボースの高みにある壮大な宮殿へお連れになった。そこにはシェキーナーの玉座とメルカーバーがあり、怒りの軍勢と憤怒の軍団、火のシンアニーム、炬火のケルービーム、燃える炭のオーファンニーム、炎の家来、閃光のセラーフィームがいた。神は私をそこに立たせて、日々栄光の玉座に仕えさせた』第十五章によると、このエノクの肉は炎に変じ、その血管は燃えさかる火に、その睫毛はほとばしる閃光に、その瞳は燃える炬火となる。そしてこのエノクは神から栄光の玉座の隣の玉座をあてがわれるのであるが、天におけるこうした変容のあとで、『メータトローン』という新しい呼び名を授かったのである。」(『ユダヤ神秘主義』p.91)

 なんと言おうか、これ読んでいて、あんまりメータトローンになりたいという気持はわいてきませんねえ。こわい。『エノク書』は紀元前1~2世紀頃に書かれたものです。人間が天界を遍歴し、最後には天使に生まれ変わるというモチーフは、後のユダヤ教神秘主義に大きな影響を与えました。その直系の子孫が、紀元後の最初の千年間に発展した、メルカーバー神秘主義と呼ばれる宗派です。この宗派はカバラ主義のいわば前史にあたり、瞑想によって地上を離れ、天上のメルカーバー世界を遍歴することを教義の中心に据えています。で、凡人がこれをやろうとすると、やっぱりこわい目に遭います。

「メルカーバー世界の宮殿を通り抜けるこの上昇はとくに、心がまえのできていない不適格な人柄の者がその試みを始めると、非常に危険が大きい。観る者が先へ進めば進むほど、危険はますます大きくなる。天使や執政官がよってたかって『彼を突き落とそうとする。彼自身の身体から発する炎が彼を焼きつくそうとする。』ヘブライの『エノク書』には、族長が天使メータトローンへの己れの変容をラビ・イスマエルにものがたるさま、己れの肉体が『燃える炬火』へと変ずるさまが語られている。この変容の過程は、『大ヘハロース』によれば、要するにどの神秘家にも繰り返されるが、ただ彼はエノクそのものよりも位の低い者であるから、これらの燃える炬火は彼を焼き殺そうとする。だが、ここでひとりひとりに繰り返されるのはまさに神秘的な変容の始まりみたいなものである。別の断章によれば、彼は直観の際に両手足を焼かれてしまい、『手も足もなしに』立つことができなくてはならないのだ!このように地のないところに両足なしで立つことは、他にも多くの忘我者の特徴的な体験として知られており、アブラハムの黙示録にもそれに類したことが述べられている。」(同書pp.70-71)

 ね、こわいでしょ。こわいこわい。メルカーバー神秘主義者たちの見立てでは、生身の人間と天上の存在の間には、こんなにも大きな隔たりがあったのですね。しかし中世になると、上で引用したように、族長エノクは町の靴屋さんになり、彼が天使へと生まれ変わる描写も随分と穏やかな印象に変わっています。地上と天上が一続きになっている感じですね。この連続性が、古代のメルカーバー神秘主義と中世のカバラ主義の違いの一つになっているように思います。以前紹介したコルドヴェロの言葉にも、「汝の立っている所にこそ、ありとあらゆる世界が存在する」とありましたね。つまりカバリストたちは、地上の世界と神性の世界が相互に浸透し合い、同じ法則に支配されていると考えていました。ここに二つの形象が現れます。無限の鎖となって連なる環と、同心円状に重なり合う殻のイメージです。後者はよく胡桃の殻に例えられています。この二つのイメージは、共に世界の無限性を表していますが、トポロジカル的に齟齬をきたしている気はします。同時にイメージすることはちょっと無理くさい。しかしカバリストたちは「下にあるものは上にあり、内部にあるものは外部にある」という表現で、この矛盾をあっさり乗りこえてしまいます。まあ騙されてる感もありますが、なんだか深い。そして、この晦渋な相互運動を担っているのが十のセフィロトになります。さあ久々に出てきましたよ、セフィロトが。

「カバラはかの神性の世界をセフィロトの力動的な世界として理解しようとつとめ、この神性の世界のうちにたんなる潜在的なすがたにとどまるのではなく、まさに創造的展開を遂げる神的存在の無限の統一があると考える。このような神性の世界はしたがって、純超越性をやどすひとつの世界として理解しなくてはならないのである。いつもながらにカバラの神性の世界もまたそのように理解されるのだが、しかしカバラ主義者は、神性の世界がいかに、いうなれば神とかかわりのない他のありとあらゆる存在により合わされ、直接関係づけられているかをしめすことに旺盛なまた実践的な関心をいだいているのだ。下なる自然界のあらゆる存在は、だがそれと同様に天使、純粋形式、そして神の『玉座』の上なる世界のあらゆる存在もまた、その存在のうちになにものかを、言ってみればセフィロトのしるしを有しているのである。このしるしを通じてあらゆる存在は神的存在そのものの創造的局面のひとつと、したがって一個のセフィラー〔セフィロトの単数形〕あるいはセフィロトの位相と関係しているのである。」(『カバラとその象徴的表現』pp.170-171)

 つまりセフィロトは、神性の世界と地上の世界をくっつけている糊のようなものだと考えられます。「おまけ その2」で、セフィロトがどんなものかというお話をしました。(今それを遠い目で読み返しています。)その中で、私はセフィロトが行きつ戻りつのジグザグ運動をするのだと言っています。(そういえばそんなことも言った気がする。)このミクロな往復運動が、天地の間のマクロな上下運動になるとき、二つの道ができあがります。一つは上から下の動きで、これは地上のあらゆる事物の中に、神性の光が象徴的な形で宿っているということを表します。逆に下から上への動きでは、人間の行いが天上に作用をもたらすという局面が現れます。つまりそこにおいて、儀礼が、その儀礼の目的である復元(ティクーン)が、リアルなものとして意味を持つのです。上から下への運動が、神性の宇宙についての受動的な瞑想をもたらすとすれば、下から上への運動は、同じ宇宙への能動的な働きかけとなります。ショーレムは、セフィロトと新プラトン主義の流出論との違いを強調しつつ、「この概念の難解さは、むしろ、セフィロースの流出が神自身の内部における(、、、、、、)出来事でありながら、同時にこの出来事が人間に神に到達する可能性をあたえるという点にある。」(『ユダヤ神秘主義』p.275)と述べています。カバラ主義の根幹は、このセフィロトの双方向性=往復運動にあると言っていいでしょう。14世紀の初頭に、メナヘム・レカナーティという名のカバリストがこう言っています。

「下なる世界からわれわれは、天界を統べる法則の秘奥を、と同時に一〇個のセフィロトと呼びならわされてきた事柄をも理解する。このセフィロトの『終わりはその始まりに繋がっている、さながら炎が炭と切っても切れない関係にあるがごとく。』そして、これら一〇個のセフィロトが一目瞭然となったとき、その他のありとあらゆる被造物にも、あの至高のかたちにふさわしいものの姿がありありと見えてきたのである。『我らが世にある日は影のごとし』(この章句は、われわれのこの世にある日が原初の日をつつんでいた超越性の影にほかならない、という意味を表わしている)と、「ヨブ記」に記されているとおり(第八章九節)。そして、地上の人間および、この世のありとあらゆる他の被造物のように、創造されたものはすべて、一〇個のセフィロトの原像(dugma)にしたがって存在しているのだ」(同書pp.172-173)

 気がついた方もいるかも知れませんが、最初にカギ括弧つきで引用されているのは『創造の書』です。和訳文は違いますが、同じ部分が「おまけ その2」にもありますのでよろしければ覗いてみてください。レカナーティさんが、熱狂的な口ぶりで「あらゆる被造物にも、あの至高のかたちにふさわしいものの姿がありありと見えてきた」と述べている時、彼が見ているのはセフィロトの「上から下への」動きです。では、もう一方の「下から上への」動きについてはどうでしょうか。ショーレム先生が、上の引用にすぐ続けて、こう述べています。

「カバラ主義者の言葉でこうした原像の世界はしばしばメルカバー(神の戦車)と呼ばれているが、この意味でレカナーティはさらにつづけて、『トーラー』における儀礼の詳細はすべてメルカバー上位の特定の部分と関連している、と述べている。こうした「部分」がひとつの神秘的有機体をかたちづくっているのは、言うまでもない。『どの戒律にもひとつの高い原理とひとつの神秘的な根拠があるが、この根拠は、ひとえにこうした神秘を含むあの戒律から引き出され、それ以外のいかなる戒律からも引き出されえないものである。だが、そもそも神が一者であるごとく、すべての戒律もまた一体となってひとつの可能態をかたちづくっているのだ。』」(同書p.173)

 ここで重要なのは、『トーラー』に記されている諸々の戒律と儀礼が、ただ神性の世界を反映し、表現しているだけではないという点です。儀式においては双方向の運動が生じます。レカナーティ師はこうも言っています。儀礼を執り行うものは、「いわば神自身の一部に、こう言ってさしつかえなければ、永続性を賦与するのだ」(同書p.174)と。つまり、地上の書物である『トーラー』の戒律は、「下から上への」動きをもたらします。儀礼を行う者は、神性の世界に「下からのインパルス」(同書p.175)を与えるのです。そして神性の世界は、このインパルスなくしては不完全なままに止まるでしょう。この考え方が、レカナーティが生きた時代からおよそ2世紀後、復元(ティクーン)という概念となって結実したのは見やすい道理です。
 この「上から下へ」「下から上へ」の運動は、「人間的行為の次元とは何か、人間的行為はいかなる深さに浸透してゆくのか」(同書p.171)という問いを呼び起こします。ここでの「人間」は、セフィロトを媒介にすることにより、地上と天上を結ぶ一本の鎖のようなものとなっていると言えるでしょう。その鎖の片方の端には族長エノクまたは靴屋エノクがいて、もう片方の端にはメータトローンがいるのです。『ゾーハル』の著者と目されるモーセス・デ・レオンはこう言っています。「どれもみな、鎖のすべての環の最下端にいたるまでたがいにつながっている。かくて神の真の本質は鎖の上部でも下部でも、つまり天上でも地上でも同じであり、この本質の外に存在するものは何もない」(『ユダヤ神秘主義』p.293)こうなってくると、メルカーバー神秘主義の時代に口を開けていた天と地の間の亀裂は閉じ、人間は、地上にいるままに、天使の権能を分有する存在になります。『ゾーハル』は高らかにこう言います。「下からの衝迫、イスアルーサ・ディ=レサータは上からの衝迫を呼び起こす」(同書p.306)

 さて、天地を一つに結びつけるのは、上下に伸びてゆく鎖だけではありません。もう一つ、胡桃の殻があります。同心円状に重なってゆく殻のイメージですね。ここでも中心になるのは「人間」であり、その行為である儀礼です。つまり、戒律の遵守と儀礼により、ミクロコスモスとマクロコスモスが結びつけられるのです。言うまでもなくミクロコスモスとは人間の体です。そしてマクロコスモスとは、10のセフィロトの集合体であるアダム・カドモンに他なりません。そして、ただの人と原初の人であるアダム・カドモンを結びつけるものは何なのかと言えば、ズバリ『トーラー』なのです。

「まだカバラが登場するずっと以前から、タルムード学者は『トーラー』の戒律と人間の構造のあいだに照応関係が見られるという考えに没頭していた。それによれば、二四八の肯定的な戒律は人間の二四八の器官に照応し、三六五の禁令には一年の日数三六五日が(あるいは体のなかの三六五の血管とも)照応するという。したがって、人間のすべての器官は、戒律のひとつを実現すべくさだめられており、また一年の一日一日は、人間が許された者の領域にわれとわが身を留め置くことによっておのれを聖化すべくさだめられているように思われていた。カバラ主義者はこうした観念をことさらに強調して取り上げたのである。彼らにとって十戒とは、『トーラー』の六一三の戒律のうちに表現された神秘的な構造の根底をなすものであるように思われた。だが、こうした構造は、アダム·カドモンの各器官中に配置された一〇個のセフィロトがかたちづくる神秘的形態の構造にほかならない。というわけで、人間の行為は、アダム・カドモンの構造を、と同時に顕現する神性の神秘的構造を復活させているのだ。」(『カバラとその象徴的表現』p.179)

 こうしたビジョンの下に、イサーク・ルーリアは、人間の課題は、人間の精神の原形態を回復することに他ならないと考えました。そのためには人体を構成するの体節に対応する『トーラー』の613の戒律を果たさなければならないと。その暁には人間の原形態である魂が持つ613の「精神的体節」が、熟練の彫刻師によって丸木から彫り出されるかのように顕れ、人間はその精神的原形態を回復するのだそうです。何だか『どろろ』の百鬼丸みたいな話ですね。
 こうして、垂直線のイメージ(人間=メータトローン)と同心円のイメージ(人間=アダム・カドモン)が、二つ重なり合って存在することになります。ざっくり言って、前者は神性の世界がいかに地上に流出し、顕われるかという神学的な話で、後者はアダムの堕落後、全世界に飛び散ってしまった神の火花をいかに回収するかという実践の問題に関わっています。ここでチラチラと視線の隅を過るのは、とらえがたいセフィロトの運動です。上にも出てきた、「その終りは始まりと結びつく。それはちょうど炭に火が結びついているようである。」という動きです。このように、エノクとメータトローンを結ぶ垂直線は、無限の果てに回帰し、終わりが始まりに結びついて一つの円環をなします。その終末論的なビジョンの中では、垂直の鎖と同心円をなす胡桃の殻が、トポロジカルな矛盾をきたすことなく一致するのでしょう。その結節点に立っているのは、やはり「人間」なのです。

 ここで思い出されるのは、第三セフィラーのビーナー(知性)のことです。「おまけ その2」でも触れましたが、このセフィラーは「回帰」という別名を持っています。その由来については「おまけ その4」でお話ししました。それによると、宇宙の活動は五万年周期で循環し、最後の年である「宇宙ヨベル年」に、この世のあらゆる事象がビーナーの胎内に戻ってゆくのです。もちろんこれはカバラ思想の錯綜しまくった諸説の一つでしかありません。が、カバリストたちは一般に、人間観や人生観を、終末の時から逆算して考えている節があります。復元(ティクーン)が典型的な例ですが、カバラにおける宇宙進化論とは始源に向けた回帰のことであり、末広がりに発展してゆくものではありません。前にお話ししたカバラ流の輪廻思想にしても、根底にあるのは同じ終末論的思想です。ショーレムによれば、これは1492年のスペイン追放がもららした事態なのだそうです。それ以前のカバリストたちの関心は、専ら世界の始源にのみ向けられていました。「別な言葉でいえば、カバリストは世界の救済よりも世界の創造に多くの思いを致したのである。」(『ユダヤ神秘主義』p.323)この態度は神秘主義者の王道と言えましょう。しかし15世紀末に起きた破局は、この静的な瞑想主義に、正反対の要素を持ちこみます。終末論的、黙示論的なメシア主義です。その結果、「世界過程の『始め』と『終わり』が新しいカバリストたちによって深遠なやり方で結びつけられるのである。」(同書p.325)別の個所でもショーレムは言っています。「あらゆるものの終わりの道であるティックーンは、同時に始まりへの道である」(同書p.364)この劇的な歴史的過程においては、様々な局面でトポロジカルな逆転が起こっています。追放と流謫が意味するものは、上下逆さまになり、罪と罰から栄光と使命に変化します。精神世界に深く沈降してゆく神秘主義者の内面と外面がひっくり返り、世界の救済を求める終末論者に変身します。もっとも、これらの変化は、元の状態を保持もしています。流謫は依然として罰であり続け、カバリストは依然として神秘主義者であり続けます。つまりそこで起こっているのはクラインの壷を思わせる循環運動なのです。この始まりと終わりが結びつき、未分明な円環と化す動きが復元(ティクーン)なのでしょう。

partⅡ

 さて、前回お話ししたように、カバラの世界にあっては、全宇宙と全歴史を経巡る長大な円環により、またはクラインの壷のように裏と表が結ばれる不可思議な構造により、天と地が一つにつながっています。しかし、この何となく汎神論を思わせる展開の中においても、人間と至高の存在である神との間に横たわる深淵は、未だ埋まりがたいものとして存在しています。カバラ思想とてユダヤ教ですからね。そこらへんの線引きはなくなりません。一方、カバリストたちが、人間が神へ接近する可能性を、幾つかの段階を経る過程として素描してきたことも確かです。

「このような進行する分化の像は、他の多くの象徴表現の根底にもあるが、ここではそのうちの一つだけを取り出してみよう。それは我と汝と彼からなる象徴表現である。示顕の最も隠れた状態にあって、まさにみずからをいわば創造活動へと突き動かしている神、そのような神は「彼」と呼ばれる。次いで神が、その本質と恩寵と愛を全面的に展開し、われわれの心の沈潜に届きうるものとなり、したがって心が語りかけることもできるようになるとき、「汝」と呼ばれる。だが、神が最も外部に示顕して、神の本質が全的に、今一度最後の普遍的な属性においてはたらくとき、「我」と呼ばれる。それは、神が人格として自己自身に向かって「我」と言う、現実の個性化の段階である。神のこの「我」は神智学派のカバリストによれば――しかもそれは彼らの最も重要な最も深い教義のひとつなのだが――あらゆる創造における神の現在と内在を意味するシェキーナーである。このシェキーナーはまた、人間が自己自身の自我を最も深く認識するときに神つまり神的我と最も早く出会う地点である。そして、神の世界へ通ずる扉を開くこの出会いから初めて人間はまた神的存在のより深い段階である「汝」と「彼」のなかへ、さらに奥の深みにまで下りていくことができるのだ。この意味深い、非常に影響力のある思想の逆説性を示しているように思えるのが、以下の点である。すなわち、一般に神秘家が創造における神の内在について語るばあい、彼らは神から人格性を奪いがちである。内在的な神が非人格的な神性にもなるのは、いとも造作のないことなのだ。周知のように、ここに汎神論の根本的な障害のひとつがある。カバリストのばあいはそうではない。カバリストにあっては、人間に最も近い、それどころか根本的にはわれわれ自身の誰にもひとしく内在している神的活動のあの段階は、同時に、神の人格が、ゾーハルの意味において、最も強固に形成されている段階なのである。」(同書p.285)

 久々にシェキナーが現れました。今までどこ行っちゃってたのという感じですが、ギリギリセーフ、最後の最後で戻ってきましたよ。ここでもカバラの一番わかりづらく、一番魅力的な面が顔を出しています。つまり、神の人格化、神の人間化です。この現象については「おまけ その7」で詳しくお話ししました。カバラ思想における人格を持った神性の筆頭格は、やっぱりシェキナーでしょう。引用にある通り、シェキナーは、そもそもの語義において神の臨在、神の宿りであり、すなわち「人間が自己自身の自我を最も深く認識するときに神つまり神的我と最も早く出会う地点」なのですね。なのでしょう。この存在が「我」と呼ばれるのは、無神論者の私にもストンと落ちる気がします。いわんやシェキナー親衛隊のカバリストたちにおいておや。ここでふと思い出されるのは、前に紹介したイサーク・ルーリアのエピソードです。

「…ルリアによると、彼がサフェド近郊の丘の上に立っていたとき、安息日=花嫁とともにのぽってくる安息日=魂たちの群れを、心眼でまざまざと見たという。多くの文献に言われている安息日の諧美歌を目を閉じて歌うというしきたりは、注目に値する。これはすなわち、カバラ主義者が説明しているとおり、シェキナーは、流謫中に泣き暮らした「目が見えない美しき処女」であるという『ゾーハル』の記載に基づいているのである。」(『カバラとその象徴的表現』p.195)

 この、心眼で見る、目を閉じる、という行為によって、たぶんシェキナーは祈る者の「我」とひとつになるのではないでしょうか。シェキナーの「目が見えない」という属性は、これも前にお話しした通り、アラム語で書かれた『ゾーハル』を後世の人たちが誤訳してしまったことに始まっています。「誰も目を向けない美しい女」が「もはや目の見えぬ美しい女」になってしまったのですね。とても美しい誤解です。そしてカバリストたちは自らも目を閉じることにより、シェキナーを「我」と呼び得たのでしょう。また、「目が見えない女」は、「泣き暮れるあまり目が見えなくなった女」というイメージに転化してゆきました。これもずいぶん前になりますが、サフェドのカバリストの中に、アブラハム・ハレヴィ・ベルキムという名の変わり者がいたことをお話ししましたね(「おまけ その3」です)。繰り返しになりますが、この人は溢れるシェキナー愛を押さえることができず、ついにはエルサレムの嘆きの壁で、黒衣のシェキナーが泣き崩れている姿を幻視してしまった人です。彼は夜な夜なサフェドの街を駆け巡り、「いざ神のために起きよ、シェキナーは流浪の身にあり、われらの聖なる建物は焼け落ち、イスラエルは大いなる苦難のなかにあればなり」などとわめき散らしていたそうです。この迷惑極まりない行為は、ベルキムの弟子筋にあたるイサーク・ルーリアによって正式な儀式となりました。深夜の儀式は二部制で、「ラケル礼拝」と「レア礼拝」に分かれます。このラケルが、器の破壊(シェビラー)の後にシェキナーから変化したパルツーフ(神性の顔)だということを「おまけ その6」でお話ししました。(覚えてるかなー、試験に出ますよー。)で、レアが何かというと、これはゼーイル・アンピーン(気短かな者)とめでたく結ばれた後のラケルのことです。つまりハッピーエンドを迎えた未来のシェキナーの名前です。けど、このレア礼拝はどうでもいいっちゃいいんですよね。他人の幸せなんて面白くもなんともない。重要なのはラケル礼拝です。

「『ラケル礼拝』、ティクーン・ラケル(Tikkun Rachel)は真の悲嘆儀礼を表わしているが、そこにおいて肝要なのは、人間が『みずからシェキナーの苦難をともに味わうこと』、つまり、自分自身の困窮を嘆き悲しむのではなくて、いま世界の死活問題であるひとつの決定的な苦難、あのシェキナーの流謫について嘆き悲しむということなのである。したがって、人々は真夜中に起き上がり、衣服を着て、それから戸口にゆき、門柱のそばに座り、ついで靴を脱ぎ顔をおおわなくてはならない。そののち泣きながらかまどの灰を取って来て、それを、テフィリン(Tefillin)と呼ばれる聖句箱が朝の祈禱時に装着される前額部に塗りつけなくてはならない。それから頭を垂れ、両目をじかに大地の埃にこすりつけなくてはならない。あたかもシェキナー自身が、この『目なき美女』が土埃のなかに横たわっているがごとくに。ついで、一連の儀礼文が朗唱される。『詩篇』第一三七章『われらバビロンの河のほとりにすわりシオンをおもひでて涙をながしぬ』や、『詩篇』第七九章『ああ神よ、もろもろの異邦人はなんぢの嗣業の地ををかし、なんぢの聖宮をけがし』、あるいはサフェドおよびエルサレムでつくられた悲歌や特別な嘆きの歌の最終章などが。」(同書p.207)

 もしタイムマシンがあったら、ルーリアたちが実際この儀式をやっているのを一目見たいものです。それはさておき、「みずからシェキナーの苦難をともに味わうこと」が、目を閉じる行為と本質的には一緒の体験なのは注目に値します。つまり「見えないこと」「悲嘆に暮れること」を媒介として、シェキナーとその信者たちは同じ「我」になるのでしょう。地上に居留(シェキナー)し流謫する神との素朴な一体感が、人間が更に上位の神性に邂逅する道を開くことになります。

 そして、神が「我」から「汝」にフェイズを変えた時にも、人間との間に位置的な反転が起きます。『詩篇』の一節「われ深い淵より汝を呼べり」について、『ゾーハル』は「それは、『〔われのいる〕深みよりおんみに向って叫ぶ』という意味ではなく、『〔おんみのいます〕深みよりわれおんみを呼び出す』ことを意味している」(『ユダヤ神秘主義』p.49)と言うのですね。元々の意味において、「淵」とは、どん詰まりでどん底の地上のことなのでしょう。そこから天に向かって神に呼びかけるイメージなのではないでしょうか。しかしこの同じ文言がカバリストにかかると、またもやクラインの壷のような構造が生まれます。暗くどこまでも深い淵の果ては、おそらく神性の天空につながっているのです。たぶんそういうことじゃないかな。知らんけど。
 では神が最終的に「彼」として顕現する時には? ショーレムは、「ユダヤの神秘家は忘我の内でもほとんどつねに創造主と被造物のあいだの隔たりを感じつづけている。」と前置きした上で、こう語ります。

「どんなに親密な関係にあっても神と人間とのあいだにあるこの距離感をはっきり言い表すには、へブライ文学で神秘的合一 unio mysticaと呼びならわされているものに使用されるへブライ語の言葉にまさるものはないように思われる。デベクースという言葉がそれである。その字義通りの意味は、神との「癒着」、神との結合である。それはカバリストにとって、人間が実現すべき宗教的価値の楷梯の最上位にある。デベクースは忘我でもありうるが、もっと普遍的な宗教的関係を含んでいる。それはたえず神とともにあることであり、人間の意志と神の意志の親密な調和であり、一致である。だが、のちのハーシードの著作も描いているような、このような神との交わりcommunio の熱狂的な描写のなかにさえ、神との関係における一抹の隔たりがつねに残っている。多くの者たちはこのデベクースの偉業を、神との合一のなかに世界と自己を滅却することを目ざす忘我のなんらかの形式よりもずっと高く位置づけている。」(『ユダヤ神秘主義』p.161)

 このように、今ではオカルトの仲間入りしてしまったカバラは、本家本元ではとても慎ましい態度を取っているのですね。ドラッグ的な安っぽい忘我体験には流れないわけです。しかし、どの世界にもはみだし者はいるもので、越えてはならない一線を越えて、神様の声を直接聞いてしまった濃ゆーい人もいます。その名もアブラハム・アブーラーフィア。名前からしてこってりしてますね。二郎系です。この人は13世紀のスペインの人です。1240年の生まれで、活躍したのがこの世紀の後半ですから、『ゾーハル』が書かれたのと正確に同じ時代です。アブーラーフィアはある時天啓を受けます。ひとつの声が「アブラハム、アブラハム」と二度呼び、彼に教えを下したそうなのですね。こんな事は当時でも大層スキャンダラスに受け止められました。当人もそれは重々自覚していました。それでも預言者的な使命に燃えるアブーラーフィアは、並みいる敵の誹謗をはねのけ、我が道を突き進みます。と言っても、アブーラーフィアは決して世に言う狂信者の類いではなかったようなのですね。ショーレムは『ユダヤ神秘主義』の中で、わざわざこの人物のためだけに一章を割いています。私もそこからかいつまんでお話ししようと思います。もしかしたら、おまけの最後も最後になって、「この人誰?」的な展開がいきなり始まってしまうのに、戸惑う人もいるかも知れません。でも、話が進むうちに、『翼』本編を読んでる人なら、(ああそういうことね)と納得して頂けるかと。ネタバレ禁止が当おまけのポリシーなのでこれ以上は言いませんけど。

 さて、アブーラーフィアは預言者的霊感に至るためのメソッドを、かなり理論的、体系的に説いた人です。基本、カバラの奥義は口伝えが原則で門外不出なものですが、彼は内面の熱に突き動かされるように多数の著作をものし、その多くが現存しているそうです。アブーラーフィアの教義の肝は、「魂の封印を解くこと、魂を縛っている結び目を解くこと」(同書p.172)です。彼によれば、我々人間の魂は、ふだん、知覚を通じて、日常的、自然的な諸々の事象に縛りつけられています。こうして魂にはある種の堤防ができあがることになります。この堤防=封印は、個的存在である我々の自己同一性を守りつつ、一方で我々が神的な流れにひたされることを妨げてもいます。アブーラーフィアは、この「魂の封印」を突き破って神的な直感に至る方法を追求し続けました。しかし、大事な点は、そのデベクース=神秘的合一の体験は、バッカスの巫女のような神懸かりではなく、あくまで理性的にコントロールされた形で行われなければならないということです。キノコ的な酩酊と狂乱は、アブーラーフィアの目指した忘我とは最も遠い所にあります。彼自身、霊感に至る力を「純粋な知力」と呼んでるくらいですからね。では、みずからの破滅を招くことなく、確実に「結び目を解く」にはどうするか。アブーラーフィアの答えはズバリ、「文字を組み替えること」、です。
 用意するのはインクとペンと文字を書きつける板です。その他の注意事項としては、前もって身を潔めておくこと、シェキナーを畏れかしこむ気持になるように白ずくめの衣装に身を包むこと、誰にも声を聞かれない寂しい場所を選ぶこと、できれば夜が望ましいこと等々です。こうして準備が整うと、瞑想者は板に文字を書きつけ、その文字をひたすら組み替え続けます。そして、このランダムな文字の動きに精神を集中します。この文字列には意味はありません。むしろ意味があってはならないのです。というのは、もし並んだ文字が有意味な単語になってしまったら、それは上で述べた自然的知覚、つまり「結び目」を作ってしますからです。「だんご」とか書いたら、どうしても団子を思い浮かべてしまいますからね。なんにもならない。つまり、なぜ瞑想の対象が無意味なヘブライ文字かというと、それらが「本当に抽象的ではないもの、かといって厳密な意味で客体とよべるものでもないもの」(同書p.174)だからなのです。「猫」とか「細川ふみえ」とかの客体は各々意味を持っていますし、また抽象的観念もまた意味を持っていますからね。哲学的、抽象的な思索は、神に至る道の第一歩にはなりえますが、しかしそれらもまた魂の「封印」、「結び目」であることに変わりはないので、瞑想の妨げになるのです。よって瞑想に一番役立つのは文字のアルファベットであるという結論が導かれます。ヘブライ文字は、「絶対的な対象、つまり、魂のなかにより深い生活を生じさせ、魂から自然の形式を排除する目的を達する――したがって最高の意味をとりうる――が、しかしそれ自身ではなるべく何の意味ももたないような対象」(同書p.174)なのですね。こうして霊感を得ようとする者は、夜を徹して無意味な文字の組み替えに熱中します。しかし、無意味無意味と言いながらも、そこに神聖な意味が秘められているのは明らかです。そこら辺、『トーラー』について長々と解説した「おまけ」を読まれた皆さんなら見当がつきますよね。アブーラーフィアの瞑想に使われる文字列も、『トーラー』に秘められた神の名前と同じものなのです。

「こうしてアブーラーフィアは、神の名の要素としての文字とその組合せに関する神秘的瞑想の学問を発展させた。なぜなら、包み隠された存在、最高の意義の充満を表現していることによって何か絶対的なものである神の名、すべてのものに意味を付与し、にもかかわらずそれ自身は人間的な観照で測れば何ものも意味せず、いかなる具体的な内容も意義ももたない名、これこそそのような沈潜の本来的な、こう言ってよければ、ユダヤ的な意義だからである。したがって、とアブーラーフィアは推論する、この神の偉大な名、全世界で最も不明瞭なもの、を己れの沈潜の対象となすことに成功する者は、魂の内なる隠れた生活を開くことのできる正しい道にあるのだ。今やこれを中心にしてアブーラーフィアは、ホクマス・ハ=ツェルーフ、すなわち「文字の組合せの学問」とみずから名づける全教義を打ち立てた。それは文字とその組合せの助けを借りた方法論的な瞑想への教示である。ひとつひとつの文字、あるいはそれらの結合は、それ自体「意義」をもっている必要はない。むしろ逆に、意義をもたぬことがそれの長所なのであって、それらの字母はしばしば何も意味していないように見えるためにかえってわれわれの注意力をそらすことができないのである。もちろん、アブーラーフィアにとってそれらは全然意味がないわけではない。なぜなら彼は、世界の本質は言語的な性質のものであって、いっさいのものは全創造のなかに啓示されている神の偉大な名にたいしてもっている関与によって存在するのだとするカバリストの理論を採用しているからである。したがってその理論によると、神の純粋な思考はひとつの言語をもっており、この精神的言語の文字は同時に最も深い精神的意義と最も深い認識の要素なのである。アブーラーフィアの神秘主義はこの神的言語におけるひとつの教程を表している。」(同書p.175)

 こうして、深夜の瞑想者の目の前で、文字の列が神聖なダンスを踊り始めます。それは音のない音楽のようなものです。絶え間ない分解と再結合の動きのなかで、モチーフや調べが生じ、それが深く没頭した心の中に響きます。ショーレムは、文字の組合せの学問(ホクマス・ハ=ツェルーフ)の方法論がインドのヨガに酷似していると言います。アブーラーフィアは、瞑想の手順として、文字を発声すること、書き留めること、熟考することの三つを挙げています。彼は、その各々の段階における作法を事細かに定めました。体の姿勢、子音と母音を発音する際の呼吸法、朗読の形式、等々です。なんと言うのか、アツい人だったのでしょう。とかくカバリストたちは、肝心の部分にさしかかると、口を閉ざしたり空とぼけたりするのが好きな人々なので、その意味でもアブーラーフィアは確かに異色の存在といえます。
 さて、こうした厳密なルールに従って神的世界の階梯を一歩一歩昇ってゆき、ついに最高の境地に達した瞑想者は、一体何を目撃するのでしょうか。現れるのは彼の精神的な「教師」だといいます。それは「神話的人物天使メータトローンの姿をした活発な知力の化身であるが、同様にまた多くの個所から明らかなように、シャッダイの現し身をとった神自身」(同書p.184)なのだそうです。ではそのメータトローンないし神様は、相対する瞑想者の目にどう映るのでしょうか。何と「彼」は、瞑想者自身と瓜二つの姿をしているのです。アブーラーフィア自身の言葉を聞いてみましょう。

「なぜかというと、彼はこのときはもう彼の『教師』から分離してはいないからである。なんと、彼は彼の教師であり、彼の教師は彼なのだ。というのは、彼は教師と非常に密着しているので、彼はいかにしても彼の教師から分離することはないのである。なぜなら、彼は()だからである。そしていっさいの物質から遊離した彼の『教師』がつねに、セケル、マスキール、ムスカール、つまり知力、知る者、知られたもの、とよばれ、この三つがすべて彼のなかでひとつであると同じように、このひいでた人間、『すぐれた名の大家』自身も知力とよばれるが、一方では彼は実際に認識する者である。だから彼はまた彼の教師と同じように、知られたものそのものでもある。」(同書p.185)

 補足すると、()とは神のことです。また、ショーレムによれば「密着」という表現は、上に述べたデベクースの概念に非常に近い意味で使われているそうです。この自己と神と化した自己との一体化は、しかし、完全に一つの存在に溶け合ってしまうのではありません。アブーラーフィアと同じような考えを持っていた何人かのカバリストたちは、デベクースをもっと視覚的な表現で描写しています。

「預言者にとって預言の完全な秘密は次の点にあることを知りなさい。預言者は突然自分の姿が面前に立っているのを見る。そして彼は己れを忘れ、自己が彼から離れて、彼は眼前の自分の姿が彼と語り、彼に未来を告げるさまを見る。」
「預言において、聞き手は人間であり、語り手も人間である。」
「わたしは、天地も見そなわすように、ある日腰を下ろして、あるカバラーの秘密を書き記した。そのときわたしは、突然わたしの姿がわたしの向かいに立ち、わたしの自己がわたしから離れるのを見て、書くのをやめずにはいられなかった」(同書p.187)

 つまり、デベクース(癒着)の最終局面において現れるのは、一枚の鏡なのです。この透過不可能な皮膜を隔てて、「我」と、そのそっくりさんである「彼」が相見えます。この二者は、互いに限りなく接近しつつ、ひとつに溶け合うことはありません。この顛末は、単なる幻覚と言うには、あまりにロジカルで、あまりに厳粛です。()が我であるということは、人間が神の似姿であり、同時に神が人間の似姿であるような不分明な領域を出現させつつ、しかも両者の断絶をも露わにしているのです。アブーラーフィアの匿名の直弟子が、師の導きで自分に起こった体験を感動的な筆致で語っています。彼はその締めくくりに、デベクースをとても印象的な言葉で語っています。

「この訓練とは、沈潜のあいだ全力を傾けて思考を徐々に、もはや話しも話せもしない段階に到達するまで、その源から引き出し続けることである。その折なおかなりの余力があって、なおいっそうふんばって思考を引き出し続けるならば、内面が外面に告知され、純粋な想像の力によって磨き澄まされた鏡の姿をとるようになる。それがいわゆる<ぐるぐる回る剣の炎>であり、そこでは背後にあったものが前部として現れ出る。するとそのとき、自己の最も内なる存在も自己の外側にあるものであることがわかる。これが<ウリームとトゥンミーム>の道、すなわちトーラーによる祭司の神託の道であった。」(p.204)

 うーん、どこかで見たことがあるような言葉が一瞬目に入った気がするのですが、それはおいときましょう。「背後にあったものが前部として現れ出」、「自己の最も内なる存在も自己の外側にあるもの」になること、ここに円環とクラインの壷という、カバラ的宇宙の二大形象が現れていることは隠れようもありません。そして、そのトポロジー空間の中心にあるのは、またしても人間、純粋な「鏡」と化した人間なのです。(にしても、<ぐるぐる回る剣の炎>とは、物書きの端くれを自認する私としては、激しく嫉妬に駆られる表現です。いつかパクってやる。)最高の預言者が、セフィロトの樹を登り切った時に目にするもの、それは古代のメルカーバー神秘主義者たちが幻視した、全てを焼きつくす光と炎のビジョンではありません。彼が見るのはただ、自分自身の姿なのです。しかし、これほどの確固とした図式の下にありながら、カバラは哲学でも科学でもありません。例えば、アブーラーフィアは、宇宙が永遠に存在し続けているものなのか、それともある瞬間に発生したものなのかという問いを、あっさりポイ捨てしてしまいます。

「世界が永遠であるか発生したものであるかということは、預言者にとって何ほどの意味があろうか。世界の永遠性は彼により高い段階を授けることも、彼からそれを奪い取ることもできないのだから。世界がある一定の瞬間に発生したという仮定についても同様である」(同書p.190)

 ショーレムは、この発言を「宗教的に重要なのはただ人間の完全性に寄与するものだけである。」という表現で、現代風に言い換えています。確かに「預言者」を「人間」に置きかえれば、アブーラーフィアの言葉は現代でも十分に意味を持ち得ます。つまり、人間の価値は、あらゆる哲学や科学の上にあるという考えになりますね。当然、我々の時代とカバリストたちが生きた時代には差があります。その差は、人間の偉大さが、神の偉大さによって担保されているかいないか、という差になります。しかし、と私は考えます。カバリストたちが証明したのは、神が偉大であるということだけでなく、実は、我々人間が偉大であるということではないのかと。神と人間が分離しつつ不分明になる一点において、肯定されているのは人間の全存在なのではないかと。偶像崇拝を禁じるユダヤ教のただ中で、カバラの神が、常に固有の顔を、人間の顔を、持ち続けてきたことは驚嘆に値します。この顔は、人類の祖、アダムの顔でもあります。不幸なことに、ユダヤ教徒ではない私は、全人類の魂が、楽園のアダムの体内にあったとは信じられません。それでも、アダムの魂を媒体として、すべての人間がつながっているという考えは魅力的です。コロドヴェロはこう言います。「各人のなかにはその隣人の一部分もひそんでいる。だから罪を犯すものは自己をそこなうばかりか、隣人に属しているあの自己の一部をもそこなうのである」(同書pp.370-371)この意見は、神話的なアダムを持ち出さなくても、一抹の真理を含んでいるように思えるのです。この世に住むあらゆる人間は、自然界から追放され、神から疎外されているというそのことにおいて、ある一つの魂の状態を共有しているのではないでしょうか。その状態を神話的にアダムと呼ぼうと、別の名で定義しようと、やはり人間は尊厳に足る存在なのではないでしょうか。まあ私のつまらない人間論はこれくらいにして、輝かしいカバラの世界に戻りましょう。13世紀のカバリストであるナハマニデースの詩を紹介します。何度も何度も開いてくたくたになった『ユダヤ神秘主義』の316頁より。

そもわれは、久遠の昔より、
彼のひとの秘蔵の宝。
無から呼び出されしも、時代(ときよ)の果てに、
王によりまた呼び戻されん。

わが()れでし奥つ瀬に、
(たましい)は秩序形姿(かたち)を授かれり。
そは神の御力が造り養い給いて、
しかるのち王の御倉に納めらる。

彼のひとは輝けり、霊を顕し給わんと、
秘められし源泉(いずみ)にて、右手(めて)左手(ゆんで)の。
かくて霊は降りゆきぬ、葛折(つづらおり)(きざはし)を、
送り出せし池塘より王の御園へ。

 原初の時間に「無」から発した線は、宇宙の全歴史を通過した後に、再び同じ場所、「無」にして「王の御倉」でもある至高の場所に回帰します。また、人間に発した線は、胡桃の殻(ケリポート)に沈降して闇の底にたどり着いたかと思うと、そこから上に方向を転じ、神性の光に輝くセフィロトの樹を登りつめます。こうして人間は、宇宙の全階梯を経巡ってゆき、彼=神と相見えたと思った刹那、再び自分自身である我=人間に行き着きます。この二つの円環はたぶん同じものです。そして、これら全ての背後に、十個のセフィロトの見定めがたい動きがあるのです。最後にもう一度、『創造(イェツラー)の書』をひも解いてみましょう。

(ミシュナ)1・7
 そこには無形の十のセフィロトがあり、その終りは始まりと結びつく。それはちょうど炭に火が結びついているようである。唯一なる神、そして彼は二つとない、唯一なるもの以前をどのように教えることができるのか。

初出
partⅠ:2023年9月5日
partⅡ:2023年9月8日
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登場人物紹介

ユッド(ベー=ユッド)


主人公の若い天使。鞜職人。

不慮の事故で翼を失ってしまう。

内向的で目立たない性格の持ち主だが、時々妙に意固地になる。


通名:メガネ

正式名:出エジプト記三章十四節の第二子なるユッド

カエル


本作のヒロイン。

先天性異常で翼を持たずに生まれた天使。

世をすねて、日の射さない地の底に住んでいる。

背が高く、並外れた運動神経の持ち主。

苛酷な境遇のせいでひねくれた所はあるが、本来は呑気。

ラメッド(ダー=ラメッド)


ユッドの幼なじみの天使。ユッドは彼女に淡い恋心を抱いている。

色白で、流れるような金髪と鈴のような美声の持ち主。

絵に書いたような天使ぶりだが、中身は割と自己中。


通名:カササギ

正式名:申命記十四章七節の第四子なるラメッド

太っちょ(ギー=ユッド)


ユッドの幼なじみの天使。同じユッドの名を持っているので少々ややこしい。

広く浅くをモットーとする事情通。常にドライに振る舞おうとしているが、正体はセンチメンタリスト。


正式名不詳(作者が考えていない)

ゼーイル・アンピーン(アレフ=シン)


天使の長老の一人。ゼーイル・アンピーンは「気短な者」を意味するあだ名。

その名の通りの頑固者。なぜかユッドにつらく当たる。


正式名:創世記二十二章八節の初子なるシン

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