第8話

文字数 1,179文字

 しばらくして。侑子はなんとか立ち直ったらしい。
「じゃあ、買い物に行ってくるからね」
そう言って出かけていった。
はいよ。気をつけてな。ってか、どんなにイヤな事があっても、人間はメシを作り、仕事をして生活を続けていかないといけねえんだよな。メシを食べる必要がなかったら、仕事をする必要がなかったら、家庭を築く必要がなかったら、どれだけ楽なんだろうかな。本当、生きてるって大変だよな。世話になりっぱなしの俺の言えたことじゃないけど。
そんなことを思いながら、俺はいつも通り部屋の中のベビーベッドの上で寝ていた。

 ふと不吉な臭いが鼻に入ってきた。俺は周囲の空気を深く吸い込んだ。
焦げくさい臭い。何かが燃えてる。煙草の消し忘れ?って、侑子の親父は今留置所じゃねえか。侑子が火の消し忘れなんてするわけねえし。
 どうやら火元は隣のようだった。いつもの隣人のわめく声が聞こえた。
「ついに俺は決めた! この世ととうとうお別れだ!」
はあ? 何を言ってやがるんだ。
「名残惜しいけど、もう俺は誰の手にも届かない世界に行きます。みなさん、さようなら!」
まったく、隣の野郎は狂ってる。焼身(しょうしん)自殺しようってか。この世とお別れしたいなら一人で誰にも迷惑をかけずに()けよ。己の都合に他人まで巻き込みやがって。どこまであの子を追いつめる気だよ。ゆるせんぜ。けど、そんな事よりまず火だ。ちきしょう、隣の部屋が火元(ひもと)じゃとても消せそうにねえ。どうすりゃいいんだ。徐々に煙の臭いが()くなってくる。誰かに知らせねえと。
 俺は、意を決してベビーベッドを飛び降りた。着地と同時に足首をひねった。
グウッ! こんな時に限って! って、ずっとベビーベッドの上で寝てただけだし、足腰が弱ってて当然だ。目が見えなくて、足元も覚束ないが今はそんなこと言ってられねえ。
俺はドアの所まで駆け寄った。俺はドアノブにかじりついて、ターンをまわした。いつも侑子がドアのカギを閉める時の音を聞いていたおかげで、カギの構造もイメージできていたのだ。ドアが開いた。俺は、表に飛び出すとあたりに向かって吠えまくった。
「ワウ!! ワウ!!」
しばらくして、誰かが気づいたのか、近くに人の気配がしてざわめき始めた。アパートの別の部屋の人間も大慌(おおあわ)てで避難し始めた。
 隣の部屋の玄関口がメラメラという音を立てていた。すでに、周囲の煙の量がハンパじゃないようだ。俺は煙にむせた。
侑子の部屋が本格的にやべえ。早く、侑子を探しに行かなきゃ。家が危ない事を伝えなきゃ。
俺は駆け出そうとして、すぐに立ち止まった。
ああ、家の中に大事なものがあったな。侑子ちゃんの思い出の品が詰まった大切な箱。あれって紙の匂いがしたぞ。火がついたら一瞬で燃えちゃうじゃねえか。あれが燃えちゃったら、すごく悲しいだろうな。あの子を悲しませる訳にはいかねえよ。
俺は家の中にとって返した。

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