その1 ケルビムの名前について

文字数 7,540文字

 これから何回かにわけて、おまけというか、あとがきめいた雑感を書きつづろうかと思っております。(と、その時は軽ーく考えておりました。後の私より)暇な方はどうぞおつきあいください。

 まずは『翼』を書くにあたって参考にした書物を二冊あげます。

 ゲルショム・ショーレム『カバラとその象徴的表現』
 (小岸昭/岡部仁訳 法政大学出版局)
 同『ユダヤ神秘主義 その主潮流』
 (山下肇/石丸昭二/井ノ川清/西脇征嘉訳 法政大学出版局)

 なにを隠そう、作中の宗教的な要素は、全部、この二冊の書物からネタをいただいております。著者のゲルショム・ショーレムは19世紀末にベルリンで生まれ、後にイスラエルに移ったユダヤ人の宗教学者で、この分野での第一人者らしいです(ちなみに私は単なる素人です、ハイ)。二冊とも結構ガッツリした研究書です。サラッと読めるものではないのですが、興味を持たれた方はぜひ手に取ってみてください。とても面白いです。念のために言い添えると、いわゆる「オカルト本」ではありませんからね。あと私自身もなんかの宗教にはまっているわけではありません。太っちょのユッドのごとく私も不可知論者ですので。ともあれ、これをお読みになれば、作中に出てきた色々なルビ付き用語の背景がよくわかると思います。いくつかの言葉については、次の稿で解説めいたことを書こうかなと思っているのですが、まあ蛇足っちゃ蛇足ですね。そんなものを読まなくても『翼』は面白いのですよ、もちろん!
 でも、ぶっちゃけ私、ちょっと良心が痛んでいるのです。なにせ、歴史ある偉大な宗教から勝手にパクってファンタジー小説の材料にしてしまったのですから。これから書くことは、ある意味、懺悔みたいなものです。もっとも、もし神様が旧約聖書に書かれている通りの性格ならば、私はとうの昔に火だるまになるか塩の塊に変えられるかして、今ごろは骨も残っていないでしょう。
 あと、もし『翼』本文を読む前に、この文章を読んでいる方がいらっしゃったら、どうぞご安心ください。ネタバレになるようなことは書かないつもりです。でも、本文を読む前にこれ読んでも何のことやらだと思うので、やはり本文から読まれる事をおすすめします。っていうか読んでください。お願い。

 さて今回は、天使たちの名前と神聖文字、すなわちヘブライ語アルファベットの関係を整理しておこうかと思います。でも、これ読んで、ますますこんがらがったらごめんなさい。あとヘブライ語についても、私、完っ璧に素人です。まあファンタジー小説ということで、トンデモな間違いをやらかしていても笑って許してください。
 作中にも書いた通り、天使の名前は旧約聖書の「モーセ五書」の文中の文字から取られています。なぜ「モーセ五書」という名前かといえば、この五つの書物は伝統的にモーセの手になるとされてきたからです。ただし、近代以降の研究では、無名の複数の著者によって何百年にもわたって書き継がれてきたという説が主流のようですね。『ベレーシート(創世記)』、『シェモートゥ(出エジプト記)』、『ワイクラー(レビ記)』、『べミドバル(民数記)』、『デヴァリーム(申命記)』という名前は、各々の書物の最初の言葉から取られていて、これがヘブライ語の呼称だそうです。ユダヤ教ではこの五書をまとめて『トーラー(律法)』と呼んでいるとのことです。
 さて、主人公のユッドの正式な名前は「シェモートゥ(出エジプト記)三章十四節の第二子なるユッド」です。出エジプト記の三章十四節のヘブライ語原文は

‫אהיה אשר אהיה‬

です。「第二子なるユッド」はこの文章に出てくる2番目のי(ユッド)の字、という意味です。ちなみにヘブライ語は右から左に読むそうです(これ豆ね)。ヘブライ語の原文はネットで検索して調べました。聖書の原文と対訳を掲載しているサイトが色々あります。ちなみにこの文はとんでもなく難解で、古代から現代に至るまで、神学者たちを散々悩ませてきたものらしいのですね。日本語訳も皆さん苦労しているようです。私の手元にある岩波文庫の文語訳では「(われ)(あり)()る者なり」となっていて、正直よくわかりません。もう一つ、同じ岩波書店から出ている旧約聖書翻訳委員会訳では「わたしはなる、わたしがなるものに」とあり、ますます訳がわからない。ところでロックバンドのヴァンパイア・ウィークエンドに“Ya Hey”という曲があります(このタイトルは「ヤーウェ」のもじりらしいです)。歌詞に「あんたは自分の名前を名乗りさえしない。ただ“I am that I am”と言うだけで」というくだりがあり、たぶんこれは出エジプト記の三章十四節の引用かと思われます。自分的に一番しっくりきたのはこの英訳でした。なので訳はそれにならって「私は私であるものだ」としました。あと“Ya Hey”は名曲ですぜ。
 えーっとユッドの名前の話でしたね。神託機械のウリムとトンミムが、ある数をはじき出し、その数値を1番目から30万4805番目まであるモーセ五書の文字に当てはめた結果、出エジプト記の三章十四節の2番目に出てくるי(ユッド)になったわけです(一体その数字はいくつなんだと私に聞かないでください)。ついでに言うと、ヒロインのカエルの本名は「ベレーシート(創世記)三十六章二十二節の初子なるアイン」です。

‫ואחות‬ ‫לוטן‬ ‫תמנע‬

この文が創世記三十六章二十二節の後半で、この中のע(アイン)の字がカエルの名前にあたります。この文字は文章の左端、つまり最後に現れますが、עの字は他に文中にないので、初子、すなわち最初のアインとなるわけです。ちなみにこの文の意味はこうです。「ロタンの妹はティムナである」以上。超わかりやすいですね。ロタンの妹はティムナなんだそうですよ。納得です。わかりやす過ぎて、誤解も誤訳もしようがない。ショーレム先生によれば、この一節は「モーセ五書」全体で、最もつまらなく、無内容なものとして際立っているそうです。でも、そこは腐ってもモーセ五書。この一番どうでもいい文言を「ひねもす読みつづける者ですら、永遠の至福が得られる」(『カバラとその象徴的表現』p.101)とのことです。いやあ、奥が深いですね。

 また脱線が過ぎました。さて、シンの略称はא(アレフ)ש(シン)、ユッドの略称はב(べー)י(ユッド)、太っちょの略称はג (ギー)י(ユッド)、ラメッドはד(ダー)ל(ラメッド)です。それぞれ「最初のシン」「2番目のユッド」「3番目のユッド」「4番目のラメッド」の意味で、א(アレフ)ב(ベート)ג (ギメル)ד(ダレット)のアルファベットが序数の役割を果たしています。まあ英語でいうABCDみたいなものですが、ヘブライ語のアルファベットは数字も兼ねているそうなのですね。『翼』作中の設定では、序数として名前の頭につく場合は発音が単純になり、子音+母音の一音節にしています。最初の文字であるא(アレフ)だけは発音されない文字なので、序数の場合も変わらずアレフになります。(これはあくまで作品中の俺ルールなのでお間違えなく。)ちなみにヘブライ語の22文字は全て子音で母音は存在しません(現代のヘブライ語はそこに様々な補助的な記号をつけて補っているそうです)。不思議ですね。もっとも日本語のねっちょりした奇々怪々さと比べれば大したことはないのかも知れません。むしろ清々しい気がします。
 …うーん、私、ちょっと心配になってきました。もし本編を読む前の方がこれ読んだら、どんな七面倒くさい小説なんだと勘違いされるかも知れない。違いますよ。『翼』はド直球のエンタメです。わかりやすいです。なのでまずは第一話を読んでください。話はそれからです。

 つまり、天使の呼び名には4つのバージョンがあるわけです。まずは長々しい正式名称、そして「ベー=ユッド」「アレフ=シン」といった略称、「メガネ」「太っちょ」「カササギ」等のあだ名、そして単に「ユッド」「ラメッド」等の文字名です。
 正式名称が使われる場面は限られています。まずは神殿の儀式と諸々の公式行事。あと長老たちが若い天使に向かって、もったいつけて呼びかけたり、叱責したりする場面でも、しばしば正式名称が使われます。要はそこには常に「神の権威」が存在しているわけです。逆にヒラの天使が同輩や目上の者に正式名称で呼びかければ、これはもうケンカ売ってるのと一緒なわけですね。皆さんも天使と喋るときは気をつけましょう。
 「ベー=ユッド」「メガネ」といった略称とあだ名は、両方ともケルビムの社会で最もよく使われている呼び方です。正確に相手を特定するなら正式名称が一番なのですが、いちいちそれを言い合っていたら、それだけで日が暮れてしまうし、今言ったような微妙な問題もあるわけです。一方「メガネのベー=ユッド」とか「カササギのダー=ラメッド」と言うだけで、大抵「ああ、あいつのことね」となり、用が足りるのですね。ただし、略称とあだ名は使い方が微妙に違います。あだ名はいわば「屋号」のようなものなのですが、これは本人に呼びかけるときはあまり使いません。あだ名が使われるのは、その場にいない誰かを話題にする時がほとんどです。これが天使のエチケットです。第一話でベー=レーシュがユッドに「よう、メガネ君」と呼びかけてますが、これはちょっと馴れ馴れしすぎるわけですな。本人に呼びかけるとき、一番当たり障りがないのが「おーい、ベー=ユッド」等、略称を使うやりかたです。我々でいえば「木村さん」とか「草薙くん」とか、苗字で呼び合う感覚が一番近いです。知り合いだけど、ちょっと距離がある場合なんかは、これで決まりですね。
 「ユッド」「ラメッド」等の一番単純な呼び名は、本人特定にはほとんど役立ちません。通勤途中の天使の群れの中で、大声で「シン!」なんて叫ぼうものなら大迷惑です。その場の天使の一定数はシンなので、彼らが何ごとかと振り向けば、たちまち空中で交通渋滞が起きてしまいます。そうではなく、文字名はごく親しい間柄の天使どうしが呼び合うときに使います。まあ名前というよりも、「ねえ」とか「おい」とかのニュアンスに近いかもしれない。なのでラメッドが、太っちょとメガネの両方に「ユッド」と呼びかけても、なんら不便はないのです。

 残るはレビの名前です。作中でもざっと説明しましたが、天使たちは生まれて7年目の安息年になると、ようやく正式の名前を受け取ります。ちなみに安息年は7年に一度訪れ、その年は神殿の儀式はお休みになります。天使たちの人生サイクルは50年で一巡りなのですが、その起点を元年とすると、7、14、21、28、35、42年目が安息年にあたります。35年の安息年に天使たちは一斉に生まれます(どう生まれるかは本編をお読みください)。そして42年の安息年に名前が与えられるわけです。そして49年目は安息年とはならず、かわりに次の50年目がヨベルの年と呼ばれます。この年に若い天使たちは満15歳となります。彼らはその時点で既に成人となっており、様々な職を持ち、かつトーラーの柱の儀式を担っています。そして彼らを育ててきた前の世代の天使たちは寿命を迎え、百人の長老たちだけが生き残ります(このシステムさえなければ、私も天使に生まれ変わりたいんですけどねえ)。ヨベルの年の行事がどんなものなのかは本編をお読みください。なにしろ大ごとなのです。そしてこの年が終わると、天使の町は新たな50年間の周期を迎えます。ちなみに、ヨベルの年の由来は『レビ記』の25章に色々と書いてあります。この制度は古代のユダヤ人国家に実在したものですが、どうやら紀元70年のエルサレム陥落と共に消滅したようです。でもカトリック圏では25年に一度の「聖年」として今でも生き残っているみたいですね。知らんけど。当然ながら『翼』作中のヨベルの年はオリジナルにアレンジを加えてあります。最大の違いは49年目の安息日がなくなっていることです。これは50年の周期が宇宙の周期を模していて、49年目は今の時代である「至福千年」にあたると見なされているからです。ここぞ天使のかきいれ時というわけですね。
 それでレビの名前の話でしたね。繰り返しになりますが、天使たちは7歳の年に神託機械のウリムとトンミムからそれぞれ一つの数字を受け取り、その数が「モーセ五書」の文字に当てはめられて名前になります。これが文に出てくる最初のא(アレフ)に当たると「初子の初子」となり、ピカピカのレビが一人誕生するわけです。レビの民の由来は『民数記』の第三章に記されています(不思議なことに、『レビ記』にはレビの民そのもののことはほとんど出てきません)。彼らは神殿での祭儀の進行役とされていて、『翼』作中でもそれに倣っています。
 で、レビたちの名はא(アレフ)א(アレフ)ではなく、長老たちによって、モーセ五書にでてくる人名があてがわれます(そうしないと彼らが大変困ることになります。みんな同じ呼び名になってしまうので)。『翼』に登場してくるレビたちの名は、旧約聖書に出てくる名前の中からそれっぽいのを見つくろってつけました。ゲルションとかイッサカルとかは言葉の響きだけで選びました。エリフだけは別で、この名は『ヨブ記』の登場人物から取っています。このエリフなる人は、話の中盤に何の脈絡もなく突然現れ、おいしい所を全部ひっさらってゆくのですね。エリフらしいなあと。あとイサークは、その場のノリでイサークにしたのですが、後になってみるとやはりイサーク以外にはあり得ない。ゲルションもそう。イッサカルもそう。イゼベルとレアだけが最後まで印象が薄い。というか名前がないと「きりっとした顔立ちの女のレビ」とかいちいち書かないといけないので面倒くさいから名前をつけたまでです。ちょっと彼女たちにはかわいそうなことをした。

 …皆さんそろそろお疲れですよね。私もいい加減疲れてきました。なので、最後に天使たちの社会構成についてちょろっとだけ説明して終りにします。作中に「七十人組」なる集団が出てきます。ケルビムの社会は、この七十人組を基礎にして成り立っています。町の人口は約10万なので、七十人組が1500ほどあることになります。七十人組は、7歳の命名式の時点で長老たちによって割り振られます。ひとつの神聖文字につき、その名を持つ天使たちが3名ずつ組み合わせられ、それが七十人組の最小単位になります。作中では主人公のベー=ユッドと太っちょのギー=ユッド、そして(ちょろっと出てきただけですが)ノッポのアレフ=ユッドの3人組がそれに当たります。神聖文字は全部で22ありますから、3人組が22組合わさって、ひとつの七十人組になります。グループのメンバーは、基本、生涯を通して変ることがありません。生活の大きな部分を占める神殿での儀式は、常にこの七十人組をベースに行われるので、彼らの結束はとても固いものになります。…と言いつつ、例外があります。レビです。もうお気づきのこととおもいますが、3人×22は66人です。七十人組の残りの4人はレビなのですが、この4人のメンバーは固定していません。その日その日の勤務割当により、集まる顔はバラバラです。これはレビの仕事の性格上、なれ合いを防ぐための措置でもあります。儀式の進行に間違いがないか監視することが彼らの役割ですから。なので、レビと一般の天使たちの間には自ずと距離が生まれることになります。その上レビたちは立場上、どうしたって尊大になります(どこの世界でもそんなものです)。もっともレビと一般の天使との間に身分の差はないことになっています。でも、一般の天使は町に住み、レビたちは聖山に住んでいるので、仕事が終わったら一杯どうですか、なんてことにはなりません。一般の天使たちは、レビたちを恐れと蔑みが相半ばした目で見ています。ひとことで言えば嫌ってます。レビはレビで町に住む天使たちを「帯なし」と呼んで下に見ています。自分たちの仕事を増やす、しょーもない奴らだという位置づけです。そのレビとて一枚岩ではありません。彼らの人数は一世代で約1500人です。その内の100人が大長老の近衛兵として抜擢されます。更にその内の10人が十人組隊長となり、近衛兵をまとめつつ、大長老直轄の部下として働くのです。一般のレビは赤色の帯を締め、近衛兵は金色の帯を締めます。この金色の帯がまた、やっかみの種なのです。近衛兵と一般のレビとの間には、表向き、身分の上下はないことになっています。果たすべき役割が違うだけ、というのが公式の見解です。でも近衛兵たちはいわゆる優等生気質で、自分たちをエリートだと思っています。その他大勢はその他大勢で、ことあるたびに「ふん、大長老の犬が」などと言い合い、やさぐれた連帯意識で団結しています。赤帯にはトーラーの柱の儀式を支えているのは自分たちだという自負もあるのです。近衛兵は大長老が住む至聖所に詰めているので、儀式には参加しませんから。まあ天使も色々大変です。
 ただ、忘れてはならないことが一つあります。レビは決して祭司ではなく、儀式の補助役に過ぎません(ちなみに「モーセ五書」にでてくる元祖レビの民のポジションもそんな感じです)。そもそもトーラーの柱の儀式に祭司にあたる人物は存在しません。というか、これを一人で仕切るとか無理。全高1キロの柱を120もの七十人組が取り巻き、ひっきりなしに動いているわけですから。また、大長老も百人の長老たちも、儀式には直接関与しません。主体はあくまで一般の天使から構成される七十人組のメンバーです。
 これらの制度がケルビムの共同体に微妙な襞を刻みつつ、同時に色んな意味で緩衝剤になっています。ジャンケンのグーチョキパーみたいなもので、どれか一つの集団が一方的にのし上がることが避けられているわけです。その結果バランスの取れた社会ができあがり、ケルビムの町は、特に大きな問題もなく千年続いてきました。今までは…。

 ふう。今日は以上です。あと一、二回くらい、とりとめもなく書こうかと思ってます。(と、その時は考えておりました。後の私より)どうぞ今少しおつきあいのほどを。そうです。連載が終わってちょっと寂しいのです。察してください。あと、連載は終了しましたが、今後もこの小説が一人でも多くの方に読まれることを望んでおります。『翼』が面白いと思われましたら、ぜひ身近な方におすすめください。また、レビューや評価ポイント等を頂ければ大変ありがたいです(もうちょっと目立ちたいなあと。俗物ですみませーん)。(この気持は今もいっしょ。後の私より)

初出:2022年12月11日
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登場人物紹介

ユッド(ベー=ユッド)


主人公の若い天使。鞜職人。

不慮の事故で翼を失ってしまう。

内向的で目立たない性格の持ち主だが、時々妙に意固地になる。


通名:メガネ

正式名:出エジプト記三章十四節の第二子なるユッド

カエル


本作のヒロイン。

先天性異常で翼を持たずに生まれた天使。

世をすねて、日の射さない地の底に住んでいる。

背が高く、並外れた運動神経の持ち主。

苛酷な境遇のせいでひねくれた所はあるが、本来は呑気。

ラメッド(ダー=ラメッド)


ユッドの幼なじみの天使。ユッドは彼女に淡い恋心を抱いている。

色白で、流れるような金髪と鈴のような美声の持ち主。

絵に書いたような天使ぶりだが、中身は割と自己中。


通名:カササギ

正式名:申命記十四章七節の第四子なるラメッド

太っちょ(ギー=ユッド)


ユッドの幼なじみの天使。同じユッドの名を持っているので少々ややこしい。

広く浅くをモットーとする事情通。常にドライに振る舞おうとしているが、正体はセンチメンタリスト。


正式名不詳(作者が考えていない)

ゼーイル・アンピーン(アレフ=シン)


天使の長老の一人。ゼーイル・アンピーンは「気短な者」を意味するあだ名。

その名の通りの頑固者。なぜかユッドにつらく当たる。


正式名:創世記二十二章八節の初子なるシン

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