その5 逃げ去る神

文字数 19,995文字

partⅠ

 西暦1492年と言えば、コロンブスがアメリカ大陸を発見した年です。この年はレコンキスタが成し遂げられ、イベリア半島からイスラム教徒が一掃された年でもあります。正にスペインにとってはイケイケの時代でした。ところが同じ年、この地に住んでいたユダヤ人はひどい仕打ちを受けることになりました。彼らは突如として母国から追い出されてしまうのです。カバラ思想は、この一大事によって大きく変貌することになります。それが今回のお話のメインテーマです。なので、まずは、このスペイン追放とは一体どんな出来事だったのかを眺めてみましょう。

 と、ここまで書いて、私、はたと困ってしまいました。今まではゲルショム・ショーレムの著書におんぶにだっこでやって来ましたが、この二冊の本はあくまで宗教史であって、これを読んでも現実の歴史についてはほとんどわからないのです。スペイン追放も周知のこととされていて、具体的なイメージがわきません。そもそも私、世界史の共通一次(って知ってるかい)の点数は25点でございました。マークシート式の四択で、きれいに確率の法則通りの点数だったので、未だによく覚えているのです。こりゃまずい、というわけで、今さらながら、この出来事をテーマにした本を探してみました。で、密林的な某サイトで『スペインのユダヤ人……一四九二年の追放とその後』(エリー・ケドゥリー編著、平凡社刊)なる書物をポチりました。この本を選んだのは単にタイトルがそのものズバリだったからです。ラッキーなことに、読んでみると結果オーライ、大当たりでした。原著はスペイン追放からちょうど500年後の1992年に刊行された書物で、複数の研究者の論文を集めたアンソロジーとなっています。どれも興味深い論考ばかりです。さあ、気前よく受け売りしちゃいますよ!(ちょっと長くなります。)

 まず、歴史の概説書などでは、ユダヤ人のスペイン追放という出来事は、大体こういう話になっているようです。すなわち、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イザベル1世のカトリック両王が、スペインの王権を安定させ、王国を宗教的に統合するため、異端審問の名の下にユダヤ人を追放した、そこにはフェルナンド2世がユダヤ人に負っていた債務をチャラにするという思惑もあった、というものです。ああ、そういうことねと、何だかわかったような気分になりますね。また、『スペインのユダヤ人』の著者の一人はこう言っています。「イベリア半島に一五〇〇年近くも居住した後、すべてのユダヤ人民はスペインを離れた。彼らの出立はそれ自身一つの壮大な叙事詩である。およそ二〇万のユダヤ人が出てゆき、そのうち十二万がポルトガルへと国境を越えた。」(『スペインのユダヤ人』p.180)たぶん以上が、いわゆる教科書的なイメージでしょう。

 ところが、同じ本の別の著者は、このざっくりした見方に異を唱えています。「追放の詳細は皮肉にも歴史家の間にほとんど関心を呼んで来なかった。それが一章に値する事件というよりは物語の終わりとして見なされてきたからである。」(同書p.136)この研究者は、当時イベリア半島に住んでいたユダヤ人の人口は八万人ほどだったと推定しています。更に、その八万人全員がスペインから追放されたのではなく、その半数近くはキリスト教に改宗して母国に止まった、というのですね。この人数もまた決定版というわけではないようです。当時の政府は統計なんて取っていませんから、真相は永遠に闇の中なのでしょう。それでも他の人の論文を読んだ感じでは、この数値が大体妥当な線に思われます。なぜここで、素人の私がこんな細部にこだわるかと言えば、半数の人が出てゆき、半数の人が止まった、という点が重要だと思うからです。この論文の著者によれば、ユダヤ人の追放政策は、実は追放そのものが目的ではなく、追放するぞと脅かして、キリスト教に強制改宗させることが目的だったそうです。ちなみにこれは、スペイン国王が「思ったよりもちょっといい奴」だったからではありません。その狙いは陰険極まりないものでした。からくりが少々入り組んでいるので、これについては後でまた触れます。とりあえず重要な点は、この目論みが壮大な失敗に終わったということです。つまりフェルナンド2世は、まさかユダヤ人の半分が国を出ていってしまうとは思っていなかったようなのですね。失策の原因は、ユダヤ人たちに三ヶ月の期限を与えたことでした。猶予がもっと短ければ、考える暇を与えられず、慌てて改宗する人が増えたでしょう。
 で、私が胸を打たれるのは、人口の半分ものユダヤ人が、覚悟を決めた上で故国を後にした、という事実です。(我々日本人にこんな行動が取れますかね。)彼らはわけもわからず追い出されたのではないのです。「その犠牲的精神のゆえ」(同書p.132)なのでした。とは言え、脱出組が準備万端だったとはとても言えなかったようです。

「追放された人々のほとんどは徒歩で行き、ラバは病人や老人たちに譲られたようである。同様に、小舟や水上ルートの利用もスペイン国内ではごくわずかなケースに限られていた。キリスト教徒たちはこの機会に乗じ、ラバの値段はこの時期異常に高騰した。六月二二日にマガリョンで、あるユダヤ人は、家屋一軒を黒いラバ一頭と銀のコップ一つと一枚の布とに交換せねばならなかった。」(同書p.114)

 悲惨な境遇に見舞われたのは、残留組も同じでした。

「同胞ユダヤ人は国外追放に追いやられたのに対して、コンベルソの方は内面的追放にさらされた。それは同胞ユダヤ人がこうむった国外追放と同様に、恐ろしく致命的なものであった。」(同書p.222)

 コンベルソ、とは、キリスト教に強制改宗させられたユダヤ人のことです。ここで注意が必要なのは、「ユダヤ人」とは人種的な概念ではなく、「ユダヤ教を(隠れもなく)信じる人たち」のことだということです。なのでコンベルソは(表向き)ユダヤ人ではなくなります。さて、このコンベルソですが、1492年に突然生まれた存在ではありません。そこには百年に至る迫害の歴史がありました。国外追放はその集大成とでも言うべき出来事だったのです。では、このコンベルソがいかにしてスペインに生まれたのか、時代を遡ってみましょう。

 中世のイベリア半島では、キリスト教とイスラム教という二大勢力が拮抗していました。その中でユダヤ人は、比較的、平和に暮らしていたようです。比較的、と言ったのは、差別はやはり存在し、キリスト教の各都市はユダヤ人に対して隔離政策を実施していたからです。一目でわかるようにと、衣服に特殊な印を縫い付けることも義務づけられていたようです。ナチスのやり方そっくり、というより、ナチスの方がこれを真似たんでしょう。また、ユダヤ人が従事する職業も制限されていました。中世に流布した「強欲で裕福なユダヤ人」というステレオタイプに反し、多くのユダヤ人は貧しく、つつましい人々だったとのことです。
 一方彼らは「国王隷属民」とされました。これは言葉の響きとは裏腹に、ユダヤ人の生活の安全と安定を保証するものでもありました。つまり彼らの共同体は、王権による直接の保護下に置かれたため、貴族、都市当局、教会といった勢力の干渉を退け、かなり広い範囲での自治権を持つことができたのです。これまで沢山言及してきた『ゾーハル』も、この時代の末あたりに書かれたものです。「象牙の塔」というか、今で言う「学問の自治」のようなものが、安定した生活の上に保たれていたのですね。

 ところが14世紀の半ばから末にかけて潮目が一変します。これはスペインに限らず、全ヨーロッパで見られた出来事ですが、ユダヤ人が秘密の儀式で幼児を殺害しただの、聖餅(キリストの身体と見なされています)を冒涜しただの、井戸に毒を投げ入れただのというデマが流行し始めたのです。(それにしても、どこかで見た風景ですよね。)で、ユダヤ人たちはその度に、高額な罰金を科せられたり、強奪されたり、殺戮されたりしました。セビーリャでは1354年に反ユダヤ暴動が起きています。そして同じセビーリャで、1391年6月6日にユダヤ人に対する大虐殺が始まります。「ポグロム」と呼ばれるこの出来事は、フェラント・マルティネスなる狂信的な聖堂助祭が音頭を取り、キリスト教徒のあらゆる階層の老若男女が加わって起きました。悪い事に、この時期は王権の移り変わりの政治的空白期に当たり、当局にコントロール能力はありませんでした。こうしてポグロムは瞬く間にスペイン全土に燃え広がりました。

「まずポグロムはセビーリャ大司教区内の他都市へ、次いでコルドバ、トレド(六月一八日)、オリウェラとハティバを経てバレンシア(七月九日)へ、さらにバルセローナ(八月五日)、ログローニョ(八月十二日)、レリダ(八月十三日)へと燃え広がった。殺戮と略奪を免れたスペインのユダヤ人共同体は、皆無に近かった。」(同書p.76)

 当時はネットなどなかっただけに、狂気が伝染するスピードには驚くべきものがあります。それだけ民衆の中に蓄えられていた憎悪のモメントが大きかったのでしょう。セビーリャではユダヤ人街がこの時を限りに消滅しました。当時の人的被害を数量化するデータは存在していないそうですが、「スペインのユダヤ人の歴史は危うく終止符を打たれるところであった」(同書p.76)ほど、結果は壊滅的でした。

 ではなぜこの時代に、ユダヤ人に対する憎悪が膨れ上がったのか、ということですが、『スペインのユダヤ人』の寄稿者の一人が幾つかの要因を挙げています。一つは、トマス・アクィナスが精緻化したスコラ哲学の中で、ユダヤ人、同性愛者、ハンセン氏病の患者などが、極めて好ましくないポジションを与えられてしまった、ということです。これらのカテゴリーに属する人たちは、「自然法」に反する存在とされ、腐敗した民として相互に「汚染」し合うのだ、と決めつけられてしまいました。伝染病のメタファーが、当時猖獗を極めたペスト禍と重なったのは自然の成り行きです。この病気が1347年にシチリア島で発生して以来、ヨーロッパ各地のユダヤ人共同体は、恐怖と怒りに狂った民衆によって、何度も虐殺の憂き目に合っています。上に挙げた井戸に毒を混ぜたというデマも、同じイマジネーションから生まれています。
 憎悪のもう一つの原因は政治的なものです。1360年代の後半、スペインは内乱状態に陥りました。カスティーリャ王ペドロ1世と彼の異母兄弟のエンリケが血みどろの戦いを繰り広げ、結果としてエンリケが勝ってエンリケ2世として即位します。エンリケを勝利に導いたのは、ペドロに対する反ユダヤ宣伝工作でした。彼はペドロがユダヤ人との不義の子だと決めつけ、彼が異教徒と結託し、彼らを優遇しているとの風評を振りまいたのです。その結果、エンリケが率いる勢力は「王国を暴君と異教徒、なかでもユダヤ人から解放することを目指した一種の十字軍」(同書p.74)の様相を呈することになりました。まあ本邦にも在留外国人に特権があるなどと述べ立てている方々がいますが、その拡大版のような現象が、遥かな昔、遥かな異国で起こっているのです。
 更にもう一つの原因に当時の社会的不安があります。アラゴン連合王国は、1340年から1380年にかけて、インフレと経済危機に襲われており、バルセロナの有力な銀行家たちが破産したりもしたようです。その不安の矛先が、仲買商人だったり、農民や市民に小額の貸し付けを行っていたりしたユダヤ人に向かったらしいのですね。『スペインのユダヤ人』の論者はこう言います。

「このユダヤ人虐殺がイングランドの農民一揆のような『中世後期の社会革命』にあたるものであったというウルフの仮説は、バルセローナについては、ユダヤ住民が死去や改宗でいなくなったのちにも、暴動は衰えず、その対象が市参事会員に向けられていったという事実によって、さらに裏付けられる。」(同書p.85)

 一揆、つまり社会変革運動が、本来立ち向かうべき権力ではなく、より弱い相手に攻撃の矛先を向けてしまう、というのは、皮肉を通り越して、とても痛ましい事態です。たまたまこれを書いている今、あるネットの記事を目にしました。1873年の岡山県で被差別部落民18人が殺害されたというものです。読むと、この惨事は、明治政府の政策への反対一揆の過程で起きた、というのですね。村人たちは「新平民」たちを自分たちの地位を脅かす存在だと見なしていた、と。全くため息しか出ません。。。話を中世のスペインに戻すと、ポグロムを目の当たりにしたバレンシアの市参事会員が、国王に向けてこう書き送っています。

「重臣たちの誰それが、自らがあるいはその親族がこの犯罪にかかわっているので……被害を受けた者たちを脅して、もっとも罪ある者たちへの告発を妨害している。そのために、懲罰が行われていない、と我々は思う。罪を犯したのは、田舎の人、町の人、モンテーサ修道会の者、托鉢修道会の者、身分ある人といったあらゆる身分の人々なのだ。」(同書p.86)

 このように、スペインのユダヤ人たちは、教会からも、政治的勢力からも、民衆からも、殺意に満ちた眼差しを向けられていました。その八方塞がりの中で生きる恐怖感は、私などには到底想像もつきません。ポグロム以降、大都市に住んでいたユダヤ人は、キリスト教に改宗するか、地方小都市のコミュニティに逃げるかして命をつなぎました。この改宗したユダヤ人たちが、以後コンベルソと呼ばれることになったのです。しかし彼らの受難は、むしろここから始まるのです。キリスト教社会は、決して彼ら改宗ユダヤ人たちに門戸を開くことはなく、逆に、絶えず疑惑の眼差しを注ぎ続けました。彼らマジョリティにしてみれば、コンベルソは油断ならないマラーノでした。マラーノとは豚の意で、隠れユダヤ教徒の蔑称です。「ユダヤ人への憎しみは、こうしてコンベルソへの憎しみへと転嫁された」(同書p.164)のでした。
 コンベルソたちは、永遠に続くと思われた四面楚歌の中、それでも秘かにユダヤ教の伝統を守り続けました。この危険極まりない行為の担い手は、多くの場合、女性だったと言います。

「女たちも(男たちがしたように)安息日には働くことを慎んだが、近所の人が見てもまるで糸紡ぎをしていると見えるように手にスピンドルを持つなりして、何かしているふりをした。」(同書p.174)

 コンベルソたちへの包囲網は、最初、冷笑や揶揄として現れます。歴史の定番メニューですね。15世紀中頃のスペインの宮廷や社交界では、詩人たちがコンベルソの二面性を皮肉る詩や二行連句を唱い、やんやの喝采を浴びました。驚くべきは、この詩人たちの何人かが、実は他ならぬコンベルソだった、という事実です。私はこれを、胃がねじれるほど痛ましい悲劇だと感じます。哄笑の影で、秘かに涙を流したのは一体誰だったのでしょうか。そんな中、一連の「文通」が広く世に出回ります。それは、ユダヤ人たちが、キリスト教徒社会に侵入して内部から破壊するためにひそひそと企んでいる、という内容でした。これはさる「風刺家」がこしらえた純然たるフィクションでしたが、次第に尾ひれがつき、とうとう「国際的なユダヤ人陰謀の証拠であると主張された。」(同書p.163)そうです。我々のネット社会の遥かなご先祖様ですね。人間という生き物は変わりません。「風刺家」が一世を風靡するのも、今も昔も変わりません。
 さて、陰惨な茶番劇としての歴史には、「風刺家」の他に「御用学者」という登場人物が必須です。フランシスコ会原始会則派の修道士であるアロンソ・デ・エスピーナなる人物は、1450年代の後半に『信仰の砦』なる書物をものしました。その本によれば、コンベルソは「キリスト教世界の肉にささった刺」(同書p.164)であり、この問題を解決するためには二つの施策が必要だというのです。一つはスペインに異端審問所を開設してコンベルソを徹底的にしめあげ、もう一つは未改宗のユダヤ人を国外追放するというものです。この本は大反響を呼び、実際世の流れはその通りになりました。

 フェルナンドとイザベラのカトリック両王は、半ば世論から急き立てられる形で、教皇に異端審問所の設置を打診します。ローマの答えは、グラナダ王国に宣戦布告してイスラム勢を一掃せよ、その上なら考える、というものでした。スペイン王は教皇庁が差し出した血なまぐさい条件をのみ、1480年、セビーリャにスペイン最初の異端審問所が設けられます。この審問所のミソは、ローマ教皇庁直轄ではなく、いわゆる「国立」のものだったということです。つまり、国王フェルナンドの政治的思惑を達成するための機関以外の何物でもなかったのです。異端審問所といえば、一般的には魔女裁判で悪名を馳せていますが、スペインの場合、最初からターゲットはコンベルソでした。

「異端審問所の裁判を受けた者たちの正確な数は判らない。その設置直後から、年代記作者たちがその数を推定しようと試み、一五二〇年までにセビーリャだけでも約四千人が火刑に処され、二万人が教会と和解してキリスト教の会衆の中にふたたび受け入れられたと述べている。アンドレス・ベルナルデスは、一四八一年から八八年のあいだにセビーリャで約七百人が火刑に処せられ、五千人が和解したと計算した。」(同書p.170)

 これはセビーリャだけの話です。1482年以降、地方管区審問所がスペイン各地に続々と設立されました。コルドバ、シウダー・レアル(後にトレドに移管)、サラゴーサ…。『スペインのユダヤ人』p.241には、これらの審問所で起こったことが数字で述べられています。箇条書きすると、

•トレド:1485-1500で、被告の99%以上はコンベルソ。1499年だけでも433名に有罪判決。
•バレンシア:1484-1530で、被告の91.6%以上はコンベルソ。1494-1530で有罪判決を受けた1997名の内、909名、つまり45.5%に死刑が宣告され、754名が実際に処刑された。他の数カ所の管区審問所ではこの割合は更に高かった。

 こうした数字だけでは中々イメージが掴めませんね。では…。

「裁判にかけられたコンベルソはどんな人々だったのだろうか。それらの中には、金持ちも貧乏人も、教養のある人も純朴な人も、年寄りも若者も、成人も未成年もいた。彼らの唯一の共通の特徴は、祖先の信仰への固執と、ユダヤ教で神聖なるものとされるすべてのものへの帰属意識であった。(中略)彼らに対するこの戦いの中で、異端審問所はまず社会的に著名な人々を、次いでそれ程は目立たない人々を裁判にかけ、その後は欠席裁判によってしか裁けない人々を裁いた。そしてついにはすでに死亡している人々まで死後に裁かれた。
 有罪とされた人々は、『アウト・デ・フェ』で宣告を受け、火刑に処された。欠席裁判された者は、人形が焼かれ、死後に裁かれた者は遺体が掘り起こされて焼かれた。」(同書pp.171-172)

 「アウト・デ・フェ」とは広場や遊歩道などの公共の場所で行われた有罪宣告のことです。スペインの町々が血に狂った劇場となりました。この恐るべき出来事全体の統計的なデータは存在しないため、現代の研究者たちはざっくりした推定をするしかありません。それによると、1391年のポグロムから1492年のスペイン追放に至る百年で、「イベリア半島のユダヤ人口の三分の一が改宗し、他の三分の一は信仰のために殉じた。逃れたのは三分の一だけだった。」(同書p.157)とのことです。素人ながら、この体感的な数字は、他で示されている事実と矛盾はしないようです。13世紀の時点でスペインには10万人のユダヤ人が住んでいたと言われていますから、数万もの人々が、民衆の嘲笑の下で無惨に命を散らしたことになります。そしてこの人々が、スペイン王国の全人口に占めていた割合は、たった2%ほどでした。実際は微々たる力しか持たぬマイノリティが「悪の力」とみなされ、民衆の執拗な悪意に晒されるという事態もまた、歴史の定番と言えましょう。

 この破滅的な出来事を、ユダヤの人々自身はどう見ていたのでしょうか。多くの人が、1391年のポグロムを「神罰」と見なしていたようです。彼らの犯したとされる罪は、ある人によれば聖書研究をないがしろにしたことであり、ある人によれば少数の裕福な同胞が犯した社会的不公正なのでした。別の人はこう述べているそうです。「一連のユダヤ人の苦難のひとつにポグロムがあり、あらゆる地方のユダヤ人共同体(カスティーリャであれ、アンダルシア、アラゴンであれ)は、第二のエルサレムであり、神の民が犯した罪の報いとして、神意によって破壊された、と。」(同書p.84)
 神の裁きと、その結果としての流謫。この想念が、神話上のアダムの運命に始まって、バビロン捕囚、第二神殿の破壊と、ユダヤの人々に強迫観念のようにつきまとってきたことは、今まで何度かお話してきました。それがまた、新たな形をとって現れたのです。私は無神論者ですが、さりとて、こうした見方を単なる迷妄だとは思いません。ユダヤの人々は、彼らなりのやり方で、暴力と理不尽が吹き荒れる歴史を内在化してきたのです。彼らの精神は何と強靭だったことでしょう。異端審問記録の中に、ひとりのユダヤ人の肉声が残っています。

「ベナルドゥト、おまえはどうしてキリスト教徒にならないのだ。お前はどんな子供からも罵られ、侮辱され、蔑まれている。これは耐え難いことだ。ある者はおまえに石を投げる。他の者はおまえをユダヤの犬と呼ぶ。もしお前がキリスト教徒になったなら、おまえは名誉を与えられ、人を従わせることもできるし、仕事を持つことも、その他多くの名誉を得ることもできるだろう。

これに対して、このユダヤ人は答える。

私は……そうした名誉のためや屈辱を逃れるためにキリスト教徒になりたい、とは思いません。私は私の宗教を堅く守り、それによって救われると信じています。私の宗教を守るために私が耐えねばならない屈辱が大きければ大きいほど、私はより救われるだろうと信じています。」(同書pp.89-90)

 こうした言葉を前に、私のようないっちょ噛みが何を言えるでしょうか。でも、あえて口を挟むならば、審問が行われた1470年という年についてです。この時点ではまだスペイン異端審問所は存在していないので、恐らくこれは、以前から行われていた、教皇庁直轄の巡回異端審問の記録なのでしょう。もうひとつ気にすべきは、ここに記されている「ユダヤ人」という言葉です。異端審問所の裁判権はキリスト教徒のみに限られていました。つまり、キリスト教に改宗したコンベルソは裁けても、ユダヤ教を信じるユダヤ人は裁けなかったのです。従って、上に引用した記録は、正式な裁判ではなく非公式な討論だった、ということになります。
 異端審問所の裁判権の及ばないユダヤ人に対して、スペインの王権が行ったこと。それが1492年のスペイン追放でした。ですが、国王フェルナンドの頭にあったのは、あくまで「コンベルソ問題」でした。コンベルソたちは、今までユダヤ人たちと密な関係を保ち続け、それによって純粋なキリスト教徒になるのを妨げられてきたと考えられていましたし、事実、その通りでした。そこで王権は追放か強制改宗かを迫ることにより、ユダヤ人のコミュニティを根絶やしにし、「汚染源」を断とうとしたのです。これはユダヤ人にとってもコンベルソたちにとっても、精神、肉体両面にわたる絶滅政策以外の何ものでもありませんでした。繰り返しになりますが、「同胞ユダヤ人は国外追放に追いやられたのに対して、コンベルソの方は内面的追放にさらされた」のです。スペインの異端審問所は、(何と)1834年まで存続しました。その間、約3万2千人の異端者が火刑に処されたと推定されています。その大部分がコンベルソだったそうです。(同書p.37)

 一方、自らの信仰を捨てなかったユダヤ人たちは、ヨーロッパの各地やアフリカ大陸や中近東へと散ってゆきました。私はついつい、上の審問記録に出て来た人について考えてしまいます。ベナルドゥトという名前以外は歴史に残っていないこの人は、果たして無事に生き延びたのでしょうか。今もどこかにこの人の子孫が生きているのでしょうか。わかりっこありませんよね。でも、別の人については多少のことがわかります。1492年にスペインを発ったユダヤ人の中に、当時4歳になる男の子がいました。彼はトレドの生まれでしたが、間もなく家族共々イスタンブールに流れつきます。彼の名前はヨセフ・カロ(1488-1525)と言います。カロは長じてユダヤ教の学徒となり、アドリアノープル、ニコポリス、テッサロニキといったオスマン・トルコの都市の間を転々としながら、34歳の若さでユダヤ法の新しい法典の編纂を開始します。その事業は以後24年もの間続きます。さて、歴史に残る仕事をなしとげた後、カロは終の住処としてガラリア湖の北に位置する小都市、サフェドに落ち着きます。この地が新しいカバラ主義の中心地となったことは、何度かお話ししましたね。ここに新思想の種を撒いたのは、誰あろうカロなのです。彼の弟子の一人がモーセス・コルヴェドロ(1522-1570)で、更にその孫弟子がイサーク・ルーリア(1534-1572)なのでした。(ふう、やっとカバラの話に戻ってきましたよ。)前話をここにアップしてからひと月近く経ってしまったので、お忘れの方もいるかも知れませんが、コルヴェドロは遥かな過去と遥かな未来に思いを馳せ、その理想世界における『トーラー』の姿を夢見た人です。そして彼の弟子にあたるイサーク・ルーリアこそが、カバラ主義に革命的な思想を吹き込んだのでした。この新しいカバラは三つのキーワードに要約されます。すなわち「神の後退(ツィムツーム)」、「器の破壊(シェビラー)」、そして「復元(ティクーン)」です。でも安心してください。今日はもうおしまいです。皆さんも疲れたと思いますし、私も力尽きました。これらの概念については次回お話しするとして、最後に一つだけ。ルーリアの思想には、ユダヤ人のスペイン追放という出来事が色濃く影響していると言われています。スペイン追放は1492年に起きたことなので、その衝撃が思想として結晶するまでに、およそ三世代分の年月が過ぎた計算になります。このスパンは、我が国が戦争に負けてから現在までの時間とおおよそ一緒ですね。サフェドの宗教運動が勃興したのが我々の歴史でいえば1980年代あたりになり、ルーリアが没したのが大体今の時代に当たるのかと。彼はまだ三十代の内に若死にしたわけですが、その思想は弟子たちに受け継がれ、死後大輪の花を咲かせます。そう考えると私は暗澹たる気分になります。我々は軽薄で、もの忘れが激しい民族なので、80年代のバブルに浮かれたあげく、今や再び「新しい戦前」にループしようとしています。一方中世のユダヤ人たちは、同じだけの時間を費やして、驚天動地の神話体系を打ち立てたのです。(しかし現在のイスラエルの人たちは…。いや、今はやめておきましょう。後の私より。)

 さて、どこに連れて行かれるかわからないあと書き、という、斬新すぎるスタイルを追究してきた当「おまけ」シリーズですが、さすがに

来るとは、私も想定外でした。いやホントに。脱落せずについてきて下さった読者の方々、ありがとうございます。そして御愁傷様でございます。ようやくゴールが見えてまいりました。(いや全然まだまだ。後の私より。)次回のアップにも少し時間がかかりそうですが、今しばらくおつきあいくださいませ。

partⅡ

 前回は期せずして歴史の荒波に揉まれまくってしまいました。お疲れさまでした。さあ、騒々しい地上を離れ、再び神秘のほの暗いヴェールの奥に分け入ってゆくとしましょう。まずは駆けつけ三杯、濃ゆーい酒を。前にも引用した『創造の書』からもう一度。

(ミシュナ)1・1
 聖なる知恵の三十二の経路によって、主なるYH、YHWH、イスラエルの(エロヒム)、永遠の王、救世主(エル・シャダイ)、慈悲深く仁慈に満ち、高くしして高揚されし永遠に存在する高貴にて聖なる御名は刻印せられた。そして彼は三つの印をもってこの宇宙を創造した。それは、境界、文字および数である。

(ミシュナ)1・6
 そこには無形の十のセフィロトがあり、それらは稲妻のような外見をしており、無窮なるものである。さらに彼らは行きつ戻りつしながら語りあい、彼の言葉はつむじ風のように走り、そして神の御座の前にひれ伏す。」
(箱崎総一『カバラ ユダヤ神秘思想の系譜』pp.92-94)

 このくだりを最初に皆さんのお目にかけてから、随分と時間が経ってしまいました。念のためおさらいすると、『創造(イェツラー)の書』は、3世紀から6世紀の間に書かれたと目される最古のカバラ文献です。『ゾーハル』に先立つことおよそ千年前に生まれた蒼古の書から、何で再び引用したかといえば、ここに記されているセフィロトの動きが、今からお話ししようとしているカバラの最新モード(16世紀当時)において、新たな姿で蘇っているからです。もっと大きな話をすれば、この「行きつ戻りつ」の運動は、ユダヤ人の歴史と精神史の中で、何度も何度も繰り返されているように思われるのです。

 さて、『創造の書』の文言を何となーく頭の片隅に置きながら、16世紀後半のサフェドの町へと旅立ってみましょう。私たちはこれまでも、何度かここを訪れています。中でもインパクトが強かったのは、「おまけその4」の冒頭で紹介したシェキナー推しの人の話でしょうか。ルーリアは、このベルキムという人に大きな影響を受けています。どう影響を受けたのかはいずれ触れましょう。とても興味深い話です。脱線はこれくらいにして本題に行きます。
 
 まず、イサーク・ルーリアという人は、一体どんな人だったのか、ショーレム先生に語って頂きましょう。

「…彼は一五七二年に三十八の歳で死んだとき自己の体系を書き表したものを残さなかった。彼には文筆の才が欠けていたのだ。あるとき、彼を神のように崇めていたとみられる弟子のひとりが、なぜあなたの教えについてすべてを体系的に叙述する書物を書き著さないのですかと尋ねたとき、われわれに報告されているところによると、彼は次のように答えた。『そんなことは不可能です。なぜならすべてはたがいに繋がり合っているからです。私は物事を語るためにはほとんど口を開きません。そんなことをすれば、私は海の防波堤が決壊してそこらじゅう氾濫するような気がします。ですから、どうして私の魂が感受したことを語らねばならないわけがありましょうか? いわんや、それを書物に書き記さねばならないわけがありましょうか。』」(『ユダヤ神秘主義』p.335)

「…ルーリアはきわめてはっきりした性格の幻視者であったが、同時にまた幻視者の力と限界をあからさまに語る証人でもあった。彼は隠れた世界とたえず接触して生き、その迷路をサーフェードの街路と同じように熟知していたようにみえる。彼自身つねにこの秘密にみちた世界のなかに生きていた。そして彼の幻視的なまなざしは、彼を取り囲んでいるすべてのもののなかに、魂とそのきらめきを発見し、有機的存在と無機的存在のあいだにいかなる区別もみとめなかった。どこでも彼はそのような魂でもってものを見、語った。」(同書p.337)

 この特異で魅力的な人物は、おそらく時代の子でもあったのでしょう。ルーリアの魂の中で、静かな瞑想者と情熱的な預言者の姿が渾然一体となっている気がします。神秘主義者と預言者は、本来、相反するタイプの宗教者と言えます。『ゾーハル』の時代のカバリストたちは、明らかに前者でした。いわば彼らはエリート主義者だったのです。ごく限られた神秘主義者だけが、静かな瞑想によって神の世界をかいま見ることができるという考えですから。しかしメシア主義の預言者タイプの人たちは真逆です。彼らはとことん民衆的なのですね。民族全体の救済が問題なのですから。この水と油の要素が、スペイン追放後という危機の時代にあって、ルーリアたちサフェドの神学者の中で一つに混じり合います。こうして『ゾーハル』の時代にはあくまで秘教的なものであったカバラ思想が、近世の入口に差しかかると、急速に民衆の間で広まっていったのです。
 私は何となく、ルーリアにソクラテスの面影を感じます。穏やかで、朗らかで、誰にでも気さくで、沢山の弟子たちに慕われ、そして欲のない人だったのでしょう。自分では著作をほとんど遺さなかったこともソクラテスに似ています。しかし、弟子たちによって伝えられている彼の思想には、ギリシャ哲学が決して知ることがなかった深淵が顔を覗かせています。前回触れたように、ルーリアが打ち立てた宇宙論のキーワードは三つ、「神の後退(ツィムツーム)」、「器の破壊(シェビラー)」、「復元(ティクーン)」です。順を追って見てゆきましょう。

 神の後退(ツィムツーム)とは、一言で言えば「神のひきこもり」のことです。日本にも天岩戸の奥に閉じこもってしまった神様がいましたね。彼女は単に臍を曲げただけでしたが、無限なるもの(エン・ソフ)の意図はもっと遠大です。ルーリアによれば、全き存在としてあるエン・ソフから、今ある形での宇宙が生まれるためには、エン・ソフは一度、収縮の過程を経ねばならないのです。本来いかなる境界も限界も存在しない神自身の本質の中で、神自身が縮まり、更に深く隠れた領域に撤退すると、後にある種の空洞が残されることになります。これが我々自身の宇宙の種である「原空間」となるのです。この事態をショーレムは、神の「自己の内部への亡命」と表現しています。神様が自分の居場所から亡命してしまうとは、何とも大胆というか奇想天外な発想です。そこにショーレムは、「ユダヤ人のスペイン追放に対する答え」を見ているのです。

 ここでまたまた脱線を。ツィムツームを「考えうるかぎり最も深い亡命の象徴」とみなすショーレムの考えは、後世の歴史家から批判を浴びているようです。前回よりどころにした『スペインのユダヤ人』では、ある研究者が、ショーレムがルーリアの思想をひも解く際、スペイン追放に重きを置きすぎていると述べています。その人によれば、ルーリアの思想に影響を与えているのは、過去の出来事よりもむしろ、スペイン追放の結果起こった多様な文化交流だというのですね。私はなるほどと思いました。ですが所詮素人なので、どの見方が正しいのかというジャッジはできません。ただ確かなのは、ショーレムの物の見方の方が、私に深く何かを訴えてくるということです。なので、ここではショーレム説に沿って、私が感じたことを述べてゆくこととします。まあ、一つのファンタジーとしてお読み頂ければと思います。

 さて、プラトン主義に由来する、中世末期のスタンダードな宇宙論では、万物は、神の本質から外部に流出して出来あがったことになっていました。ルーリアはこの道筋をくるりと裏返してしまったのです。

「それは、神の劇たる宇宙劇の冒頭が以前の体系とは異なっていて、流出といった活動のように、神がおのれ自身のうちより歩み出ておのれ自身を伝達し啓示するという活動から始まるのではない。むしろそれは、神がおのれ自身のうちへ収斂し、引きこもり、外部に向かうかわりにおのれの存在をさらに深く隠された自己自身へと収縮してゆく活動なのである。」(『カバラとその象徴的表現』p.152)

 私たちは、シェキナーがセフィロトの世界から追い出され、流謫の運命に晒された次第を見てきました。これはいわば、神の手足の一部が神の体から追放された事態なのですが、今度はついに、神の心臓部において追放劇が起きます。しかもその追放先は、神自身の更に隠された最奥なのです。私はついつい、この裏返しになった神様と、前回お話ししたコンベルソ、つまりキリスト教に強制改宗させられたユダヤ人たちを重ねて見てしまいます。『スペインのユダヤ人』から再び引用すれば、「同胞ユダヤ人は国外追放に追いやられたのに対して、コンベルソの方は内面的追放にさらされた」のですから。言うまでもなく、これは時代も場所も遠く離れた一東洋人の無責任な連想に過ぎません。が、毒を喰らわば皿までもです。神話と歴史のアナロジーを更に続けてみましょう。私たちは前回、ユダヤ人のスペインからの追放が、単に一方向の動きではなく、ユダヤ人の外的追放とコンベルソの内的追放という二つの軸を持つ復線的な追放劇だったことを見ました。この動きをなぞるように、ルーリアの宇宙論においても、創造の過程はいわば復線となります。ギリシャ由来の哲学において、宇宙の生成は直線的な経路を取ります。それは『ゾーハル』においても同じでした。しかし、サフェド派のカバラ思想においては、世界はツィムツームという収縮運動に始まり、その後、絶えず拡散と収縮を繰り返しながら展開してゆきます。まるで神的世界全体が、大きく息を吸ったり吐いたりしているようなのですね。そこら辺をちょっと詳しく見てみましょう。

 最初のツィムツームの後、潮が引いて砂浜が現れるようにして「原空間」ができあがります。先ほどお話ししたように、宇宙の種にして、神の内部にできた空洞のようなものですね。ところでこの原空間には、立ち去った神の「残り香」のようなものが漂っています。そこに「厳格な裁き」の要素が凝縮されて現れます。なんと、第五セフィラーのディーン(厳格な裁き)の成分が姿を見せるのです。この成分は、ツィムツームの前には他のセフィロトの成分と渾然一体になって混じり合っていました。「ちょうど大海のなかの一粒の塩のように、愛と恩寵のなかに完全に溶け込んでいた」(『ユダヤ神秘主義』p.348)のです。ではなぜ「裁き」の要素だけが、海水を蒸留した後の塩のように析出されたかと言えば、神が行ったツィムツームという行為そのものに原因があります。それは神の自己制限と自己否定の動きであるがゆえに、それ自体、「裁き」の行為なのです。現代物理学にも勝るとも劣らない、厳密にして途方もないロジックですね。この「対称性の破れ」の中世バージョンには、古代の声が聞き間違いようもなく谺しています。『創造の書』の冒頭部分を読み返してみましょう。「そして彼は三つの印をもってこの宇宙を創造した。それは、境界、文字および数である。」とあります。つまり、神の最初の行為は「境界」を作ること、全き統一としてあった神の身体の中に、数と文字を、つまり差異を持ち込むこと、一言で言えば自己の内に「疎外」を持ち込むこと、なのです。ここにはまた、古代グノーシス教のメッセージが忍びこんでもいます。「おまけその3」でお話しした神話では、シェキナーの従姉妹みたいな「下なるソフィア」が神々の世界から放逐されますが、その時初めて神々の世界とその外の暗闇を区切る「境界」ができあがるのです。つまり、宇宙創造の出発点には、言いようのない「さびしさ」があるのですね。「きびしさ」と言った方があるいは正確なのかも知れませんが、わたしはこれは「さびしさ」だと思います。このさびしさは、我々アジア系の汎神論的な神話体系が知らないものです。そして西欧的近代精神の根底には、たぶんこのさびしさがあるのです。

 さて、ツィムツーム、すなわち最初の自己疎外の行為に続き、唯一神であるエン・ソフは、自らが作り出した原空間に一条の光を投げかけます。その光が巨大な人の形を取ります。人間の原形である、アダム・カドモンです。この巨人は人間というよりもほとんど神そのものであり、また宇宙の造物主でもあります。すると、彼の体に開いた穴から光が洩れ出します。両耳と口と鼻から出た光は、諸々のセフィロトの元となるものでした。最初その光は一つの束になって現れ、統一された全体として輝き、各々のセフィラーに分化してはいませんでした。次に、アダム・カドモンの両目が異様な光を発します。この光は、それぞれのセフィラーを分化させ、孤立した点を形づくらせるべく発せられたものでした。ところがここで、神の世界は恐るべき破局に見舞われます。それが「器の破壊(シェビラー)」です。
 この出来事は、非常にもってまわったプロセスを踏んで起きるので、すっきりした説明が難しいのですが、何とか頑張ってみます。アダム・カドモンが目からビームを発する前に、十個の「器」が作られました。分化したセフィラーが各々身を包むための器です。ところでこれ、一体誰が作ったんでしょうね。アダム・カドモンでしょうか。それともエン・ソフでしょうか。ショーレム先生は、創り出されたというよりも「流出」されたのだ、と言ってお茶を濁しています。まあそういうことにしておきましょう。
 さて、十個の容器の内、上位の三つのセフィロトのために作られた器は問題がなかったのですが、それ以外の器に重大な不具合が生じました。それらはなんと、脆い造りの粗悪品だったのです。その結果、下位のセフィロトの器はアダム・カドモンの両目から発せられた光の強さに耐えられず、粉々に砕け散ってしまいます。神の世界は上へ下への大混乱に陥るのでした。…とまあ、ここまでは簡単に説明できるのですが、この事件の背景は中々に複雑です。なにせアダム・カドモンは只のボンクラじゃありませんからね。全能に近い巨人が、なんでそんな初歩的なミスをやらかしたのかと。で、誰の頭にも浮かびそうなこの突っ込みは、実は途方もなく深い闇を孕んでいるのです。すなわち、この世の「悪」がなぜ存在し、いかにして生まれたのか、という問題です。
 なぜここで「悪」の問題が浮上してくるのか、かいつまんでお話ししましょう。ツィムツームの結果できあがった原空間の中に、「厳格な裁き」の要素が現れたことは、先ほど触れたばかりですね。実はこの「厳格な裁き」こそが、この世の悪のルーツなのです。とは言え、第五セフィラーのディーン(厳しい裁き)そのものが悪なのではありません。このセフィラーは、他のセフィロトと調和状態にある限りでは、清純な力として存在しています。しかし、このバランスが崩れると、そこに悪が現れるのです。
 ここで思い出されるのは、「おまけその4」で触れた、『創世記』第三六章の「エドムの王名表」にまつわるエピソードです。『ゾーハル』によれば、現在の宇宙の前に存在していた諸々の世界は、第五セフィラーのディーン(厳しい裁き)が暴走した結果、滅びてしまったのでした。ルーリアは、この話を換骨奪胎して、器の破壊(シェビラー)という新しい神話を作り上げたのです。過剰な裁きの力は、ここではアダム・カドモンの両目から発せられる恐るべき光線として現れます。
 では、なぜこの局面で破滅が起きねばならなかったのか、『ゾーハル』に戻って考えてみます。「おまけその2」で、第二セフィラーのホクマー(智慧)と第三セフィラーのビーナー(知性)の関係をお話ししました。ホクマーは別名「原知」であり、そこでは一切の事物の原型が、未分化のまま凝縮されて存在しています。ホクマーがビーナーと「婚姻」した結果、そこに分化が生じ、あらゆる事物の形態が形成されたのでした。この「分化」が一つのキーワードなのでしょう。『ゾーハル』においては交合のイメージで捉えられていた分化の発生が、器の破壊(シェビラー)においては致命的な破断として出現します。神の後退(ツィムツーム)が既にそうであったように、ルーリアの神話体系においては、疎外=裁きの働きが、常に悪の発生と結びつけられています。
 いずれにしても、神の心臓部において悪が生みだされたという説は、一神教という枠がある限り、控えめに言って物議を醸す考えですし、どうしたって矛盾が生じます。(ここには邪教として名高いグノーシスの二元論の影響がありありと伺えますが、もちろんカバリストたちはそんなことはおくびにも出しません。)ルーリアは、セフィロトの働きをある種の生命活動と見、その「廃棄物」が悪の元となるのだという理屈を考え出しました。でもまあ、これも苦しいっちゃ苦しいですね。しかしこのアナロジーは見事な表現を得ています。ルーリアは『創世記』第三六章にのっとって、シェビラーに「先祖の王たちの死」という別名を与え、悪の種となる「廃棄物」を「先祖の王たちの残滓」と呼んだのです。ファンタジー好きの血を騒がせるネーミングです。
 さて、セフィロトを受け入れるべき器が粉々に破壊されると、色々なものが、しっちゃかめっちゃかに混ざり合いながら下界に落下してゆきます。器の破片、悪の素たる「先祖の王たちの残滓」、そしてアダム・カドモンの目から飛び散った神聖な火花のいくたりかです。落下した神の火花はルーリアによれば288個あったそうです。(この細かさにしびれます。)こうして、聖なる要素と聖ならざる不純な要素がごっちゃになり、我々の宇宙の元となりました。ここでまたしても現れるのは追放と流謫のモチーフです。

「…もはや本来あるべきところにとどまっているものはなにひとつない。すべてがどこかほかのところにある。しかし、おのれの場にいない存在とは、流謫状態にあるわけだ。はたして、あの原活動以降、すべての存在は流謫せる存在なのであって、復旧と救済を必要としている。器の破壊は、それ以後の流出と創造の段階すべてに継続されてゆく。すべてがなんらかの形で破壊されている。すべてに欠陥がある。すべてが不完全なのである。」(『カバラとその象徴的表現』p.155)

 さてここで、シェビラーに対する新たな解釈が生まれてきます。つまり、器の破壊は、単に技術的な不手際によって起きたのではなく、意図的に起こされたのだというものです。その目的はと言えば、神の胎内に生じた悪の種を排除し、セフィロトの世界を浄化するためなのでした。ルーリアは悪の種を生命活動の廃棄物とみなしましたが、ここに別の生物学的イメージが生じます。すなわち器の破壊を「麦となるべくはじけて死す種子」や、「母胎を破り開く分娩」に例える考え方です。ここでも二つの方向の動きが見られます。不純物を取り除いたセフィロトの世界は、新たな秩序に向かって動き出します。一方「先祖の王たちの残滓」は、器の破壊とその後のプロセスにおいて、独立した悪の力として凝縮してゆきます。最初は単なる可能性としてのみあった悪が、現実的な悪魔の勢力となり、真っ黒な胡桃の殻(ケリポート)を形成するに至るのです。ここにはスペイン追放の歴史が捻れた形で反映してはいないでしょうか。かつてユダヤ人はスペイン王国で疫病のごとく扱われていましたし、またスペイン王国はユダヤ人を排斥することで国家の統一を強化しようと図ったのですから。神話が流謫の物語を語っている、というだけの話ではないような気がします。この神話の構造自体が流謫を孕んでいます。神の物語の中で、ユダヤの人はどこに自分の居場所を見出したのでしょう。アダム・カドモンの懐でしょうか、それとも奈落の胡桃の殻(ケリポート)でしょうか。たぶんどちらでもないのです。『創造の書』のセフィロトの動きのように、「行きつ戻りつしながら」自問を繰り返したのではないでしょうか。
 こうして神の世界全体は、大きく息を吸って収縮したと見るや、大口を開けて破壊的な息を撒き散らします。

「このように人間の有機的組織が息を吸い込むことと吐き出すことの二重の過程によって存続し、どちらも片方なしでは考えられないのと同じように、全被造物は神的生命のこのような吸排気によって構成されている。」(『ユダヤ神秘主義』p.349)

 吸い込む動きである神の後退(ツィムツーム)は神の「自己の内部への(・・)亡命」であるならば、吐き出す動きである器の破壊(シェビラー)は「神の存在の一部が自己自身から(・・)追放されている」ことになります。こうしてセフィロトの「行きつ戻りつ」の運動は、スペイン追放という歴史的な出来事を経て、有機的な呼吸の動きと、政治的な亡命の動きとに翻訳されることになります。シューレムはこうまとめます。

「創造過程の各段階は神自身のなかへ退いていく光と、神から溢れ出てくる光とのあいだの緊張を含んでいる。このたえざる緊張、神が自己の存在を持続させるこの衝撃のたえざる繰り返しがなければ、世界のいかなる事物も存立しないであろう。」(『ユダヤ神秘主義』p.346)

 さて、今までお話しした神の後退(ツィムツーム)器の破壊(シェビラー)は、壮大な神話的物語でありながら、あくまで「神の精神の中」で起こったできごとです。この時点では宇宙は未だに存在せず、まして我々人間の姿など影も形もありません。空中戦も極まれりですね。しかし、この後の過程である復元(ティクーン)においては状況が一変します。舞台は我々の世界に移ります。そして神は主役の座から降ります。代わりの役者は人間、ただの人間です。つまり、私やあなた、なのです。次回に続きます。

初出
partⅠ:2023年3月7日
partⅡ:2023年3月20日
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登場人物紹介

ユッド(ベー=ユッド)


主人公の若い天使。鞜職人。

不慮の事故で翼を失ってしまう。

内向的で目立たない性格の持ち主だが、時々妙に意固地になる。


通名:メガネ

正式名:出エジプト記三章十四節の第二子なるユッド

カエル


本作のヒロイン。

先天性異常で翼を持たずに生まれた天使。

世をすねて、日の射さない地の底に住んでいる。

背が高く、並外れた運動神経の持ち主。

苛酷な境遇のせいでひねくれた所はあるが、本来は呑気。

ラメッド(ダー=ラメッド)


ユッドの幼なじみの天使。ユッドは彼女に淡い恋心を抱いている。

色白で、流れるような金髪と鈴のような美声の持ち主。

絵に書いたような天使ぶりだが、中身は割と自己中。


通名:カササギ

正式名:申命記十四章七節の第四子なるラメッド

太っちょ(ギー=ユッド)


ユッドの幼なじみの天使。同じユッドの名を持っているので少々ややこしい。

広く浅くをモットーとする事情通。常にドライに振る舞おうとしているが、正体はセンチメンタリスト。


正式名不詳(作者が考えていない)

ゼーイル・アンピーン(アレフ=シン)


天使の長老の一人。ゼーイル・アンピーンは「気短な者」を意味するあだ名。

その名の通りの頑固者。なぜかユッドにつらく当たる。


正式名:創世記二十二章八節の初子なるシン

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