その3 泣き伏す女神

文字数 6,661文字

 16世紀の中頃、ガラリア湖の北に位置する小都市サフェドで、深夜、町中を駆け巡って泣き叫ぶ者があったと言います。彼は毎晩毎晩、家々の前で、「いざ、神のために起きよ、シェキナーは流浪の身にあり、われらの聖なる建物は焼け落ち、イスラエルは大いなる苦難のなかにあればなり!」と叫び、住人たちを叩き起こしたと言います(『カバラとその象徴的表現』p.206)。この迷惑な人は、名をアブラハム・ハレヴィ・ベルキムといいます。ちなみに、前回ちょっとお話ししたイサーク・ルーリアは、ベルキムの弟子筋に当たります。ベルキムはまた、エルサレムの嘆きの壁で、黒衣を纏ったシェキナーが涙を流して悲嘆にくれる幻を見たとされる人物です。どんだけシェキナー好きなのかと。今で言えば「推し」ということでしょうか。でも、シェキナーは最初、女神でもなんでもありませんでした。そもそもユダヤ教は一神教のはずですから。どうしてこうなった。

 シェキナーの文字通りの語義は「居留」だそうです。つまり、「神社に神様が住んでいる」というのと同じような意味合いでの「神の居留」のことです。第十セフィラーの一般的な呼び方として、「マルクト=王国」があります。その意味するところは「イスラエル共同体の神秘主義的原像」(『ユダヤ神秘主義』p.280)で、シェキナーはその属性を現す別名の一つということになるでしょう。古い文献では、神自身と、そのシェキナー=居留が分離しているような記述はどこにも見当たらないそうです。そりゃそうですよね。神様と、神棚に住む神様が別人格だったら、変な話になります。ところがユダヤ教では、その変なことが起こりました。
 ショーレムによれば、シェキナーが独立した女性的神格として初めて現れるのは、12世紀プロヴァンスのユダヤ人サークルで編纂された『バーヒール』という書においてだそうです。それ以後、女神としてのシェキナー像は、いわゆる正統派のラビ(神職)たちにはうさん臭い目で見られながらも(厳格なユダヤ教信者は、カバラを敵視していたのです)、民衆の間に広く、深く、浸透していきました。
 前回お話ししたように、シェキナーの女性化は、第三セフィラーのビーナー(知性)において、既に先取りされています。ビーナーの別名に「上位のシェキナー」というものがあるくらいです。でも、シェキナーの独立化は、セフィロトの樹に生じた全く新しい事態と対になって起こったことです。第四から第九までの六つのセフィロトが原人=アダム・カドモンのイメージを形づくっていることは既にお話ししました。原人自体は、不可視の神が形を取った姿、と見なせますから、一神教と大きな背馳はしません。ところが、この原人が股間にぶら下げている第九セフィラーのイェソド(基盤)が立ち上がるや、事態は一変します。まったき統一としてあったはずのセフィロトの樹の中で、「産ませる潜勢力と受胎する潜勢力」(『カバラとその象徴的表現』p.143)が、つまり男性と女性が分離します。その結果、第十セフィラーのシェキナーだけが、女性の顔を帯びると同時に他のセフィロトから切り離され、我々が住む地の底に極めて近い地点にまで放逐されてしまいます。ここからシェキナーについてのあらゆる神話が生まれてきます。

 面白いのは、この説を初めて述べた『バーヒール』に、オリエントの文献を仲立ちとして、グノーシス教のモチーフが流れこんできていることです(『ユダヤ神秘主義』p.101)。ショーレムによれば、『バーヒール』に影響を与えているのは、グノーシス教の中でも、ヴァレンティノス派と呼ばれる一派の教説だそうです。ヴァレンティノス派の神話の概要は、ハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』(秋山さと子/入江良平訳 人文書院)で読むことができます。ヴァレンティノスという人は紀元2世紀のローマに生きた人なので、この人の思想がイスラム世界に波及してゆき、千年の時を経て、西欧世界に逆流してきたことになります。
 さて、ヴァレンティノス派の神話はとても複雑怪奇で、簡単に要約するのが難しいのですが、ざっくり言うと、プレローマ(光が満ちあふれる神の領域)に住んでいるソフィアなる女性的なアイオーン(神格)が、ある時、神の中でも最も高い存在である「原父」について知りたいと願ったのが、ことの発端になります。この「原父」は、「始源の前のもの」という別名の通り、カバラでいうエン・ソフ(無限なるもの)にあたります。いかな神的存在でも、おいそれと近寄れるような存在ではありません。アイオーンの中でも末っ子で、思慮分別が足りなかったソフィアは、分不相応な願望に囚われた結果、狂気に陥ります。そして、自らの不穏な情念を流産してしまいます。この情念は「形なき存在」としてソフィアの前に現れます。すると彼女は色々とネガティブな感情を抱きます。悲しみ、恐れ、困窮、驚愕、後悔、等々。ちなみにこれらのおどろおどろしい想念は、後になると、我々の住む物質世界の基盤となります。グノーシス教においては、世界創造の出発点が、そもそもダウナー系なんですね。鬱展開が更に進みます。アイオーンたちは、プレローマを清浄に保つため、ソフィアから産みだされたマイナスの情念を、まとめて境界の外に放り出してしまいます。というか、プレローマを区切る「境界」も、その「外部」も、この時に初めて生まれたのです。その結果、ソフィアもプレローマも一旦はことなきを得ますが、真っ暗な外界に追いやられた「形なき存在」は、とてつもない悲嘆と孤独を味わうことになります。

「さて、あるときは彼女は涙を流し悲しみに暮れた。というのも彼女は<闇>と<空虚>のなかにひとり見捨てられていたからである。しかしまたあるときは彼女を残して去った<光>を思い出して快活になって笑った。そしてまたあるときは、ふたたび恐怖に陥って、しばし困窮し、驚愕するのだった」(『グノーシスの宗教』p.252)

 なんとも痛ましい描写です。まるで我々自身のおぼつかない人生を見ているようです。「彼女」は「流出した胎児」であり、形も像も持たない「脆弱なる、女性的な果実」ですが、この時点で独立した霊的な存在となります。かなーり頼りのない神様ですが、困ったことに、彼女こそがこの宇宙の造物主なのです。彼女は「下なるソフィア」と呼ばれ、宇宙創造に向けた困難な歩みを始めることになります。一方、プレローマに止まった母親の方のソフィアは、以後「上なるソフィア」と呼ばれます。この関係がカバラ思想に輸入されると、「上なるソフィア」がビーナー(知性)となり、「下なるソフィア」がシェキナーとなることは見やすい道理でしょう。

 このグノーシス神話には、女は愚かなものだとする差別思想が明らかにあり、その愚かしさが神々の世界に危機をもたらし、結果として我々の宇宙が創世されます。このモチーフを、ちょっともったいつけて「女性原理による過誤」としておきましょう。一方、カバラの神話には、グノーシス神話とは正反対の要素が現れます。すなわち「男性原理の過剰」です。つまり原人のチ○チンないしキ○タマである、第九セフィラーのイェソド(基盤)が、宇宙の分断を引き起こすわけですね。恐らくこの男性原理の過剰は、旧約聖書の神話体系に由来するのでしょう。元ネタは、言わずと知れたアダムの「過ち」です。もちろんここにも男尊女卑思想はあり、アダムを唆したのはイブということになっていますけど。そして、後に起こる「器の破壊(シェビラー)」という破滅的な出来事も、男性原理である第五セフィラーのディーン(厳格な裁き)が引き起こします。結局、諸悪の根源には「男」がいるわけですね。ここら辺は、荒々しい砂漠の民たるユダヤ人らしいところです。一神教のユダヤ教と、正邪の神々が乱れ踊るグノーシスの神話体系は、そもそも水と油のはずですが、この二つの要素が、セフィロトという(危険なほどに)自由度のある概念を仲介にして、カバラ思想において婚姻をなします。これこそが言葉の真の意味での聖なる結婚(ヒエロス・ガモス)だと言いたくなります。

 ともあれ、旧約聖書的な男性原理と、グノーシス的な女性原理が神話の上で「結婚」した結果、シェキナーはセフィロトの樹の下方に放逐されます。セフィロトの離合集散の結果としてのシェキナーの分離は、それ自体としては過誤とは言えないものの、時代が下るにつれ悲劇的な様相を強く帯びてきます。その悲劇の度が高まれば高まるほど、ユダヤの民衆は女神としてのシェキナーを一層愛するようになります。というのは、シェキナーは、「王国」、すなわちイスラエル共同体の神秘的な原型でもあるからです。ここでユダヤ民族の現実的な歴史と神話世界が一つに溶け合います。シェキナーは神の花嫁にして娘であると同時に、一人一人のイスラエル(びと)の母となるのです。ショーレムはこう言います。

「その過程において、主導的要因はどこにあったのか、つまり、最初期のカバラ主義者たちがまずはじめに女性要素の理念を神のなかに蘇らせたのが先だったのか、それとも、イスラエル全会衆とシェキナーというかつて分離していたふたつの概念がまず解釈上同一視された結果、おびただしい数のグノーシス的言語遺産が純然たるユダヤ教的な変容をとげながら相続されるにいたったのか、この点についてわれわれは理にかなった意見を述べることはできないだろう。私には、この場合、心理的過程と歴史的過程が分けられない。その過程が一種独特な形で一体となって、カバラ神智学の決定的な歩みを描き出しているのである」(『ユダヤ神秘主義』p.146)

 私はこのくだりを、ショーレムが書いた最も美しい文章の一つだと思います。彼は近代的合理主義の元にある一研究者という立場に慎ましく止まりながら、自らの民族の歴史と神話が分ちがたく結び合う姿に賛嘆の眼差しを注いでいます。この誇らしさは、たぶん中世のカバリストたちが胸に秘めていた挟持と同じものなのでしょう。
 さて、これまでお話しした通り、シェキナーは「神の中の女性原理」であり、同時に「イスラエル共同体の原型」なわけですが、そこにもう一つの重要な要素が加わります。それはシェキナーと魂との同一視です。この考えも、『ゾーハル』と『バーヒール』に初めて現れたものです。ショーレムによれば、それ以前のユダヤ教では、この地上に生きる人間の魂は、そんなに大したものだとは考えられていなかったそうです。せいぜい神が座る椅子の脚、くらいに考えられていたそうなのですね。それが一挙に、神自身の内の女性原理に起源があることになったので、これは三階級特進どころの話ではなく、人間にとってはこれ以上ない栄誉なわけです。ところが、この原理は他ならぬシェキナーにとって、ひどい災難となります。彼女はありとあらゆる悪に晒された挙げ句、神的世界から放り出され、この地上をあてどもなく彷徨うことになってしまうのです。まあ、夫のDVに痛めつけられ、おまけに出来の悪い子供を持った母親の境遇によく似ています。
 第九セフィラーのイェソド(基盤)との「結婚」の結果、シェキナーの中に、上位の全てのセフィロトが流入するというお話を前回しました。つまり、セフィロトの樹で表される神的な世界が、シェキナーを媒介にしてこの地上に効力を及ぼすのです。となると、シェキナーは純粋な受容体のごとき存在であり、「それ自身なにひとつ所持するもののない」器だということになります。端的に、シェキナーは「貧しい神」なのです。このイメージが、悲嘆にくれる母という形で焦点を結ぶのは想像に難くありません。ところがシェキナーは、「器」であることによって、単に清く貧しく美しい姿に止まることができず、時にはおぞましい顔を見せることがあります。その原因が第五セフィラーのディーン(厳しい裁き)です。実は、このセフィラーこそが、地上にはびこるあらゆる「悪」の根源なのです。他ならぬ神の体内で、なぜ悪が生じてしまうのか。この矛盾についてはいずれ詳しくお話ししましょう(と言っても、あらゆる宗教が抱えているこの根源的な謎が、きれいに解決されたためしなんてありませんけどね)。ここでとりあえず押さえておきたいのは、悪は神に由来するものであり、したがって、「器」であるシェキナーに、そのまま流れこんでしまうということです。するとシェキナーは悪の力に拘束されます。『ゾーハル』はこの状態を「ときどきシェキナーは、苦い裏側の世界を味わうことがある。そのようなとき、シェキナーの顔は暗い」と表しています(『カバラとその象徴的表現』p.147)。そんな状態のシェキナーが一体どんな振る舞いに出るのか、ショーレムの著作はくわしく教えてくれません。ちなみに『翼』では、そこらへんを、私の勝手な想像を交えてちょこっと描いています。
 シェキナーの二面性には、太古の優しくも恐ろしい地母神の面影がほの見えます。そこに、やはり太古の象徴的表現である月のイメージが顔を出します。月が欠けてゆくことは、カバリストたちにとって、シェキナーが「本来の高い地位から墜落し、光を奪われ、宇宙的な流謫を余儀なくされた」象徴なのです(『カバラとその象徴的表現』p.209)。そう、暗い顔を持つシェキナーは、同時に空漠とした宇宙を彷徨うシェキナーとなります。この神秘的流謫は、ユダヤ民族の歴史上の流謫と重なり合います。『タルムード』というユダヤ教の聖典にはこうあります。「イスラエルがおもむいたいかなる流謫にあっても、シェキナーは彼らとともにあった」(『カバラとその象徴的表現』p.148)これは6世紀ごろに成立した書物なので、この文章自体には「あなたをいつも神様が見てますよ」くらいの意味合いしかありません。ところがカバリストたちは、そしてユダヤの民衆は、この言葉の意味をがらりと変えてしまいました。つまり彼らは、神自身の一部であるシェキナーが、自分たちと共に、流謫の運命を背負わされていると考えたのです。モーセの出エジプトに始まって、バビロン捕囚、第二神殿の破壊に続く民族離散(ディアスポラ)と、ユダヤ民族の歴史は流謫の歴史であり、『ゾーハル』の時代においても、彼らは極めて不安定な立場にありました。ヨーロッパ各地に散在するユダヤ人コミュニティは、十字軍の勃興やペストの発生などが引き金になって、繰り返しひどい迫害を受けていたのです。彼らの背負う歴史的な不幸と、シェキナーが背負う宇宙的な不幸は、もはや明確な区別を持ちえません。するとユダヤの民の前に、流浪のなかで涙にくれるシェキナーの姿が陽炎のように立ち現れてくるのです。このイメージは『ゾーハル』にオリジンがあるのですが、面白いことに、実はこれはとんでもない誤読だそうです。ショーレム先生いわく、『ゾーハル』文中にある「誰も目を向けない美しい女」という表現を、後代のカバリストたちが「もはや目の見えぬ美しい女」と読み違え、涙にくれるシェキナーの姿だと勘違いしてしまったというのですね。あげく、冒頭にでてきたベルキムさんが、幻まで見てしまうわけです。それにしても、途方もなく美しい誤解です。
 泣き沈む女神の幻影には、二つの影が重なり合って見えます。一つはイスラエルの民の母であるシェキナーが、我と我が子の悲運を嘆いている姿。もう一つはシェキナーの遥かな姉妹とでも言うべき「下なるソフィア」が孤独に泣き叫んでいる姿。ここにはグノーシスの神話が常に語って止まないモチーフがあります。すなわち、全ての歴史的事実に先立って、生きるということは、敵意に満ちた異境をあてどもなく彷徨うことに他ならない、という認識(グノーシス)です。

 さて、この辺で今日はおしまいにしますが、ユダヤの民は、こうも考えていたのです。シェキナーの流浪の果てには、必ずハッピーエンドが待っているはずだと。それは、シェキナーが神と再び一つに結ばれる希望です。そしてカバリストたちは、民衆は、自分たちにはシェキナーを助ける義務があり、自分たちが力を尽くすことによって、彼女が天に帰還できるようになると信じていました。それがティクーン(復元)と呼ばれる、人間に課された使命です。でも、このお話をするためには、まだいくつか寄り道をしなければなりません。この次はセフィロトの樹から一旦離れ、『トーラー』、すなわち『モーセ五書』のお話をしようと思います。次回もサービス、サービスゥ!

初出:2023年1月17日
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登場人物紹介

ユッド(ベー=ユッド)


主人公の若い天使。鞜職人。

不慮の事故で翼を失ってしまう。

内向的で目立たない性格の持ち主だが、時々妙に意固地になる。


通名:メガネ

正式名:出エジプト記三章十四節の第二子なるユッド

カエル


本作のヒロイン。

先天性異常で翼を持たずに生まれた天使。

世をすねて、日の射さない地の底に住んでいる。

背が高く、並外れた運動神経の持ち主。

苛酷な境遇のせいでひねくれた所はあるが、本来は呑気。

ラメッド(ダー=ラメッド)


ユッドの幼なじみの天使。ユッドは彼女に淡い恋心を抱いている。

色白で、流れるような金髪と鈴のような美声の持ち主。

絵に書いたような天使ぶりだが、中身は割と自己中。


通名:カササギ

正式名:申命記十四章七節の第四子なるラメッド

太っちょ(ギー=ユッド)


ユッドの幼なじみの天使。同じユッドの名を持っているので少々ややこしい。

広く浅くをモットーとする事情通。常にドライに振る舞おうとしているが、正体はセンチメンタリスト。


正式名不詳(作者が考えていない)

ゼーイル・アンピーン(アレフ=シン)


天使の長老の一人。ゼーイル・アンピーンは「気短な者」を意味するあだ名。

その名の通りの頑固者。なぜかユッドにつらく当たる。


正式名:創世記二十二章八節の初子なるシン

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