その一 墜落

文字数 23,883文字

第一章

  『トーラー』がこの世に降ったとき、
  もしこの世の衣装をまとわぬのであれば、
  どうしてこの世は『トーラー』に耐えられようか。
  ――『ゾーハル』より

その一 墜落

 遠くで鐘が鳴っていた。目覚める少し前のまどろんだ心の底で、音はカランカランと心地よく響いた。だがそれは、段々と近寄ってきて、そのぶん耳障りになり、ついには頭が割れるような騒音に変わった。すると負けないくらいの大声が窓の外から飛びこんできた。「ユッド!ベー=ユッド!起きて!ユーッド!」
 部屋の隅の寝床で、ユッドの体がもぞもぞと動いた。毛布のように体を包んでいる白い羽の間からトウモロコシの房のような金髪が垂れ、下から眠そうな青い目が覗いた。ユッドが「やあ、ダー=ラメッド」と声をかけると、窓から半身を乗りだして鐘を打ち鳴らしていた ケルブ(天使)はやっと手を止めた。だがそれで静けさが戻ったわけではなかった。ラメッドは叫んだ。「やあじゃないわよ、やあじゃ。あなた今週は槍持ちでしょ。しっかり沐浴してから出仕しないと、またゼーイル・アンピーンにどやされるわよ」ユッドはベッドの中で顔をしかめた。「気短かな者」を意味する古代語をあだ名に持つその老人は、ユッドを見かけるたびになにかと小言を浴びせるのだった。ユッドがのろのろと体を起こすと、ラメッドはだめ押しに鐘をカーンとひと鳴らしして窓の外に消えた。バサバサと羽音が響き、ユッドの顔にさっと朝日が射した。彼はまた顔をしかめた。鐘の音が遠ざかっていった。
 ユッドは枕元に置いてあった丸メガネをかけると、重たい翼を引きずって窓辺に寄った。開いた鎧戸の向こうに聖なる山が見え、上に金の林檎のような太陽がのぼっていた。下界の町はまだ薄暗がりの中に沈んでいる。その上空を白く輝く鳥が一羽飛んでいた。ラメッドだ。彼女はカンカンと鐘を打ち鳴らしながら北の塔に向かっていた。塔は眼下の街並からにょきっと突き出し、誇らしげに朝日を浴びている。あそこから見れば、ユッドの住んでいる南の塔も同じように見えるはずだ。北の塔には太っちょのギー=ユッドが住んでいる。ラメッドはこれから彼を叩き起こしにゆくのだ。(ご苦労なことだ。)ユッドは大あくびをして窓から顔を引っこめる。
 瓶の水で顔を洗い、干した果物で簡単な朝食をすませると、ユッドは勤め着を頭からすっぽりとかぶり、背中にあいた穴から両の羽を突き出した。それは首から踝までを覆うごわごわした白麻の筒衣で、神殿での勤めの時にだけ着るものだ。聖なる山の底では、古代文字を組み替える祭礼が行われている。儀式は、週に一度やってくる安息日を除いて、昼だろうと夜だろうと片時も止まらない。天使たちは、朝、昼、晩、夜半の四交替制で、この神聖な労働を果てしなく続けているのだ。今週は火曜日の朝と木曜日の夜半がユッドの当番だ。今日は火曜日だった。ユッドは古いクルミ材の戸棚の前に立ち、上に置いてある石を撫でた。いつもの朝の習慣で、ほとんど無意識の動作になっている。それは丸みを帯びた灰色の石で、そら豆のようなひしゃげた形をしている。なんの変哲もない石だが、その形は見ようによっては女が地面に倒れて泣き伏しているようにも見える。少なくともユッドにはそう見える。でも彼はそんなことはおくびにも出さない。ラメッドや太っちょのユッドにさえだ。偶像崇拝の類いは固く禁じられている。万が一、ゼーイル・アンピーン(気短かな者)の耳に入ろうものなら、ただではすまないだろう。
 ユッドは木の扉を開けて表に出た。戸口の外は狭い石の露台で、横幅は2アンマ(1アンマは50センチ弱)あるかなしか、奥ゆきは1アンマもない。その一歩先はもう空で、はるか500アンマの下にケルビム(天使たち)の町が広がっている。まだ眠気の覚めないユッドの目に、朝日を浴びて林立する尖塔群と、その間を忙しく飛び過ぎてゆく天使たちの姿が映る。小鳥のように見える彼らの大半は、東に向かって飛んでいた。ユッドと同じく朝の勤めに向かっているのだ。
 不意に「よう、メガネ君」と声がかかった。ユッドが振り向くと、隣の部屋の窓から髭面のケルブが首を突き出していた。ベー=レーシュだ。「あのカササギさんはなんとかならんかね。毎度うるさくてかなわん」彼が指さす先には鐘を鳴らしながら飛び回っているラメッドがいる。ユッドはきまりの悪さに耳たぶを赤くしながら言い返す。「本人に言ってくれ。俺は知らないよ」ベー=レーシュはにやにや笑っている。「まあいいさ。なあ、フェルトの染めが今日の午後にはあがるんだ。工房から何枚か持って帰るから、夜にでも取りにきたまえ。ご要望の緋色もあるよ」レーシュは羊毛の加工を副業にしているのだ。(くつ)職人のユッドにすれば重宝な隣人だった。
 ユッドはばさりと羽を打って、空中に足を踏み出した。左右に伸びた白い翼が空気をはらみ、華奢な天使の体をふわりと持ちあげた。普段は背中に畳まれている両の翼は、飛ぶ時は各々が身の丈よりも大きく広がるのだ。ユッドは塔の回りを巡りながら空をのぼってゆく。塔の壁には小さな窓と木戸が等間隔に穿たれている。同じ作りの部屋が、ねじの溝のような螺旋を描いて積み重なっているのだ。ユッドはその線をなぞるように飛んだ。この石造りの建物は、蒼古の昔に建てられた東西南北の「見張りの塔」のひとつだが、今では単なるアパートになっている。300人ほどの住人がいて、ユッドの部屋は上から三分の一くらいの高さにあった。
 ユッドは塔の天辺を越え、更に上空へとのぼってゆく。聖山に向かって吹く西風に乗るためだ。次第に町の南西に広がる大海原が目に入ってくる。だがユッドがその光景を意識することはほとんどない。ケルビム(天使たち)にとって、海はなんの意味もない空白でしかなく、水平線も一本の抽象的な直線以上のものではないのだ。聖山と町が彼らの全世界だった。
 ユッドの眼下をケルビムの町並みが流れ過ぎてゆく。10万の翼持つ者たちが暮らすこの都市は、まるで大地から直接生え出たように見える。それもそのはずで、5千アンマ四方の土地に密集してそびえている建物の群は、神代の恐るべき棟梁たちが玄武岩の台地に鑿鎚を振るい、そこから直に切り出したものなのだ。重力というものをまるで気にしない住人たちにふさわしく、尖塔や城館はどれも思い思いの形で空に伸びあがり、ねじ曲がり、逆さに張り出して、まるで酔っぱらった群衆が踊り狂っているようだ。あちこちの屋上やバルコニーに緑の庭園があり、クルミやリンゴの木が風にそよいでいて、夢まぼろしから抜け出てきたような町並みに、ほっとする親しみやすさを加えていた。住人たちはここをただ「町」と呼んでいる。町はひとつしかないので、それで一向に不便はないのだ。蒼古の昔にはこの町にも名前があったのかもしれない。だがそれを知る天使は誰もおらず、そんなことを気にする者もいなかった。
 町の東の外れは聖なる山のふもとで、急峻な崖の上に、一年を通じて豊かな実りをもたらす農園と、羊の群れが遊ぶ牧草地が広がっている。そのただ中を神殿へ続く石畳の道がうねりながら伸びていて、脇には木立に囲まれた泉がある。勤めを行う天使たちは、必ずそこで沐浴し、歩いて聖所に参内しなければならない。
 聖なる山は太古に活動を終えた死火山で、山の腹に開いた暗くて長い横穴を抜けると、突然、広々としたドームのような空間に出る。かつて炎を盛んに吐き出していた巨大な火口が、今では天使たちの神殿になっているのだ。

 はるか頭上の火口を覆う天幕の隙間から、たくさんの光の筋が射しこんでいる。行き交う天使たちの羽音と、無数の手回し計算機が立てるカタカタという音が重なり合い、岩壁にわんわんと反響している。すると上でトランペットが鳴った。ユッドは耳を澄ませる。長く伸びるミの音と、鋭く二度吹き鳴らされる高いドの音だ。天幕の向こうにある至聖所で、神託機械のウリムとトンミムが聖なる数字を告げているのだ。ラッパが奏でる短い旋律は、それを下位の天使たちに知らせるものだ。ユッドは手回し計算機のハンドルを回し、新たに伝えられた数を今までの値に足すと、結果を石盤に書きつける。しばらくすると狭い橋桁を伝って隣のケルブがやってくる。赤毛のベー=ユッドだ。ユッドと同じ略名を持つこの小柄なケルブは、別の組のメンバーながら、勤めの順列上、いつもユッドの隣に席を占めている。折り合いはあまりよくない。彼女の頭の上を真紅の飾り帯をしめたケルブが旋回し、二人のユッドに疑り深そうな目を注いでいる。監査役のレビの民だ。赤毛は小脇に抱えていた石盤をユッドの目の前に突き出し、つんと小鼻をそらせて読みあげる。「15154!」ユッドもそっくり返り、同じような口調で答える。「15154!」見張りの天使が上から鼻を突っこんできて、二つの石盤の値が同じなのを確かめる。すると赤毛はその場に留まり、今度はユッドが右隣に移動する。待っていたのは太っちょのギー=ユッドだ。ユッドは石盤を見て同じ数字を読みあげる。太っちょも丸い腹を突き出してすまし顔でくり返す。「15154!」またトランペットが鳴り、新たな数字を告げた。長いファの音、そして今度は高いドの音が一度だけ。つまりゼロだ。「またか」太っちょがぼそっと言った。「今日は猫の厄日だな…」罰当たりな言葉にユッドは笑いをかみ殺す。頭上のレビがしかめっ面をしたのは見ないでもわかる。太っちょのギー=ユッドはチカッと目配せすると体を揺すりながら隣に移動して行った。憮然とした顔のレビが続く。その先ではのっぽのアレフ=ユッドが両手をぶらぶらさせながら待っている。
 彼ら「ユッド」の名を授かる者たち――彼らが並んで立っているのは半アンマほどの幅しかない細長い橋桁だ。神殿の底から千アンマ(約500メートル)の高さにあり、天然の岩壁から水平に伸び、神殿の中心にそびえ立つトーラーの柱をかすめて反対側の壁に達している。狭い通路の片側だけに鉄の手すりが渡されていて、上には灰色の手回し計算機がずらっと並んでいる。天使たちはその間を順繰りに移動し、橋の上を進んでゆくのだ。ユッドたちの上にも下にも、同じような橋が互い違いに重なり合っている。どれも天使たちで鈴なりだ。これら「数えの橋」は全部で二十二あり、それぞれの橋に集うケルビムは皆同じ名を持っている――二十二の神聖文字と同じ名を。ユッドたちの頭上を斜めに横切っている橋は כ(カフ)の名を持つケルビムの仕事場で、下の橋で鳩のように並んでいる天使たちの名は皆ט(テット)だ。十番目の文字の名を持つי(ユッド)たちの橋は巨大な縦穴の真ん中あたりにぶらさがっている。
 日が高くなり、天幕から洩れる光が神殿の底の湖に届くころ、ユッドたちの七十人組に槍持ちの勤めが回ってきた。ゆっくりと橋桁を移動してきたユッドの目の前で、トーラーの柱が湾曲した壁となって立ち塞がっている。高さ二千アンマの巨大な柱には三十万と四千八百五個の神聖文字が螺旋をなして並んでいる。天使たちは神託に従って、昼となく夜となく文字の組み合わせを替えているのだ。すべてが始まりに戻るヨベルの年から、早二年目の半ばに差しかかっていた。最初は恐るべきメッセージを発していた古代の文字群は、今やほとんど崩れ果て、単なる無意味な連なりに変わっている。だが散乱した文字の海の中に、所々、蒼古の言葉の断片が離れ小島のように残っている。例えばユッドの斜め上には――

םייחםימלעשרחילכלאתחאהרפצהתאטחשובזאותעלותינשוזראץעוםירפציתש

(…二羽ノ鳥、糸杉ノ木、緋色ノ糸、香リ草ヲ取レ。ソシテ鳥ノ一羽ヲ焼キ物ノ器二入レ、流レル水ノ上デ殺セ…)

 ユッドは思わずぶるっと身を震わせる。ケルブの血に刻まれた古の知識が、聖なる文言を脳裏にくっきりと浮かびあがらせるのだ。嫌でもだ。ただし、ユッドたちの生まれつきの能力は、古代の言葉の字面の意味を伝えはしても、その真意までは教えてくれない。
 五十年に一度のヨベルの年ごとに、神聖文字の配置は初期状態に戻る。そこに現れるのは「モーセ五書」とも「第二のトーラー(律法)」とも呼ばれる古代の聖典だ。ベレーシート(創世記)シェモートゥ(出エジプト記)ワイクラー(レビ記)べミドバル(民数記)デヴァリーム(申命記)の五つの書がひとつながりになっている。それを目の当たりにして戸惑わない天使はいない。柱に現れる一連の文章は、正直彼らに理解できないことだらけなのだ。ユッドたちにはっきりとわかるのは、前の千年期を支配していたという神の厳しい裁きの気配、ただそれだけだ。それは文字と文字の間に確かに息づいていて、ぞっとするような冷気を放っているのだった。
「おい、そろそろだぞ」太っちょが小声で言った。見ると柱の回りで何十人ものケルビムが群れて飛び、こちらにのぼってくる所だった。ユッドが属する七十人組の者たちだ。腰から剣を下げたレビの者が四名、列から少し距離をとって飛び、護衛の任務に当たっている。単に儀礼的な務めで、なにかに襲われる危険があるわけではない。ユッドは太っちょとのっぽを従えて橋から飛び立ち、空中で仲間を出迎える。群れの先頭を務める兎飼いのアレフ=テットが、胡桃割りのベー=テットと洟垂れギー=テットを左右に従えて、朗々と口上を述べる。「友よ。至純と厚誼の主なるエン・ソフ(無限なる者)より出ずる第九の文字を拝命するこの私、べミドバル(民数記)一章四十三節の初子なるテットが、そなたに導きの槍を委ねる」テットは手にしていた銀の槍をうやうやしい仕草でユッドに差し出す。するとユッドはそれを受けとり、大きく深呼吸してから懸命に声を張りあげる。「友よ。統一と名誉の主なるエン・ソフ(無限なる者)より出ずる第十の文字を拝命するこの私、シェモートゥ(出エジプト記)三章十四節の第二子なるユッドが、確かに導きの槍を受けとった!」
 組の先頭になって柱の回りを飛びながら、ユッドは内心ため息をついている。毎度のことながら、兎飼いの堂々たるバリトンの後では、自分の滑舌の悪いしゃがれ声はどうしたって見劣りがする。ユッドの次の次に槍を受けとったのはカササギのラメッドで、彼女も惚れ惚れするような美声の持ち主だ。太陽の光が幾筋ものビームになって射しこんでいる広大な堂内に、鈴を鳴らしたような声が響き渡る。「友よ。教えと愛の主なるエン・ソフ(無限なる者)より出ずる第十二の文字を拝命するこの私、デヴァリーム(申命記)十四章七節の第四子なるラメッドが、確かに導きの槍を受けとった!」
 こうして天使の群れは、橋をひとつ通過するごとに三人ずつ数を増やしながら柱の回りを上昇してゆく。ユッドの組の上方でも下方でも、別の組の天使たちが輝く渦巻きとなって柱をとり巻いている。彼らはそれぞれ、神託が定める文字の元へと向かっているのだ。柱の根元の最初の文字が1番。天辺にある最後の文字が304805番だ。
 一方、天幕の向こうに鎮座している神託機械は、ウリムかトンミムか、すなわち有か無かという裁定を、赤と青のランプをチカチカと光らせて下し、そのメッセージは二十二回で一まとまりとなる。つまりは二進法の二十二桁の数字がひとつできあがるわけだ。その値が文字の位置を示すのだが、問題がひとつある。数値がとりうる値は最大で4194293となり、四百万を越えるのだ。一方、神聖文字に振られた番号は三十万とちょっとで打ち止めだ。しかし天使たちはこの矛盾をものともしない。彼らは柱の回りを何周も往復して帳尻を合わせるのだ。時にそれは十周を越える。この杓子定規なやり方がまた、天使たちの気分を盛りあげるのだ。その高揚感は時に天地の創造を何度も繰り返す宇宙の壮大な営みにも例えられた。ユッドは先頭で翼をはためかせているラメッドの背中を眺めながら、漠然と、たぶん俺は今、なんやかんや言って幸せなんだろうと思う。この大がかりな儀式に一体なんの意味があるのかは天使の間でも諸説あった。つまり、それを真に知る者は誰もいないのだ。だが一方で、この勤めに大きな文句がある者もなかった。
 ユッドたちの組はトーラーの柱をぐるぐる巡りながら下から上に飛び、火口を塞ぐ天幕が鼻先に迫ると、折り返して下に向かって飛んだ。そして神殿の底の湖の上で急旋回すると、再び柱に沿って舞いあがった。こうして彼らは572534番目の文字、つまり実際には267729番目の文字にたどり着いた。三つ又の矛のような形をしたש(シン)の文字だ。槍を最後に受けとった者、つまり二十二番目の文字、ת(タヴ)の名を持つケルブが、勢揃いした六十六人のメンバーを従え、剣を構えた四人のレビが厳めしく見守る中で、目指す文字の上に槍の柄を差しこむ。万が一、神託に告げられた位置とひとつでも違っていたら、血の贖いがなされねばならない決まりなのだ。ユッドは列の中ほどから儀式を見守りながら、自分が十番目の文字の子として生まれてきてつくづくよかったと思う。もっとも千年に及ぶケルビムの歴史の中で、レビの剣が実際に振るわれたという話は聞かない。
 その後は力仕事が待っている。「せーの!」ユッドたちは声を合わせてロープを引っぱり、神聖文字をズルズルと柱から引っこ抜く。現れるのは乳白色の神体だ。直方体の巨石で、文字が彫られた面が縦横2アンマ(約1メートル)の正方形をしており、奥行きは10アンマもある。その姿は巨大なハンコに似ていなくもない。途方もなく重いので、七十人の天使たちは、神体を頑丈な綱でぐるぐる巻きにして、総出になって運ぶのだ。今や朝の勤めは一番忙しい時間帯を迎えていた。天幕の薄い布を通して日の光が射しこむ中、トランペットの音がひっきりなしに響き、聖なる柱の周りでは、槍持ちの儀を行っている組と、儀式を終えて神体を運んでいる組とが入り乱れて飛んでいた。更にその周りでは、何千もの天使たちが橋の上に並び、カタカタと計算機を回しているのだ。神体を運ぶユッドたちは、うんうん言いながら翼を羽ばたかせ、柱に沿ってゆっくりと降下してゆく。すると湾曲した文字の壁の陰から別の神体が現れた。ע(アイン)の字が刻印されている。ユッドたちが運んでいる神体と入れ替わりになるものだ。天幕からの光を浴びて白く輝く直方体は、多くの天使に回りを囲まれ、ユッドたちのすぐ側を上昇してゆく。すれ違いざまにひとりのケルブがユッドに目で挨拶をよこした。お隣の髭のレーシュだ。そういえば、夕方彼の部屋に生地を取りに行かなければならないのだ。今夜は忙しくなるな、と思いながら、ユッドは目礼を返す。
 午に近かった。もうすぐ交替の時間だ。ユッドは再び数えの橋に戻り、他のユッドたちの列に混じって計算機を回している。手すりの上に身を乗り出しているユッドの目を、光の点がチクチクと刺す。神殿の底にあるシェキナー(精霊)の湖が日の光を反射しているのだ。はるか下の暗い水面でさざ波が踊っているのを眺めているうちに、ユッドの心はあらぬ方へとさまよいだす。今日手にいれる赤いフェルトで、ラメッドに新しい鞜を作ってやろう。唐草模様の型押しをして、結び紐の縁には銀の飾りをつけるんだ。そうだ、ミツバチの形がいい。細工師のベー=チェットに話をつけて…
「1327482!」耳元で大声がしてユッドは我に返る。見ると銅色をしたくせ毛が目の前に迫り、丸いおでこの下から刺すような眼差しが覗いていた。完全に油断していた。近くにレビの姿がないのはもっけの幸いだ。ユッドはあわててメガネを直し、石盤の数字を読み出した。「えー…、132…」そこで言葉が詰まった。自分で書いた数字なのに、千の位の数字が7か9か判然としない。無意識のまま書きなぐったので、どちらだか覚えていないのだ。すると赤毛の目玉と鼻の穴が威嚇するように広がった。待ったなしだ。ユッドは目をぎゅっとつぶり、眉間を拳でコンコンと叩くと、思い切って賭けに出た。「…9482!」赤毛があごを突きだして「は?」と言った。彼女は自分とユッドの石盤を素早く見比べると、やにわに下に向かって叫んだ。「ゲルション!来て!エドムの王名よ!」ちなみにエドムの王名とは、計算ミスの天使流の言い換えだ。
 彼女の声は100アンマ下の橋まで届き、ひとりのレビが血相を変えて飛んできた。あたりのケルビムが皆こちらを見ている。ユッドは呆然と立ち尽くす。頭の中は真っ白だ。ゲルションと呼ばれた大柄なレビはユッドが知らない者だった。彼は二人のユッドから石盤を引ったくり、険しい目で二つの数字を見比べた。チビの赤毛がぐっと背を伸ばし、甲高い声でまくしたてる。「彼、確かに9って言ったわ」監査人はユッドをじろりと睨んで言った。「友よ、相違ないか」ユッドはうなだれたまま小さく頷く。するとゲルションは襟の内から角笛を取りだし、大きく息を吸いこんだ。一瞬の後、ブオーというものすごい音が響き渡った。すると上下の橋にいたレビの民たちも次々に角笛を吹き鳴らしはじめ、ついには神殿全体が嵐のような音に満たされた。そして笛の音は一斉にやんだ。残ったのは水を打ったような静けさだった。八千人を越えるケルビムが、手を止めて、じっとユッドを見ていた。生きた心地もしない彼の傍らで、巨漢のレビが昂然と頭をあげ、大音声で宣言した。「只今、これなるユッドの息子よりエドムの王名が生じた。滅び去ったかの幾多の王たちにつき、古の言葉は告げる。『神この世を創りたまいし前に、他のもろもろの世を創りて再び破壊せるは、神の心に染まざりしなればなり』と。かくなる上は、至高なる玉座のメータトローンの僕たる私、レビの裔ゲルションが畏れながらも悔い改めを進言する。かの奇しき天の書記官の取りなしがあらんことを!」
 厳めしい彼の顔にわずかな得意の気が見られたとしても、それを咎めることはできない。レビの者の晴れの舞台とはこうしたものだからだ。メータトローンとは、天界に座すケルブ・カドモン(最初の天使)の名だ。森羅万象の記録者であり、神の中の神、帷の彼方のエン・ソフ(無限なる者)の代弁者ともされていた。天幕の向こうでトランペットが鳴った。第一の文字、א(アレフ)を表す低いドの音が長く続く。ゲルションの進言が承認されたのだ。橋の上に居並ぶ数千の天使たちが一斉に計算機の上に屈む。既にウリムとトンミムは十九番目の裁定まで終えていた。それを全員で悔い改める――つまり最初から計算し直すのだ。トランペットが再び半音ずつ音階を昇りながら数値を告げる。広大な神殿にカタカタという音が無数に響き始める。上下左右のケルビムは無表情で口をきっと結んでいる。ユッドも冷汗を滝のように流しながらハンドルを回す。次も間違えたら目も当てられない。槍持ちの儀と違い、数えの儀でミスを犯しても特に罰は与えられない。だが、この状態そのものが、うっかり者に地獄の苦しみを与えるのだ。

「なんたる恥さらしだ!」メガネの奥の両目をまん丸にしてゼーイル・アンピーン(気短かな者)が怒鳴った。その前でユッドは力なく立っている。遅い春の風が優しく彼の髪を撫でているが、それに気がつくどころではない。二人の足元では沐浴の泉が穏やかにさざ波を立てている。既に昼の勤めが始まっているので他に人影はない。いや、杉木立の陰に隠れるようにして太っちょとカササギが見守っている。
「申し訳ありません…」消えいるような声でユッドが言うと、長老は腰に手を当て、ユッドの顔を覗きこむようにして聞いた。「ほう、なにが申し訳ないのだ。言ってみるがよい」「私が不注意で計算を誤ったことです、アレフ=シン」「違う!」気短かな者は、はげ頭から湯気を立てんばかりにして怒鳴った。「おまえはなにもわかっておらん!」ユッドは目をぎゅっとつぶって耐える。「よいか、聖なる文字の遍歴は、その長大な旅路のどの一歩を違えても、たちどころに宇宙の破滅をもたらすのだぞ。それを知らぬおまえではあるまい」「はい、アレフ=シン」「では、六千六百ものケルビムが同じ計算を同時に行うのはなぜだ」これから屁理屈が延々と続くのは火を見るよりも明らかだ。だがユッドはおとなしく誘導尋問に乗るしかない。「ひとりが間違えても、他が正すことができるからかと、アレフ=シン」すると長老は毛のない頭を振り立てながら、憐れむように言う。「ベー=ユッドよ。おまえはなんという愚か者なのだ。それではまるで逆ではないか」ユッドは機械的に答える。「はい、アレフ=シン」なにがあろうと疑問や否定を含む言葉を発してはならない。ユッドの学んだ処世術のひとつだ。長老は少し口調を和らげる。「よいか、トーラー(律法)の聖なる流謫は早千年を過ぎたが、いまだ第三のトーラー(律法)は顕現しておらん。わしが思うに、おそらくこの旅程は、我々ケルビムの想像を絶する長きに及ぶのだ」「はい、アレフ=シン」「とすれば、その間には、確率上起こりうることは、すべて起こると考えねばならぬ、わかるか」「はい、アレフ=シン」「とすればだ」シンはぽやぽやと生えたあご髭をひねって続ける。「六千五百九十九人のケルビムが、偶々同時に同じ計算違いを犯し、残りのひとりだけが正しい答えを導き出す、ということも、決してありえないことではない」「はい、アレフ=シン」「いや、それはいつか必ず起きるのだ。それが明日か、百億年先かはわからぬがな」「はい、アレフ=シン」「はい、ではない」長老は、メガネとメガネがぶつかるくらいに顔を寄せ、ぎょろぎょろとユッドの目を覗きこみながら続けた。「おまえはさっき、メルカーバー(天の車)にかけて、堂々と自分の正しさを主張すべきだったのだ。あの場のケルビム全員を敵に回してでもな」「…はい、アレフ=シン」「それがなんだ、あの情けない態度は!」

「しかしあのハゲ親父、言うことが毎度違うじゃねえか」太っちょは憤然とした顔で言うと、リンゴ酒をぐいっとあけた。小さな木のテーブルを挟んで座っているユッドは、琥珀色の酒がなみなみと注がれたコップを手にぐったりと頭を垂れている。ゼーイル・アンピーンの説教はあれから三時間続いたのだ。バサバサと羽音がしてラメッドがおりてきた。丈の短い平服に着替えた彼女は、焼き菓子やら果物やらで山盛りの皿を抱えている。彼女は皿をテーブルに置いて二人のユッドの間に座った。ギー=ユッドは平たい種無しパンをつかむと、むしゃむしゃ頬張りながら言った。「ま、あまり気にするなよ。よくあることさ」
 実際、不注意者のせいで計算が振り出しに戻ることは週に何度もある。だが、ユッドたちの組からエドムの王名が出たのは初めてのことだった。太っちょとカササギは、すっかり落ちこんでいる友人を無理矢理夕食の席に誘い出したのだ。ここは大通りに張り出した松の枝の上だ。その名も松の木亭と呼ばれている巨木は、通りに面した居住棟の窓からにょっきりと生え、そこから空に向かって100アンマ(約50メートル)ほども伸びあがっている。幹から突き出た枝はきれいに刈りこまれ、丸や四角のテーブルが据えられている。どの卓も食事を楽しむ天使たちで一杯だ。色とりどりの服を着た彼らは、齢数百年の古木を咲き誇る花々のように飾っていた。ユッドたちは梢に近い特等席にいた。そこからは町の中央を走る広い通りがよく見渡せた。
 大通りといっても道があるわけではない。ユッドらの眼下に広がっているのは、巨大な石造りの建築群に挟まれた大きな谷だ。四角い窓が縦横に並ぶ絶壁が向かい合わせになって東西に伸び、町を真っ二つに割っている。その間を大勢の天使たちが通り過ぎてゆく。上になり下になり飛んでいる彼らのほとんどは聖山のある東に向かっていた。晩の勤めの始まりが近いのだ。あと半時間もすれば、ここは昼の勤めから帰ってくる天使でごった返すことになる。太陽はまだ水平線の上にあったが、建物の低い階では、もう窓々に灯りが点っていた。そこから下は建物の壁が天然の岩肌に入れ替わる境目で、そのあたりから急に暗くなり、谷底は濃い闇に沈んでいる。
「それにしても、最近長老たちはピリピリしてるわね」ラメッドがコップにリンゴ酒を注ぎながら言った。「ピリピリしてるのはじいさんばあさんだけじゃないさ」太っちょが口をもぐもぐさせたまま返す。「知ってるか?最近変なサークルが続々できて、夜ごとに集まっては内緒話をしてるぜ」「なにをしゃべっているの?」「決まってるだろ。世界がなんで終わらないのかってことさ。どいつもこいつも大真面目に悩んでやがる」カササギは鼻に皺を寄せて「なーんだ」と言うと、ユッドの背中をポンと叩いた。「ほらユッド、飲みなさい。ぐずぐずしてると世界が終わっちゃうよ」ユッドは無言のままコップの酒をちびりと舐める。彼にしてみれば、今日の午前中に世界が終わってしまったようなものだった。太っちょとカササギは、鬱々としているユッドをほったらかしにして、ああでもないこうでもないと世間話を続けた。太っちょは広く浅くをモットーとし、なにごとにも鼻を突っこみたがる性分だった。町に起こっていることなら大概知っているのだ。だが彼でなくとも、町に不穏な空気が漂っていることに気づかぬ者はいない。それは一昨年のヨベルの年に端を発していた。
 ユッドたちの世代に物心がついた頃から、彼らが15の歳で迎えたヨベルの年まで、天使の町は熱に浮かされたような高揚感に包まれていた。50年ごとに訪れるヨベルの年は、奇跡の業によって天使の町が誕生してから、ちょうど20回目を迎えようとしていた。つまり、至福千年の最後の年を目前にしていたのだ。
 ケルビムが知っている歴史によれば、この宇宙は、七つのシュミッター(宇宙期)を次々に通過してゆく。各々のシュミッターは七千年続き、その間は神の持つ七つの特性の内、どれかひとつの面が優勢になり、世界を支配する。宇宙期が変わると、前の時代を支配していたあらゆる価値観が天地さかさまに引っくり返る。その時は物理法則さえも変化すると言われていた。現在は神がディーン(厳格な裁き)の面を露わにしている第二宇宙期にあたり、事実、地上は何千年にもわたって、善悪の力が激しくぶつかり合う闘争の舞台となった。だがこの厳しい時代も天使たちが舞い飛ぶ至福の千年をもって終る。そして新たに始まる第三の宇宙期では神のラハミーム(慈愛)の顔が支配することになるだろう。神の愛が太陽の光のように降り注ぐ新世界がまもなくやってくる、はずだった。
 至福千年の999年目の年、天使たちはトーラーの柱の変化を、これまでにないほど熱心に見守った。50年ごとに彼らが目にしてきた古の聖典、「第二のトーラー」「流謫のトーラー」「モーセ五書」等々の名前で呼ばれてきた現世のトーラー(律法)は役目を終え、今しも新しい宇宙期を統べる第三のトーラーが顕われ出ると思われていた。ところが翌日にヨベルの年を迎える大晦日になっても、柱を埋める文字群は相変わらずバラバラのままだった。どう目を凝らしても、そこにはなんの意味も読みとれなかったのだ。翌日の新年初日は失意と脱力感の中で迎えられた。それからの一年を丸々費やしてトーラーの柱は初期状態に戻された。再び訪れた大晦日には三十万四千八百五個の神聖文字によって「モーセ五書」が完全に復元された。15歳のユッドらは、その内容のあまりの激越さに恐れおののいた。そして次の日の元旦から再び果てしのない組み替え作業が始まった。50年ごとに粛々と繰り返されてきた光景だが、ユッドらの世代はなんとも割りきれない思いを抱きながら日々の勤めを続けてきたのだ。そして今は、新しい千年紀を迎えてから1年と5ヶ月目に突入していた。
「まったく難儀な時代に生まれついちまったもんだよな、俺たちは」ギー=ユッドが大げさに嘆息してみせると、ダー=ラメッドは口を尖らせた。「別にいいじゃない。このままで一体なにが困るっていうのよ」彼女はそう言うと、ぐっとコップの酒を飲み干した。太っちょが苦笑して言った。「おい、言い過ぎだぞ」
 もっともカササギの言葉は、大多数の天使たちの本音を代弁していた。ここの気候は温暖で、聖山の麓の農園で得られる収穫は十万の天使たちの胃袋を常に満足させてきた。ヨベルの年の前の盛りあがりの最中ですら、かなりの数のケルビムが、内心、未知の新世界がどれだけ素晴らしいものでも、今の生活を捨てるのは惜しいと考えていたのだ。
「でな」太っちょはカササギ相手に講釈を垂れ始める。事情通を自認する彼は、あちこちで開かれている集会に夜な夜な顔を出し、そこで交わされている議論を少しずつつまみ食いしているのだ。大小のサークルは、大抵はひとりか数人の長老を中心にまとまっている。彼らの主張はてんでバラバラだ。ある者たちは、至福千年は限りなく延長しうるのだと言う。彼らによれは、時間というものが意味を持つのは、この宇宙に現れ出た神の七つの顔においてのみであり、エン・ソフ(無限なる者)の隠れた最深部、帷の彼方の三つの顔においてはその限りではない。時間の概念を持たないエン・ソフにとっては、永劫の時間も一瞬も同じことで、至福千年や宇宙期(シュミッター)といった観念は、時間に縛られた有限の存在である我々の不完全なこしらえごとにすぎない。ゆえに、神に関わる物事は、常に永遠の相から見られるべきである。重要なことは、三十万四千八百五の文字がなすあらゆる組み合わせの数は、たとえ想像を絶するものであるにせよ、あくまで有限だということだ。よってトーラーの流謫はいつか必ず終息するのであり、神の目からすれば、いつか成就されうることは、すでに成就されたも同然だ、と言うのだ。この説明には色々と矛盾があるが、巷に出回っている諸々の説の中では最も穏やかな部類で、天使たちにも受けがいい。彼らにしてみれば、現在の悪くない生活を、これからもずっと(もしかしたら永遠に)続けられるということだからだ。昼間ゼーイル・アンピーンがユッドにくどくど言い聞かせたことも、大筋は同じ理屈に基づいている。「だがな」と太っちょは注釈をつけた。「一部の玄人筋は、あのハゲ親父は本音を言っていないと噂し合っているぜ」ユッドは顔をしかめた。アレフ=シンの話など、耳にしたくもなかったのだ。太っちょはおかまいなしで哲学的なゴシップを垂れ流し続けた。口さがない連中によれば、かの長老がいつも言っていることは手のこんだ目くらましにすぎず、彼はもっと過激な思想を抱いているに違いないというのだ。「ま、買いかぶりだな」と太っちょは結論づけた。「あのジジイは屁理屈で他人を困らせるのを生き甲斐にしているだけさ」ユッドは大きく頷いた。
 一方、こんな考えを持つ者もいた。宇宙は前後左右上下に無限に広がっており、したがって無限の数の世界を含んでいる。それでいながら、我々の住む天体を構成する粒子の数は、どれだけ多くとも有限であり、その組み合わせかたも、想像を絶する数ではあろうが、やはり無限ではない。だとすれば、無限の宇宙の中には、我々の世界と瓜二つの世界が存在するはずだ。それも無限の数だけ存在するのだ。そして、それぞれの世界には我々とまったく同じ顔と心と行動を持つケルビムが住み、同じようにトーラーの柱に仕えている。ところが神託機械のウリムとトンミムは、エン・ソフの最も隠れた神秘に直結しており、それが告げる神託は、この宇宙の粒子の運動から完全に独立している。ウリムかトンミムか、0か1かは、前もって予測不可能なのだ。わかるのは、両者が発現する確率が半々だということだけである。だとすれば、無限に存在する諸世界において、無限の数だけ存在するウリムとトンミムは、同一に見える世界においても、それぞれ独立した解を示し、したがって、無限の数のトーラーの柱は、神聖文字のありとあらゆる組み合わせを示すことになる(三十万四千八百五文字がなす組み合わせの数は、無限に比べればものの数ではない)。当然その中には、来るべきシュミッター(宇宙期)トーラー(律法)が燦然と顕われ出るものもあるはずだ。結論されることは、今この瞬間にも、無数の世界において、トーラーの神聖なる流謫は終りを告げ、至福溢れる次のシュミッター(宇宙期)が訪れているということである。
「なにそれ?」揚げ菓子にマーマレードを塗りながら、ラメッドは呆れたように言う。「宇宙のどこかで私たちのそっくりさんが宝くじに当たったとして、それがなんなの」彼女のほつれた金髪を、夕空がほのかに照らしている。ユッドは頬杖をつきながらそれを眺めている。リンゴ酒の酔いが体をゆっくりとせりあがってきて、ようやく気分がよくなってきた所だ。彼は思う。たとえ無数の俺が無数の失敗をやらかしても宇宙は存続し、こうして無数のラメッドがお菓子を食べている、それはいいことじゃないか。
「連中が言うにはだな」太っちょのユッドは得意げに話し続ける。「俺たちが現に目の前にしているトーラーの柱と、宇宙にあまねく広がっている無数のトーラーの柱は、ウリムとトンミムを介してひとつに繋がっているというんだ。無数の枝を伸ばした木のようにしてな。あいつら、その総体が「原トーラー」そのものだとまで言ってるんだぜ。神聖文字のあらゆる組み合わせをそなえた、宇宙の最高の奥義にして、神の唯一の名前なんだとな」「ありがたい話だこと」カササギが、つきあいきれないという顔をすると、太っちょは訳知り顔でつけ加えた。「ま、これには現実的な意味もあるのさ。要するに、今の俺たちのやりかたは間違っちゃいない、現状維持でいいってことだからな。ハゲ親父の一派が言っていることと、結局大した違いはない。時間が空間に置き換わっただけの話でな」「結構、結構。哲学談義もそういうことなら悪くはないわ」カササギは山羊のチーズをパンのかけらに塗って、ぽいと口に放りこむ。太っちょは意地の悪い笑みを浮かべて言う。「だが、中にはもっと過激なことを言ってる奴らもいるんだぜ。そいつらに言わせれば、俺たちは千年このかた、丸っきり見当外れなことをやってきたんだそうだ」「どういうことよ」ラメッドが聞くと、ギー=ユッドは急に真顔になり、声を潜めて言った。「ここから先は正真正銘の異端説だぞ。世迷い言に違いはないが、レビの奴らが聞きつけたらただじゃ済まんだろうな」太っちょはわざとらしくあたりを見回すと、テーブルに身を乗り出して、ユッドとカササギに耳打ちするように続けた。「若手の説教師の間で今流行っているのは、神聖文字に致命的な欠陥があるという説でな。そのせいで、トーラーの流謫は行き着く先がないというのさ。その中でも諸説がある。ある奴が言うには、今のトーラーの柱の神聖文字は、二十二ある内のどれかが一文字だけ欠けているらしい。だから『第二のトーラー』をいくらいじっても『第三のトーラー』は生まれてこない。そもそも文字が足りてないんだから。俺たちのやってきたことはすべて徒労だったってわけだ」「馬鹿馬鹿しい!」カササギが苛立たしげに首を振ると、太っちょは目をまん丸にして言った。「まあ聞けよ。もうひとつの説はもっと手がこんでいる。ほら、ガキの頃よく聞かされただろう。モーセがシナイ山で神から授かった二枚の石板のうち、彼が怒りに任せて叩き割ったほうの石板には『第一のトーラー』が記されていて、これはモーセひとりが一度読んだきりで、この地上から永久に失われてしまった。残ったもう一枚に記されていたのが今ある形での『第二のトーラー』だってな」
 これは年長の天使が子供に聞かせる定番の話だ。神のケセド(恩寵)の顔が支配していた第一宇宙期のトーラー(律法)には、その時代にふさわしく、ひたすら神聖さだけが春の陽光のように満ち満ちて、いかなる血なまぐさいエピソードも、いかなる禁令も含まれていなかった。ところがモーセの感情まかせの行動が台無しな結果を招き、代わって「モーセ五書」の時代、すなわちディーン(厳格な裁き)の時代を呼び寄せることになったというのだ。太っちょは続けた。「最近あの昔話の異説が出回っているんだ。モーセが第一の石板を叩き割ったとき、飛び散った破片が第二の石板にぶち当たった。その結果、神聖文字のひとつが傷ついてしまった。なので、今知られているその文字の形は不完全なものだというんだな」ユッドは思わず引きこまれて聞いた。「どの文字だい、それは」すると太っちょは腕を組んで重々しく答えた。「疑惑の目が向けられているのはש(シン)だ。今この字は三本頭だが、本来の形では頭が四本あったというんだ」「いかれてる!」カササギが叫ぶ。「アレフ=シンの頭の毛が一本増えれば、宇宙が救われるっていうの?」三人の天使はどっと笑った。 「で、結局あんたは、どの説を信じているのよ」カササギが聞くと、太っちょの天使は肩をすくめて答えた。「さあね。俺は不可知論者だからな」
 太陽は既に沈み切っていた。わずかに明るみを残した空に、メルカーバー(天の車)が三つ輝いている。黄道帯を六分割して並んでいるこれらの赤い巨星たちは、宵の明星よりも早く姿を現し、そしてはるかに明るい。眼下の建物の窓々にはランプの灯が点り、大通りは昼の勤めから戻ってきた天使たちで溢れかえっていた。彼らは皆、腰にランタンを下げて飛んでおり、通りはさながら滔々と流れる光の川のようだった。ラメッドは鼻歌を歌いながらそれを見おろしている。と、リンゴ酒の酔いに火照った顔がふいに曇った。彼女は細い眉をひそめて言った。「今日も来てるわ、あの子」
 ユッドがラメッドの視線の先を追うと、通りのこちら側の壁に、ひょろっとした黒い影が張りついていた。カエルだ。カエルは壁のわずかな出っ張りを足がかりにして、片手で窓の下にぶらさがり、もう片方の手にビワの枝を握っていた。彼女は枝についたビワの実をかじりながら、油断なくあたりを見回している。夕食を調達しに谷底からのぼってきたのだろう。彼女は口から種をプッと吹きだすと、腰に巻きつけた縄を手にとった。先端についた鉄の鉤を、窓から張りだしている石の棚に引っかける。そして、ごく慣れた手つきで鉤がしっかり噛んでいることを確かめると、両足で反動をつけて宙に身を投げた。翼のない身体が縄の先できれいな弧を描き、一瞬の後、カエルは一階下の窓にとりついた。少し遅れて長い黒髪がぱさりと肩に着地する。彼女の目の前には丸パンを山盛りにした皿がある。天使がひとり近づいてきたが、招かれざる客と鉢合わせしたことに気がつくと、ついと空中で方向転換し、その場を立ち去った。カエルはどこ吹く風でパンを腰の籠に放りこんでいる。「あいつ、よくわかってるじゃないか。あそこのパンはうまいんだ」太っちょが論評を加える先から、カエルは隣の窓に跳び移り、置いてあった干しプラムをざばっと籠にあけた。今の時間帯は食料が豊富なのだ。非番の天使たちは、自分が調理した食物を窓の外に置いておく。すると神殿での勤めを終えた天使たちが、それを勝手に持って帰る。ユッドたちが今飲み食いしているパンやリンゴ酒も、カササギがあちこちの窓からかき集めたものだ。このように気前のいい生き方をしている天使たちなので、闖入者を咎めたり追い立てたりすることはない。だがやはり、カエルはケルビムの社会に紛れこんだ異物には違いなかった。天使たちは、彼女に出くわすと、なんとなく落ち着かない気分になって目をそらすのだ。今しがたの太っちょの軽口にも、心無しかこわばった響きがあった。
 カエルは、そもそもはユッドらと一緒に生まれたケルビムの一員だった。17年前の安息年に、他の十万の仲間と同じく、半透明の胞衣(えな)に包まれて、神殿の底のシェキナー(精霊)の湖にぷかりと浮かびあがったのだ。ところが驚いたことに、彼女には翼が生えていなかった。つるんとした背中を見て、天使たちは大層困惑したが、この突然変異の赤子にも、他の子供らと同じく育ての親をあてがい、保護と教育を与えることにした。
 だが、翼のない者が天使の町で暮らすとなると、ほとんど幽閉状態に近い生活を送らざるをえない。一歩部屋の外に出れば、途端に千アンマ下に転落する危険に晒されるのだ。カエルは成長するにつれ、そんな境遇を嫌うようになり、10歳になって親から独立すると、次第に下へ、下へと住処を移してゆき、とうとう誰も訪れることのない町の底部に引っこんでしまった。そこで彼女がどんな風に暮らしているのかを知る者はいない。ただ、この年若い世捨て者は、月に何度か町に上ってきて、勝手に食料その他の物資を調達しては、また元の暗がりに戻ってゆくのだった。
 カエルは今、ユッドらのいる松の木亭の根元から、何十アンマか下にいた。ユッドはメガネの奥で目を凝らし、カエルの足元を見ている。距離が遠く、彼女が始終ピョンピョンと跳ね回るので、鞜の状態はよくわからない。だが、もう大分すり切れているはずだった。
 ユッドとカエルとの間には妙な縁があった。ユッドも他のケルビムと同じく、自分の副業でこしらえた品を窓の外の棚に置いておく。彼の場合は鞜だった。天使たちはそれほど足を使わないし、神殿に参内するときは鞜履きを禁止される。だが普段の生活では、羊毛や編んだ藁などで作った柔らかい履物を愛用していた。ユッドの作る、黄麻(ジュート)の底とフェルトの甲でできた鞜は、履き心地がよく長持ちすると評判で、窓の外に置くそばから消えてゆくのだった。何年か前のある日、ユッドはとある建物の屋上をてくてく歩いているカエルを見て驚いた。彼女は自分が作った緑色の鞜を履いていたのだ。となると、彼女は翼もなしに、ユッドが住む南の塔にのぼってきたことになる。彼女を手助けするような友人はいないはずだ。彼女はケルビムを拒み、ケルビムも彼女を避けていた。この傾向は、ヨベルの年の数年前から急に際立ってきた。原因のひとつは、彼女の肢体の異様な発育ぶりにある。
 ケルビムの身体は、12歳を過ぎたあたりで成長が止まる。身長が2アンマ半(約120センチ)を越える天使は滅多にいない。それ以上体が大きくなると、翼が重みを支え切れなくなるのだ。ところがカエルの体の成長はそこで止まらなかった。まるで翼に行き渡るべき養分が、そのまま体に流れこんだかのようだった。彼女の背は平均的なケルブよりも頭二つ分も高くなり、なおも伸び続けた。それだけでも天使たちをたじろがせるに十分だったが、異変は他にも起きた。両の胸がリンゴの実のように膨らみだしたのだ。多くのケルビムが、この異教の邪神じみた姿を見かけるたびに、言いようのない不安を覚えるようになった。当然カエルの方でもそんな空気を察知した。元々口数が少なかった彼女は、やがてまったく口をきかなくなった。
 ある朝、ユッドは部屋の窓の前に、ボロボロになった緑の鞜が置いてあるのを発見した。天使の生活からは考えられない傷みようから、カエルが履いていたものなのは一目でわかった。鞜の甲と底は一度切り離され、穴に通した麻縄でゆるく結ばれていた。カエルの足の常識はずれな大きさに、鞜が合わないのだ。その日の夜、ユッドは普通より二まわりも大きな鞜を一足こしらえて、窓の外に置いた。天使たるもの、その程度の親切は苦にならないものだ。翌朝には鞜は消えていた。それからというもの、カエルはきっちり半年に一度、鞜を交換しにやってきた。だがそれは必ずユッドが眠りについた後で、彼女がユッドの前に姿を現すことはなかった。すり切れた鞜の傍らには、必ず薄桃色の大きな貝殻やら、小さな水晶をアスパラガスのように生やした石やらが添えてあった。そんな間柄から、ユッドはカエルに対して嫌悪の念は抱いていない。あるのは職人としてのサービス精神と、多少の憐れみの気持ちだけだった。
 ユッドはほろ酔い気分でテーブルに頬杖をつき、綱の先で玩具のようにぶらぶらと揺れているカエルを眺めている。そろそろ新しい鞜を作ってやらないとな、と思いながら。ラメッドはそんな彼をしげしげと見ていた。彼女はユッドがカエルに鞜を作ってやっていることを知っている。カササギは再び視線を下ろし、眼下で食べ物を漁っている奇形の大女を見た。カエルはさっきから10階ほども上にのぼってきていて、今はその様子が手にとるように見えた。もつれた黒髪の間から大きな目が覗き、窓から洩れる灯りを反射して不気味に輝いた。つんつるてんの麻の服は茶色く汚れており、そこから突きでている腕や脚も同じ色に日焼けしていた。筋力と振り子の原理のみを頼りにした動きには、優美さの欠片もない。突然飛びかかってくるバッタとか、シュッと走るトカゲに似ていた。それに、あの瘤のように盛りあがった胸ときたら!カササギにしてみれば、あんな滑稽なものを体にくっつけているカエルが哀れというよりも、それを見せられている自分のほうが、なにか理不尽な侮辱を受けている気分なのだった。なんといってもこの生き物は元は身内なのだ。彼女は思う。創造主は、なんの意味があってあんな存在をお作りになったのだろうか。ひょっとしたら私たちケルビムを嘲笑って面白がっているのかもしれない。太っちょが言ったように、私たちはもしかしたら本当に、なにか決定的な間違いをやらかしたのかもしれないのだ。ラメッドはそこまで考えてから、これ以上嫌な気持に落ちこまないようにと顔をあげた。メガネは相変わらず首を斜めに傾け、カエルの動きを目で追っている。彼の頭の中なら、カササギにはおおよそ見当がつく。(こいつは鞜のことしか考えていないんだわ。それにしてもなんて物好きな)そう思って彼女は顔をしかめた。カエルに嫉妬をしたわけではない。ラメッドはユッドが好きだったし、シェキナーの湖が次の分娩期に入れば、一緒に所帯を持ってもいいとすら考えていた(もっとも相手が太っちょの方のユッドになる可能性もあったが)。だが、ケルビムの恋愛感情は、一般に淡く穏やかなものに止まり、激しい愛にまで高まることがない。まして傷ついた愛を待ち受ける地獄の試練のことなど、天使たちは夢にも知らないのだ。ラメッドはぶるっと身を震わせて言った。「夜風が出てきたわね。そろそろお開きにしましょうよ」

 木曜日の夜中過ぎ、ユッドは再び神殿の橋の上にいた。聖なる山の腹の中は、昼間とはまったく違う顔を見せている。百二十の七十人組からなる八千四百のケルビムが各々腰にカンテラを下げているので、あたり一面光の粉をまき散らしたようだ。トーラーの柱を埋める神体はゆらゆらと波打つ光を放っている。昼間吸収した光を放出しているのだ。その乳白色の光の中で、黒く刻まれた文字の列がくっきりと浮かびあがっている。夜間に神聖文字を長く見つめるのは危険なこととされていた。天使の頭脳には目に映った神聖文字を翻訳する働きがあるが、夜は文字の力が強まり、バラバラな文字の集まりでさえも心になにかを語りかけてくるのだ。それらはよく聞き取れないぶつぶつというつぶやきだ。大方の天使は意味のない雑音と見なしている。だが一部の迷信家はそこに畏怖すべき神秘を見ていた。彼らによれば、頭に響いてくる声は神の十の顔の間で交わされる秘密の囁きなのだ。
 だが今日のユッドには、そんな玄妙な声を聞き取る余裕はなかった。隣の赤毛は数字の擦り合わせをするたびに睨みつけてくる。レビたちもおかんむりで、いつもの仏頂面に輪がかかっている。右隣の太っちょでさえ態度が素っ気ない。機を見るに敏であることを誇る彼は、こういう時にはドライなのだ。ユッドは歯をキリキリ噛みながら無言の圧力に耐え、名誉挽回の機会を待っていた。それはもうすぐ訪れるはずだった。
 
 時間は少し遡る。火曜日の夜、太っちょとカササギに別れを告げた後、ほろ酔い気分で自分の部屋に戻ったユッドは、窓の外の棚にフェルトの束が置いてあるのに気がついた。鮮やかな緋色のフェルトの上にはコルクの栓をした陶器の小瓶が置いてあり、メモ書きが一枚添えられていた。

メガネ君――
今日は災難だったな。しばらく君を待っていたのだが、用事ででかけるのでフェルトを三束置いておく。この瓶はほんの心づけだ。中身は蜂蜜に薬草のエキスを混ぜた秘伝の薬だ。君は木曜日の勤めでまた槍持ちだろう。槍を受けとる直前に飲んでみたまえ。気つけになるし、なにより声がなめらかになる効果がある。飲めばカケスもナイチンゲールの声で鳴きだすという逸品だ。だみ声の僕はいつもこれを重宝しているんだ。余計なお世話かもしれないが、君はいつも自分の声を気にしているように見える。こんな時こそ、しょぼくれた様を見せちゃいけない。だまされたと思って試してくれ。ただし効き目は10分程度で切れるので注意。君の名誉挽回を祈る。――髭より

 ユッドはこれを読んで戸惑った。親切な心遣いなのは確かだが、髭のレーシュとは時おり軽口を叩き合う程度の仲でしかない。余計なお世話といえば余計なお世話だった。それに得体の知れない薬を神殿に持ちこんだことが知れれば、ゼーイル・アンピーンは烈火のごとく怒るだろう。あの老人のモットーは「命ぜられたことをなす者のほうが、命を受けずになす者よりも偉い」なのだ。
  続く二日の間、ユッドは薬を返そうか返すまいか、ずっと迷っていた。自分のデリケートな領分に単なる隣人がずかずか踏みこんできたことは、決して気分のいいものではない。その一方で薬の力を試してみたい気持もあったのだ。だが肝心の髭はずっと留守のままだった。いよいよ夜半の勤めの時がやってきて、ユッドはカンテラをさげた天使たちの列に加わり、夜の参道を黙々と歩いた。彼はその時もまだ迷っていた。瓶は勤め着の懐に忍ばせてあったのだ。
 ところが神殿の入口に着いた時、彼の気持を決める出来事が起こった。洞窟の脇でアレフ=シンが待ち構えていたのだ。長老の丸メガネは無数に揺れるカンテラの灯を反射して地獄の炎のように燃えあがっていた。「シェモートゥ(出エジプト記)三章十四節の第二子なるユッドよ」彼はわざわざ省略なしの名前でユッドを呼び止めると、大声で叫んだ。「今夜おまえがわずかでもだらしない様を見せたら、即刻尻を蹴っ飛ばしてアザゼルの元に送ってやるからな。心してかかるがよい!」ユッドの顔が真っ赤になった。一人前の天使に対して、あまりに理不尽な仕打ちだ。彼は思わず叫んだ。「あなたのお心のままに。ベレーシート(創世記)二十二章八節の初子なるシンよ!」あたりがどよめいた。目上の者に正式な名前で呼びかけるのは、ひどく無礼な振る舞いなのだ。だがユッドは周りの目が気になるどころではなかった。彼は踵を返し、肩を怒らせながら聖なる洞窟に踏み入った。それを見送るアレフ=シンは、なぜかひどく悲しい顔をしていた。ユッドはそれを知る由もない。

 いよいよ槍持ちの番が近づいてきた。ユッドは目の前にそびえる巨大な柱を真正面から睨みつけていた。神聖文字が発する声が頭の中でガチャガチャと響いていたが、まるで気にならない。それほどまでに彼は怒り、気負い立っていた。トーラーの柱を覆う光は絶えず不規則に揺れ動いていて、縞模様となってゆっくりせりあがったかと思うと、急に無数の飛沫になって散らばり、柱の上から下まで稲妻のように駆け抜けた。その周りをカンテラをさげた天使たちが火の粉のように飛び回っている。はるか上でトランペットが神経質にペ、ぺ、ピ、ピと鳴り、手回し計算機が立てる音がスコールのように高まった。太っちょは、さっきからユッドをチラチラ見ている。いつもと違う様子が気にかかっているのだ。ユッドは懐から小瓶を取り出した。そして太っちょに見られていることを意識しながら、中身をくいっと飲み干した。甘辛い味が口に広がり、喉元がじんわりと暖かくなった。太っちょが小声で言った。「おい、なんだそれは」ユッドは前を向いたまま答えた。「まあ見てろ」
 数分後、ユッドは兎飼いのテットが目の前で朗々と口上を述べるのを親の仇のように睨みつけていた。(見てろよニンジン野郎。今おまえの鼻をあかしてやるからな!)彼は自分の心に芽生えた反抗心を新しい友のように歓迎した。そして翼をゆっくりと羽ばたかせながら息を吸い、腹の底から声を出した。「友よ。統一と名誉の主なるエン・ソフより出ずる第十の文字を拝命するこの私…」一同がざわめき立った。ユッドの声は、春の風のように柔らかく、沐浴の泉から湧き出る水のように透き通っていたのだ。三人のテットが目を丸くして聞き入っている前で、ユッドはよどみなく口上を終えた。振り返ると太っちょが口をあんぐりあけていた。ユッドは笑って言った。「どうだい」
 驚きから覚めないままの皆を引き連れ、槍を両手に掲げて飛びながら、ユッドの心は高ぶり、はやった。薬の効果が切れる前に、カフたちに槍を手渡さなければならない。そこでもう一度口上を披露できるのだ。その声はひとつ上の橋まで聞こえるはずだ。ラメッドがいる橋まで!するとなんだか喉が熱くなってきた。
 ユッドの羽ばたきが急に乱れた。彼は喉を掻きむしりながら、背中を大きくそらせた。メガネが顔から跳ね飛び、くるくると落下していった。「おい!」後ろを飛んでいた太っちょが追いつき、手を差しのべた。だがユッドは苦悶に顔を歪め、空中でのたうち回るばかりだった。火を呑みこんだような激痛が喉を襲い、叫び声をあげることすらできなかったのだ。レビのひとりが叫んだ。「槍を!」ユッドの手から転げ落ちた槍を、のっぽのアレフ=ユッドが辛うじて受けとめた。その時ユッドの翼がのっぽの腰を激しく叩いた。そこには大きなカンテラがさがっていた。ガラスが砕け、オリーブ油が飛び散った。ユッドの右の翼を二条の炎がさっと走った。「ああ!」ユッドの口から切れ切れの悲鳴が洩れた。「ユッド!」ラメッドが叫びながら急降下してきた。彼女と太っちょと何人かの天使がユッドをとり囲み、押さえつけようとした。だが、炎に包まれた翼が邪魔をして体に近寄ることができない。火が舌でなめるように翼を這い、柔らかな羽毛を焦がしていった。白い翼のあちこちからぶすぶすと黒い煙があがった。ユッドは悲鳴をあげながら闇雲に羽ばたき、トーラーの柱に激突した。額が割れ、文字の上に赤い血が飛び散った。「友よ、許せ!」レビの者が叫び、ユッドの背後で剣を振りおろした。炎に包まれた翼がばさりと背中から離れた。ラメッドの悲鳴が響いた。バランスを失ったユッドは、片方だけ残った翼をばたつかせ、コマのように回りながら落下した。「ユッド!」ラメッドが絶叫しながら後を追ったが、ユッドの体はもう、重力の爪にがっちりと捕らえられていた。彼は気を失い、頭を下にして、必死に追いすがるラメッドからどんどん遠ざかっていった。近くを飛んでいた天使たちは思わず身を避けた。弾丸のように落下するユッドの体を止められる者はいなかったのだ。ユッドは千アンマの距離を垂直に落ち、火口の底に広がる湖面に叩きつけられた。バシッという水音が岩壁に谺し、大きな水柱があがった。やがて暗い水の上に、彼の体がぷかりと浮かびあがった。
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登場人物紹介

ユッド(ベー=ユッド)


主人公の若い天使。鞜職人。

不慮の事故で翼を失ってしまう。

内向的で目立たない性格の持ち主だが、時々妙に意固地になる。


通名:メガネ

正式名:出エジプト記三章十四節の第二子なるユッド

カエル


本作のヒロイン。

先天性異常で翼を持たずに生まれた天使。

世をすねて、日の射さない地の底に住んでいる。

背が高く、並外れた運動神経の持ち主。

苛酷な境遇のせいでひねくれた所はあるが、本来は呑気。

ラメッド(ダー=ラメッド)


ユッドの幼なじみの天使。ユッドは彼女に淡い恋心を抱いている。

色白で、流れるような金髪と鈴のような美声の持ち主。

絵に書いたような天使ぶりだが、中身は割と自己中。


通名:カササギ

正式名:申命記十四章七節の第四子なるラメッド

太っちょ(ギー=ユッド)


ユッドの幼なじみの天使。同じユッドの名を持っているので少々ややこしい。

広く浅くをモットーとする事情通。常にドライに振る舞おうとしているが、正体はセンチメンタリスト。


正式名不詳(作者が考えていない)

ゼーイル・アンピーン(アレフ=シン)


天使の長老の一人。ゼーイル・アンピーンは「気短な者」を意味するあだ名。

その名の通りの頑固者。なぜかユッドにつらく当たる。


正式名:創世記二十二章八節の初子なるシン

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