その二 飛翔

文字数 34,899文字

その二 飛翔

 カエルとユッドは南の塔のふもとに立っていた。星空を背に、のしかかるようにそびえ立っている塔を見あげて、ユッドは自分がやろうとしていることがどれほど無謀なことか、改めて思い知った。登ってゆかねばならない露台は200段ある。しかもレビたちが待ち構える中をだ。今、二人の回りにケルブの気配はないが、もう見つかっているのかもしれない。半年前ユッドはここに立ち、絶望に打ちひしがれて泣いたのだ。あの時よりも今がましということはなさそうだった。カエルがユッドの腕を掴んで言った。「急ぎましょう」ユッドは頷くと、腰の金具を外した。輪になった縄が足元にばさりと落ちる。彼は深く息を吸いこみ、腕を大きく振り回した。訓練の時は揺れる小舟の上だったが、今は大地がしっかりと両足をささえてくれている。彼が手を離すと、鉤は20アンマ(約10メートル)上の露台に向かってまっすぐ飛び、しゅるしゅると巻きついた。鉄の爪が石を噛む音がガチンと大きく響き、カエルとユッドは思わず首をすくめた。「私が先に行くわね」と言ってカエルが縄にとりついた。彼女はたちまち縄をのぼり切った。彼女は星影を背にしてユッドに振り向くと、黙って手招きをした。ユッドが露台の上に這いあがると、カエルはもう、斜め上の次の露台に向かって縄を伝っている所だった。こうして交互に縄を投げ、上に進んでゆく段取りだったのだ。
 ユッドが10段目の露台の縁に掴まると、先にたどり着いていたカエルが心配そうな顔で言った。「ユッド、本当にやるの?」彼女はユッドの手を掴み、上に引きあげてやった。幅が2アンマもない狭い露台の上で、二人は肩を寄せ合って立った。彼らの斜め上の壁に四角い穴があいていて、中に大きな鐘がぶらさがっている。市場の開催を告げる鐘だった。ユッドは「やるしかないよ」と言ってカエルを見た。「そろそろ奴らがやってくる」彼はそう言うと、火打石を取りだし、腰のカンテラに火を入れた。明るい灯が塔の壁面を照らした。視界はぐんと良くなったが、これでは敵を誘っているようなものだ。カエルはため息をついた。あまりいい考えだとは思えないが、そもそも二人がやろうとしていることが無茶なのだ。
 すると頭上で羽音がした。見あげると、いくつもの黒い影が星空を遮っている。カエルが小さく叫んだ。「来たわ!」ユッドは背中に結びつけていた鞘から剣を抜いた。彼は剣を構えると言った。「カエル、鐘を!」カエルとユッドは互いに体をずらし、狭い露台の上で位置を交換した。その途端、直上からひとりのレビが襲いかかってきた。翼を畳み、逆落としに突っこんできたケルブは、「ぬん!」と叫んで剣に全体重を乗せ、ユッドの肩に斬りかかった。ユッドは咄嗟に剣を体の前にかざした。ガチンという音と共に火花が散り、ユッドの体は横に弾き飛ばされた。「うわ!」露台の縁から足がすべり落ちた。地面ははるか100アンマ下だ。するとカエルの手ががっちりとユッドの腕を掴んだ。カエルは「足場よ足場!」と叫んでユッドを露台の上に押しやった。一撃目を逃したレビは、大きな羽音を立てて旋回し、またユッド目がけて飛びあがってきた。すると間近でガーンという凄まじい音が響いた。驚いたレビは横っ飛びに退いた。カエルが鐘を打ち鳴らしたのだ。彼女はそのまま力任せに鐘を鳴らし続けた。真夜中の空に、鐘の音が狂ったように響き渡った。だがレビたちが怯んだのは一瞬だった。すぐ上空を舞っていた三人の近衛兵が、獣じみた雄叫びをあげながら、ユッドに向かってほとんど同時に襲いかかった。ひとりはユッドの右肩目がけて剣を振りおろし、もうひとりは脇腹を狙って横様に刃を走らせた。ユッドは逆手に持った剣でその二撃を受けた。だが左脇がガラ空きになり、三人目がすかさず剣を突き立てた。「ぎゃあ!」悲鳴をあげてのけぞったのはレビの方だ。彼の頬には大きな藍色の鞜がめりこんでいた。宙を跳んでレビの顔面に足蹴を喰らわせたカエルは、くるっと体をひねり、目にも止まらない下手投げで鉤を放りあげた。それは矢のように闇を切り裂き、斜め上の露台にくるりと巻きついた。落下しかけたカエルの体をピンと張った縄が支えた。彼女は縄の先で大きな体をくの字に折ると、「はっ!」というかけ声と共に両足を振りおろした。踵が二人のレビの頭をハンマーのように打ち、彼らは前のめりになって落下した。唖然としているユッドの前から、縄にぶらさがったカエルの体が遠ざかっていった。するとその背中目がけて、下からレビが猛然と襲いかかった。ユッドに一撃目を喰らわせたケルブだ。カエルからは完全に死角だった。「あぶない!」ユッドは大声で叫び、露台から身を躍らせた。彼は上昇してきたレビの背中にしがみついた。大男にどさりとのしかかられた天使はバランスを失い、空中でぐるんとでんぐり返しを打った。二人の体はもつれ合ったまま落下を始めた。「ユッド!」カエルの悲鳴が響いた。彼女は塔の壁沿いに振り子のように揺れながら、落ちてゆくユッドに向かって声を張りあげるしかなかった。彼と揉み合っているレビの翼は、もはや用をなしていない。地面に激突すれば、二人とも命はないだろう。「カエル!」ユッドは叫び声をあげ、剣を投げ捨てると、星空と暗い地面がぐるぐると回転する中、腰の鉤をブンと放った。闇雲に投げられた鉄の爪は、山なりのカーブを描いて高く飛びあがった。だがその先は引っかかるものがない、のっぺらぼうの壁だ。「おおおおお!」カエルは野獣のような叫びをあげ、ちょうど足元に口をあけていた窓の枠を蹴った。長い足がバネのように伸び、カエルの体が斜めに宙を駆けた。ピンと伸び切った縄の先で、カエルの両手が落下しかけていた鉤を捕えた。途端にガクンと重みがかかった。カエルは手首が千切れそうになるのを必死でこらえ、ユッドとレビがぶらさがる縄を手放すまいとした。二倍の長さに伸びた振り子が、ぶらーんと壁に振り戻った。ユッドはレビから体を離すと、壁面にどこか掴まる所がないかと素早く目を走らせた。だが運悪く、窓も戸口も彼の手の届く場所にはない。頭上を見てユッドの心臓が凍りついた。カエルを三人のレビがとり囲んでいた。カエルは縄を掴んでいるので身動きができない。近衛兵らは一斉に太刀を振りあげた。そのゆっくりした動作には、なぶるような調子があった。ユッドは叫んだ。「カエル逃げろ!手を離すんだ!」すると後ろから声がかかった。「心配無用だ」ユッドが振り向くと、ひとりの近衛兵がニタニタと笑っていた。彼は太刀を振りあげながら、嬉しくて仕方がないという風に叫んだ。「おまえも今すぐ死ぬんだからなあ!」ユッドはその顔に見覚えがあった。イサークと呼ばれていた近衛兵の隊長だ。ユッドは剣を投げ捨ててしまったことを悔やんだが、もう後の祭りだ。その時、ガーンと鐘の音が響いた。イサークは驚いて鐘のある碧眼を見た。鐘はガンガンと打ち鳴らされ始めた。ユッドからは見えないが、誰かが鐘を激しく叩いているのだ。するとユッドの斜め上の窓がバタンと開き、中から首が突きだした。「さっきからうるさいぞ!何時だと思っている!」真っ暗だった塔の窓々に灯が点り始めた。住人が時ならぬ鐘の音に目を覚ましたのだ。「ちい」イサークの顔が歪んだ。薬のせいで狂犬のようになっている彼にも、この状況がまずいことはわかるらしい。ガンガンと鐘の音が響く中、上から女の声が飛んだ。「イサーク!」それは十人組隊長のひとり、レアのものだ。「時間がない。せーので仕留めるよ!」イサークは「おう!」と叫ぶと剣の束を握り直した。彼は血に飢えた目をギラギラと光らせ、上の三人と声を合わせた。「せーの!」彼は気がつかなかった。彼のすぐ後ろで、もうひとつの声が「せーの」と言ったことを。イサークの太刀が振りおろされる直前に、彼の脳天を剣の平が直撃した。白目を剥いてくたっとなったイサークの首の後ろに、いかつい顔が現れた。ゲルションだ。彼は失神したイサークが落下しそうになるのを首根っこを掴んで止めると、「進歩がないのう」と呆れたように言った。彼も黒衣を纏っている。すると頭上で剣と剣が交わる激しい音が響いた。ユッドが見あげると、三人の近衛兵とカエルの間に、ひとりのレビが立ちふさがっていた。細い目を鋭く光らせ、太刀を斜めに構えているのはエリフだ。少し離れた空中から声が飛んだ。「エリフ、裏切ったか!」声の主は十人組隊長のひとり、イッサカルだ。隊長らは、前回の任務の失敗から、彼ひとりは薬を飲まずに正気を保ち、作戦の遂行を見守ることにしたのだ。彼の眼下では、エリフと向かい合った三人の同僚が、ふらふらとよろめきだしていた。薬が切れたのだ。イッサカルは腸が千切れる思いだった。安息日の夜に紛れ、ベー=ユッドを秘かに葬る作戦は失敗に終わった。それも最悪の形でだ。相変わらず鐘は狂ったように鳴り続けていて、塔の窓々からは住人たちが首を突きだし、なにごとかと見守っていた。するとエリフがイッサカルを見あげて言った。「私は裏切ってなどいない。卑怯な行為を止めただけだ。栄えある近衛兵の名を汚さぬためにな」イッサカルは(もはやこれまで)と思い、腰のカンテラに灯を点した。彼はカンテラを高く持ちあげ、大きく振った。すると上空のあちこちに光る点が現れた。地の底から這いあがってきた宇宙の破壊者を、なにがなんでも仕留めなければならない。なりふりは構っていられなかった。(その後はなるようになれだ)イッサカルは覚悟を決めた。「エリフ…」カエルが目を潤ませて言うと、エリフは落下しかけた同僚の体を抱きあげながら、「いらぬ迷惑ばかりかけるな、君らは」と言った。その下ではゲルションが、ユッドに手を差し伸べながら言った。「おまえも進歩がないのう。図体ばかりでかくなりおって」ユッドは夢でも見ているような気分だった。彼は覚えていた。このいかつい男は、かつて自分がエドムの王名を出してしまった時、取りなしの宣言をしたレビだ。カエルからエリフの他に助けてくれたレビがひとりいたことを聞いていたが、それが彼だとは知らなかった。すると鐘が鳴りやんだ。今度はゲルションの目が丸くなった。「おまえ、そんな所でなにをしておる」ユッドが見あげると、鐘がある碧眼から女の顔が覗いていた。白装束の小柄なケルブだ。ユッドはまた仰天した。赤毛のベー=ユッドだ。銅色の髪は短髪からおかっぱに変わっていたが、刺すような目つきは相変わらずだった。かつて神殿で同じ場にいた三人は、思いもよらない状況で再び顔を合わせた。赤毛はユッドの前におり立ち、翼をはためかせながらうやうやしく頭をさげた。「ベー=ユッド様、お久しゅうございます」呆れて言葉もないユッドの前で、赤毛は首をもたげ、上空に向かって叫んだ。「皆の者、千年の時を経て、ついに聖櫃保持者が現れたぞ!」凛とした彼女の声は、塔の群れの間を谺し、メルカーバーと星々が輝く空に吸いこまれていった。ユッドらに向かって押し寄せつつあったカンテラの光は一瞬動きを止めた。赤毛はあっけにとられているゲルションを促し、ユッドを一番近くにあった露台に引きあげた。カエルもエリフに連れられてやってきた。赤毛は空に向かってまた叫んだ。「ここにおわす、シェモートゥ(出エジプト記)三章十四節の第二子なるユッドは、地の底に下り、シェキナーより聖櫃を賜った。そして、このお方は自由なる者として再び地上に還りきたのだ。第三のトーラーをホクマー(智慧)の書庫に納めるために!」ユッドはあっけにとられながら今ひとりのユッドの背中を眺めていた。すると肩の上で切りそろえた赤毛が揺れ、振り向いた青い目が厳しくユッドを見すえた。ユッドはビクッとなった。一年前、彼女に数字の間違いを見とがめられた時の記憶が、生傷のように蘇ったのだ。赤毛は小声で言った。「ベー=ユッド様、どうぞ皆に聖櫃をお見せください」言葉は馬鹿丁寧だったが、素っ気ない言いかたと喧嘩を売っているような目は以前の彼女と一緒だった。ユッドはあたふたと腰の籠をあけた。傍らのカエルはそんな彼を呆れ顔で見ている。巨漢となった男が、子供のようなケルブに威圧されてへどもどしているさまは、なんとも滑稽だったのだ。ユッドは言われるままに布に包まれた箱を取りだした。青い光が強まっている。それは二重三重になった麻の布ごしに、はっきりと見えていた。ユッドが布を解くと、青白い光が強烈に闇を射た。「おお」というどよめきが起こった。上空を旋回しているレビではなく、塔の住人たちからあがった声だ。窓から首を突きだしている者もいれば、戸口の前で羽ばたきながら見おろしている者もいた。彼らは皆、光る箱を固唾を呑んで見つめていた。赤毛も鼻腔を広げ、まじまじと聖櫃を見ていたが、不意に我に返り、小声でユッドに言った。「ベー=ユッド様、どうぞ威厳をお保ちください。あなた様が堂々としていられるかどうかで勝負が決まるのです」そして空に向かって叫んだ。「見よ!これより聖櫃保持者が、秘められた第三のトーラーを見いだすべく、見張りの塔をのぼるぞ。邪魔立てする者があらば、たちどころに神罰が下るであろう!」赤毛はユッドに振り返り、ギロっと彼を睨んで言った。「お願いしますよ」そしてばさっと羽音を立てて飛びあがると、再び鐘をガンガンと打ち鳴らし始めた。するとそれと呼応するように、町の方々で鐘が鳴り始めた。真っ暗だった塔の群れの中に、ぽつぽつと灯りが生まれた。安息日の静けさは、今や完全に消え去っていた。
 イッサカルは反逆天使が放つ青い光を見て、大きく動揺していた。彼ら大長老の近従は、赤い石を宇宙破壊者の武器だとしか知らされていない。ツァデクはケルビムの町の負の歴史を、ギー=ベート以外の誰にも打ち明けていなかったのだ。そして石の放つ禍々しい光は、近衛兵たちに、大長老の言葉を信じさせるに十分な材料を与えていた。だが今イッサカルの眼前にある光には、紛うことない神聖さが宿っていた。悪魔の道具とはとても思えない。女が高らかに述べ立てたことも、この光を見ていると、あながち出鱈目とは思えなくなってきた。だが彼は思い直した。(俺の今なすべきことは判断ではない。行動だ。後のことはエン・ソフが計らってくださるだろう)イッサカルは顔をあげ、上空の部下たちを見た。そして鳴り響いている鐘の音に負けない大声で叫んだ。「世迷いごとに耳を貸すな!あれは神に牙剥く逆賊だ!今殲滅せねば、この宇宙は滅びるのだぞ!私に続け!」彼は翼なき悪魔に向かって急降下した。後ろは決して振り向かない。だが気配で、大部分の者が空に止まったままなのはわかった。(無理もない)とイッサカルは考えた。部下たちは青い光に気圧されただけではない。薬を飲んだ隊長らの変わりようを目の当たりにして、己の正義に疑念を持ったのだ。彼につき従っている者は十名に満たないだろう。露台の上に立つ二つの異形の影が、迫るイッサカルに対して身構えるのが見えた。その前に黒衣の者が二人割りこんできた。エリフとゲルションだ。イッサカルは、両人共に抜きん出た武術の持ち主であることを知っていた。なぜ彼らが裏切りに走ったのかはわからないが、今しがたの戦いを見ても、こちらの形勢が極めて不利なのは確かだった。(だが、もう悩むまい)彼は真っ逆さまに急降下しながら、胸元に隠してあった小瓶を取りだした。(俺は獣ではなく、ケルブとして死ぬのだ)そう自分に言い聞かせて、彼は恐るべき薬の入った瓶を捨てた。
 エリフは真上から突っこんで来る十人組隊長に向かって剣を振りあげ、片刃の背に左手を宛てがって構えた。後ろのカエルが叫んだ。「エリフ!」ゲルションが「そこで見ておれ!」と叫ぶのと同時に、剣と剣が激突した。二人の剣士は至近距離から猛烈に打ち合った。その余りの激しさに、ゲルションも、イッサカルにつき従ってきた七名のレビも、遠巻きにして見守るしかなかった。「なにを待っておる!」イッサカルは目にも止まらぬエリフの刃を受けながら、目を爛々と光らせて叫んだ。「早く悪魔を討ち果たすのだ!」カエルが低い罵り声をあげた。「言ってくれるわね!」イッサカルの部下たちが動きだす前に、彼女の体が動いた。カエルは鉤を握りしめ、狭い露台の上で体を横にひねった。露な腹筋がぎゅっと引き締まる。彼女は弓の弦を引き絞るように肘と腰に力を貯めると、素早く腕を突きだした。彼女の手から離れた鉄の爪は、うねる縄を従えて一直線に飛び、ゲルションの正面にいたレビに襲いかかった。彼は右手の甲を打ち砕かれ、悲鳴をあげて剣をとり落とした。カエルがブンと腕を振ると、鉤はかま首をもたげた蛇のように真上に飛んだ。そしてぐにゃりと勢いを失い、左手にぽんと着地した。彼女はすかさず次の一撃を繰り出す体勢をとった。ぽかんとして眺めていたゲルションは我に返り、「これは負けてはいられぬわい」と言って、レビたちの間に打ち入ろうと身構えた。その背中に向かってユッドが叫んだ。「頼む、殺さないでくれ!」ゲルションは「無理を言うな!」と苛立たしげに言うと、間近のレビに打ちかかろうとした。
 その時、鐘の音が止まった。入れ替わりにトランペットの音が響いた。低いドの音、長く伸びるソの音、最後に輝くような高いミの音だ。長老会の権威を示す調べだった。甲高い声が響いた。「双方、剣を納めよ!」
 ユッドが見あげた先では、何十人もの天使が宙空に立っていた。ほとんどが白衣に赤い帯を締めたレビだ。先頭に三人のケルビムがいる。女のレビ、髭のレーシュ、そしてアレフ=シンだ。赤毛のユッドが飛んでゆき、そこに加わった。エリフとイッサカルは打ち合うのをやめ、新たに現れたケルビムの集団を訝しげに見あげていた。アレフ=シンはユッドを見おろして言った。「しばらくだったな、ベー=ユッド」ユッドの中にむらむらと怒りが湧いてきた。彼は大声で叫んだ。「なにしにきた、アレフ=シン!」老人はメガネの奥からユッドを見据えて答えた。「大長老の勅状を持って参ったのだ」するとシンの隣にいたレビの女が、彼に金色の帯で巻かれたパピルスを手渡した。シンは封印を解きながら大声で言った。「これより、卓越せるツァデク様より下された勅命を、御方になりかわり、この私、ベレーシート(創世記)二十二章八節の初子なるシンが下知いたす。卓越せるツァデク様は老齢ゆえここには来られぬ。よって私に金印状を託されたのだ。皆の者、心して聞くがよい」彼はパピルスを広げ、読みあげた。「一、シェモートゥ(出エジプト記)三章十四節の第二子なるユッドを聖櫃保持者と認める。かの者のなすことは、今後決して妨げられてはならない。かの者の協力者についても同じである」イッサカルは信じられない顔で「なんだと?」と呟いた。エリフは鋭い目をアレフ=シンに注いでいる。勅状の内容がまるで信じられないのは彼も一緒だった。シンはメガネを直して続けた。「二、先に私が下した命令の内、一の事項に反するものは、公的なものであれ、私的なものであれ、今後はすべて無効とする。以上。ヨベル周期の二十一、二の年五月二十五日、玉座の僕たるツァデク」彼は読み終えたパピルスを高く掲げた。レビの女、イゼベルが脇からカンテラをかざした。その光に、三対の翼を象った金印が映えた。大長老の承認を示す印だ。近衛兵や塔の住人からどよめきが起きた。彼らはいつのまにかシンの回りに集まってきていた。両腕を高く持ちあげている彼の後ろで、レーシュは内心冷汗を流していた。確かに金印は本物だが、でっちあげがばれるのは時間の問題だ。だが、さっきレーシュがその懸念を告げると、シンは彼をぎろりと見て「日暮れまでもてばよい」と言ったのだ。「それまでに、宇宙は終わる」と。
「おい」と、エリフはイッサカルに小声で言った。イッサカルは目を剥いて罵った。「馴れ馴れしく話しかけるな、裏切り者!」エリフは構わずに言った。「君は部下と共に神殿に戻ったほうがよい。恐らく大長老の身辺に異変が起きている」イッサカルははっとして、エリフの細い目を見つめた。そこからはなんの感情も読みとれない。イッサカルは訝しげに尋ねた。「おまえは誰の味方なのだ」するとエリフは答えた。「誰の味方でもない。嘘が嫌いなだけだ」
 アレフ=シンは、塔の露台に立つユッドと向かい合っていた。シンはユッドの手元で光っている四角い箱を見つめて言った。「長い回り道だった」ユッドはシンを睨みつけて言った。「勝手なことを言うな!」かつてシンに抱いていた畏れの気持は、微塵も残っていなかった。「おまえはこれを一度手放したんだろう。今さらなにをたくらんでいる!」ユッドは目の前の小さな老人を、この場でひねり潰してやりたいとすら思った。すべてはこの男のせいなのだ。この男が自分から翼と平穏な生活を奪い去ったのだ。カエルは隣で、憎しみに燃えるユッドの横顔を心配げに見ている。周囲では人払いがされていたが、ユッドが強く主張したので、彼女だけはその場に残ったのだ。シンが聞き返した。「おまえはどうしたいのだ」見あげるほどの巨漢に育った自分の分身に、臆する様子がまったくない。それがユッドの苛立ちを強めた。「おまえに話す義理はない。俺を放っておいてくれ!」彼が吐き捨てるように言うと、シンは平然と言った。「そうか。だがおまえもホクマー(智慧)の書庫を目指しておるのだろう。わしはそのための協力は惜しまんぞ」「おまえ…」ユッドは愕然となった。突然、シンがなにを目論んでいるのかを悟ったのだ。答えを導いたのは理屈ではなく直感だったが、その恐るべき結論は動かしようもなかった。ユッドの背中を戦慄と怒りが駆けのぼった。彼は目を剥いて叫んだ。「おまえは宇宙の破壊を目指しているんだろう。そうはさせんぞ!」するとシンはしれっとした顔で言った。「どうしてそう思うのだ」ユッドはぎりぎりと歯を噛みながら言った。「おまえがいつも並べている小理屈が証拠だ。この人でなし!」するとシンは低い声で言った。「違うな。おまえはわかっているのだ。わしと同じ血を分け持っているのだからな」彼はメガネの底から、ねめつけるような目でユッドを見た。「条件次第では、おまえもわしと同じ結論に達するだろう。それがわかっているから、おまえはなおさら苛立っておるのだ」ユッドは身を震わせて叫んだ。「俺はおまえとは違う!」シンは肩をすくめて「もちろんだ」と言った。「だがユッドよ、少なくとも書庫の入口にたどり着くまでは、互いの利益は一致するはずだ。それに書庫に入れるのはおまえひとりだ。わしにどんな意図があれ、最終決定権はおまえにある」シンは彼らを遠巻きにしているケルビムを見やった。カンテラをさげた天使たちは塔をとり囲むようにして空中に止まり、ゆっくりと上下に揺れ動いている。じっとこちらを見つめている何百もの顔は、どれも不安に満ちていた。「ひとまずこの場は収めたが、情勢は極めて不安定なのだぞ」シンはそう言って、手にした巻き紙をユッドに差しだした。「これは真っ赤な偽物だ。アリクは第三のトーラーが書庫に納められることを望んでおらぬ。シェビラー(器の破壊)が世界を襲っても、この町だけはなんとか切り抜けられると踏んでおるのだ。彼女の力は削いだが、それでも同調する勢力は残っている。おまえがわしの助けなしに至聖所にたどり着くのは無理だ」ユッドは頭を抱えてうずくまった。彼は南の塔にのぼり始める前、鐘を鳴らして近衛兵らを牽制しようと考えた。彼らが隠密裏にことを運びたがっているなら裏をかいてやれと思ったのだが、それ以上の計略があったわけではない。そして今や、彼の目論見は見事に当たった。大成功だ。だが、こんな形での成功は望んでいなかった。断じて!
 すると今までずっと黙っていたカエルが言った。「アレフ=シン、だったらせめて、私たちがユッドの部屋に着くまでは放っておいてほしいわ」シンはカエルをじっと見て尋ねた「それはどうしてだね?アレフ=アイン」カエルは低い声で「その名前で呼ぶのはやめてちょうだい」と言った。ユッドがうずくまったまま言った。「そうだ、俺の部屋に着くまでは、俺たち二人だけにしておいてくれ。それが条件だ」シンは塔を見あげて言った。「だが、翼なしでここをのぼるのは大変ではないのか。落下の危険もある。なぜ敢えてそうしようと言うのだ。助けを何人か呼べば、楽にあがれるぞ」ユッドは首を横に振った。「いや、おまえの助けは借りない。どうしても俺につきまとうと言うなら、今すぐここから引き返して、聖櫃を海に捨てるぞ」シンは諦めたように言った。「わかった、おまえの好きなようにするがよい。だがなぜなのだ?」ユッドは答えた。「おまえになんて、絶対わかるもんか!」
 再び塔をのぼり始める前に、ユッドはエリフとゲルションを呼んだ。彼は並んで空中に止まっている二人のレビに礼を言った後、「できれば、上の部屋で待っててくれるとうれしいな」と言った。エリフは素っ気なく「考えておこう」と言った。ゲルションは「その前にへたるなよ」と言うと「まったくもの好きな…」とぶつぶつ言いながら、寡黙な友人と共に去っていった。
 シンの力は絶大だった。彼のひと声で、塔の回りからケルビムの姿が消えた。夜はたちまち静けさをとり戻した。だがユッドは感じていた。あちこちの暗がりや、灯を消した窓の奥で、たくさんの天使が息を潜め、ことの成りゆきを見守っているのだ。「さあ、行きましょ」カエルがユッドの背を叩いて言った。彼の一投目は露台を外した。二投目は勢いが強すぎ、鉤はガチンと跳ね返って下に落ちた。三投目がようやく巻きついた。それまで黙っていたカエルが言った。「ユッド、集中しないと駄目よ」ユッドは険しい顔で言った。「ああ」彼の目の奥には、シンへの憎しみの心が燠火のように残っていた。彼はその気持を振り捨てられずにいたのだ。カエルはカエルで、なんとも言いようのない居心地悪さを感じていた。無理もない。彼女はケルビム千年の歴史の中で、親子喧嘩(の、ようなもの)を目撃した唯一の者なのだから。
 だが、体を動かすことが、じきに二人をいつもの二人に戻した。ひんやりした大気が、ユッドとカエルの吐く息を優しく受けいれ、汗が滲む肌をそっと撫でた。彼らは塔の壁を、緩やかな螺旋を描きながら、ゆっくりとのぼっていった。50段目に差しかかったあたりで、聖山の上がほんのり明るくなってきた。天頂ではまだ沢山の星が瞬き、その中を、黒々とした塔がどこまでも上に伸びていた。ユッドは前を黙々と進むカエルの背中を見てため息をついた。彼女はこんな苦行を何年も、たったひとりで続けてきたのだ。
 カエルは縄をたぐり、たゆまぬリズムで体を持ちあげながら、(こんなに幸せでいいのかしら)と思っていた。彼女は後ろを振り返る。塔の壁が、何百アンマもの高さで、下界の薄闇から突き立っている。手前には一心不乱に綱を伝っているユッドがいた。今までカエルがひとりぼっちで辿っていた道を、彼が一緒にのぼっているのだ。えも言われぬ喜びがカエルを包んだ。(私はだめね)カエルは秘かに笑った。(宇宙がなくなったって、もういいやって思ってしまっている)
 100段目を過ぎると、ユッドの動きが急に鈍ってきた。彼は荒い息をしながら、狭い露台に並んで立っているカエルに言った。「なあ、ひと休みしないか」するとカエルは言った。「だめだめ。ここで休むと、もう体が動かなくなるわ。私は何度も経験してるもの」すると横から声がかかった。「うるさいぞ!今何時だと思っている!」木戸の横の窓から、男のケルブが顔を突きだしていた。二人と男の目が合った。すると寝ぼけ眼だった男の目がぎょっと開いた。大耳のギー=メムは心臓が止まるほど驚いた。戸口に二匹の化けものがいる!片方のカエルには見覚えがあった。だがその連れ合いたるや、背こそカエルより少し低かったが、真っ黒に日焼けした肌の下に岩のような筋肉をつけた大男で、ぼうぼうに伸びた髪の毛の間から、ぎろりと光る目でこちらを見ているのだ。「ヒェッ!」ギー=メムは短い悲鳴をあげて引っこんだ。鎧戸がバタンととじられた。呆然としているユッドにカエルが言った。「ほら、こういうこともあるのよ」彼女はこんな視線を数限りなく浴びてきた。そのたびに、どれだけ傷つけられてきたことか。カエルは次の露台に向けて、ポーンと鉤を投げあげながら思った。(ユッドと一緒ならへっちゃらだわ)だがユッドはショックから中々立ち直れなかった。大耳のメムとは顔見知りだったのだ。
 ユッドにとって、永遠に思われる時間が過ぎた。メルカーバーと星々が次々に姿を消し、空の色は黒から藍色へと、そして洗いざらしたような青色へと変わっていった。それと一緒にユッドの身は不思議と軽くなってきた。一時は、一段一段をのぼるのに、死ぬほどの意志の力が必要だった。だが今や、ユッドの腕と脚は、彼の心を放っておいて、勝手に同じ動作を繰り返していた。ユッドは眼下の景色を振り返り、静かな驚きに打たれた。ぶらぶらと揺れている彼の足のはるか下に、ケルビムの町が広がっている。一年前まで飽きるほど見てきた眺めだ。だがユッドは、朝靄の中で、濃淡のある影となって林立している塔の群れに目をやりながら、(俺はこれまでなにを見てきたのだろう)と訝った。それは、生まれて初めて見る景色に思えた。今というこの時に、この場所で、ユッドというただひとつの存在に与えられた、ただひとつの眺めなのだ。町を形づくるあらゆる細部が、澄んだ鏡のようになったユッドの心に入りこんできた。踊るように身をくねらせている尖塔のシルエットのひとつひとつ、あちこちに張りだした空中庭園で、かすかな風にそよいでいる木々の枝の一本一本、夜明けの空気のひと粒ひと粒までもが、くっきりと目に焼きついた。カエルの特訓が始まった日に、高く張り渡された横木の上で感じた感覚に似ている。だがその時と違い、ユッドの心は重力の(くびき)を絶えず意識しながら、同時に羽毛のように軽くなっていた。天と地を貫く垂直の軸が、魂の中に揺るぎなく根をおろしているのを彼は感じた。(たぶん)とユッドは考えた。(もし俺が翼を持ったままだったなら、この光景を見ることは一生なかっただろう)事情が許せば、ユッドは眼下に広がる町並みをいつまでも眺めていただろう。だが彼の心は、いわく言いがたい力に捕らわれていた。生地に針と糸を通してゆく時の、こんこんと湧きでる泉のような情熱に、それはよく似ていた。だが今は、針と糸はユッド自身の体であり、彼が縫い合わせているのはフェルトとジュートではなく、頭上の大空と足元の大地なのだった。
 やがて、行く手にユッドの部屋が見えてきた。他と変わらない彼の部屋がそれとわかるのは、窓から真っ赤な光が漏れていたからだ。腰の籠の中で、聖櫃の青い光が強くなっていた。するとユッドの心が妙にざわついてきた。どこからか、かすかなささやきが聞こえてくる。ユッドは耳を澄ますが、なにを言っているかはわからない。「カエル、なにか聞こえるかい?」ユッドが前をゆくカエルに尋ねると、彼女は怪訝な顔で振り向いた。「いいえ、なにも聞こえないけど」
 カエルとユッドが赤い光の洩れる窓のすぐ下にたどり着くと、斜め上の戸口から、何人もの天使が飛びだしてきた。そこはベー=レーシュの部屋だ。出てきたのはアレフ=シンとレーシュ、赤毛のユッドだった。そして空のあちこちから、白や黒の勤め着をつけたレビたちが集まってきた。シンに同調している勢力だろう。エリフやゲルションの姿も見える。アレフ=シンが、ユッドの前に飛んできて言った。「もうわしらは部屋の中に入れない。石に近寄ると、中に引きずりこまれそうになるのだ」ユッドは不機嫌な顔で聞いた。「太っちょは?」シンは首を振り「わからぬ。外から見た限りでは、以前と変わらぬようだが」と言った。するとバサバサと羽音がして、シンとユッドの間にひとりのケルブが割りこんできた。ユッドはぎょっとなった。涙で顔をぐしゃぐしゃにしてユッドを睨みつけているのはラメッドだったのだ。彼女は大声でまくしたてた。「やっぱりあんたなのね!ユッドをどうかしちゃったのは!」彼女の言うユッドが太っちょのことだとユッドにわかるのに、少し時間がかかった。ラメッドはわめいた。「返してよ!わたしのユッドを返してよ!」ユッドは泣き叫んでいるラメッドをまじまじと見ながら、(彼女はこんなに華奢だったろうか)と思った。巻き毛になった金髪も、涙に濡れた薔薇色の頬も、震える細い肩も、まるで頑是ない子供のようだった。かつて彼女に寄せていた気持が遠い谺のように蘇ってきた。だが彼が今抱きしめたら、ラメッドは粉々に壊れてしまいそうだ。彼女は巨漢になったユッドに向かって「なんとか言ったらどうなのよ!この悪魔!」と叫んだ。するとカエルが「ちょっとあんた、いい加減にして!」と言いながら、ユッドを押しのけて前に出ようとした。ユッドはラメッドに掴みかかろうとするカエルを押し止めると、小さな天使に向き直って言った。「ラメッド、太っちょを巻きこんでしまってすまない」ラメッドは涙の滲む瞳を震わせながら、ユッドを睨みつけていた。彼は「太っちょは必ず連れ戻す。ちょっと待っていてくれ」と言って頭をさげた。ラメッドは震える声で言った。「絶対よ!約束して!」だがユッドになにか目算があったわけではない。言葉が思わず口を突いてでたのだ。「ああ、約束するよ」と答えながら、ユッドは深い悲しみに沈んでいた。ラメッドからむきだしの敵意を向けられたことが悲しいのではない。彼は眉間に深い皺を寄せながら、(幸せというものは、なんてもろいのだろう)と思った。後ろのカエルが小声で罵った。「いいケルブ(ひと)ぶって!馬鹿じゃないの!」
 その時、ユッドの腰の籠がガタガタと震えだした。隙間から洩れている光は正視できないほどまぶしい。籠の中から声が聞こえた。
――上なるものは、下なるもののごとし。
 それは、幾千万の声が一緒になったような声だった。すると地獄の業火のような光を放っている窓の中から、地鳴りのような声が答えた。
――下なるものは、上なるもののごとし。
 沢山の悲鳴が響いた。ユッドがはっとして回りを見ると、ラメッドもアレフ=シンも、他のケルビムたちも、皆、頭を押さえてもがき苦しんでいた。「どういうこと?」とカエルが言った。彼女とユッドだけが苦痛を免れていたのだ。するとアレフ=シンが苦しげに言った。「翼だ。わしらの頭には、声が増幅されて聞こえるのだ」ユッドは恐ろしい予感に襲われて叫んだ。「逃げろ、皆、逃げるんだ!」彼は近くにいたゲルションに叫んだ。「この子を頼む!」ゲルションは苦痛に顔を歪めながら、うめき声をあげているラメッドの肩を掴んだ。そして彼女を抱いて空に駆けあがった。聖櫃と窓の中から響く声は、ユッドの耳を聾せんばかりになった。
――上なるものは、下なるもののごとし。
――下なるものは、上なるもののごとし。
 アレフ=シンが大声で叫んだ。「退避!退避!」天使たちは塔の回りから我がちに逃げだした。それを見送るカエルはきょとんとしてた。彼女には声が聞こえなかったのだ。「うわ!」隣でユッドの悲鳴が響いた。カエルがあわてて振り向くと、窓から巨大な手がにゅっと伸びてユッドの体を掴んでいた。その手は真っ赤に光る炎でできていた。「カエル!」ユッドは叫びながらもがいたが、炎の手は、ユッドを掴んだまま窓の中に引っこもうとした。カエルは差しだされたユッドの手を掴んだ。すると巨大な手はカエルもろとも、ユッドをスポンと窓の中に引き入れてしまった。カエルは咄嗟に窓枠に鉤を引っかけた。腰にガクンと衝撃が走って体が止まったが、恐ろしい力がユッドの体を掴み、彼女の手からもぎ取ろうとした。部屋の中には灼熱した溶岩のような光が満ち、なにがなにやらわからない。するとユッドが言った。「カエル、俺の手を離さないでくれ。これから太っちょを助けに行く」彼の顔はカエルのすぐ目の前にあるはずなのに、渦巻く光に邪魔されて見えない。ユッドの体はなおも、もの凄い力で部屋の奥へと引っ張られていた。カエルはわけがわからないまま両手でユッドの右手を握り、手放すまいと歯を喰いしばった。

 ユッドは渦巻く炎のトンネルの中を、どこまでも落ちていった。すると回りで吹き荒れていた炎がふいに消えた。次の瞬間、彼は広大無辺の闇のまっただ中にいた。ユッドは(ここには何度か来たことがある)と思った。ある夜に見た夢の続きを、別の夜に見るような心地だ。彼は頭上を見た。自分の右腕が飴細工のように引き延ばされ、糸のように細くなって、遥か彼方の天頂に向かって伸びている。その先で、彼は確かにカエルの手のぬくもりを感じていた。下を見ると、暗い大地がどこまでも広がっていた。赤い光を放つ亀裂が無数に走っている。と、大地にどよめきが起き、ひび割れだらけの地面がぼこぼこと隆起を始めた。岩の瘤の群れは、よじれながら上に伸びあがり、手足を生やして、恐ろしい怪物たちに姿を変えた。果てしなく続く大地一杯に刺だらけの体を持つ怪獣がひしめき、どしんどしんと踏み降ろされる爪の下から、地獄の炎のような赤い光が漏れだしている。すると近くでどら声が聞こえた。「上なるものは下なるもののごとし!下なるものは上なるもののごとし!」ユッドの眼下にひとりのケルブの姿が見えた。彼は地表近くを飛びながら、自棄になって怒鳴っていた。「上なるものは下なるもののごとし!下なるものは上なるもののごとし!…畜生!」太っちょだった。ユッドは彼に向かって急降下した。「おい!」ユッドが声をかけると、太っちょが振り向いた。その顔に安堵が広がった。「遅いぞ!」そう叫んだ太っちょの姿はやけに小さい。ユッドの腰にも届かないのだ。彼はユッドを見あげて言った。「それにしてもおまえ、なんて格好をしているんだ」ユッドは自分の体を見回して驚いた。青白く輝く肌は丸裸で、背中には大きな翼が三対も生えているのだ。だが、最大の驚きは別にあった。太っちょが妙に冷静なのだ。「おまえ、ずいぶん落ち着いているじゃないか」とユッドが言うと、太っちょは下を指さして言った。「あんなものを見せられちゃ、大概のことには驚かなくなるさ」
 ユッドらの眼下で、身の毛もよだつような叫びがわきあがった。無数の怪物たちは、隣り合う相手と激しく争い、互いに喰い合っているように見えた。やがて化けものどもの姿がぼやけてゆき、逆に彼らの間から洩れていた赤い光がくっきりと見えだした。それらは脈打ち、伸び縮みし、絶え間なく形を変えながら、地平線の端から端まで、列をなして並んでいた。すると頭上で声がした。
――上なるものは、下なるもののごとし。
 見あげると、天頂に強烈な光を放つ星が一個現れていた。ユッドの右腕はそこに向かって伸びている。星はあたりに稲妻のような電光を振りまいていた。すると地の底から声が響いた。
――下なるものは、上なるもののごとし。
 ユッドが地面に目をやると、眼下で脈動している無数の赤い光が、次第に定まった形をとってきた。まだはっきりしないが、それぞれがなにかの文字のように見えてきたのだ。星と大地は恐ろしい声で呼びかけ合った。
――上なるものは、下なるもののごとし。
――下なるものは、上なるもののごとし。
 太っちょが言った。「さっきからずっとこの調子なんだが、そろそろまずい感じがしないか?」ユッドは頷いて言った。「ああ、もう戻ろう」彼は小さな太っちょの腕をつかみ、上に向かって叫んだ。「カエル!引っ張ってくれ!」すると右腕がぐんと上に持ちあがった。ユッドは六枚の翼を羽ばたかせ、白熱する光を放つ星目がけて、真っ暗な空を駆けあがった。太っちょは下を振り返って見た。遠ざかってゆく大地は、赤い文字が輝く、ひとつながりの書物のように見えた。やがて天頂の星が間近に迫った。星は絶えず雷光を放ち、周囲の闇に亀裂を走らせた。輝く裂け目はどんどん広がっている。ユッドはその光景がかつて見た夢そっくりなのに驚いた。ぱらぱらと落ちて行く闇の欠片は、どれも神聖文字の形をしているのだ。引っ張られている太っちょは、眼前に広がる恐ろしい光に身をすくませたが、ユッドは迷わず中に突っこんでいった。そして、右腕がぐんぐん引っ張られるままに、前後左右をとり囲む白熱した光の中を進んだ。するとガンと頭に衝撃が走り、あたりが真っ暗になった。

 ユッドが気がつくと、彼は藁くずだらけの床に横たわっていた。彼はそろそろと身を起こした。すると窓から射しこむ朝日が目につき刺さった。彼は顔をしかめて太陽から顔を背け、あたりをゆっくりと見回した。一年ぶりの自分の部屋だ。さっきまで満ちていた赤い光は消え失せている。それにしても、以前より随分狭くなったように見える。天井が低くて首につっかえそうだ。自分の体が大きくなったせいだと気がつくのにしばらく時間がかかった。少し離れた床に太っちょが横たわり、窓際ではカエルがぐったりと壁にもたれかかっていた。すると太っちょがもぞもぞと動きだした。カエルも頭を振り振り起きあがった。彼女はユッドの左手を指さして言った。「それ…」ユッドが見ると、拳が丸みを帯びた石を握りしめていた。シェキナーの石だ。表面に無数の小さな白い光が輝いている。まるで夜空の星を全部集め、石の上に散りばめたようだった。エリフから聞いた禍々しい様子はまったくない。逆にユッドは、この美しい石をいつまでも眺めていたくなった。太っちょが身を起こし、ユッドを見て言った。「おまえ、ずいぶん縮まっちまったな」カエルははてと首を傾げ、(それ、逆じゃない?)と思った。彼女と太っちょはユッドのそばに寄ってゆき、彼と一緒に輝く石を凝視した。「で、これはなんなんだ?」と太っちょが聞くと、ユッドは「これが第三のトーラーらしい」と答えた。太っちょは「ふへー」と気の抜けたような声をあげ、床に仰向けに寝転がった。彼は大の字になって言った。「俺はもうついていけねえや」ユッドは笑って言った。「俺もさ」
 その時「ユッド!」と声が響き、戸口からラメッドが飛びこんできた。太っちょが身を起こして「よう、ラメッド」と言うと、ラメッドは無言で彼の首にかじりついた。そして激しく泣きだした。カエルは傍らのユッドの顔をそっと盗み見た。彼は目をつぶっていたが、口元には微笑があった。やがてユッドは目を開き、カエルに向かって笑いかけた。そして黙ってカエルの肩を抱き寄せた。カエルはユッドの胸に顔を埋めた。
 その時、外で叫び声がいくつもあがった。「なんだあれは!」「夷狄(いてき)だ!」「夷狄が現れたぞ!」

 サペルは眼下に広がる町並みを驚きの目で見おろしていた。世の荒波に揉まれ、若くして大抵のことには驚かなくなっていたサペルだったが、大地から生えでたような巨大な石の建造物が、朝日を浴びて、空につき刺さるように林立しているさまは、彼の目を奪うに十分だった。船を出発する時、あたりはうだるような常夏の熱気に包まれていたのに、今は高原の春のような大気が頬を撫でている。ここは別世界なのだ。すると、隣に立つゴダムが言った。「高度750メートル、南南東の風、風速毎秒8メートル、と」サペルはたちまち現実に引き戻され、不機嫌な顔になった。分厚いゴーグルをつけたゴダムは、くるくる回る風速計から目を離し、小さな卓に広げられた地図に印をつけた。この老人は眼下の景色には思いの他無関心で、自らの手になる飛行船の操作に余念がなかった。彼は助手の肩越しに機器のメーターを覗きこむと、次いでゴンドラの後尾に向い、そこから突きだしている尾翼の舵を取った。彼は「取舵30度!」と上機嫌で叫ぶと、サペルの隣に戻ってきた。彼はゴダムに疑わしげな目で聞いた。「おい博士、大丈夫なのかよ」ゴダムが「今のところ航行に問題はないぞ。上々じゃ」と鼻歌混じりに答えると、サペルは苛立たしげに言った。「俺が聞きたいのはそっちじゃない。こんな明るい中、本当に見つからずに神殿にたどりつけるのかって聞いているのさ」ゴダムはあっさりと「大丈夫じゃ」と答えた。「おまえがあの娘から聞いた話を総合すれば、今日は彼らの安息日に当たるはずじゃ。安息日には天使は外を出歩かぬはずだからの」サペルはため息をついた。この老人とは互いに気心が知れた間柄だが、肝心な所で話が噛み合わない。所詮は机上の理屈で生きているだけの男なのだ。
 そもそもは夜中の内に島に侵入し、闇にまぎれて神殿に忍びこむ計画だった。だが飛行船の準備に手間どり、結局夜明けに離陸するはめになった。夜空にまぎれるためにわざわざ風船を黒く塗ったのに、陽の下ではまるっきり逆効果だ。だが出発を今晩に延ばすわけにもいかなかった。同盟国の連合艦隊は、あと数時間の内に総攻撃を開始する予定だったのだ。小舟のようなゴンドラを吊るした黒い風船は、すっかり明るくなった空のもと、東ペリ王国に属する蒸気船からふわりと舞いあがった。そして、島の周囲を覆う不可視のベールを抜けた。この不思議な遮蔽幕の手前に来ると、いつも妙な胸騒ぎが起き、引き返したくて仕方がなくなるのだが、それは意志の力でどうにかなる程度のものだ。サペルとゴダムは慣れっこだったし、助手を務めている言葉を失った若者(サペルは彼をイーグと呼んでいた。小さい頃飼っていたイヌの名だ)は、なぜかなにも感じていない様子だった。だが、天使の町を守る第二の遮蔽幕は勝手が違った。風船が島を囲む断崖の上を越えようとした時、サペルとゴダムは空の上から響く不気味な笑い声を聞いた。彼らが見あげると、晴れ渡っていたはずの空は真っ黒な雲に覆われており、そこから無数の雷が生じていた。分厚い雲がさっと分かれたかと思うと、巨大な目玉が覗いた。恐ろしい高笑いはそこから聞こえていたのだ。ゴダムが叫んだ。「これは精神攻撃じゃ!やりすごせばどうということはないわ!」サペルは月より大きなひとつ目をこわごわと見あげながら言った。「本当かよ!」イーグはどこ吹く風で機器を操作していた。間もなくゴダムが言ったことが的中した。空は突然再び晴れ渡った。火山の頂きから朝日が顔を出した。すると彼らの眼下に、輝くような建物の群れが現れた。島の外からは生い茂る密林にしか見えなかったのに、奇妙だが優美なシルエットを持つ塔や、石造りの荘厳な城館が、数キロ四方の台地に密集してそびえていたのだ。
 風船は、南西側から天使の町の上空に侵入し、東にそびえる火山に向かってまっすぐ進んでいた。町の東西南北の外れには、それぞれ、ひときわ高い塔がそびえている。サペルのすぐ右手には、南側の塔がにょっきりと伸びあがっていた。その天辺は風船の高度とほとんど変わらない。町が乗っかっている台地の分を差し引いても、塔の高さは500メートルを下らない計算だ。(こんな代物は、この地上では他にお目にかかれんな)と思い、サペルは目を凝らした。土産話だけでも、金と出世の種になりそうだった。すると塔の回りで小鳥が沢山飛んでいるのが見えた。(おや?)と思い、サペルは眉をひそめた。塔のスケールが大きすぎて遠近感がおかしくなっているのだ。鳥たちは決して小さくはなかった。それに、よく見ると服を着ていた。彼らはこちらを見て、なにやら盛んに言い交わしていた。「おい!」サペルはあわてて叫んだ。「見つかっちまったぞ!」するとゴダムがゴンドラから身を乗りだし、ゴーグルの端についたダイヤルを回しながら叫んだ。「おお、本当に羽が生えておるわい。聞くと見るじゃ、大違いじゃの!」

 ユッドとカエル、そして太っちょとラメッドは、窓と木戸から身を乗りだし、上空を漂っている黒い球体を見あげていた。外ではレビらが剣を抜き、招かざる客に警戒の目を注いでいた。「第三のトーラーに夷狄かよ。なんて世の中だ」太っちょはため息をつくと、木戸から空を見あげているユッドに向かって言った。「おい英雄。俺たち一般市民はそろそろ退場するぜ」見返すユッドに太っちょは言った。「でもその石をもうひと目見せてくれ。ラメッドにも見せてやりたい」ユッドは左手に握った石を差しだした。太っちょとラメッドは頬を寄せ合い、星の塊のような石を見た。ラメッドが言った。「きれい…」ユッドが渦を巻いているラメッドの金髪をぼーっと見おろしていると、その肩をカエルが突っついた。ユッドは意味ありげに見つめてくるカエルから目をそらすと、籠の中から聖櫃を取りだした。光の色が青から白に変わっている。真っ黒な箱の回りを、日食の太陽が放つような後光がとり巻いているのだ。彼は皆が見つめる中、箱をぱかりと開いた。四人は同時に「おお!」と声をあげた。聖櫃の窪みにも、満天の星を散りばめたような光がきらめいていたのだ。ユッドはシェキナーの石を、箱の窪みにそっと置いた。すると石全体が白くふわっと光り、そこからささやくような声が聞こえた。
――下なるものは、上なるもののごとし。
 すると聖櫃の上半分の窪みが白く光り、また小さな声が聞こえた。
――上なるものは、下なるもののごとし。
 聖櫃がひとりでにパタンと閉った。そして聞こえるか聞こえないかのささやき声があった。
――今、大いなる円環はとじなんとす。
 箱を包んでいた後光が、風に吹かれたように揺らめいたかと思うと、ふわっと消えた。聖櫃は真っ黒な箱に戻った。朝日に当たってるというのに、その表面は夜よりもなお暗かった。ユッドは試しに蓋をあけようとしたが、一度とじた聖櫃は、二度と開くことはなかった。
「さて」と太っちょが言った。「今日は安息日だろ。俺とラメッドは部屋で最後の審判を待つさ」ユッドの心は揺れた。自分はこれからメータトローンを殺しにゆくのだ。その後、町がどうなってしまうのかは想像もできない。彼はぎゅっと目をつぶった。(俺は友だちの幸せを奪おうとしているのだ)すると太っちょがユッドの腕をぽんぽんと叩いた。彼は訳知り顔で言った。「ま、あんまり深刻に思いつめるなよ。たかが世界だ」ユッドは思わず笑ってしまった。いつもの太っちょだ。ユッドは聖櫃を入れていた籠をがさごそと探り、中から二足の鞜を取りだした。彼は赤と紺の鞜を太っちょとラメッドに差しだして言った。「これ、渡そうと思ってずっと渡せなかったんだ。よかったら受けとってくれ」するとラメッドの目に涙が溢れてきた。彼女は泣きじゃくりながらユッドにすがりついた。「ごめんね、ユッド、ごめんね…」
 ラメッドと太っちょは朝日の中に飛び立ち、三日月館へと帰っていった。ユッドが戸口の外に立ち、上を見ると、抜けるような青空を背に黒い球体が浮かび、回りを何十人ものレビがとり囲んでいた。楕円形をした風船はレビたちに導かれ、塔の屋上に着陸しようとしていた。ちょうどエリフとゲルションがおりてきた。ユッドは二人に尋ねた。「なにが起きているんだい?」するとゲルションが言った。「空から夷狄がやってきたのだ。えらく風変わりな三人組でな。皆翼がない。ひとりは恐ろしく背が高い蛇のような男だ。ひとりは老人だが奇妙奇天烈ななりをしておる。もうひとりは見たことのないような肌の色をしておってな」ユッドとカエルは顔を見合わせた。十分思い当たるふしがあったのだ。エリフが言った。「あの者らは武装らしい武装もしていないようだ。これからアレフ=シンが、尋問の上、処遇を決めるそうだ」ユッドは二人のレビに言った。「ごめん、俺たちを上に運んでくれないか」ゲルションとエリフはあたりを見回した。ここから塔の天辺までは100アンマ以上ある。二人の巨人を運びあげるには、彼らだけでは力が足りないのだ。すると黒衣のレビがひとり近寄ってきた。「拙者でよければ、お手伝い申そう」しゃちほこばった物言いをした近衛兵はイサークだ。四人が呆れ顔で見つめる中、彼は頭の瘤を押さえながら、恐縮した顔で言った。「いや、なにやら誤解があったようでな。失礼の段あらば、お詫びを申しあげたい」

 ゴダムがイーグと共に風船を操り、塔の天辺にゴンドラを着陸させると、途端に剣を抜いた天使たちが回りをとり囲んだ。サペルは子供のような背丈の天使たちが、皆若い顔をしているのに驚いた。まだ二十歳にもなっていないようだ。彼はカエルから聞いた話を思いだした。天使たちはある年に一斉に生まれ、ひとつの世代をなすのだ。するとゴンドラを無言でとり巻いていた天使の群れが二つに割れ、向うから従者を引き連れた高官らしい男が近寄ってきた。彼だけはゴダムと同じくらいに老けている。禿げ頭の老人は、ゴンドラのすぐ手前までやってくると、中の三人を睨み回しながら、古代の言葉で言った。「私はベレーシート(創世記)二十二章八節の初子なるシンと申す者。この地を統べる大長老の代理を務めておる。異国の客よ。貴殿らの素性と、この地に寄港した理由を述べられたい」するとゴダムがゴーグルをあげ、禿げた額をさらすと、流暢な古代語で返した。「不躾な訪問にも関わらず、ご丁寧な挨拶を頂き痛み入る。私はリリップ・ゴダム博士と申す者。西半球同盟諸国の特命大使として、神の恵み深きこの地に参った。後ろに控えるは外交補佐官タンギット・サペルとその従者である。あなた方の代表者にお目通りを願いたい」
 もちろん、名前以外は全部出鱈目だ。着陸直前にサペルがゴダムに耳打ちして、急遽ひと芝居打つことにしたのだ。学者先生は交渉役としては心もとないが、表向きの風格と古代語の正確な発音にかけては申し分なかった。一方アレフ=シンは、不意の客を早く追い散らすことしか考えていなかった。宇宙が新しいシュミッター(宇宙期)を迎えようという今、そこらの野蛮人がなにをたくらもうが知ったことではない。だが、ここで夷狄を一蹴できれば、彼の権威は一層高まり、これからの仕事がしやすくなるはずだった。彼はゴンドラの中のゴダムを睨みつけ、居丈高に言った。「ただ今申しあげた通り、私がその代表者である。ご用件があらば、この場にて承りたい」嘘と嘘のぶつかり合いだが、地の利はシンにあった。ゴダムは進退窮まってサペルに振り向きかけた。だが彼は博士の背中を突ついて止めた。ここは引いてはならぬ。ゴダムは咳払いをして言った。「私は西半球同盟の諸王が連名でしたためた親書を持って参じたのだ。大長老にお目通りの上、直接お渡ししたい」もちろん、そんな物はどこにもないのだ。するとシンは意地悪く言った。「卓越せるツァデク様は今、病床にあり、誰にも目通りは叶わぬ。私にその親書をお預け頂ければ、大長老の健康が回復次第、必ずお渡ししよう」ゴダムはぐぬぬと歯を噛んで言った「だが、それでは私の使命が果たせぬ。せめて大長老がおわす場に参り、外からなりともご挨拶申しあげたい」シンは目の前の老人を与しやすい相手だと踏み、更に居丈高になって言った。「いや、貴殿の立場は私の関知するところではない。私に親書をお渡し頂けないのであれば、直ちにお帰り願おう」ゴダムはとうとう癇癪を起こした。彼は両手を振り回して叫んだ。「だが、島の周辺には同盟諸国の軍艦が集結し、号令が下るのを今や遅しと待っておるのだ!貴殿の対応如何では、今日明日にでも総攻撃が始まり、この町は灰燼と帰すのですぞ!」天使たちの間にどよめきが起こった。サペルは頭を抱えた。(ここで喧嘩を売ってどうする)アレフ=シンがせせら笑った。「地金が出たな。野蛮人よ」彼は高らかに宣言した。「そなたの王らに告げるがよい!我らケルビムは一歩も引かぬ!我らを攻めるというなら勝手に攻めてこいとな!」すると後ろで声がした。「おーい、サペル!」
 皆が振り向いた。すると屋上の縁に、羽ばたくレビたちに支えられた男女の巨人が現れた。聖櫃保持者ベー=ユッドと、カエルと呼ばれる翼なき者だ。二人は屋上の床にふわりとおり立ち、彼らを運んできた天使たちに礼を言うと、風船に向かって歩いてきた。サペルはゴンドラから身を乗りだし、口をあんぐりあけた。天使クンが生きていた!それもひと回り大きくなっているのだ。今や彼は、ちょっと小柄な普通の人間に見えた。ユッドとカエルは天使の群れの中にずかずかと分け入り、ゴンドラの前に立った。ユッドは目を丸くしているサペルに言った。「久しぶりだね」サペルが「おまえ、よく生き残れたナ」と呆れ顔で言うと、その後ろから浅黒い顔がひょいと顔を出した。「君は…」今度はユッドが驚く番だった。彼は沈没してゆく外輪船の中で、ユッドが二番目に解放した奴隷だった。彼はその時ユッドから鍵を受けとり、他の奴隷を解放するために命を賭けたのだ。ユッドはそれをよく覚えていた。若者の目が潤んだ。彼はゴンドラの扉をバタンとあけるとユッドに駆け寄った。「よく来た、よく来たな!」ユッドが叫んだ。二人はがっしりと抱き合った。その時アレフ=シンの甲高い声が響いた。「ベー=ユッドよ!」ユッドが振り向くと、怒り心頭のシンと目が合った。彼はせっかくこの場がうまく収まりそうだった矢先に、意味不明な寸劇が始まって激怒していた。「この者らは、おまえの知り合いなのか!」その様子は、厳かな指導者から癇癪持ちの先生に戻っていた。ユッドのよく知るゼーイル・アンピーンだ。ユッドはできるだけ冷ややかな声で答えた。「ああ、そうだよ」カエルはハラハラしながら見守っていた。ユッドはシンに対してだけ異様な敵意を見せるのだ。それが悪い結果にならないようにと彼女は祈った。だがシンも容赦がなかった。「恥を知るがよい!」彼はユッドを指さして叫んだ。「夷狄(いてき)を友とするとはなにごとだ!ケリポートの外で性根まで地に堕ちたか!」天使たちの視線がユッドにつき刺さった。大長老お墨つきの聖櫃保持者ではなく、危険な反逆天使を見る目だった。サペルはゴンドラの縁に頬杖をついて尋ねた。「おい、どうなっているんダ?べっぴんサン」カエルは苛立たしげに「知らないわよ!」と答えた。するとユッドが絞りだすような声で言った「あんたは、いつもそうだ…」シンはユッドの間近に迫り、メガネの奥からユッドをねめつけた。「ほう、なにがだ?」ユッドは上からぐっと顔を近寄せて言った。「おまえには大義しか見えていない。それで、足元の草花を踏みにじってもなんとも思わないんだ!」シンは冷ややかに言った。「なんの戯れ歌(ポエム)だ。わしには思い当たることがないぞ」ユッドの胸の底から、灼熱した溶岩のように怒りがせりあがった。それは絶叫となって朝の空に響き渡った。「外道!なら俺の翼をどうした!」
 その叫び声は激しく、恐ろしく、その場の皆が凍りついたようになった。ユッドはがっくりと頭を垂れた。彼は後ろにいるカエルが、ひどく辛そうな顔をしているのを知らない。シンはしばらく無言だったが、やがて低い声で言った。「わしを恨むのならそれでよい。だが今は、この夷狄どもの処遇が先だ」彼はゴンドラの中のゴダムとサペルに言った。「直ちにこの島から退去されたい。さもないと命の保証はできぬぞ」するとユッドが言った。「いや、その必要はない」「なにを言うのだ?」とシンが聞き返すと、ユッドは顔をあげ、傍らにいた元奴隷の青年を見た。イーグは命の恩人が唐突に怒りを爆発させたのを見て、悲しげな表情を浮かべていた。ユッドは小さく「ごめん」と言うと、シンに向き直って言った。「彼らには、俺が聖櫃を至聖所に運ぶのを手伝ってもらう」すると天使の間から悲鳴に似た声があがった。「なんだと!」「夷狄を神殿にあげるというのか!」「冒涜だ!」「やめろ!」シンがユッドの顔をひたと見て言った。「なにを考えておる。わしへの怒りで血迷うたか?」「いいや」ユッドはかぶりを振った。サペルとゴダムは思わぬ展開にぽかんとしている。ユッドは集まった天使たちを見やりながら言った。「大長老の勅状には、俺だけでなく、俺の協力者の邪魔をしてもならないとあったはずだ。彼らは俺に協力してくれるだろう。そうだな」ユッドは殺気をはらんだ目でゴンドラのサペルを見た。サペルは思わず「おう、もちろんだヨ」と答えたが、内心では嫌な予感を押さえられなかった。彼は外輪船でのユッドのやぶれかぶれの行動を思いだしていた。天使クンはその時と同じ目をしていたのだ。ユッドは腰の籠から聖櫃を取りだし、天使たちに向かって言った。「さっきこの聖櫃に第三のトーラーを納めた。俺はこれからホクマー(智慧)の書庫にこれを納めに行く。大長老の命によってだ」天使たちの目は真っ黒な箱に注がれた。朝の光の中、底なしの闇が、四角に切りとられて口をあけていた。天使たちの間を畏れの気持が広がってゆく。それは伝染病のように胸から胸へと伝い、確かにこの世の終末が近いのだという予感を植えつけた。ユッドは恐るべき小箱を籠にしまうと、シンに向かって言った。「俺には翼がない。トーラーの柱とヤコブの梯子を通って行くには、この風船の力を借りるのが一番なんだ」シンは言った。「だが、ケルビムの中から協力者を募るべきであろう」するとユッドは天使たちを見回して言った。「他に協力してくれる者がいるなら拒まないよ。むしろ歓迎だ。風船についてきてくれればいい」ユッドはシンに向き直って言った。「だけど、おまえの協力だけは断る。おまえの仲間もだ」ユッドは後ろを振り返り、ゴダムに言った。「もう出発できるかい?」ゴダムはゴーグルをガチンと顔の前におろし、上機嫌で言った。「いつでも出られるわい」カエルがユッドの隣に来て、沈んだ声で言った。「ユッド、本当にこれでいいの?」彼は「うん」と答えた。強ばった顔のままだ。イーグがゴンドラに滑りこんだ。機械がうなりをあげ、煙突から炎が吹きだした。ユッドはカエルの腰を押してゴンドラに乗りこませると、自分もあがり、扉をパチンと閉めた。彼はシンを見ると、皆に聞こえるように大声で言った。「わかっていると思うが、俺の邪魔をする者は逆賊だぞ。こいつが偉そうに読みあげた通りさ」シンはなにも言わず、じっとユッドを見返していた。
 飛行船は、南の塔からふわりと浮きあがり、海からの風を受けて、ゆっくりと聖山へと向かった。ユッドはサペルとゴダムに言った。「これから君たちを、ウリムとトンミムがある場所に案内するよ。約束した通りにね」サペルは言った。「こっちにはありがたい話だガ、天使クン、一体、どういう心変わりだイ?」ユッドは籠から聖櫃を取りだして言った。「俺がこれをある場所に納めると、この島を支配している機械の神が死ぬらしいんだ。そうすればウリムとトンミムも用済みになる。その後でなら、勝手に持って帰ってもらってかまわないさ」彼は聖櫃をしまって言った。「だけど、ひとつ条件がある」ゴダムはいくつもの計器に目を走らせながら尋ねた。「どんな条件だね?」ユッドは町の南に広がる海原を見つめて言った。「言葉がなくなる病気は、機械の神が死ねば止まるはずだ。君らはウリムとトンミムを手に入れたら、君らの国の軍隊を止めてくれ。もう戦争の必要はないと言って」サペルとゴダムは顔を見合わせた。ユッドが言っていることはあまりに素朴に過ぎた。一度始まった戦争は、そうそう簡単に終わらせることはできない。ましてや彼ら二匹の山師が騒いだところで、どうなるものでもないのだ。ゴダムはゴーグルの丸眼鏡の奥でサペルに目配せをした。適当に話を合わせておこうというのだ。サペルは言った。「ま、できる限りの努力はするサ」ユッドは「ありがとう」と言った。だがサペルはむっつりと考えこんだ。自分は今まで他人を口八丁手八丁で丸めこんで生きてきた。それでなんら問題はなかったのだ。だが彼は今、なぜか楽しくなかった。こんなにわくわくする冒険はまたとないのにだ。
 カエルはゴンドラの後部にあるベンチに座っていた。何十人ものケルビムが、後からついてくるのが見えた。風船から距離をとり、つかず離れずで飛んでいるのだ。皆どうしていいのかわからないのだろう。だがそれはカエルも一緒だった。ユッドがやってきて、彼女の隣に座った。疲れた顔をしている。カエルは沈んだ声で言った。「ユッド、私こわいわ。今まで生きてきて、一番こわい」ユッドが「俺もさ」と答えると、カエルは首を振って言った。「違うの」彼女はゴンドラの縁から眼下の町を見おろした。翼を持たぬ彼女が初めて見る風景だ。巨大な居住棟や大小の尖塔群を五月の陽がうらうらと照らし、向うに広がる聖山の麓では、若草と点在する林が緑に輝いていた。カエルは流れてゆく景色をぼんやりと見ながら続けた。「ユッド、あなたベー=レーシュにもらった薬を飲んで、それで事故に合ったのよね」ユッドはなにを今さらという顔でカエルを見て「そうだけど」と答えた。「ねえ、もしあの日に戻れたとしたら、あなたは薬を飲む?」ユッドは心に鈍い痛みが走るのを感じながら、「なにを言うんだい?」と聞き返した。するとカエルは顔をあげ、ユッドをじっと見て言った。「ねえ、飲むの?飲まないの?」ユッドは目を伏せて答えた。「そりゃあ、飲むさ」「嘘」ユッドがカエルを見ると、彼女は目に涙を浮かべていた。「嘘よ。あなたやっぱり翼をなくしたことを後悔してるじゃない」ユッドははっと気がついた。彼がシンに投げつけた言葉が、彼女をひどく傷つけたのだ。「こんなことを考えるのは馬鹿馬鹿しいってわかっている」カエルは暖かな陽光を浴びながら、ぽろぽろと涙を流した。「でも、もしあなたが薬を飲まなければ、あなたはカササギや太っちょと楽しく暮らしていたはずよ。そして私はずっとひとりぼっちなんだわ」「馬鹿なことを言うなよ!」ユッドはサペルらに聞こえないように小声でカエルを叱ると、彼女の肩を抱き寄せた。だが彼は、さっきからの憂鬱の正体をはっきりと悟った。シンに向かって絶叫した瞬間、自分の胸に大きなひびが入ったような気持がした。彼は自ら、カエルと二人で積み重ねてきた時間を、根こそぎ否定する言葉を吐いたのだ。
「お二人サン」サペルが長身を揺らしながらやってきた。彼は二人の向い側のベンチにどっかりと座った。カエルは急いでユッドから身を離し、涙をふいた。サペルはそれには知らんぷりをして話を切りだした。「神殿に入る洞窟は、どれくらい長いのかナ?」彼は、聖山の火口をとり巻く不可視のベールを突破するのが難しいことを知っていた。至聖所に行くには、神殿を経由するのが一番安全なのだ。ユッドは答えた「歩いて3分くらいだから、4〜500アンマってところかな」「すると200メートルちょっとってとこカ」サペルはユッドの知らない単位を口にすると、腕を組みながら言った。「そこは気球を畳んで、ゴンドラを押して通る必要があル。あと10人以上の人手が必要ダ。彼らは協力してくれそうかイ?」彼は風船の後ろについてきているケルビムを指さした。「うーん」とユッドは考えこんだ。むしろ攻撃を受ける恐れのほうが強かった。神殿にケリポートの外の異邦人を入れるなど、以前のユッドなら言語道断だと思っただろう。「まあ、相談してみるよ」とユッドが言葉を濁すと、ゴダムが大声で言った。「そろそろ山の麓じゃ!案内を頼む!」カエルはさっさと立ちあがり、ゴンドラの前に向かった。ユッドがその後を追おうとしかけると、サペルの長い腕が伸びて、ぐっと席に押し戻した。彼は真顔で言った。「べっぴんサンを泣かすなヨ、天使クン」「ああ」と言って肩を落とすユッドに、サペルは言った。「あんないい女は、世界のどこを探してもいないゼ」ユッドは顔をあげ、サペルをまじまじと見た。「本当にそうかい?」カエルはケルビムの美醜の基準では規格外だったのだ。サペルは救いがたいという顔で言った。「おまえ、どこに目をつけているんダ」
 飛行船は高度をさげて、大通りのすぐ上を進んだ。ユッドとカエルはゴンドラ前部のデッキに並んで立った。二人の足元を、松の木亭の梢が通り過ぎていった。左側には公会堂の屋上庭園が広がっている。ユッドとカエルが初めて言葉を交わした場所だ。あの時は冬の盛りだったが、今は果樹園の木々が若葉を茂らせ、穏やかな風にそよいでいた。飛行船は、ユッドが苦労して渡った貨物橋の上を通り過ぎ、大通りのとっつきに立ちふさがっている断崖を越え、聖山の麓にさしかかった。沐浴の泉が、陽を浴びて静かなさざ波を立てているのがユッドの目に入った。彼は(帰りにここでカエルと一緒に水浴びがしたいなあ)と思った。だが聖山から戻ってきた後、世界がどう変わってしまうのか、見当もつかなかった。飛行船は、麦の穂が黄金の海のように揺れている上をちぎれ雲のように走った。そして神殿に向かう小路の上に円い影をなげかけ、放牧された羊の群れが驚いて逃げるのを追いかけるようにして飛んだ。すると行く手に切り立った崖が現れた。風船は洞窟の手前に着陸した。ユッドらがゴンドラからおりると、後ろにつき従っていた天使たちがやってきた。その数は、いつのまにか100人以上に膨れあがっていた。中にはレビでない者も混じっている。塔の住人や、途中から加わった者もいるのだ。何人かはユッドの顔見知りだった。皆、風に揺すられた灌木がざわざわと騒ぐ中、黙ってユッドを見ている。ユッドは皆を見回して言った。「これから洞窟に風船を運び入れるんだ。手伝ってくれればありがたい」すると後ろから声が飛んだ。「夷狄を神殿に入れるな!」「そうだ、神罰が下るぞ!」天使たちがざわざわとする中、何人かのレビが前にやってきてユッドに詰め寄った。剣こそ抜いていないが、目は怒りに燃えている。ひとりが言った。「我々は、あやつらが聖所を汚すのを許すことはできぬ!」彼が指さす先では、三人の翼なき異邦人がてきぱきと風船を畳んでいる。カエルもその手伝いをしていた。「ましてや今日は安息日だ。ツァデク様が、こんな暴挙を許されるとは到底思えない!」するとユッドは言った。「なあ、俺のなりを見てくれ。俺は翼を失い、ケリポートの外に追いやられた。俺自身がもう、夷狄のひとりなのさ」彼は不安げに見つめてくる天使たちに、籠から取りだした聖櫃を見せた。「だが地の底で会ったシェキナーは俺に言ったんだ。この聖櫃を手にすることができるのは、翼を失った者だけだってな。俺はそれはどうしてだろうとずっと考えていた」またざわざわと風が通り過ぎ、ユッドのもつれた髪を揺らした。彼は真っ黒な聖櫃をじっと見つめながら続けた。「たぶんこれは、ひどい目に合った者でないと持てないものなんだ。なぜって神様は、ひどい目に合った者を救うためにいるんだからね」ユッドは後ろを振り返り、ひょろ長い体をせっせと動かしているサペルと、その傍らで黙々と働いているイーグを指さした。「あいつら奴隷船でずっと働かされていたんだ。俺も一度掴まって奴隷にされかけた。ほんの短い間だったけど、あれは本物の地獄だったよ。ケリポートの外はひどいもんなんだ。そして、そんな世界全部を救うために、ケルビムの町と神殿があるんじゃないか」ユッドは詰め寄ってきたレビを見て言った。「だから、俺たちを通してほしい。多分それが、神が望んでいることなんじゃないかな」「だが…」レビは納得ができないという顔でうつむいた。すると野太い声が響いた。「俺は手伝うぞ!」見ると天使たちの群れをかき分けて、ゲルションがやってくるところだった。彼は大きな声でユッドに言った。「なにせ玉座のメータトローンに聖櫃を納めるという一世一代の大仕事だ。これを手伝わずば、レビの名折れであろう!」彼はユッドの肩をポンと叩くと、そのままゴンドラへと歩み寄り、大きな風船を畳む作業に加わった。すると後に続く者が次々と現れた。中にはイサークもいた。赤毛がユッドの前をつかつかと通り過ぎようとした。「おい!」ユッドは憎むべきシンの一派を呼び止めた。すると赤毛が振り向き、ユッドをもの凄い目で睨みつけた。彼は黙って通すしかなかった。その他のケルビムはどうしようか迷っている様子だったが、邪魔をする者はいなかった。ユッドの手にある聖櫃が、天使たちに畏れの気持を抱かせていたのだ。それだけではない。その場にいた多くの者が、翼を持たぬユッドとカエルが近衛兵といかに戦い、いかに南の塔をのぼったかを見ていた。その光景が、天使たちの心を深く揺り動かしていたのだ。
 手伝う者は、最後には30人を越えた。彼らは台車がついたゴンドラを洞窟の中に運びこんだ。暗いトンネルの中で、カンテラを腰にさげた天使たちと、外の世界からやってきた翼なき者たちが、一緒になってゴンドラを押した。しんがりにいたユッドの肩をエリフが叩いた。彼は手伝いには加わらず、後ろについてきていた。一行が背後から襲われるのを警戒していたのだ。彼は小声で言った。「おい」ユッドが「なんだい?」と尋ねると、エリフは回りに聞かれないよう、押し殺した声で言った。「さっきの君の話だが、おかしくはないか」「どこがだい?」「君はこれから神を殺しにゆくのだろう」ユッドはうーむと考えながら言った。「よくわからないんだ。確かに俺は神の消滅を目指している。だがその選択肢は、神自身が用意したものなんだよ。なぜ神は、自分が消えてしまうような余地を、あえて残しておいたんだろう」「答えになっていないぞ」とエリフが言うと、ユッドは小さく笑った。「だって、わからないことだらけだもの。だけど俺はさっき嘘をついたわけじゃない。なんだか本当にそんな気持がしたのさ」彼はエリフに、太っちょと一緒に迷いこんだ変な世界のことは黙っていた。その体験がユッドに疑問を抱かせていた。第三のトーラーと聖櫃を巡るすべては、単なる機械のいたずらではないのではないか、そこにはもっと、大きな意志が動いているのではないかと、彼は思い始めていたのだ。
 一行は洞窟を抜け、シェキナーの湖のほとりにたどり着いた。サペルとゴダムは、巨大なトーラーの柱が湖の真ん中から突きだし、どこまでも上に伸びているさまを、口をぽかんとあけて見あげた。ゴダムが呟いた。「なんということだ…」はるか頭上の火口から、天幕を透かして陽光が射しこみ、幾筋もの斜めの線となって、むきだしの岩肌に明るい斑を作っていた。イーグはその様をじっと見つめていた。彼がどんな気持でいるのかは誰にもわからない。ユッドは一年ぶりの元職場の風景を不安げに見回した。まるで見知らぬ場所に来たような気分だった。広大な神殿の中には、ユッドらをのぞいて、ひとりのケルブの姿も見当たらない。安息日だからだ。こんな風に静まり返った神殿を見るのは、ユッドには初めてのことだった。
 一行はゴンドラを湖の上に浮かべ、機械の熱で風船を膨らませた。ボンボンという音が神殿中に響いた。ゴダムはゴーグルの奥から目の前にそびえている巨大な塔を見あげた。古代文字が無数の層をなして重なり、遥かな上で陽光に溶け合っている。彼は機械の立てるがさつな音が響き渡る中、誰にも聞かれないようにつぶやいた。「わしは今、とんでもない間違いを犯しているのかもしれぬ」やがてゴンドラの底が、滴を垂らしながら水面から持ちあがった。気球はトーラーの柱に沿って、ゆっくりと上昇を始めた。その回りを沢山の天使たちが囲み、白い翼を広げ、輪を描いて巡った。
 ユッドとカエルとサペルはゴンドラの前のデッキに並んで立ち、巨大な神聖文字の列が上から下へと動いてゆく様子を見つめていた。今、神体には光が宿っていない。今日が安息日だからだろうとユッドは思った。安息日に天使が神殿に入ることは禁じられていた。その日はシェキナーとメータトローンが密やかに言葉を交わす日だとされ、その場に踏みこもうものなら、たちどころに神罰が下ると言われていたのだ。サペルは腕を組み、沈黙している古代文字を睨みながら言った。「天使クンはこれが読めるのカ?」ユッドは答えた。「いや、俺は翼をなくしたから、あんまりよくわからないんだ。それに今は、バラバラな文字の集まりでしかないよ」サペルはうーむと唸りながら考えた。(物好きな王侯貴族にでも売りつければ、この一文字だけでも一生遊んで暮らせるな)だが気球で運ぶには重すぎる。(ああ畜生、もったいない!)彼は長い足で、ちょうど目の前を通り過ぎようとしていたש(シン)の字をガンと蹴っ飛ばした。すると文字の回りがカッと光った。サペルは「うわ!」と叫んで後ろに跳びさがった。長身がユッドにぶつかり、二人はデッキの上でひっくり返った。ユッドの腰の籠から聖櫃が転げ落ちた。するとש(シン)の字から白い光がまっすぐ伸び、黒い箱を包んだ。光線はデッキの床を貫き、下に遠ざかる文字と聖櫃とを一本の線で結んだ。驚いているユッドらの前で、黒い箱の表面に無数の小さな光が現れた。まるで天の川を四角く切りとったようだった。
 その時、バン!というもの凄い音が神殿に響き渡り、トーラーの柱全体が目も眩むような光に包まれた。驚いた天使たちが空中で右往左往する中、神殿の底から轟々という地響きが伝わってきた。天使たちが下を指さして口々に叫びをあげた。カエルがユッドの肘を掴んで叫んだ。「ユッド、あれ!」ユッドがデッキの縁から見おろすと、神殿の底に円く広がるシェキナーの湖に、無数の光る点が生まれていた。暗い水の中でまたたく光は、夜空の星と見まがうばかりだった。するとトーラーの柱がつき刺さっている湖の真ん中に、鎌のような形をした光が現れた。半欠けの弧を描いている赤い光は、見る間に横に膨れていった。欠けていた月が満ちてゆくのに似ている。水底の月はたちまち満月となり、湖の真ん中で、血の色をした光をギラギラと放った。湖全体が、大きな光る目玉に変わったようにも見える。サペルが呆然と言った。「おいおい、俺のせいなのカ?」ユッドは我に返って「違うと思う」と言うと、足元の聖櫃を拾った。箱は相変わらず星くずのような光を纏っていたが、神聖文字と結ばれていた光は消えている。彼は聖櫃を籠に入れた。また地鳴りがした。下を見ていたカエルがゴンドラの中に向かって叫んだ。「柱から離れて!」ユッドが見ると、トーラーの柱から、沢山の棒が針のように突きでていた。神聖文字がひとりでに柱から離れているのだ。まるで見えない巨人が神体を次々と引っこ抜いているかのようだった。その動きは速く、柱の底から始まって上に這いのぼり、ユッドらの気球に迫っていた。「掴まって!」カエルが叫んでユッドの上に覆いかぶさった。次の瞬間、ガンと突きだされた神聖文字がゴンドラの側面にめりこんだ。ガクンとユッドの体が揺れ、皆が「うわ!」と悲鳴をあげた。ユッドはカエルの下になりながら、風船とデッキを繋ぐ策軸にしがみついた。彼が目をあけると、狭いデッキは二つに割れて、それぞれ風船から垂れさがるロープの下で揺れていた。片方のロープにカエルとユッドがしがみつき、もう片方のロープの先ではサペルの長身がぶらぶら揺れている。ユッドは後ろを振り向いてぞっとした。ゴンドラはほとんど跡形もなくなっていて、中央の機関部だけが齧ったリンゴの芯のように残っていたのだ。ゴダムとイーグはそこに掴まって無事だった。機関部も奇跡的に無事を保っていて、相変わらず炎を吐きだし、風船に熱気を送っていた。トーラーの柱はいまや、突きでた神聖文字でサボテンのような姿に変わっている。サペルが綱の先で叫んだ。「高度をあげロ!」ゴダムが叫んだ。「これで精一杯じゃ!」だがゴンドラの重みがなくなったぶん、気球はぐんと速く上昇し始めた。近くを飛んでいたゲルションがユッドに向かって叫んだ。「おい、大丈夫か!」ユッドは叫んだ。「大丈夫じゃないけど、大丈夫だ!」ユッドと一緒に掴まっているカエルが言った。「このまま風船であがるわ!」ゲルションは大きな風船を見あげながら「おまえらも不便だのう」と言った。ユッドは「これはこれで快適さ」と強がりを言った。すると急にゲルションの表情が変わった。「うぐ!」彼は頭を押さえ、苦痛に顔を歪めた。「どうした!」ユッドは驚いて聞いた。見ると回りの天使たちも頭に手を当てて苦しんでいる。「声が…」とゲルションが言うと、ユッドの頭の中にも、幾千万のどよめきのような声が聞こえてきた。ユッドには覚えがあった。これはシェキナーの宮殿で、死者たちがあげている叫びなのだ。ユッドは下を見てぞっとした、湖面の月は、今や太陽のように強く輝いている。その色は青みを帯び、地下の死者たちを包んでいた光と同じ色をしていた。そこからどよめく声が、大波のように空中を伝ってきているのだ。ゴダムが頭を抱えて叫んだ。「なんじゃ?これは!」だが隣に掴まっているイーグはきょとんとしている。するとまた柱に異変が起きた。針のように飛びでた神聖文字たちが、今度は柱の回りをぐるぐると回転し始めたのだ。その速度は目にも止まらなくなり、わき起った旋風がユッドらを岩壁の方へと押しやった。気球は橋のひとつにぶつかって、ぐにゃんと歪んだ。橋の方も真ん中からべきっと折れ、上に並んでいた手回し計算機がガチャガチャと音を立てて落下した。するとカエルが叫んだ、「ユッド、あれ!」サペルが悲鳴をあげた。「まだなにかあるのかヨ!」彼女が指さした先はトーラーの柱の根元だった。風船は、すでに柱の半分ほどまでのぼっていた。湖面は遥か下に遠ざかっている。ユッドが目を凝らすと、回転していた神体が、次々と柱の本体に収まってゆくのが見えた。新たな組み合わせの文字列ができあがりつつあるのだ。するとそのあたりから、正視できないほどの強い光が漏れてきた。ふいに上から甲高い声が響いた。「退避!退避!」
 ユッドが見あげると、至聖所から何人もの天使が急降下してくるところだった。先頭で叫んでいるのはアレフ=シンだった。後ろに従っているのは白衣のレビたちだ。シンはユッドらのすぐ側までおりてくると、声を限りに叫んだ。「皆、早く上に逃げるのだ!弱っている者は手をあげい!」すると死者たちの声がひときわ高まり、シンは顔をしかめて頭を抱えた。「アレフ=シン!」ユッドが叫ぶと、シンは彼に苦しげな顔を向けて言った。「ベー=ユッド、今、柱では第三のトーラーが組みあがりつつある!聖櫃に呼応しておるのだ!」「これが!」ユッドは思わず下を見た。トーラーの柱の下部は、今や太陽の中心部のような輝きに包まれていた。「見るな!」アレフ=シンが叫んだ。「あれに触れると取り返しのつかないことになるぞ!」彼は呆然としているユッドに言った。「よいか、我らケルビムは、あれに近寄るだけで命を落とす。おまえたち翼なき者はそこまでの影響は受けぬ。だが、絶対に正視してはならぬぞ!」それだけ言うと、彼はフラフラしていた赤毛の傍らに飛んでゆき、「しっかりせい!」と叫んで、彼女の肩を掴んだ。シンは赤毛を抱きかかえながら上に飛んだ。彼らが逃げてゆく天使たちのしんがりだった。ユッドは気球の皆に叫んだ。「絶対に柱を見るな!」だが、気球は乱れる風の中で、岩壁にぶつかりぶつかり、気まぐれに回転していた。目をあけていると、自然に柱が目に入ってしまう。カエルと一緒に綱にしがみつきながら、ユッドは「目をとじろ!」と叫んだ。彼の瞼の中に、トーラーの柱が発する強烈な光が入りこみ、狂ったように踊り回っている。ユッドは知らなかった。気球にぶらさがったゴダムとイーグが、吸い寄せられるようにトーラーの柱を凝視していることを。イーグの顔にはなんの表情も浮かんでいない。だがゴダムは白熱した光を反射しているゴーグルの奥で、両目に涙を溢れさせていた。彼は至福の表情を浮かべて呟いた。「なんという…」彼の口もとに微笑が広がった。その笑いは次第に大きくなり、彼は喉の奥から「カッカッ」と引きつったような音を立てた。かと思うと、彼は怪鳥のようなけたたましい笑い声をあげ始めた。だがその顔にもはや笑みはなく、目の奥には恐怖が宿っていた。サペルが目をとじたまま母国語で叫んだ。「どうした!」だが返事はない。笑い声は次第に甲高い悲鳴に変わった。するとぎらぎらと光っていたゴーグルのガラスがバリンと割れ、中から火が吹きだした。ゴダムは両目から炎の柱を生やしながら、白熱する光の中へと落ちていった。「あああ!」という絶叫が後を引いた。遠ざかってゆく悲鳴に向かってユッドは叫んだ。「ゴダム!」耳元で響いた大声に、カエルは思わず薄目をあけてしまった。その瞬間、銀色の光が目の中に飛びこんできた。彼女はあわてて目をとじたが、光は消えずに、瞼の中で嵐のように踊り狂った。カエルの心はたちまち太陽よりも強い光に呑みこまれ、なにもわからなくなった。

 太っちょとラメッドは、三日月館の屋上の縁に並んで座り、空を見あげていた。ヒバリが鳴き交わしている青空に、星が三つ現れていた。メルカーバーの光が急に増して、昼間でも見えるほどになったのだ。その光はもはや赤くはなく、一緒にあがっている太陽と同じ色だった。そして、三つの小さな太陽の間に、銀色に輝く道が生まれ始めていた。絹糸のように細い筋が、ひとつひとつのメルカーバーの両脇からゆるゆると伸びていたのだ。その動きはごくゆっくりだったが、目にはっきりとわかった。間もなく天頂を通る銀色の輪が完成するのだろう。太っちょは隣のラメッドの手を握り、ユッドに貰った鞜を履いた足をぶらぶらさせながら言った。「本当に世界が終わっちまうのかなあ」ラメッドはなにも言わず、太っちょの手を強く握り返して、彼の肩に頭をもたせかけた。彼女の足も新品の赤い鞜に包まれている。太っちょはまた、ひとりごとのようにつぶやいた。「あいつは今、どうしているんだろうな」空のどこかで鳴いているヒバリの声が、ひとしきり高まった。
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登場人物紹介

ユッド(ベー=ユッド)


主人公の若い天使。鞜職人。

不慮の事故で翼を失ってしまう。

内向的で目立たない性格の持ち主だが、時々妙に意固地になる。


通名:メガネ

正式名:出エジプト記三章十四節の第二子なるユッド

カエル


本作のヒロイン。

先天性異常で翼を持たずに生まれた天使。

世をすねて、日の射さない地の底に住んでいる。

背が高く、並外れた運動神経の持ち主。

苛酷な境遇のせいでひねくれた所はあるが、本来は呑気。

ラメッド(ダー=ラメッド)


ユッドの幼なじみの天使。ユッドは彼女に淡い恋心を抱いている。

色白で、流れるような金髪と鈴のような美声の持ち主。

絵に書いたような天使ぶりだが、中身は割と自己中。


通名:カササギ

正式名:申命記十四章七節の第四子なるラメッド

太っちょ(ギー=ユッド)


ユッドの幼なじみの天使。同じユッドの名を持っているので少々ややこしい。

広く浅くをモットーとする事情通。常にドライに振る舞おうとしているが、正体はセンチメンタリスト。


正式名不詳(作者が考えていない)

ゼーイル・アンピーン(アレフ=シン)


天使の長老の一人。ゼーイル・アンピーンは「気短な者」を意味するあだ名。

その名の通りの頑固者。なぜかユッドにつらく当たる。


正式名:創世記二十二章八節の初子なるシン

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