第5話

文字数 1,438文字

 侑子はたまに小学校の頃や中学校の頃の思い出の品の詰まった箱を開けて見ているようだった。そういう時の侑子は独り言が多いので、そのような箱を大事にしていることも何が入ってるかも分かる。葉書、文集、下敷き、指人形、ビー玉、日記帳、ハンカチ……。加えて、匂い玉というのが入っているらしく、箱からはひどくいい臭いもする。一度、侑子が「いい匂いでしょ?」といって、俺の鼻先にまで近づけてくれた事があった。俺はその匂いを完全に覚えてしまい、侑子がその箱を開けて思い出に(ひた)っている時というのが、匂いで分かるようになった。
 侑子は俺に向かって昔の思い出の文集を読み上げたりする。
「記憶にないんだけど、幼稚園の頃の文集に『将来の夢、美容師』って書いてるのよ。私って、早いうちから目的意識を持ってたのよね。大人びた女の子だったのかな」
その言葉には、どこか幼い頃の夢と全く違う現在の生活に対するやり切れなさやさみしさが(ただよ)っていた。それから箱を片付けた後は、ひどく切なくなるのか俺をよく抱きしめてくれる。その両腕に複雑な思いがこもっている事を感じる。本当は抱きしめて欲しいのは自分じゃないのか。自分が惨めでつらい事をごまかしてるんじゃねえのか。

 俺はいつの間にやら寝食(しんしょく)を保証され、完全にその家のペットになってしまった。人間がペットを飼うのはさみしいからだろう。ペットは寝食を提供してもらうと助かる。その両者が共同生活をするのは別に何の不都合もない。人間とペットという形での共生だって理にかなっていると思う。侑子みたいにこっちの意思や欲望をきちんと()み取ってくれる人間が飼い主なら文句はない。生き物を自分のわがままや願望を満たすための存在として扱う奴が飼い主として望ましくないだけだ。飼うだけ飼ってろくに散歩に連れていかなかったり、食事や便の世話をしない奴。運動できなくて、ストレスが()まったら()えてしまうのに、近所迷惑だ、バカ犬といって殴る奴。愛玩用の道具のように見ているだけで、欲求や感情を持った生き物として見てないのだ。目の前の生命を持った生き物じゃなくて、自分の中の勝手なイメージをかわいがってるだけだ。自分の理想や願望の方が先にあるから、俺が目が見えない事に長く気づかずに無理やり散歩に引きずり回し続けた奴がいる。自分で部屋の中に閉じ込めておいて、どこで(くそ)をしたらいいか分からずにその場で糞をしたらバカ犬と殴りつけた奴がいる。身勝手で頭の悪い人間には飼われたくねえ。
 そもそも人間の世界ではペットブームかなんからしいが。より珍らしくて高く売れる犬を作るために、無茶苦茶な交配をしやがるからこんな事になるんだ。おかげで、先天的な視覚異常で目も見えねえし、俺の体にどういう血が流れててどんな体をしてるのかも分からねえよ。前足や後ろ足、尻尾(しっぽ)もちゃんとついてるんだか分からねえ。大切な魂の(うつわ)をなんだと思ってやがる。所詮人間は、動物にも喜びや怒り、悲しみや苦しみを感じる心があるって事が分かっちゃいねえんだ。
 人間のやる事はメチャクチャだ。所詮、犬は幼稚な人間にとっちゃ愛玩用の玩具だし、金の亡者(もうじゃ)にとっちゃ商品なんだ。けど、俺はこんな体で俺をこの世に生まれさせた人間を恨まねえ。所詮、恨んだって無駄だって知ってるから。こんな体じゃどんなに恨んでも、恨みを晴らす事なんてできないんだから。すでに俺の人間観はすごくシンプルなものになっている。思いやりのある人間は信用する。身勝手で思いやりのない人間は嫌う。
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